40日目:この世とあの世との境で(沖縄県粟国島)
 粟国島に渡ることにしたのは、かなり消極的な理由からだった。
 最初は渡名喜島に行くつもりだったのだが、寝坊して船に乗り損ねてしまったのだ。フェリーは一日に一往復しか出ていないから、次の便は翌朝になる。このまま丸一日を無駄に過ごすのも嫌なので、他に渡れそうな島はないかと探していると、粟国島行きのフェリーが1時間半後に出るとわかった。
 それじゃこれに乗ってしまおう。あっさりと決めた。自分でもずいぶんてーげー(適当)だと思うが、島巡りはこのぐらいの身軽さでちょうどいいのかもしれない。

 「フェリーあぐに」は内装もモダンで清潔な船だった。座席はリクライニングでき、新幹線に乗っているような気分。前方には大型液晶テレビも備えている。乗客は全部で20人ほど。乗車率は10%にも満たない。
 波は高く、船は大きく揺れた。ざっばーんと水しぶきをあげながら進む。航行時間は2時間と少し。本を読んでいると頭が痛くなってきたのでうとうとと眠っていると、すぐに到着時間になる。水平線の向こうから姿を現した粟国島は、東側は真っ平らで西側は断崖絶壁という独特のシルエットをしていた。

 粟国島はおそろしく静かだった。島全体が眠り込んでしまっているようだった。人口850人ほどだからそれも当然なのだけど、とにかく人通りがない。学校や役場が集まる「メインストリート」でも、車とすれ違うことはまれだった。島でただひとつの信号機が学校の前にあるのだが、これも実用的な意味より、子供たちに「信号機とは何か」を教えるために設置されたもののようだ。
 粟国島の集落は石垣と分厚い葉を持つ防風林で覆われている。瓦屋根の伝統家屋も残ってはいるが、多くの家はコンクリート製の無愛想なものに替わっている。むき出しのコンクリートとアルミサッシでできたコンクリート住宅は、壁に熱を蓄えるので夏は暑く、冬は底冷えするという。住みやすさという点では伝統家屋の方に軍配が上がるのだが、いかんせん台風に弱い。直撃を受けるとたちまち屋根瓦がはがされ、窓は破壊されてしまう。


【このような伝統家屋は少なくなっている】

 人には滅多に会わなかったが、ヤギはあちこちで見かけた。琉球では昔からヤギ汁を食べる習慣がある。あいにく今回僕はヤギ汁を食べる機会がなかったが、地元の人によれば「強いクセのあるワイルドな味」だそうだ。美味しいから食べるというよりは健康食、あるいは精力剤として食べているという。地元農家のおじさんは「自分で育てていると、ヤギにも情が移ってよう殺さんのよ」と言っていた。確かに真っ白い子ヤギはとてもかわいい。



 島の東部に広がる畑で、粟を植えているおじいさんに出会った。粟国島はその名前の通り昔から粟の栽培が盛んだ。石灰岩中心の地層は保水性に乏しく、粟などの雑穀やサトウキビぐらいしか育てられないのだ。おじいさんによれば、粟は4月に植えて5月から6月にかけて収穫するという。白米に混ぜて食べるとモチ米のような風味が出て美味しいのだそうだ。


【粟国島のおばぁ。97歳で耳も遠くなっているが、足取りはしっかりしていた】

 島の南東部には映画「ナビィの恋」のロケ地として使われた海岸がある。「ナビィの恋」は平良とみさん演じる島のおばぁの切ない恋を、美しい離島の情景と共に描いた作品だ。10年前にこの映画が公開された直後は観光客が次々にやってきて、島はちょっとした「ナビィ景気」に沸いたという。そのとき一人旅でこの島を訪れた女性が島の若者と結婚してそのまま住み着いた例もけっこうあると聞いた。人生を変える映画。いやぁ映画の影響力ってほんとうに侮れないものですね。
 ナビィブームが去ったあとの島を訪れるのは、大半がダイビング客である。沖合には美しい珊瑚礁と珍しい魚が見られるスポットが豊富にある。でも夏のハイシーズンがちょうど台風の時期と重なってしまうのが悩みの種だ。台風の直撃を受けたときなどは一週間近くフェリーが運休することもあり、人の行き来も物資の運搬も途絶えて、島は完全に「孤島化」する。ダイビングどころではなくなってしまうのだ。


【ジャガイモとタマネギとニンニクを収穫するおばさん】

 島には商店や農協の店がいくつかあり、日用品に事欠くことはない。唯一の娯楽施設はカラオケ屋で、これができたとき島民の多くは「すぐにつぶれるだろう」と醒めた目で見ていたのだが、意外にも島の社交場として繁盛しているという。
 そのほかに目立っていたのは「冠婚葬祭の簡素化を推進しましょう」という垂れ幕。冠婚葬祭の簡素化? どうしてそんなものを島民一丸で推進せねばならないのか。部外者には意味不明である。
 後で聞いてわかったのは、粟国島の葬式はとにかく盛大だということ。葬式当日に村人が一同に会して飲み食いするのはもちろんのこと、それから四十九日が終わるまで毎週法事が行われるという。そのたびに亡くなった家の人間は豆腐と豚肉と大根をお土産として参列者に配り、参列者は香典として1万円を渡す。それが7回続くから合計7万円。何人もの人が亡くなるような月には、各家庭にとって大変な出費になる。だから「冠婚葬祭の簡素化」が村の決議として採択されたという。今では香典は一律1000円と決められ、負担は大きく減ったそうだ。



 夕方4時を過ぎて学校から子供たちが帰ってくると、静かな島にもいくらか活気が出てくる。
「あれなんねー」「すごーい!」
 リキシャを見て驚く子供たちの声が聞こえてくる。
「のりたーい!」というので三人の小学生を乗せて走り出す。
「うわー、ぜいたくー」「きもちいいねー」「たのしー」
 島の子供たちは無邪気そのものだ。思ったこと、感じたことをそのまま口に出す。そうだろう、こういうのを贅沢っていうんだよ。漕いでいる僕も嬉しくなる。
「お母さんは東京の人で、お父さんは島の人なのー」
 と2年生の女の子が言う。もしかしたらこの子の母親も映画をきっかけに島に移住してきた「ナビィ妻」の一人なのかもしれない。
「へぇ、そうなの。お父さんは何している人?」
「サトウキビのひとー」
「ふーん、サトウキビの人かぁ」
 ちなみに小学1年生は1クラス10人で、2年生は1クラス8人だそうだ。小さな島のわりに子供の数はあまり減っていないようだった。



 夜は港で知り合った小嶺さんの家にお邪魔して、二人で泡盛を飲んだ。
 小嶺さんは草木染めで染色した絹織物を作っている職人である。もともと那覇で製糸会社を経営していたのだが、これからは自分の作りたいものだけを作ろうと決心し、会社を解散して先祖の土地である粟国島に戻ってきた。今では自宅の隣に工房を構え、蚕を育てるところから始め、製糸、染色、織りまで全てを一人でこなしている。染色や織りをする人はたくさんいるけれど、養蚕も手がける人はかなり珍しい。
「もともと日本は絹で栄えた国。400年の歴史があるんです。でも戦後は衰退する一方だった。安い輸入品には太刀打ちできなかったんです」
 大量生産の輸入品に押されて衰退していく沖縄の製糸業・染織業を目の当たりしてきた小嶺さんが、「100年後にもこの文化を残したい」と始めたのが養蚕だった。小嶺さんが育てている蚕は「粟国蚕」と呼ばれる品種で、約150種類ある日本在来の蚕のうちのひとつ。「粟国蚕」の名前の由来ははっきりとせず、粟国島と関わりがあるかどうかもわからない。しかし小嶺さんは同じ「粟国」の名前が付けられた蚕に特別な思いを抱き、この島で育てていくことに決めて、農業生物資源研究所から卵を分けてもらった。
 粟国蚕から紡がれた糸は黄色っぽくて、肌触りもごわごわとしている。品種改良される前のものだから、品質もあまり良くないし生産性も低いのだ。それがわかっていながらあえて育てているのは世界でも自分一人だけだと小嶺さんは笑う。
「養蚕が何になる、と言われることもあります。でも自分のやりたいことをやっているんだからそれでいいんです。一度は完全に消えてしまった製糸業を、細々とでもいいから残したい。大量生産をするつもりはないんです。僕のあとに続く人が一人でも二人でも出てきて、島の女性が子育てのかたわらで機を織るようになってくれるのが僕の夢です」


【手動の織機で作っているのは三味線の胴巻き(ティーガー)】

 生糸を染める作業は天気のいい日に外で行う。ドラム缶で天水を沸かし、染料となる植物を煮て、束ねた糸を浸す。染料に使うのは月桃、フクギ、ソテツ、あかばなー(ハイビスカス)、タマネギの皮などなど、すべてこの近くで調達できるものばかりだ。
 小嶺さんが仕事をするのは早朝6時からお昼すぎまで。夕方には青い海を見下ろせる場所に座って、のんびりと夕涼みする。天気が良ければ沖縄本島や渡名喜島がくっきりと見渡せる。
「たくさん儲けるためには人と争わなくちゃいけないでしょう。僕はそれがイヤなんです。島の人間は昔から競争しないで生きてきたんです。粟国は沖縄でも一番貧しい島。ろくな作物は育たないし、台風の直撃も受ける。でも飢えることはないんです。漁師だって必要以上に魚を捕ったりはしない。そういう島なんですよ」
 僕らは泡盛「久米仙」の水割りを飲み、小嶺さん手製のサラダを食べながら話をした。庭で採れたパパイヤの細切りにニンジンや香草を加えてごまドレッシングで和える。飾らない味、地元に根ざした味だ。
「月に6,7万の収入があれば島では生きられるんだ。本当ですよ。誰か一人だけが勝つような生き方じゃなくて、みんなが負けないような生き方があるはずなんです」


【古い機械を使って繭から糸を紡いでいく】

 気持ちよく酔いが回ってきたところで、今夜泊まる港近くの民宿に戻ることにした。緩やかな下り坂の道を二人並んで歩く。外は真っ暗だった。街灯もなく、空は分厚い雲で覆われているので、懐中電灯なしではとても歩けない。
「三井さん、月を意識したことってありますか?」と小嶺さんは言った。「都会に暮らしていると昼も夜もないでしょう。僕も長年那覇で暮らしていたら、月の満ち欠けなんか意識しないで生きてきたんですよ。ほら、向こうの方にぼんやりと見える明かり、あれは那覇の街明かりですよ」
 ずっと遠くの水平線に薄いオレンジ色の光がぼんやりとにじんでいた。那覇と粟国島は直線距離でおよそ60キロだから、街の明かりもここまで届くのである。
「ところが島に帰ってみると、夜は完全に闇の世界になる。ここでは月の満ち欠けや、風の動きがとても大切な意味を持ってくる。昔から島の人は旧暦を元にやることを決めるんです。今日は旧暦の3月1日だから、風の強い一日になるとかね。昔の人は知識はなかったけど、生きていくための知恵はあったんです」


【小嶺さんの家は60年前に建てられたものだ】

 暗闇に徐々に目が慣れてくると、ただ黒一色だった世界に様々なグラデーションが現れてきた。切り開かれたアスファルトの道は少し明るくて足下が見える。しかし道の脇の藪は相変わらず真っ暗で、何かが潜んでいるような不気味さをたたえている。
「暗闇は怖い。台風も怖い。だから祈るしかなかった。それが先祖崇拝に繋がったんだと思うんです。今日見てもらったお墓、あれはすごいものだったでしょう?」
 昼間、小嶺さんに案内してもらった墓地は確かにすごかった。切り立った岩壁をくり抜いて作った大きな横穴がこの島のお墓だった。「○○家の墓」といった墓標はなく、穴の入り口をいくつもの石で塞いでいるのみである。親族の誰かが死ぬと、遺体を杉の棺に入れて、穴の中に安置する。火葬はしない。自然に遺体が腐り、白骨化するのを待つのである。亡くなってから3年後に再び墓を開け、骨を水で洗ってから改めて骨壺に収める。300年前に掘られたという最初の墓穴は先祖代々の骨で一杯になったので、100年前にもうひとつの穴を掘ったという。新しい方の墓穴には今も3体の遺体が置かれていて、ゆっくりと骨に還っている。
 形式化され、無味無臭化が進んだ現代日本の葬式と違って、ここには濃密な「死の匂い」が漂っていた。死者がすぐそばにいる。手を伸ばせば届きそうなほど近くに。
 強い風が間断なく吹き付ける崖の上に立って、この島で生き、この島で死んでいった何千何万という人たちの骨の白さを思う。静かに手を合わせた。


【粟国島のお墓は洞窟のようだった】

「島の人は行事があるとき以外は滅多に墓には近づかないんですよ」と小嶺さんは言った。「お墓はこの世とあの世とを結ぶ場所だから、この世にいる人がうかうかと近づくと、まだこのあたりをさまよっている魂に取り憑かれてしまう。そう信じられているんです。夜の闇も同じです。昔は夜には決して子供を家の外に出さなかったんですよ。闇の中には、人ではないようなものが混じっているから」
 この世とあの世との境。人と人でないものの境。闇を征服した現代人はそんなものを意識せずに暮らせるようになった。不要なものだと切り捨てていった。

 この島にはまだ「境」が残っている。
 死者の魂は重みがあり、夜の闇は深い。


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本日の走行距離:12.9km (総計:1226.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:22075円)

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by butterfly-life | 2010-04-18 20:37 | リキシャで日本一周


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