7時に宿を出る。いつもより2時間は早い出発だ。今日はリキシャの旅前半のクライマックス、箱根越えが待っているからだ。箱根の厳しさは何人もの旅人から聞いていた。自転車だって越えるのに一苦労する道のり。ましてやリキシャなら何時間かかるかわからないというのが経験者の一致した意見だった。
国道1号線に入るといきなりきつい上り坂が始まる。歩き始めて5分で汗が吹き出してくる。右手の4本の指でサドルを掴み、腕をぐいっと伸ばしたまま前傾姿勢で坂を上る。一歩ずつ歩数を数えながら前に進む。1,2,3,4・・・交互に足を出す。そのことだけに集中する。とりあえず200歩、もし行けるのなら300歩進み、そこで一休みする。 Tシャツは汗でぐっしょりと濡れ、ショートパンツも上半分が濡れてしまっている。額からも顎からも肘からも、ぽたぽたと汗がしたたり落ちてくる。まるで溶けかかった雪だるまみたいだ。汗が目に入って仕方がないので頭にタオルを巻く。こういう格好って「いかにも」だからなるべくはやりたくないんだけど、そうも言っていられない。快晴の空から降り注ぐ日差しは真夏並みの強さだ。じりじりと肌が焼ける。でも昨日と同じように富士山の姿はどこにもない。山向こうに湧き上がった雲が真白き富士を隠してしまっているのだ。 乱れていた呼吸を整え、再び前に進む。1,2,3,4・・・。一歩ずつ歩数を数えながら。 巡礼を行うチベット人の姿を自分に重ねていた。彼らは手に持った数珠でマントラの回数を数えながら山道を登っていた。標高4000メートルを超える酸素の薄い土地を、何日も、人によっては何ヶ月も歩き続けるのだ。チベット人たちは遙か彼方の聖地を目指しながら、そこに至るまでの道のりのことはほとんど頭にはないはずだ。ただ一歩ずつ前に進むこと。それだけに集中しているはずだ。遠すぎる目標設定、長すぎるパースペクティブがもたらすのは途方もない徒労感だ。変わらない景色への苛立ちと、自分に対する無力感。それから逃れるために彼らはひたすらマントラの数をかぞえている。 かぞえるという行為に没頭しているとき、人はそれ以外のことを考えずに済む。いわば無我の境地だ。自分が自分でなくなっていくような感覚がある。エゴが縮小する。自我が抑制される。自分がただの「歩く生き物」なる。アスファルトの上でひからびているミミズたちと同じように、地上を這いながら前に進むただの生き物だ。 出発してから2時間、8キロ進んだところに笹原という小さな集落があり、そこの雑貨店でおむすびと午後の紅茶を買った。腰の曲がったおばあちゃんが店のガラス越しに僕のリキシャを見て「大変だねぇ」と声をかけた。ええ、ほんとに大変なんですよ、と頷く。 店の外のベンチに座っておむすびを食べる。塩加減がたまらなくうまい。午後ティーの甘みも体に染み渡るようだ。雑貨店の隣は「SAKA不動産」という少々変わった名前の不動産屋になっている。坂道の途中にあるから「SAKA不動産」なのだろうか。しかしその奇抜なネーミングセンスを笑う余裕は今の僕にはない。 山中城跡近くの集落では、もんぺを履き手ぬぐいを頭に被ったおばあさんに出会った。 「私がここに嫁いできてもう60年になる。30年ぐらい前まではこの集落でも馬で荷物を運んでたよ。ほら、向かいのあの建物が馬小屋だったところ。今は馬の代わりに自動車が入ってるけどな」 箱根の道は馬にとっても人にとっても楽ではなかっただろう。ただでさえ険しい山道を籠を担いだり、荷物を背負ったりしながら文句も言わず歩いていたのだ。つくづく昔の人は偉かったんだなぁと思う。 出発から3時間ほど経ったところで、大型スクーターに乗ったおじさんが声をかけてきた。 「まぁ休んでけよ」 おじさんはそう言ってトランクスペースから冷えたコーラを取り出し、半分を金属製のマグカップに注ぎ、残った半分を缶ごと渡してくれた。いただきます。渇いた喉に炭酸がしみた。 「旅をしていると、いろんな人に会うだよ」とおじさんは言った。「自転車、リアカー、乳母車を押して旅をしている人もいたなぁ。自分も旅をするのが好きだから、そういう人を見ると話しかけたくなるだよ。一緒にキャンプしたり、食事をおごってやったりな」 おじさんに「仕事は何をしているんですか?」と訊ねると、「まぁ遊びが仕事だよ」と言った。今は山奥の村を訪ね歩いているのだそうだ。住む人がほとんどいなくなったいわゆる「限界集落」だ。金鉱脈が見つかったときに多くの移住者がやってきたが、金が採れなくなり、不便さが際立つようになると、大半の村人が村を出ていった。そんな場所を好きこのんで旅しているという。僕が言うのも何だけど、相当な変わり者だ。 「そういう集落に一人残った年寄りの話を聞いてるとな、ワクワクするんだよ。玄関に熊の毛皮とかが置いてあって、もちろんそれは自分で仕留めた獲物なわけだ。そういう生活に憧れるんだよなぁ」 【芦ノ湖の湖畔で昼寝をするおじさん。とても気持ちよさそうだ】 午後1時。ついに箱根峠に到着する。峠から見下ろす芦ノ湖は絵はがきのように美しい。滑らかな湖面と、深い森の木々。 芦ノ湖の湖畔まで一気に下る。しかしまだ気を抜くことはできなかった。手ぬぐいのおばあちゃんから「芦ノ湖からの登りが一番きついよ」と教わっていたからだ。芦ノ湖とは箱根の山の頂上にできたカルデラ湖で、だからすり鉢状の坂道をもう一度よじ登らないことには向こう側に到達できないのだ。 最後の上りはこれまでより一段と傾斜が急で、まさに「心臓破りの坂」と呼ぶにふさわしい坂道だった。一度に歩ける歩数が200歩から100歩になり、やがてそれが70歩になり、ついには50歩になった。もう一息、もう一息、と自分に言い聞かせるのだが、思うように足が動いてくれない。 2時40分。ついに「国道一号線最高地点」と書かれた看板に到達する。874m。 看板の下にリキシャを置いて記念写真を撮っていると、反対の小田原方面から歩いてきたという人が話しかけてきた。 「これを引っ張って三島から来たんですか?」 「・・・ハァハァ・・・ええ、そうなんです・・・ハァハァ・・・」 取り組み直後の相撲取りのように息が上がっているので、まともに返事をすることができなかった。 「これからは下りですから、楽ですよ」 「・・・そ、そうですね・・・ハァハァ・・・」 もう上らなくてもいい。それは確かにハッピーだったが、喜んでばかりもいられなかった。傾斜があまりにも急だったので、リキシャのブレーキを常にフルの状態でかけ続ける必要があったからだ。100キロの重量があるくせに、リキシャには前輪にしかブレーキが備わっていない。しかもそのブレーキはひどく旧式で効率が悪く、制動能力はあまりにも貧弱だ。ちょっとでもブレーキを緩めるとそのまま止まれなくなってしまうのではないかという恐怖が常につきまとう。昨日見た悪夢の光景がありありと蘇ってきた。とにかくブレーキを強く握りしめながら降りていくしかない。 両手の握力がなくなってきたころ、ようやく箱根にたどり着いた。やれやれだ。本当に長かった。きつかった。でもなんとか箱根を越えることができた。 ツイッターでつぶやきながら旅することが、これほど力になった一日はなかった。多くの人が僕のつぶやきに応えて声援を送ってくれた。わざわざ車で追いかけてきてポカリスエットを差し入れてくれた人もいた。多謝。みなさんのおかげで峠を越えることができました。ありがとう。 【小田原で出会った三人娘とお母さん。リキシャ並み、とまでは言わないが、お母さんだって脚力が勝負である】 日暮れにはまだ時間があったので、このまま平塚まで行くことにする。 小田原から平塚までは距離にして20数キロ。とことんまで疲労しきっていたはずなのに、まだこの距離を走れることが自分でも驚きだった。乳酸はたまっている。たまりきっているはずだ。それでもなぜか足は動く。「ランナーズハイ」ならぬ「リキシャーズハイ」だろうか。何かをやり遂げたという高揚感が、前に進む力に変わっている。 「目的地にたどり着いたときに『あぁ、これ以上歩かなくてもいいんだ』と思える。その瞬間のために歩いている」 徒歩で日本を縦断している人が語った言葉の意味が、僕にもわかる気がした。やり遂げるまでは本当にきつい。でも達成したあとにその道のりを振り返ると、なぜだか「またやろう」という気持ちが湧いてくるのだ。今度はもっと高い山、もっと長い道を歩こうと。 これは一種の中毒だ。治らない病だ。 僕もその病に罹ってしまったのだろうか? *********************************************** 本日の走行距離:74.4km (総計:3247.5km) 本日の「5円タクシー」の収益:15円 (総計:55610円) ***********************************************
by butterfly-life
| 2010-06-21 15:04
| リキシャで日本一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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