112日目:100キロの幸せ(北海道音威子府町→猿払町)
 今日は音威子府町からさらに北上し、オホーツク海を目指す。いよいよ最北端・宗谷岬が手の届くところまで近づいてきた。
 275号線は通る車もまばらで実にのどかな道だった。道の両側には深い森が迫りっていて、あたりには鳥の声がこだましている。久しぶりの青空の下で、木々の緑はいっそう濃く、山の稜線は絵に描いたようにくっきりしている。
 けれどもこの景色をゆっくり楽しむことは許されなかった。リキシャを止めるやいなや、何匹ものアブがいっせいに僕の周りにたかってきたからだ。アブは汗を好むようで、太ももや腕など肌が露出しているところに止まっては刺すのである。これが痛い。不意に注射針を刺されたような痛みが走る。どうしてアブが人を刺そうとするのか、その理由がよくわからない。血を吸っているわけではないし、敵を攻撃しているのでもない(自分から寄ってきているんだから)。アブよ、君らの目的は何だ?
 山が深くなればなるほど、アブの量も多くなった。だから山道をリキシャを引っ張って上っているときでさえ、立ち止まることができず、息を切らせながら頂上まで登りきらなければいけなかった。あぁ腹が立つ。


【天塩川沿いにはソバ畑が広がる。白い花を咲かせていた】

 275号線では大型バイクに乗ったライダーと頻繁にすれ違った。都会ではあまり見かけることのない排気量の大きなバイクに乗って、猛スピードで北の大地を疾走していた。どこまでもまっすぐで、信号のない道。北海道は「走り」を求めるライダーにはうってつけの土地だ。スロットルを全開にして、姿勢を低くして突き進む。とても気持ちがいいだろうと思う。
 北海道を走るライダー同士はすれ違うときに手を振るのが習わしになっているようで、僕も手を振り返してエールを交換した。いい習慣だと思う。ライダー同士の連帯感のようなものを感じる。



 松音知(まつねしり)という集落では、牧場主のおじさんと出会った。
 もともと松音知は林業で栄えていたそうだ。山の木を切り出し、町へと運ぶ拠点になっていたのだ。しかし手近にある自然木をあらかた切り出してしまったことと、木材価格の下落とが重なって林業は衰退し、あとに残ったのは切り開いた土地を使って牛を育てる酪農業者だけになってしまった。
「うちは牛が50頭ぐらいだから規模は小さい方だね。今は草の刈り取りが終わったから暇だよ。冬場の方が忙しいね。牛の世話は夏も冬もないしさ。口のあるもんはほっとくってわけにもいかんから。冬は除雪があるからね。すぐに2メートルも3メートルも雪が積もるし、放っておくとその重みで建物が潰れちまうからな。雪の『守り』は大変だよ。ここの雪はベタついて重いからな」
 ここに来る手間にも、雪の重みで潰れたらしい家屋を何軒か見かけた。住む人がいなくなって除雪できなくなると、その家は一年を待たずに潰れてしまう。過酷な環境なのである。


【雪の重みで潰れたらしい家屋】

「今年は雨が多かったら、いい草がとれなくて大変だった。ほら2週間ぐらい前に大雨が降ったっしょ。あれで刈った草が腐っちまってダメになったんだ。ほんとに嫌な天候になってきたよ。雨が降るっていったらまとまって降るし、今はまたバカみたいに暑いしな」
 北海道の酪農は機械化が進んでいる。一台5000万円もする大型農機で一気に草の刈り取りや「干し草ロール」作りを行う。農家によっては億単位の投資を行っているという。それによって省力化が進み、少ない人数でも仕事ができるようになったのは確かだが、実際には借金の返済に追われている農家も少なくない。



 275号線を浜頓別まで走りきり、238号線・通称「オホーツクライン」に入った。リキシャがついにオホーツク海に達したのだ。
 ここまですでに70キロを走っていたが、まだ余力があったので30キロ先の猿払(さるふつ)まで行くことにした。猿払までは大規模な牧場が続いた。牛を数百頭、ところによっては1000頭以上も飼育している巨大な牧場である。農場というよりも工場に近い雰囲気だ。



 238号線には「シカ出没注意」とか「クマに注意」といった看板がやたらと多かった。ひどいところだとこの看板が100メートルおきに出現するのだ。冗談抜きにシカやクマが多いのだろう。飛び出てきたシカに驚いてハンドルを切り損ねて事故を起こす、ということもよく起こっているようだ。

 道が平坦で風の影響もなかったので、順調なペースで進んだ。これなら100キロ越えも楽なもんだと思っていた矢先、猿払まであと10キロというところでガクンとペースが落ちた。急に体が重くなり、足に力が入らなくなったのだ。
 よろよろとリキシャを降り、サドルに両手をついて深く息を吸う。もう少しじゃないか。あと10キロ、1時間だ。限界を訴える足の筋肉を励ます。
 暑さは既に去っていた。午後6時を過ぎると気温もぐっと下がり、肌寒いぐらいだった。太陽は西の地平線近くに沈み、トラックもバイクもヘッドライトをつけ始める。暗いオホーツク海の水面ぎりぎりに水鳥の群れが集まっていた。
 空はどこまでも広く、海はあくまでも遠く、大地は見渡す限り平坦だった。北海道スケールの自然を前にすると、100キロという距離はあまりにも短い。でもこれが僕とリキシャの限界だ。あと10キロはなんとか進めるが、それ以上は無理だ。
 ちっぽけな人間の限界。でもそれを胸を張って受け入れようじゃないか。

 呼吸を整えてから、再びリキシャにまたがった。
 足は相変わらず重く、鈍い痛みを発していたが、動かせないわけではない。自分のペースでいい。少しずつ前に進めばいい。
 疲労の限界に近づきながら、僕はなぜか幸せだった。空と大地と海のはざまで馬鹿馬鹿しい苦闘を演じている自分のことが、ひどく滑稽でもあり、愛おしくもあった。
 オホーツクの海沿いをリキシャはのろのろと進んでいく。時折立ち止まり、また思い出したように動き出す。そうやって少しずつ猿払の町に近づいていく。



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本日の走行距離:104.0km (総計:4521.3km)
本日の「5円タクシー」の収益:390円 (総計:62335円)

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by butterfly-life | 2010-08-11 20:19 | リキシャで日本一周


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