115日目:天塩町の歴史
 今日は朝から雨が降っていたので、リキシャはお休みすることにした。
 お休みといっても何もすることがないのが北海道の片田舎の辛いところである。スーパーと酒屋はあるものの、時間をつぶせそうな場所がまったく見たらないのだ。

 仕方がないので(という言い方もなんだが)、宿の目の前にある「天塩川歴史資料館」に入ってみることにした。赤煉瓦造りの旧庁舎を使った郷土資料館で、外観はなかなか立派である。受付にはおばさんが一人暇そうに座っており、入場料200円を払って中に入る。来館名簿を見ると、今日は5人の来館者があったようだ。これを多いと見るか少ないと見るかは微妙なところではあるが。

 天塩町は北海道の他の地域と同じようにもともとアイヌが暮らす土地だった。彼らテセウアイヌは遠くアムールから樺太に及ぶ交流の中で独自の文化を築いていた。江戸時代に入ると松前藩がアイヌとの交易を開始する。そのころから天塩町(当時はテセウと呼ばれていた)は豊富な水産資源と木材運搬の拠点として発展し始め、明治以降の本格的な開拓と入植に繋がっていく。
 天塩町の発展を支えたのはニシンや鮭などの漁業と、天塩川を利用した水運業だった。まだ内陸部の道路が未整備だった時代、小樽から海路で運ばれる日用品は天塩港を経由して天塩川を遡り、内陸の町へと運ばれたのだ。また流域の森林から切り出された木材は、筏に組んで川を下り、天塩港に待機している積取船で本州や小樽に運ばれた。


【材木を運搬するのに使われた馬ぞり】

 繁栄のピークは1920年頃に訪れる。海岸通りには大小様々な商店が建ち並び、船乗りたちのための歓楽街や遊郭が生まれた。大正元年(1912年)には飲食店だけで38軒もあったという記録が残っている。
 しかし交通手段が水路から道路へと切り替わったことや水産資源の枯渇が重なり、町は緩やかな衰退期に入る。戦後の開拓ブームで一時的に人口は増えたものの、1960年頃を境にして再び人口が減り始め、ピーク時に1万人いた住民も今では4000人ほどに落ち込んでいる。


【開拓民が使っていた農機具】

 かつて何十隻もの船が出入りし、人夫たちのかけ声で賑やかだったという港に往事に面影はない。だだっ広い芝生の公園とコンクリートで護岸された小さな漁港があるだけだ。
 海岸通りにも活気が無く、「売り物件」の貼り紙が目立つ。港の真ん前に立つ民家も売りに出されていて、建物付きの土地285坪が200万円だった。その気になれば200万円でオーシャンビューの家に住めるわけだが、買い手を見つけるのは容易ではなさそうだった。
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by butterfly-life | 2010-08-16 08:26 | リキシャで日本一周


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