裸で町を歩くジャイナ教の聖者
■ インド旅行記2012(25) 裸の聖者が語ること バックナンバーはこちら ■

 インドは何もかもがむき出しになっている国だ。
 美しいものも、醜いものも、愉快なものも、ぞっとするものも。すべて包み隠されることなく、路上に露出している。

 旅を重ねるにつれて、そんなむき出しのインドにも慣れてきたのだが、さすがに「一糸まとわぬ男」がすたすたと道を歩いているのを見たときには、思わずバイクを止めて食い入るように見つめてしまった。
 な、何なんだ、あれは・・・。



 それはカルナータカ州ビジャープルの町に向かって州道をひた走っていたときのこと。一人の小柄な男が素っ裸で道を歩くあとを何十人もの人々が追いかけている、という奇妙な行列とすれ違ったのである。ガンディーの「塩の行進」のようなデモの一種なのかとも思ったが、それにしては静かだし、だいいち全裸になる必要もない。

「私たちはジャイナ教徒なんです」
 行列の中にいた英語が話せる若者ネミナート君が、親切に教えてくれた。
「あの裸の方はジャイナ教の聖者なのです。彼はいつでも裸です。24時間、365日、常に裸なのです。我々はあの方をとても尊敬しています。素晴らしい話を聞かせてくださいます。私たちはあの方の説法を聞くために、寺院に向かって歩いているのです」

 小学校の教師をしているネミナート君は、聖者に会うためにわざわざ20キロ離れた町から歩いてここまで来たという。ジャイナ教は信者数が450万人とインドではかなりマイナーな部類に入る宗教なのだが、信者一人一人の信仰心はとても篤いのだ。

「あなたも一緒に来ませんか?」
 と誘われたので、僕もネミナート君とともに寺院に向かうことにした。
 寺院にはすでに何百人ものジャイナ教徒たちがいて、説法が始まるのを待ちわびていた。特にお金持ちでもなければ貧しくもない、ごく普通の庶民のように見えた。信者たちは突然やってみた外国人に対してもとても友好的で、ココナッツ風味の甘いおかゆをふるまってくれた。


[聖者の説法を聞くために集まってきたジャイナ教の信者たち]

 ジャイナ教は紀元前6世紀頃、仏教と同じ時代に成立した古い宗教である。その教義の大元には「生き物を傷つけてはならない」という考えがあるので、ジャイナ教徒は厳格な菜食主義者だし、人を殺す軍人や魚を殺す漁師になることもなく、(土の中の微生物を殺す可能性のある)農業に従事することもなかった。そのためジャイナ教徒は伝統的に金融業や宝石商や役人などの職に就く人が多く、結果的にインドでも比較的裕福なコミュニティーを形成するに至ったという。

 ジャイナ教の僧(聖者)は「不殺生(アヒンサー)」にもとづいた厳しい生活を送っている。徹底した菜食主義を貫くのはもちろんのこと、夜には絶対にものを食べないという。暗い中で食事をすると、食べ物の中に虫が入っていてもそれに気付かずに殺してしまう可能性があるからだ。

 また、僧は常に生き物を殺さないように細心の注意を払って暮らしている。彼らが手に持っているクジャクの羽も、座るときに小さな虫を踏みつぶさないように払うためのものだ。生きているだけでものすごく疲れるような生活だが、彼らはそれを自ら選び取っているのだ。


[僧が手に持っているクジャクの羽は虫を殺さないためのもの]

 ジャイナ教の聖者が真っ裸なのは「無所有」という戒律によるものだ。服も下着も靴も何も所有しない。だから裸なのだ。寺院には開祖マハーヴィーラの像が置かれているのだが、その像もまた全裸だった。開祖も裸で生き、それ以降の僧も彼を真似て裸で生きてきたのだ。(ジャイナ教はいくつかの宗派に分かれていて、僧に白衣の着用を認めている派もある)

「私が出家したのは10年前のことでした」
 裸の聖者クララトナブシャン師は語った。彼は英語が話せないので、直接会話することはできなかったが、ネミナート君が通訳になってくれた。
「学校を卒業してしばらくは高校教師をしていました。でもその生活に満足することができなかった。だから10年前に出家したのです。それからずっと裸で暮らしています」

 彼の生活は想像以上にストイックだった。食事は11時に一度とるだけで、あとは一切何も食べず、水さえ飲まないという。夜は「沈黙の時間」とされているので、何も喋らない。寝るときも布団は使わずに、ワラの上に眠る。また、毛髪はハサミやカミソリは使わずにむしり取る(!)のだそうだ。

 どこかへ移動するときは必ず徒歩で行い、バスや電車に乗ることはない。説法をするために遠くの町に出かけるときにも、ただひたすら歩き続けるのだ。一日に70キロ以上歩いたこともあるという。そのあいだもやはり何も食べないし何も飲まないというのだから、実に驚嘆すべき体力と精神力の持ち主なのである。

 夏のインドは恐ろしく暑い。おそらくアスファルトの上は50度以上にもなるはずだ。そこを裸足で何十キロも歩き続けるというのだ。水も飲まないで。もちろん彼にとってはそれも修行の一貫なのだろうが、部外者の目にはほとんど常軌を逸した行為のようにも見える。

 いずれにしても、そのような厳しい修行に耐え、禁欲生活を徹底しているからこそ、聖者は多くの在家信者に尊敬されているのだろう。何も持たないし、何も身につけない。そういう極端な生活を実践していることが、彼の言葉に強い説得力を与えているのだ。

「私はいつも移動しています。川の流れのようにとどまることがない。開祖マハーヴィーラも流浪の人生を送りました。だから私もそうしているのです」 

 クララトナブシャン師の説法は意外なほど穏やかなものだった。もちろん僕にはカンナダ語で語られる説法の内容はさっぱりわからないのだが、ユーモアを交えながら明朗な口調で信者に語りかける姿はとても理知的だった。「裸行をおこなう聖者」と聞くと、それだけでエキセントリックなイメージを持ってしまいそうだが、彼の語り口はそれとは正反対だったのである。


[説法は穏やかな笑みを絶やさずに、身振り手振りを交えながら行われた。]





 ジャイナ教の思想の根底にあるのは「相対主義」だという。すべての事物には多くの属性があるのだから、何かを断定的に判断するべきではない。見る角度を少し変えただけで、ものごとの見え方はまったく違ってくるのだから、「○○は××である」という表現は避けるべきだ、というのである。僧の行動はずいぶん極端だが、その教えの根本にある思想は現代人にもすんなりと理解できるものなのだ。

 しかしジャイナ教を「他の宗教とは一線を画するもの」として特徴づけているのは、なんと言っても「不殺生」「無所有」の原則が厳格に守られていることである。そして、それがもっとも極端なかたちで現れているのが「裸の聖者」なのだ。



 しかも「裸」が持つインパクトは、消費生活を謳歌する現代社会においてよりいっそう強くなっている。どれだけ派手な服を着ても、どれだけ高級な乗用車に乗っても、ただひとり全裸で道を歩いている人にはかなわない。裸であることそれ自体が世間の常識に対するアンチテーゼになっているのだ。

 アンデルセンの童話「裸の王様」は、無垢な子供のひとことによって「見栄っ張りの王様は実は裸なのだ」という事実が明らかになるという物語だったが、ジャイナ教の「裸の聖者」はあえて自らの裸体を衆目にさらすことによって、常識に縛られた見栄っ張りな我々に対して「裸でいて何が悪いんだ?」という無垢で根源的な問いを投げかけているのだ。


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by butterfly-life | 2013-01-16 09:07 | インド色を探して


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