カテゴリ:インド一周旅行記( 40 )
ネパールの山村に「潜る」日々

 三週間ネパール山村を歩いてきた。そのあいだ、僕はとてもシンプルな毎日を送っていた。朝5時過ぎには目が覚めて、ゆっくりと白んでいく空を眺める。荷物を背負って3,4時間歩いて次の村まで行き、人々の暮らしぶりをゆっくりと見て回る。7時に夕食を食べたら、後はもう何もすることがないので早々に眠ってしまう。

 この三週間、外の世界で起きている出来事はなにひとつ僕の耳に入ってこなかった。テレビもなく、新聞もなく、ネットもない。山村における唯一の情報メディアはラジオだが、ネパール語なのでもちろん全然わからない。

 最初の二三日はネットに接続できないのが苦痛だった。でもしばらくするとそれにも慣れてしまった。急を要する用事なんて何もないし、世界は僕を抜きにしても滞りなく回転を続けている。やがてインターネットの存在すら忘れてしまった。ツイッターもブログもメルマガもフェイスブックも。

 ネパールの山村は圧倒的な「リアル」に満ちていた。重い薪を担いで急な山道を歩く人々。家の中を走り回る鶏。一心に草を食べる山羊。のんびり糞をする水牛。鼻を垂らした子供。かまどで煮炊きをするおばあさん。そんな世界にはバーチャルが入り込む隙間はまったくと言っていいほどなかった。

 ネットのない暮らしは、僕を静かに鍛えてくれた。自分に繋がっている無数の細かい情報の糸を一刀両断にぶった切り、ひとつの不完全な肉体を持つ一個人として世界と対峙する。そういうシンプルな日々の中で、僕は「原点」に戻って人を撮り続けた。


村で遊んでいた女の子。


「ナマステ」と両手を合わせて挨拶してくれたおばあさん。


トウモロコシ畑を耕していたおじさん。


家で飼っている山羊を抱きかかえる男の子。


二頭の牛に鋤を引かせてトウモロコシを植える親子。雨季が始まる直前の4月は、ネパール各地でこのような光景が見られる。

 ネットもなく電気も水道もトイレもない。そのような環境にある程度までは順応することができた。そこから多くのものを得ることができた。しかしその一方で「ここにずっと住むことはできない」とも思った。おそらくこの生活に耐えられるのは1ヶ月が限度だろう。それ以上は無理だ。

 僕はネパールの山村に深く「潜る」ことができる。そこにあるリアルな生活に触れることができる。でもいつかはそこから浮かび上がらないと一種の「酸欠状態」になってしまう。エラ呼吸ができる魚類と違って、肺呼吸をするほ乳類が必ず水面に顔を出して息継ぎをしなければいけないように。

 そして僕はカトマンズに戻ってきた。酸欠になる一歩手前で。でもまだうまく都会に馴染むことができない。人が多すぎるし、夜は明るすぎる。距離的にはたいしたことはない(100キロも離れていない)のだが、なんだかとても遠くの世界に行ってきた気がする。遠い遠い世界に。
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by butterfly-life | 2012-04-18 14:36 | インド一周旅行記
CD-ROM版「インド一周旅行記」発売のお知らせ

 CD-ROM版「インド一周旅行記」の販売を開始しました。

 ブログで公開中の36話に加えて未公開エピソード36話をお読みいただけます。
 さらに高画質写真ファイルを972枚も収録。
 ボリュームたっぷりの「旅行記+デジタル写真集」です。(価格:1800円)

 →詳しい内容はこちら
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by butterfly-life | 2011-09-09 12:44 | インド一周旅行記
インド一周旅行記がついに完結! 結末はCD-ROMで

 インド一周2万キロの旅行記。ブログでの更新は前回で終わりました。
 この続きはぜひCD-ROMを購入してお楽しみください。
 ここではCD-ROM版「インド一周旅行記」の見どころをご紹介します。

◆ ブログで未公開旅行記の読みどころ

 No.5から10にかけてはオリッサ州で出会った少数民族と、コンタという辺境の町について書いています。コンタはインドでも例外的にキリスト教徒が多く住む町なのですが、偶然が重なったことで僕はこの町の教会でクリスマスを迎えることになったのです。それぞれの村ごとに違う言葉が話されている複雑な地域で布教活動を行っている若い牧師さんの奮闘ぶりも興味深かったです。

 No.41から45まではマレガオンという町について書きました。ここは70万人の住民の大半が繊維産業に関わっている「織物の町」であり、住民の過半数をムスリムが占めるイスラムの町でもあります。町の成立過程がとてもユニークで、しかも数多くの「はたらきもの」が住んでいるという僕にとって理想的な町でした。
 マレガオンで出会った映画監督のナシールは、試行錯誤を続けながら自分の夢を追いかけている面白い男で、僕自身の生き方とも重なるものを持っていました。


[路地裏で撮影するナシール。子供たちに演技を指導している]

 No.51からは砂漠の州ラジャスタンについて。ここでは突然のパンクに襲われたり、恐ろしく危険なハイウェーに迷い込んだりとトラブルが続きました。
 山で出会ったサドゥー(行者)は相当に不思議な男。自分が斧で倒したと主張するヒョウの皮を身にまとい、祠みたいなところにたった一人で住んでいるのです。はっきりいって常人と狂人の境目にいるような人なのだけど、そういう人がそれなりの役割を与えられて暮らしていけるのが、インドという国の懐の深さなのですね。


[謎のサドゥー登場]

 No.68以降は旅の最終盤で立て続けに見舞われたトラブルについて。パスポートを紛失したり、ヘッドライトが壊れたバイクで夜道を走ったり(これは無茶苦茶怖いです)、45度を超えるというとんでもない熱波に襲われたり、突然のスコールがヒョウに変わったり。

 振り返ってみれば、よくもまぁ無事で帰ってこれたもんだと思うのだけど、実際旅をしているときは恐れも不安もあまり感じてはいないのです。前だけを見て走っていればいい。そうやってうまく旅に没入できれば、いい旅になるし、いい写真が撮れるんですね。



 当時のことを一生懸命振り返りながら旅行記を書いていると、イヤなこともいいことも鮮明に思い出されてきます。そして、またインドに行きたいなぁという気持ちになってくるのです。インド一周を終えたときには「インドはもう十分だ」って思っていたんですけどね。でもまだまだインドは奥深い。未知の世界が広がっているはずです。

 これを読んだあなたが「インドに行きたいなぁ」と思ってくれたら、作者としてこんなに嬉しいことはありません。


◆ 高画質の写真ファイル

 CD-ROMに収録された高画質写真は972枚
 すでに購入された方からは、「お気に入りの音楽をかけながらスライドショーを楽しみました」とのメールが届きました。最大サイズが1536×1024ピクセルもあるから、大画面PCならいっそう迫力が増すことでしょう。

 (サンプル1) (サンプル2) (サンプル3)



◆ ご注文方法

 価格は1800円。通信販売でのみご購入いただけます。
 この作品集を買っていただくことが、今後も旅と撮影を続けていくための何よりの励みになります。ぜひご購入ください。

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by butterfly-life | 2011-08-26 11:54 | インド一周旅行記
「石炭の季節」が終わる前に
■ インド一周旅行記(67) 「石炭の季節」が終わる前に バックナンバーはこちら ■

 ラドルンバイの市場では、二十人ほどの男たちが輪になってサイコロ賭博をやっていた。日本の丁半博打と同じようなもので、ツボ振りがサイコロを二つ振り、客が予想する出目に現金を張る。ユニークなのは使うサイコロが一辺10センチぐらいある巨大なものだということ。そのサイコロを入れるツボも当然のことながら大きくて、水汲みバケツを流用していた。東南アジアでもこれと同じようなサイコロ賭博を見たことがあるのだが、サイコロがこれほど大きい理由はよくわからない。夜の暗闇の中でも見やすくしているのだろうか。

 インドで博打を見るのは珍しいので、しばらく輪の外から観察していると、胴元らしき恰幅のいいおっさんがつかつかと近寄ってきた。麻のジャケットに濃い色のサングラス、首には太い金のネックレス。いかにもそっち系のいでたちである。「外国人は出て行け!」とすごまれるのかとも思ったが、そうではなかった。

「あんたはディスカバリーか?」とおっさんは言った。
「・・・ディスカバリー?」
 発見? 意味がよくわからなかったが、よくよく聞いてみると「あんたは『ディスカバリー・チャンネル』の取材で来たのか?」と訊きたいのだとわかった。アメリカのTV放送局『ディスカバリー・チャンネル』は質の高い科学番組やドキュメンタリー番組で世界中に知られているが、インドでもケーブルテレビには必ず組み込まれていて人気が高いのである。

「違いますよ。日本から来た旅行者なんです」
 僕は正直に答えた。世界中の辺境に取材班を送り込んでいる『ディスカバリー・チャンネル』も、さすがにここには来たことがないだろう。はっきり言って「テレビ的に絵になる」場所ではない。
「そうか。ディスカバリーではないのか」
 胴元のおっさんはいかにも残念そうに言った。やくざの親分的な風貌からは想像できないが、意外に知的好奇心が強い人なのかもしれない。
「日本にもこういうギャンブルはあるのか?」
 親分は気を取り直して言った。
「ありますよ」
「それは良かった。あんた写真撮りたいんだろう。どんどん撮れよ」
 たぶんこういう賭博はインドでも違法だろうから、写真は御法度だろうと思っていたのだが、案外そうでもないらしい。ガンジャと同じように、法律上はダメでも実際に警察が取り締まることはない(もしくは取締りに来ても賄賂を渡せばお咎めなし)ということなのかもしれない。


[サイコロ賭博をする男たち]

 ツボ振りがサイコロを振る姿を写真に撮り、デジカメのモニターで見せてあげると、集まった男たちは大いに沸いた。特に喜んだのが親分その人で、こわもての顔をくしゃくしゃにして子供のように笑うのだった。そして「これ、取っとけよ」と胸のポケットからお札を取り出して僕に握らせた。真新しい100ルピー札だった。
「こ、こんなものもらえませんよ」
 僕は慌てて返そうとしたが、親分は「いいから、いいから」と言って受け取らない。

 困ってしまった。インド人から「お金をくれ」と言われることはしょっちゅうあったが、逆に自分がもらうことになるなんて夢にも思わなかったからだ。しかも100ルピーである。インドではちょっとした額だ。博打で儲けている親分にははした金なのかもしれないが、この国には日給が100ルピーにも満たない人が大勢いるのである。丸一日必死で働いてようやく手にできるのが50ルピーか60ルピーという労働者が、おそらく何億人いるのだ。その現実を知っている以上、親分がくれた100ルピーを「はい、そうですか」と言ってそのまま受け取る気にはなれなかった。彼が示してくれた親愛の情は嬉しかったが、それとは別に自分だけがズルをしているような後ろめたさを感じないわけにはいかなかったのだ。

 結局、僕はもらった100ルピーをこの町で使い切ることにした。市場の中の食堂でぶっかけ飯を食べたときの代金として20ルピー払い、残りの80ルピーは4人の物乞いに渡した。たまたま僕の手に渡ったお金なのだから、同じようにたまたま出会った人の手に渡せばいいじゃないか。そう思ったのだ。そうして100ルピーがすべてポケットから消えたとき、僕は背負っていた重い荷物を下ろしたときのような深い安堵感を味わったのだった。





 昔の西部劇にはゴールドラッシュに沸く町の酒場で酔っぱらった男たちが喧嘩を始める場面が出てきたりするが、ラドルンバイの雰囲気もそれに近いものがあった。
 地面を掘るだけで金がもらえるという「うまい話」を聞きつけてはるか遠方から押し押せてきた労働者たちは、常に事故の危険と隣り合わせているからこそ、その日その日を刹那的に生きようとするのだろう。明日は岩盤の下に埋もれているかもしれない。だったら今夜のうちに有り金をぱーっと使い切ってしまおうじゃないか。そんな快楽主義的な気分の横溢が、インド社会の表舞台から締め出されている「飲酒」と「肉食」と「賭け事」を全面的に解放させているのではないか。



 実際、この町で財を成したのは「大博打」に勝った者だ、という話を聞いた。ただの森林地帯だった場所を最初に掘り始めた人々は、あらかじめ「ここに石炭が埋まっている」という確かな情報を得ていたわけではなかったようだ。事前のボーリング調査などなしに、いきなり地面を掘ったのである。それで運良く石炭の鉱脈にぶち当たったら大儲けできたし、ハズレだった場合には大損を被って終わった。俗に「山師」なんて言い方があるが、鉱山開発は本当にハイリスク・ハイリターンのギャンブル性の高い投資だったのだ。

 ラドルンバイの町から数キロ離れたところにあるルンバイは、石炭で一山当てた人々が住む町である。そこには混沌と喧騒から完全に切り離された清潔な町並みがあった。どの家も明るい色に塗られたコンクリート製の立派な邸宅を構え、大型四輪駆動車を二台か三台所有していた。それは炭鉱労働者たちが住む竹とわらで作った粗末な掘っ立て小屋とはあまりにも違いすぎる世界だった。貧富の差が激しいインドにおいても、「持つ者」と「持たざる者」の違いがこれほどまでに鮮明に表れている土地は珍しかった。


[炭鉱労働者が住むあばら屋]

「もちろん俺だってリッチになりたいよ」とトラック運転手のマルシーは言った。「そのためにこうして毎日働いているんだ。でも、もうそろそろ石炭の季節は終わる。雨季になると仕事ができなくなるからね」
 農作物ではない石炭に「収穫期」があるとは知らなかった。実はメガラヤ州はモンスーンが直撃することが多いために世界有数の年間降水量を記録する「雨の州」なのだ。日本の約7倍にあたる1万2000ミリもの雨が降るという。そんなわけで雨季になると炭鉱に水がたまって採掘がストップするし、頻繁に起こる土砂崩れによって石炭を運ぶ国道も機能しなってしまうのだ。



 実際、僕とマルシーは突然降り出した雨を避けるために入った雑貨屋で立ち話をしていたのだった。かなり強い降りの雨だったが、そのあいだも人夫たちは休むことなく石炭を運んでいた。「石炭の季節」が終わる前にできるだけ稼いでおきたいのだろう。
 石炭で黒く汚れた人夫たちの額が、降りしきる雨に濡れて薄い光を放っていた。




インド旅行記の更新はこれで終わりです。

長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。

この続きはCD-ROM版「インド一周旅行記」でお読みください。
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by butterfly-life | 2011-08-25 10:04 | インド一周旅行記
インド北東部メガラヤ州の石炭採掘の現場
■ インド一周旅行記(66) 「炭鉱労働者たちの町」 バックナンバーはこちら ■

 インド北東部随一の都市であるグワハティからメガラヤ州の州都シロンに至る国道40号線は慢性的に渋滞していた。曲がりくねった急勾配の山道を、何百台ものダンプカーがノロノロと上っていくので、便秘の人の腸みたいに流れが滞っているのだ。二つの都市を結ぶにしてはあまりにも道幅が狭すぎるし、交通量も多すぎるのである。

 シロンは騒音と排気ガスにまみれた居心地の悪い街だったのでさっさと素通りして、さらに南東のジャインティア・ヒルズ地方へ向かうことにした。例によってさしたる目的があったわけではない。せっかくここまで来たんだから、インド東部のさらに奥にまで進んでやろうと思ったのだ。

 シロンから伸びる国道44号線を2時間ほど進んだところに現れたのは、真っ黒い小山がいくつも連なる光景だった。それは石炭の山だった。このあたりには小規模な炭鉱がいくつもあり、掘り出した石炭が道ばたに積み上げられているのだ。


[石炭を運ぶ男たち]

 石炭はずいぶん原始的な方法で採掘されていた。まず地面に深い縦穴を掘り、その穴の底に人が降りていってツルハシで石炭をかき出していくのだ。穴底から石炭や石ころを運び出すためのクレーンはあるが、機械化されているのはこの部分だけで、あとはすべて人力に頼っていた。労働集約型であり、極めてインド的な炭鉱だった。


[炭鉱のクレーン]


[穴の底から石炭を運び出す]

 石炭掘りは「きつい」「汚い」「危険」の三つが揃った典型的な3K職場だが、その分実入りはいいようだ。たとえばトラックに石炭を積み込む労働者の報酬は歩合制で、1台のトラックを石炭で一杯にしたらいくら、というふうに決まっているそうだが、平均すると1日に200ルピーから300ルピーほど稼げるという。これはインドの平均的な肉体労働者の数倍の高給である。縦穴に入って石炭を掘り出す人はもっと稼げるようだ。
「金にはなるけど、危険も多いんだ」
 と石炭を運ぶトラック運転手のマルシーは言う。彼によれば、落盤事故による死者は毎年数え切れないほど出ているという。採掘方法は原始的だし、安全対策も不十分なのだ。これは僕が直接目にしたわけではないが、まだ10歳そこそこの子供たちが狭い穴に潜って働いているという噂も耳にした。
「もし事故で死んだら炭鉱主からいくらか金は出るけど、たいした額じゃない。でも仕方がないさ。俺たちはそれを承知で働いているんだから」
 マルシーはクールに言った。



 ジャインティア・ヒルズ地方で石炭の採掘が始まったのは20年以上前のことだが、特にここ数年はインド国内のエネルギー消費量が飛躍的に増えたために石炭の価格が上がり、ちょっとした「石炭ラッシュ」の様相を呈しているという。数千もの小規模炭鉱が次々と採掘を始めた結果、労働力が足りなくなり、インド国内はもとより隣国バングラデシュやネパールからも労働者がやってくるようになったのだ。




 炭鉱労働者たちが暮らす町ラドルンバイはひどくすさんでいた。町のメインストリートは未舗装のがたがた道で、そこに石炭を満載したダンプカーがひっきりなしに往復するものだから、晴れているときには埃がもうもと舞い、雨が降るとぐちゃぐちゃのぬかるみになってしまう。いかにも急ごしらえでつくられた即物的な町という印象だった。

 ラドルンバイを歩いてみて、まず最初に気がつくのは酒屋の多さだ。酒屋の隣が酒屋で、その隣にも酒屋という具合に、20軒以上の酒屋が並んでいるのだ。僕の知る限りインドでもっとも酒屋密度の高い町である。当然のことながら酔っ払いも多く、まだ昼前だというのに千鳥足で歩いている男や、泥酔状態で道端に寝転がったまま微動だにしない若者がごろごろしていた。


[炭鉱労働者の町ラドルンバイ]

 肉屋も多かった。鶏肉と山羊肉はもちろんのこと、ヒンドゥー教徒が絶対に口にしない牛肉や、ムスリムにとっての禁忌である豚肉も豊富にあった。メガラヤ州は人口の半数以上をキリスト教徒が占めているので、もともと肉食のタブーがない地域ではあるのだが、それに加えて他の国や地域から大量の労働者が流れ込んでいることが、飲酒と肉食を盛んにしているのだろう。


[豚をよく見かけるのもメガラヤ州の特徴だ]

 物乞いもよく見かけた。生後間もない赤ん坊を抱いた縮れ毛の母親や、泥だらけの服を着た5歳ぐらいの少女が、小銭が入ったアルミのお椀を手にしてぬかるんだ道をとぼとぼと歩いていた。インドは今も昔も「物乞い大国」だが、その多くが大都市や観光地に集中していて、田舎町にはあまりいない。要するにこの町は金回りがいいのだろう。余分なお金があるからこそ、そのおこぼれに預かろうと物乞いたちが集まってくるのだ。

 市場の雰囲気はまったくインドらしくなかった。モノを売り買いしているのは女性たちで、しかもその顔が東南アジア的なのである。メガラヤ州に住んでいるのはチベット系のガロ族と、モン・クメール系のカーシ族やジャインティア族が中心なので、平地のインド人とは顔立ちが全然違うのだ。

 黒いイモムシを売っていたのもカンボジア人に似た顔立ちのおばさんだった。このイモムシは「ニャンクセ」という名前で、1キロ120ルピー(240円)だという。それが高いのか安いのかはまったくわからないが(イモムシってキロ単位で買うものなのか?)、1キロ50ルピーのブドウに比べれば高価である。売り場はイチゴやスイカなどの果物の隣だったので、デザート感覚で食べるものなのかもしれない。
「ほれ、ひとつ食べてみなって」
 とか何とか言っておばさんがニャンクセを一匹つまんでよこしたが、これにはさすがに顔を背けてしまった。油でカリッと揚げてあったら一口ぐらいは食べられるかもしれないけど、こいつはまだ立派に生きていてクネクネと体をよじらせているのである。絶対にムリ。イモムシを口に入れた瞬間(プチュッと弾ける白い体液!)のことを想像すると、背筋がゾゾゾッとしてしまった。




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by butterfly-life | 2011-08-22 13:27 | インド一周旅行記
ビハール州で目にした圧倒的な貧しさ
■ インド一周旅行記(65) 「ビハールの貧しさ」 バックナンバーはこちら ■

 ヒマラヤ山麓の山道を下り、ヒンドスタン平原を走り抜けて、インド北東部に向かった。
 平地に降りてくると、空気の質ががらりと変わった。つい数日前まで寒さに震えていたのが嘘のように、強烈な日差しと乾燥した熱風が容赦なく襲いかかってきたのだ。4月初旬。いよいよインド全土が本格的な暑季に入ろうとしていた。

 ビハール州で目にしたのは圧倒的な貧しさだった。泥を固めて作った家はここに10人もの大家族が住んでいるとは到底信じられないほど小さかったし、竹とわらで作った家は風が吹けば飛びそうなほどやわだった。電気が来ていない村も多いし、子供たちが着ている服も穴だらけだった。


[ビハールの貧しい農家]

 ビハール州は住民一人あたりの経済水準がインド28州の中で最低である。主な産業はガンジス川の水を利用した小麦や米の栽培だが、河川の氾濫を防ぐための堤防や灌漑設備、道路や電気などのインフラ整備が遅れているために経済成長から取り残されているのだ。


[貧しい村の「青空学校」。校舎を建てる余裕がないので外で授業を行っている。晴れた日はいいが、雨の日はどうするのだろう。]

 日本の面積の4分の1しかない土地に9000万人もの過大な人口を抱えているのも大きな問題である。貧しい農家の多くは6、7人の子供を持ち、小学生のうちから農作業を手伝わせている。土地改革が遅れたビハール州ではいまだに大地主制度が残っているという。相続させる土地を持たない小作農は「子供が増える=働き手が増える=一家の収入が増える」という考えにとらわれていて、それが貧困のスパイラルから抜け出すのをいっそう困難にしているのだ。


[刈り取りの終わった田んぼで草を食む水牛と、その背中に乗る子供たち。]

 ビハールの貧しさがはっきりと目に見えるかたちで表れているのが道路である。どの道も交通量が多いのに道幅が狭く、舗装ははがれまくっていて穴ぼこだらけという悲惨な状態だった。

 ハジプールからサマスティプールへ向かう国道103号線はインドでもっともひどい国道だと断言してもいいだろう。国道とは名ばかりの荒れ放題の道に、トラックやバスなどの大型車両が行き交うので、常に砂埃がもうもうと舞い上る砂嵐状態なのだ。その中をバイクで走ろうものならたちまち全身が埃まみれになり、目に入る埃のせいで涙が止まらなくなるのだった。


[砂埃が舞う道を進む]

 もはや崩落寸前状態の橋もあった。木製の橋桁の一部が老朽化し、橋の真ん中に大きな穴を空けていたのだ。本来なら二台の車が余裕を持ってすれ違えるはずなのに、この穴のせいでバス一台通過するのもひやひやものだった。強い雨が降ったり重いトラックが通ったりしたら、すぐにでも崩落しそうだった。あぁ恐ろしや、恐ろしや。




 国道103号線の東にある国道57号線は、この悲惨な状態を改善すべく大規模な改修工事が行われていた。工事は1年前からスタートし、完成したあかつきには片道2車線のハイウェーと長い鉄橋によって快適なドライブが約束されるという。
「ここらへんの道は雨季になると決まって流されてしまうんだ」と土木技術者の男が教えてくれた。「大雨が降ると川が溢れて洪水を起こすんだよ。壊れた道路を直したところで、雨季になるとまた流される。それを毎年繰り返してきたんだよ」

 彼によれば、この道路工事で一番厄介なのは地面の柔らかさだという。ガンジス川の支流であるコシ川流域の柔らかい砂地の上に道路を通さなければいけないので、ただ地面をならして固めただけでは強度が足りず、まずコンクリートで頑丈な基礎を作ってからアスファルトを敷く必要があるというのだ。工事は大がかりなものになり、費用もかさんでしまう。


[柔らかい砂地の上にコンクリート製の橋脚をつくっている]

「この道路はいつ完成する予定なんですか?」と僕は訊ねた。
「政府は来年には開通させると言っているよ」
 と技術者は言ったが、彼自身その目標を信じていないような口ぶりだった。あと2ヶ月もすると雨季が始まり、その後数ヶ月は工事がストップする。残された時間はわずかしかないのに、まだ基礎部分の工事も終わっていない状況なのだ。あと1年で道路を開通させ、さらに川に橋を架けるなんて可能なのだろうか。
「まぁ目標は目標だよ」と彼は笑って言った。「我々はベストを尽くすだけだ。あとは神様が決めてくださるだろう」
 ビハール州で快適なドライブを楽しむのは、まだ当分先のことになりそうだった。


[牛のエサ用に麦わらを細かくせん断する老人と孫娘。老人は高齢で目が見えないが、カッターを回す姿は力強かった。]

 昼食をとったのはナラヒアという小さな町だった。掘っ立て小屋といってもいいような安食堂で、ご飯と豆スープと野菜カレーの定食を食べた。インド北部はチャパティ(無発酵パン)が主食だが、このあたりから主食の座がチャワール(ご飯)に取って代わる。


[インドの安食堂の定食]

 定食と一緒に出てきた水は鉄のにおいがした。ここでは外にある手押しポンプで汲み上げた井戸水を飲用に使っているらしく、どこかで鉄さびが混入したのだろう。お世辞にも清潔とは言い難い水だったが、喉も渇いていたので気にせずにごくごく飲んだ。

 前にも書いたように、インドではミネラルウォーターを一切飲まなかった。このように現地の水を平気で飲むようになったのは、観光地ではない場所をバイクで旅するようになってからだ。田舎にはボトル入りのミネラルウォーターなんて売っていないから、やむを得ず飲み始めたのだが、やってみると案外平気だったのである。すでにある程度免疫ができていたのだろう。そしていつしか「積極的に」現地の水を飲むようになった。食堂でミネラルウォーターを出されても断って、生水を飲むようになったのである。現地の水を体に取り込んだ方が、むしろ体調が良くなることに気が付いたのだ。

 もちろんインドの水は清潔ではない。得体の知れない細菌が紛れ込んでいることもあるだろう。でもヒトの免疫システムというのはその得体の知れない細菌と出会うことではじめて「敵」を知り、その対策を講じるようになるものであるから、その土地の生水を飲み、生野菜を食べることで学習を重ねた免疫は、きっと以前よりパワーアップしているはずだ・・・というのが僕の持論なのだが、これはあくまでも個人的な経験に基づいた仮説であって、医学的根拠などないことをご理解いただきたい。もちろん数日あるいは数週間しか滞在しない短期旅行者にはお勧めしない。あくまでも時間をかけて少しずつ慣らしていくのがポイントなのだ。



 ナラヒアから先はコシ川の川底を走ることになった。雨季になって増水すれば不通になるが、乾季には通行可能という「期間限定」の道のようだ。地図の上ではこの道も国道57号線ということになっているのだが、舗装もされていないただの砂地なので、すさまじく走りにくかった。他の車が通った轍から少しでも外れると、たちまちタイヤが空回りしてスタックしてしまうのだ。まさにアリ地獄の中でもがき苦しむアリ状態。いったい誰がこんな罰ゲームを考えたんだよ、と呪いたくなるような悪路であった。


[アリ地獄街道を行く]

 そのアリ地獄街道を1時間ほど進んだところに、小さな船着き場があった。ここから先は渡し船に乗って川を渡らなければいけないようだ。普通の乗客は5ルピーだが、バイクを乗せると20ルピーだという。昼食が15ルピーだったことを考えると少々高い気もしたが、まぁ仕方ない。船頭に手伝ってもらって、船の上にバイクを引っ張り上げた。


[渡し船でコシ川を渡る]

 渡し船は10人の乗客と3台のバイクを乗せて、ゆっくりと岸を離れた。船頭が竹竿で川底をぐいっと押すと、その反動で船が前進する。実にのどかな乗り物である。川はほとんど干上がっており、一番深いところでも大人の胸ぐらいまでしかない。多少無理をすれば歩いて渡ることも可能で、実際にそうしている人もいた。対岸には何十頭もの水牛がいて、「こりゃたまらん」という表情で水浴びを満喫していた。




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by butterfly-life | 2011-08-18 08:29 | インド一周旅行記
ガンジス川の源流を目指す
■ インド一周旅行記(61) 「ガンジス川の源流を目指す」 バックナンバーはこちら ■

 ウッタルカシから聖地ガンゴートリーに向かった。全長2506kmにも及ぶガンジス川の源流がこの地にあるからだ。標高およそ3000m。70ccのスクーターで行けるかどうかは微妙だったが、せっかくここまで来たのだから、あの大河の「最初の一滴」をこの目で確かめに行くのもいいなと思ったのだ。



 快晴の朝だった。昨日までの曇天が嘘のように、スコーンと青空が広がっている。気温もぐんぐん上昇。絶好のバイク日和となった。
 しかしこの高揚した気分も、出発から2時間ほどであっけなくしぼんだ。ガンゴートリーへと繋がる一本道・国道108号線が土砂崩れで不通になっていたのだ。最近降り続いた雨のせいで斜面の上の方が崩れ、大量の土砂が道をふさいでいた。ブルドーザーが復旧作業に当たっていたが、まだかなり時間がかかりそうだった。


[崖崩れの現場は大渋滞だった]

「まぁ今日中には通れるようになると思うどね」
 四輪駆動車を運転している男は淡々と言った。聖地ガンゴートリーに参詣するために、休暇を取ってデリーから車を走らせてきたという。108号線ではこの手の事故がしょっちゅう起きているようだが、まだ雨季が始まって間もないこの時期には珍しいようだ。運が悪かったとしか言いようがない。思わぬ渋滞に巻き込まれた他のドライバーやバスの乗客たちも、あきらめ顔で復旧作業を見守っていた。

 しばらく待ってから引き返すことに決めた。源流まで行けないのは残念だが、そういう巡り合わせなのだと諦めたのだ。今回はガンガーの神様に呼ばれていないのだろう。インドを長く旅していると、否応なしにこの種の諦観を身につけることになる。こうして内面からのインド化が進んでいくわけだ。

 ウッタルカシに戻る途中で、不思議な僧院を見かけた。ヒンドゥー教の神様をかたどった巨大なコンクリートの像が敷地内にいくつも立っているのだ。金ピカに光る象の神様ガネーシャや、シヴァ神を踏みつける凶暴なカーリー神など、いずれの像も派手な色に塗られている。神様のごった煮状態。まさにヒンドゥー・ワンダーランドだった。


[金ピカに光る象の神様ガネーシャ]


[コブラの神?]


[寺院の横には新しい像も建設中]

 僕が写真を撮っていると、オレンジ色の袈裟をまとった修行僧が現れた。
「あなたは日本人ですか?」
「そうです」
「それは素晴らしい。このアシュラムのマスターは日本人なのです。ケイコ・アイカワといいます」
 彼はそう言うと、一枚のポスターを指さした。そこには「KEIKO AIKAWA」という文字と共に、日本人らしき女性の姿があった。ケイコ・アイカワ氏は「ヨグマタ(ヨガの母)」と呼ばれる有名なヨガの先生で、日本とインドとのあいだを往復しながら、ヨガの普及に力を尽くしているという。

 こんな辺鄙なところに日本人が設立に関わった施設があるとは驚きだった。しかしヨガのアシュラム(修行道場)がこれほど派手な彫像で飾られる必要があるのだろうか。金ピカの神様なんて瞑想の邪魔になりそうだけど。

 ウッタルカシからチャンバまで一気に南下する。リシュケシュへ向かう国道94号線に入ると、ガンジス川の源流は急に川幅を広げた。上流では歩いて渡れるほどだった流れが、数十メートルの川幅を持つまでに成長したのだ。


[ガンジス川の源流が一気に川幅を広げる]

 チャンバの町に到着したのは5時。特に何があるというわけではないジャンクションタウンだ。町外れに宿がいくつかあったので、適当なところに泊まることにした。大きな谷を一望にできる眺めの良い宿だった。温水器はないが、シャワーのときにはバケツに熱湯を入れて持ってきてくれるという。最初は400ルピーだと言われたが、250ルピーにまで値切ることができた。

 バイクにくくりつけてある荷物を解いているときに、三人組の外国人旅行者がバイクに乗って現れた。彼らもここに泊まるつもりのようだった。三人ともイスラエル人で、ゴアで手に入れた350ccの中古バイクに乗って、ここまでやってきたという。


[イスラエル人が乗っていたのはロイヤル・エンフィールドという古いインド製のバイクだった。]

 僕が70ccのスクーターでオリッサから旅を続けていると言うと、三人は「アンビリーバブル!」と目を丸くした。
「本当だよ。ジョークじゃない」
「僕らだって相当クレイジーだけど、あなたには負けるな。ハードコアだよ」
「ありがとう。でもそれほどじゃないんだ」
 と僕は謙遜した。実際、普通だしさ。
「日本人って変わってるのかな。ゴアで一緒だった日本人も超ハードコアな奴だった。ガンジャだけじゃなくてLSDとかもバンバンやってて、完全にラリってた。無茶苦茶だった。あれで日本人のイメージが変わっちゃったもんな」
 そういうラリパッパな奴と同じ括りにされるのはご免被りたいのだが、麻薬目当てでインドを旅する日本人が多いのは事実である。国内の取り締まりが異様に厳しいために、海外に出るとタガが外れてしまうのだろう。やらなきゃ損だ、みたいな気持ちになるのかもしれない。

 イスラエル人の三人はインドに来てから知り合って意気投合し、一緒に旅を続けていた。どういうわけかインドにはイスラエル人旅行者が多い。特に辺鄙な場所になればなるほどイスラエル人の姿が目立つように感じる。なぜだろう?
「イスラエルでは18歳になると全員が兵役につかなければいけないんだ」
 23歳のイダンは眉をひそめた。
「男は3年、女は2年。そこで規則やらなんやらを徹底的に叩き込まれる。自由なんてまったくない生活が続くんだ。その反動で、兵役が終わるとすぐに外国に行く人が多いみたいだね」

 他の二人も似たような経緯でインドにやってきたようだ。18歳で徴兵、21歳で解放され、しばらく働いてお金を貯めて、旅に出る。しかしなぜ行き先がインドだったのか。そこには何か特別な理由があるのだろうか。
「安いからだよ。インドは南米やヨーロッパなんかに比べると、はるかに安く旅ができる。それに僕らはイスラムの国には行けないからね」
 そうだった。未解決のパレスチナ問題を抱えるイスラエルのパスポートを持つ人間は、シリアやイランやパキスタンなどの中東イスラム諸国には入国できない。だから自ずと行き先がインドに集中する。なるほど。

「それにインドはとてつもなく広いし、刺激的なんだ。毎日が驚きの連続だよ。出会うのはイスラエルには絶対いないような人たちばかり。この国は本当にアウト・オブ・プラネットだよ」
「それは違う」と僕は笑った。「インドは驚くべき国だけど、ここもまたこの星の一部(パート・オブ・プラネット)なんだよ」
「そうだね。僕が知らなかっただけなんだ。この世界のリアルな姿を」とイダンは言った。「イスラエルはこのウッタラカンド州よりもずっと小さい国なんだよ。車で2時間も走ればすぐに国境に出てしまう。本当に狭いんだ。その小さな国土を守るために、まわりの国と何度も戦争をしなければいけなかった。僕らはそういう国で育ったんだ」
 彼らは窮屈な母国から逃げ出そうともがいていた。なんとかして狭い「プラネット」の外へ出たいと願っていた。その気持ちが彼らを母国とは何もかもが異なるインドに向かわせたのだろう。



 イダンは1970年代のヒッピーみたいに長髪を後ろで束ね、無精髭であごを覆っていた。遅れて来たイージーライダー。しかしそのスタイルは彼にはあまり馴染んでいなかった。かなり無理をしてアウトサイダーのイメージに自分を合わせているようにも見えた。

 イダンの目は健康な好奇心に溢れていた。旅で見たものすべてに驚き、すべてに呆れ、すべてを吸収しようとしていた。そこがドラッグにおぼれる「すれた」バックパッカーたちとの違いだった。

 イダンの夢はプロのミュージシャンになること。だからバイクにギターケースを括りつけて旅をしている。スナフキンみたいに思い立ったときにいつでもメロディーを奏でられるように。
「でも、イスラエルではプロのミュージシャンになるのは難しい。人口が650万人しかいないから、国内のマーケットがものすごく小さいんだ」
 他の二人も長旅を終えた後のことは何も考えていないという。
「未来が見えてしまうのが怖いんだ。まわりの大人たちの頭にあるのはお金、お金、お金。それだけだ。僕はそんな大人にはなりたくない。ありきたりの人生は嫌なんだ」

 青臭いセリフだと笑うことはできなかった。8年前の僕もやはり彼と同じような思いを抱いていたからだ。
 レールの上に乗っかって進むような人生はもうご免だ。そう思って僕は旅に出た。それから10ヶ月、頭の先からつま先までどっぷりと旅に浸かった。驚いたり、喜んだり、疲れたり、恐れたり、困ったり、毎日が夢中だった。将来の自分がどうなるかなんて全く考えなかった。考えたくなかったのだ。



「なんとかなるさ」と僕は言った。「実際、こうやってまだ旅をしている人間もいる」
「あなたはハードコアだからな」
 イダンはそう言うと髭に囲まれた口元に親しげな笑みを浮かべた。
「僕もあと何ヶ月かしたら、ハードコアな旅人になれるかもしれない。なれなかったらイスラエルに戻るよ」
 無限の可能性と底なしの不安とのあいだで揺れる23歳。彼の若さがちょっとだけ羨ましかった。

「今は旅を楽しむときだ。精一杯楽しめばいい。死なない程度に」
「ああ、このプラネットを精一杯楽しむよ」
「クレイジーなトラックドライバーには注意しろよ。奴らは我々の敵だ」
「わかったよ。ありがとう」
 そして僕らは握手を交わして、それぞれの部屋に引き上げた。


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by butterfly-life | 2011-08-16 10:51 | インド一周旅行記
故郷を捨てたネパール人
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 ロールの町からパバール川に沿って進む州道10号線を走って、ウッタラカンド州へ向かった。最低でも100キロは進みたいところだったが、午後から降り始めた雨で、予定が大きく狂ってしまった。


[ウッタラカンド州の山奥で出会った牛飼いの少年。まだ6,7歳なのにたった一人で牛を追っていた。]

 雨宿りのために立ち寄ったサウラ村は、州道沿いに食堂と雑貨屋とバイクの修理屋が並んだだけの小さな集落だった。僕は食堂でチャイを頼み、火が入ったかまどの前で両手をこすり合わせて暖を取った。ただでさえ寒いのに、雨によってさらに体が冷えてしまっていた。

「こんなに寒くなったのは、3日前からですよ。それまでは暑かったんです。今年の天候は異常ですよ。いつもならこの時期にこんなに冷え込むことはないんです」
 僕と同じように食堂で雨宿りをしていた男が流ちょうな英語で教えてくれた。ヴィシャンベル・ジョシさん。森林保護の仕事をする公務員だ。口ひげのせいで老けて見えるが、まだ28歳だという。
「地球温暖化の影響でしょうか?」
「さぁ、それは簡単に結論が出せる問題ではありませんが、その疑いは強いですね。とにかくこの寒さは農家に悪い影響を与えます。リンゴが大きく育たないんです」



 ジョシさんによれば、ウッタラカンド州の人口の8割が農業に従事しているという。小麦やジャガイモの他にリンゴなどの果物も作っている。しかし産業として伸びているのは観光業と発電事業で、特にヒマラヤの豊富な雪解け水を利用した水力発電は、遠く離れた首都デリーへも電力を供給するほどだという。

 しかしこの村の住民たちは、地元のダムが生み出した電気の恩恵をまだ十分には受けていない。電気は2年前にようやく通ったものの、使えるのは一日のうちの数時間に限られているし、まったく使えない停電デーもある(僕が訪れた日はたまたまその停電デーだった)。それでも村人は電気がない生活に慣れているので、あまり不便には感じていないようだ。電気は「使えたらラッキー」という程度のもので、大半の家はテレビを持っていなかった。しかし充電の効く携帯電話は半分以上の人が持っていた。



「日本ではお金を出して酸素を買う人がいるというのは本当ですか?」
 ジョシさんは真面目な顔で言った。雑誌か新聞にそういう記事が載っていたらしい。「酸素バー」のことだろうか?
「そういう人も稀にいるみたいですね。でも僕は買ったことはありません。酸素が不足しているわけじゃないから」
「それじゃロボットのアザラシをかわいがる老人の話は?」
「それも本当だけど、数はすごく少ないですよ」

 外国のメディアが取り上げる日本の話題はこの手のものが多い。ハイテク先進国で働くオタク趣味の人々。老人ホームのロボットアザラシも、酸素バーもそういう文脈に沿ったトピックだ。しかしこういうキワモノ的ニュースばかりが取り上げられることで、見る側の日本人像にバイアスがかかるのは避けられないだろう。

 もちろん日本のメディアだって状況は同じようなものだ。日本のニュース番組で伝えられるインド人の多くは、何十年も飲まず食わずで生きているという老人や、目に唐辛子を塗り込んでも大丈夫だと豪語するおじさんのようなキワモノたちなのだから。
 よく言われることだが「犬が人間に噛みついてもニュースにならないが、人間が犬に噛みついたらニュースになる」。ニュースバリューとはそういうもので、だからこそ僕らはそれを勘定に入れた上でニュースを見る必要があるのだろう。



 午後3時半になっても雨は止まなかった。とりあえずの目的地にしていたチャクラータの町は、ここから45キロ離れているという。そのあいだに宿は一軒もない。町らしい町もない。だから雨の中を45キロ(道が悪いので3時間近くかかるだろう)走り続けるか、それともこのサウラ村にとどまるかを、今すぐに決める必要があった。サウラ村にも宿屋はないが、希望すれば部屋を融通してくれる臨時の民宿みたいな家があるという。

 しばらく考えてから、この村に泊まることに決めた。雨脚がさらに強まる危険性もあったから、安全策をとるべきだと判断したのだ。
 案内されたのは本当にごく普通の民家だった。普段は子供たちの寝室になっているらしく、ベッドが二つ置かれているだけのシンプルきわまりない部屋だったが、不満はなかった。どうせ寝るだけなのだ。雨がしのげて、安全が確保されているのなら、それ以上の贅沢は望まない。用を足すときは外の共同便所を使うようにと南京錠の鍵を渡された。宿代は100ルピーということで話がまとまった。



 少し昼寝をしてから、傘を差して村の中を歩いた。住民の中には日本人に似たモンゴロイド系の顔の人が多かった。
 ジョシさんによれば、この村は隣国のネパールから移住してきた人が人口の4割を占めているという。30年ほど前から、貧困や政治的混乱に耐えかねたネパール人が国境を越えてインドに流入してくるようになったのだが、そうした難民の一部がこの村に定住したのだ。

 難民の子供たちの世代、つまりネパール系2世の若者たちはネパールという国を知らない。インドに生まれ、インド国籍を持ち、ヒンディー語を話し、一度もネパールを訪れたことのない彼らにとって、ネパールはすでに母国ではなく、「近くて遠い外国」になっているのかもしれない。

 ネパール系の若者のひとりが携帯電話に入れているインドポップスのミュージックビデオを見せてくれた。インドの町には携帯電話用の音楽ファイルやミュージックビデオをダウンロード(もちろん違法コピー)してくれる店があるので、たとえテレビやラジカセがなくても、最新の音楽やダンスを楽しむことができるのだ。

 彼の携帯電話に入っていたビデオファイルはインドポップスと地元ウッタラカンドの民謡ばかりで、ネパール音楽はひとつもなかった。インドではネパール音楽のCDやビデオがあまり流通していないという事情もあるのだろうが、彼自身みずからのルーツであるネパールの文化にあまり興味がないようにも見えた。



 僕が「いつかネパールに行ってみたい?」と訊ねたときも、返事は「ノー」。実にそっけなかった。
「貧しい国です。いまだにまともな政府ひとつ作れない」
 その通りだ。おそらく両親や仲間たちからそう聞かされているのだろう。経済的にも政治的にもインドより劣るちっぽけな国。
 でもネパール人の口からそんなセリフを聞きたくはなかった。ネパールは確かに貧しい国だけど、美しいものもたくさんある。僕は実際にこの目でそれを見てきたのだから。

 釈然としない思いを抱いたまま、村はずれまで歩いた。そこには大きな谷があり、斜面に沿うように段々畑が広がっていた。長い時間をかけて人が作り上げた優美な曲線。何度見ても心を動かされる風景だった。谷を挟んだ向かい側には小さな集落があり、石造りの家から炊事の煙が上がっていた。やわらかく降り続く雨に覆われて、すべての景色は遠い記憶のように色あせ、ぼんやりとかすんでいた。



 故郷を出たネパール人たちが、なぜこの土地を選んで住み着いたのかがわかるような気がした。ここはあらゆる点でネパールに似ているのだ。ヒマラヤ山麓の自然も、牛を使って段々畑を耕すやり方も、質素な暮らしぶりも。
 彼らは経済的、政治的な理由でネパールを捨てた。けれど山の民であることは捨てられなかったのだ。



 夕食はネパール人の男が一人で切り盛りする食堂で食べた。炊き立てのご飯と豆スープとカリフラワーのカレーと生タマネギ。ご飯はネパールと同じように圧力鍋で炊かれていた。味付けもネパール風。素朴で温かみのある味だった。

 夕食と一緒にネパールの焼酎「ロキシー」を飲んだ。インドでは酒に高い税金がかけられているので、安物の酒でもけっこう値が張るのだが、ここのロキシーはネパール人が無許可で作っている地酒なのでとても安かった。1リットルがたったの20ルピー(40円)。驚くべき安さだ。
 アルミコップに注がれたロキシーは、ネパールの山村を旅したときに毎日のように飲んでいたものとまったく同じ味だった。アルコール分は少ないが、クセのない素直な味。シコクビエから作られた本物のロキシーに間違いなかった。

 一人で飲むにはちょっと量が多すぎるなぁと思っていると、その気持ちを察したかのようにネパール系の若者たちがぞろぞろと集まってきた。誰も英語が話せなかったので、最初はもじもじしていたが、僕が知っているネパール語をいくつか披露して、「さぁ飲めよ」とロキシーをグラスに注いでやると、すぐに打ち解けた表情になった。

 何を話したわけでもないし、何か特別なことがあったわけではない。でもこうして一緒に酒を飲んでいるだけでなんとなく通じ合う部分があった。そういう感覚もネパール人ならではのものだった。人当たりがやわらかくて、シャイで、すべてにおいてマイルドなのだ。インド人のような「オレがオレが」的自己主張の強さがない。そういうところが日本人にも似ていて、なんだかほっとできるのだった。



 ロキシーの入ったペットボトルが空になる頃には、食堂はすでに店じまいを始めていた。まだ8時を過ぎたばかりなのだが、この村では「夜更け」なのである。出歩く人の姿もなく、村はしんと静まり返っていた。今日が電気の来ない停電デーなのも関係しているのかもしれない。

 持ってきた懐中電灯で足元を照らしながら部屋に戻った。棚に置いてあるロウソクにライターで火をつけてみたが、そのか細い明かりだけでは部屋の隅っこは暗いままだった。

 ベッドに潜り込んで天井を見上げた。月面のように静かだった。ときどき遠くから犬の吠える声が聞こえたが、それ以外の物音はまったくなかった。
 ロキシーの酔いが心地よく全身に回り始めていた。目を閉じるとすぐに眠気がやってきた。


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by butterfly-life | 2011-08-11 10:01 | インド一周旅行記
ヒマラヤ山麓の断崖絶壁道路を行く
■ インド一周旅行記(59) 「暗く冷たい森を抜けて」 バックナンバーはこちら ■

 夜中まで降り続いた雨は、翌朝になってようやく上がった。
 東の空からは生まれたてのように神々しい太陽が昇り、下界のものすべてをきらきらと輝かせている。鳥たちが勢いよくさえずり、農家からは朝食を作る煙がゆらゆらと立ち昇っている。
 実に気持ちのよい朝だった。

「僕が約束した通り、晴れましたね」
 朝のチャイを運んできたディアール君は得意顔だった。誰がどのような力を使ったにせよ、晴天は大歓迎だ。どうもありがとう。
 僕はさっそく荷物をまとめてバイクに括りつけた。準備オッケー。さぁ出発だ。キーを回してエンジンをかける。
「必ずまた来てください。約束ですよ」
 ディアール君はそう言うと、両手で僕の手を包み、深々とお辞儀した。最後までまったくインド人らしくない男だった。



 カルソグの町で給油してから、再び山道を進む。景色は雄大だった。雪を抱いた山の頂と、見事な曲線を描きながら連なる段々畑。石造りの家屋がそこにアクセントを加える。自然と人の営みとが一枚の布を織るように絡み合い、ひとつ風景を作り出していた。

 住民はヨーロッパ系の顔立ちをしていた。瞳が薄茶色で、鼻が高く、肌も白い。女性は花柄の服を着て、頭に手ぬぐいのような布をかぶっている。アジアというよりはむしろルーマニアやブルガリアなどの東欧の片田舎に近い雰囲気だった。





 国道22号線に出て、再び急な峠道を登った。標高は2700mにまで達した。さすがにここまで高いところへ来ると寒さが身に染みた。ずっと暑い地域ばかりを旅していたから、防寒具らしい装備は何も持っていなかったのだ。Tシャツの上に長袖シャツを二枚重ね、その上にウィンドブレーカーを着込んでいたが、この寒さをしのぐには不十分だった。特に辛いのはハンドルを握る手だった。これほどの寒さだとわかっていたら手袋ぐらい買っておいたのに・・・。後悔先に立たず、であった。


[標高2650mを示すマイルストーン]

 ナルカンダという町を過ぎると、さらに道が険しくなった。断崖絶壁を削って作り上げた目もくらむような山道だ。車二台が苦労してすれ違えるほどの幅しかなく、誤ってコースを外れたりしたら数百メートル下まで真っ逆さまという恐ろしい道である。



 こういう危険な道を走るときに必要なのは、こまめにクラクションを鳴らし続けることだ。交通量はとても少ないのだが(対向車とすれ違うのは数分に一度だけ)、見通しのきかないブラインドカーブでいきなりトラックとはち合わせる可能性もある。だから警笛を鳴らして注意を喚起しなければいけないのだが、問題は僕のバイクのクラクションの音がものすごく小さいことにある。トラックのクラクションが「どかんかい、ワレ!」とガラの悪いおっさんに怒鳴られているような迫力なのに対し、僕のバイクの警笛は良家のお嬢様が「あの・・・そこを通していただけますか・・・」と言うときのような遠慮がちな音なのだ。お行儀はいいのだが、実際の効果という点ではあまり期待できなかった。




 断崖絶壁をしばらく進むと、深い針葉樹の森にさしかかった。そこには冬の間に降り積もった雪がまだ溶けずに残っていた。日光が地面まで届かないのだ。雪が溶けてぬかるみになった場所では、油断するとスリップしかねない。いつもより速度を落として慎重に進んだ。



 尿意を催したので森の中にバイクを止めて、白い残雪の上にちょろちょと小便をかけていると、突然崖の上から「ゴゥゴゥゴゥ」という低いうなり声がした。
 なんだ? 獣か?
 とっさに頭を上げて崖の方を見たが、動くものの気配はなかった。
「ゴゥゴゥゴゥ!」
 再びうなり声。さっきよりも大きくて太い声で、敵意が含まれているような気がした。こっちに近づいているのか?

 僕はしばらく前に出会ったサドゥーが持つヒョウの毛皮のことを思い出した。彼は森でヒョウに襲われて、逆に斧で斬り倒したと言った。もしあの話がホラではなく本当だとしたら・・・そう考えると冷や汗が出た。
 シカやイノシシじゃあるまいし、ヒョウなんて滅多にいるものじゃないとは思うのだが、近づきつつある声の主を想像するのは怖かった。僕は急いで小便を切り上げてバイクにまたがった。

 以前、知り合いの女の子が「針葉樹林恐怖症」について話してくれたことがあった。彼女は松や杉などの深い森に入ると、恐怖に襲われて走り出さずにはいられなくなるという。空を覆い尽くす針葉樹の森には、確かに独特の怖さがある。底の見えない深い井戸を覗き込んでいるような得体の知れない不気味さ。人の力が及ばない闇の領域。そんなものを感じることがある。
 それにしてもあの声の主はいったい何だったのだろう?



 川沿いの町ロールに着いたのは4時半だった。日が傾いてさらに冷え込んでくる前に泊まる場所を確保できたので、ひとまずほっとした。
 宿に荷物を置き、顔を洗ってから表に出てみると、5,6人の男が僕のバイクを取り囲んでいた。ヒマチャル・プラデシュ州では僕のバイクは常に注目の的である。この地域では販売されていない「謎のバイク」だからだ。

 英語が話せる若者がいたので、彼がみんなを代表して僕に質問した。
Q「燃費は?」 A「リッター55キロだな」
Q「最高時速は?」 A「65キロぐらいかな」
Q「排気量は?」 A「70cc」
Q「ガソリンタンクの容量は?」 A「4リットル」
Q「値段は?」 A「27000ルピー」

 思わず「俺はセールスマンかい!」と突っ込みを入れたくなってしまったが、僕の説明にいちいち大きく頷いている人々を前にすると、こちらもつい真面目に解説してしまうのだった。特に1リットルあたり55キロも走るという燃費性能には皆の衆もいたく感心した様子だ。しかしこれはあくまでも平地での数字で、ヒマチャル・プラデシュ州の過酷な山道だと50キロ以下に落ちるのだが。

 一通り「謎のバイク」についての解説が終わると、若者が「試し乗りさせてくれない?」と言ってきた。いや、だからセールスマンじゃないんだってば!
 しかし断る理由も特にないし、彼がバイクに乗ったままどこかへ消えてしまう心配もなさそうだったので、「どうぞ」とキーを渡した。

「すごく乗りやすいね。自転車みたいだ」
 町をひと回りした若者の感想である。おっしゃるとおり。小さくて軽いがゆえの運転のしやすさは、このバイクの最大の長所なのだ。
「けど、やっぱりパワーが足りないな。俺のスクーターはね、燃費は悪いけど時速100キロまで出せるんだ。パワフルだろう?」
 おいおい、曲がりくねった山道ばかり続くこの土地で時速100キロも出そうっていうのか? 正気か?

 しかし若者が指摘したように、僕のバイクがパワー不足なのも事実だった。この70ccのギア無しバイクでヒマチャル・プラデシュ州の峠道を走るのは、無謀とは言えないまでも、バイクにかなりの負担を強いる行為であることは間違いなかった。
 特に2000mを超える高地だとパワー不足は決定的なものになった。フルスロットルでも登りきれない急勾配では、バイクを押しながら歩く羽目にもなった。だからまぁヒマチャル・プラデシュ州でこのバイクを売っていないのは当然のことなのである。

 ロールは1時間も歩けばひと回りできるほどのコンパクトな町だった。橋を渡った先にバスターミナルと市場があり、そこから斜面に沿って上へ上へと商店が連なっていた。


[肉屋が並ぶ長屋。鶏、羊、豚など各種の肉が吊されている。長屋が大きく傾いている理由はよくわからない。]

 町をうろうろと歩き回っているあいだに、同じ少女と三度もすれ違った。大きな布袋を担いで、ゴミを拾い集めている少女だった。貧しい家の子供なのだろう。学校にも通わず、毎日ゴミ拾いをして家計を助けているのだと思う。

 僕と目が合うと、彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。向こうは向こうで「ヘンな外国人がうろうろしているなぁ」と思っていたようだ。立ち止まってカメラを向けると、少女は戸惑いと恥ずかしさと嬉しさが入り交じったような複雑な表情でこちらを見つめた。



 インドの子供はあまりはにかまない。屈託なく、感情をそのまま素直に表に出す。
 しかしこの子は違った。小刻みに揺れ動く心のひだのようなものが、その瞳に映し出されていた。


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by butterfly-life | 2011-08-05 12:14 | インド一周旅行記
静かに雨が降る朝には
■ インド一周旅行記(58) 「静かに雨が降る朝には」 バックナンバーはこちら ■

 パンジャブ州を抜けてから急勾配の山道を登り、ヒマチャル・プラデシュ州のダラムサラに向かった。南インドを離れてから約2ヶ月。先住部族の住むデカン高原を越え、塩田の広がるカッチ湿地を走り、ラクダがいるタール砂漠を越えて、ついにヒマラヤ山脈の麓にまで足を踏み入れたのだ。


[ヒマチャル・プラデシュ州の見事な段々畑]

 標高1700mの高地にあるダラムサラはとても涼しかった。ここは19世紀にイギリス人がインドの暑い夏をやり過ごすために避暑地として使った町だが、今はチベット亡命政府が置かれた「ダライ・ラマが住む町」として世界にその名を知られている。

 急な坂道の多いダラムサラを息を切らせながら歩いていると、突然空から雨が落ちてきた。大粒の雨はやがて雷鳴を伴ってヒョウに変わり、絨毯爆撃みたいな激しい降りになった。ほんの30分前までは青空だったのに、この変わりよう。まさに青天の霹靂である。

 ホテルの従業員はなぜか嬉しそうだった。
「いやー、今日はいい日ですねぇ」なんて笑顔で言うのだ。
「どうして? 雨が降ってるのに」
「雨だから嬉しいんですよ。この2ヶ月間、僕らはずっとこの雨を待っていたんです」
 彼が言うには、ダラムサラではこの数週間水不足が深刻化していて、水を求める人が井戸の前に長蛇の列を作っていたとのこと。順番争いが喧嘩沙汰にまで発展したこともあったという。要するにこの雨はダラムサラの人々にとって「天からの恵み」だったわけだ。

 ダラムサラから国道20号線を東に進んでマンディまで行き、そこからクネクネと曲がりくねった山道を走り続けて、カルソグという小さな町に向かった。山岳地帯に住む人々は斜面を切り開き、段々畑を耕して暮らしていた。立つのもやっとというぐらい急な斜面にジャガイモを植えているおばさんもいた。狭い土地を有効に使うことで何とか生き延びてきたのだろう。


[斜面にジャガイモを植えているおばさん]


[牛を使って畑を耕す]

 泊まったのはカルソグの町はずれ(と言っても11キロも離れているのだが)に建つホテルだった。アップル・バレー・ホテル。その名のとおり、リンゴの木が何十本も植えられた農園の横に建つホテルだ。

 はじめは1200ルピーという(僕にしては)かなり高額の「マハラジャルーム」を勧められたが、
「この格好を見てよ。僕はマハラジャじゃない」
 と言って断り、一番安い部屋に案内してもらった。安いといっても部屋は広いし、シーツや毛布にもしみひとつなく清潔だった。中級ホテルの趣だ。電気温水器もちゃんと備えてあるし、バスタオルもトイレットペーパーもあった。言い値は500ルピー(1000円)だったが、400ルピー(800円)にまけてもらった。オフ・シーズンで泊まり客も他にいないようだったから交渉の余地はあると踏んでいたのだが、予想通りの結果になった。

 レセプション係兼ボーイのディアール君はとても愛想のいい若者だった。英語があまり上手くないのが難だが、それを補ってあまりあるほど素敵な笑顔の持ち主だった。

 このホテルの宿帳には「インドに何ヶ月滞在するつもりか」という欄があって、僕は「3ヶ月」と記入したのだが、
「たった3ヶ月ですか?」と驚かれてしまった。「ここに来る外国人はみんな6ヶ月と書くんですよ」と言うのだ。
 確かにインドの観光ビザは有効期間が6ヶ月もある。アジアでは異例の長さだ。この広い国をくまなく回るためには、最低でもそれぐらいの期間が必要なのだ。
 しかし現実問題として、6ヶ月もインドを旅する人なんて滅多にはいない。仕事をほっぽり出してきたか、モラトリアム中か、あてもなく撮影を続ける写真家か、いずれにしてもまっとうな社会人ではないはずだ。つまりここは、その「滅多にいない」旅行者だけが選択的に訪れるような辺鄙な場所なのである。


[山羊の群れを追う男たち]


 カルソグの朝は静かに明けた。ここがインドだなんて信じられないほどの静けさだった。ノートパソコンの放熱ファンが回る微かな音まで聞き取れるほど静かなのだ。

 インドの安宿は騒々しい。とりわけ朝がうるさい。隣の部屋のテレビの音や、向かいの部屋の話し声がガンガン響いてくるからだ。インドの安宿は防音よりも通気性に重きを置いて設計されているし(要するに隙間だらけなのだ)、インド人の宿泊客は寝るとき以外はいつもドアを開け放って過ごしているから(その方が涼しい)、音という音が全部筒抜けなのである。

 話し声ぐらいならまだいいのだが、聞いているだけで不快になる音というのもある。僕が一番苦手なのはタンを吐く「カーッペ!」という音である。一度や二度ならまだしも、ひどいときには何十回も連続で「カーッペ!」を続ける奴がいるのだ。アンタはそこまでして何を吐き出したいのか、逆に気持ち悪くなりはしないのか、一度じっくり問い詰めてみたい。

 タンやツバは吐くから吐きたくなるのであり、もし吐かなければ吐きたい気持ちにはならない、というのが僕の持論である。「世界一のタン吐き大国」として知られるあの中国でも、最近になって「人前でタンを吐くのは良くない」というマナーが浸透してきたおかげで、タン吐き人が目立って少なくなったという。タン吐きは単なる癖であって、それ自体には何の意味も必然性もないのではないか。


[ロバに乗って移動する男たち]

 タン吐き人のいないカルソグの朝はすがすがしかった。静寂とはインドにおける最高の贅沢だ。そんなことを思いながらうつらうつらと二度寝する。外はあいにくの雨模様。暗く冷たい雨が降りしきっていた。どうやらヒマチャル・プラデシュ州は一足早く雨季に入ってしまったようだ。

 目が覚めてからも、ベッドの上でテレビを見たりしてぐずぐずしていた。この雨の中バイクを走らせる気持ちにはなれなかった。
 インドのテレビ局も朝方は通販番組ばかり流していた。紹介されているのは「何でもたちどころに粉砕するジューサー」や「吸水性抜群のモップ」などおなじみの通販グッズだが、中には日本ではお目にかかったことのない怪しげな機械も売られていた。
 それは「アイマックス」という名前の大ぶりなアイマスク型の機械だった。「スタートレック」のクルーが着けているような近未来的なデザインだ。これを1日10分装着するだけで視力が回復するという触れ込みだった。磁気の力で眼球をマッサージして水晶体のゆがみを治すという理屈らしい。肩こりに対するピップエレキバンのようなものか。しかし磁力で近視が治るなんて(少なくとも日本では)聞いたことがない。かなりインチキ臭い。
 お値段は2375ルピー(4600円)。高すぎず安すぎず、絶妙なプライシングである。10日間は返品可能だという。しかし「効果は1ヶ月しないと現れないんですよ」なんて言われるんじゃないだろうか。

 日本であれば、こういう類の効果に疑問符の付く健康器具は、テレビで堂々と売られることはなく(たぶん薬事法に抵触するはずだ)、雑誌広告などで「効果には個人差があります」という小さな文字とともにひっそりと売られることになるだろう。背が伸びる薬、豊胸剤、痩せ薬、幸運を呼ぶブレスレット。そんなものと同列である。インドの広告業界はまだ規制が緩いのかもしれない。
 数ヶ月後には消費者からの苦情が殺到するも、すでに販売業者は雲隠れした後だった・・・なんて結末になりそうだけど、どうかな。


[薪を背負って歩く女]

「今日は雨ですね。出発はどうしますか?」
 朝食を持ってきてくれたディアール君が言った。雨はいっこうに止む気配がなかった。分厚い鉛色の雲が空を覆い、冷え冷えとした風が松の木を揺らしていた。
「もう一泊するよ。今日はずっと雨みたいだから」
「そうですか。でも明日は晴れますよ」とディアール君は笑顔で言った。「約束します。大丈夫です。明日は晴れです」
 たいした根拠があるわけではなさそうだったが、そんな風に言ってもらえるのは嬉しかった。

 ディアール君によれば、ヒマチャル・プラデシュ州の観光シーズンはインドがもっとも暑くなる4月から7月ごろだという。平地に住むお金持ちが避暑にやってくるのだ。首都デリーで40度を超える日でも、ここはエアコンはもちろんのこと扇風機さえ必要ないほど涼しいという。

 ディアール君はホテルの専門学校で1年間勉強した後、8ヶ月前にここで働き始めた。日給はわずか60ルピー(120円)。いくら客が3日に一度ぐらいしか来ない閑古鳥ホテルとはいえ、あまりにも薄給である。
「だから今月末にこのホテルを辞めて、別のホテルで働くことにしたんです。そこは三ツ星ホテルで外国人客も多いし、今の倍の給料がもらえるんです」

 彼はその三ツ星ホテルでホテルマンとしての経験を積み、それと同時に外国人と話す機会を増やして英語を上達させるつもりだという。確かに今の彼の英語力には大いに問題がある。語彙があまりにも少なく、会話のバリエーションにも乏しいので、ちょっと込み入ったこと(例えば「ホテルで働く前には何をしていたの?」とか)を訊ねると、途端に答えられなくなってしまうのだ。

 それでもホテルマンは彼の天職だと思う。彼の接客態度や話しぶりからは山岳民独特の奥ゆかしさや生真面目さがにじみ出ているように感じられるからだ。
 サービス業に就く人間がにこやかで丁寧なのは日本では当たり前のことだが、インドではまったくそんなことはない。本来サービスする側の人間が平気で客を見下すような態度を取ったりするし、小売業でも「買っていただく」ではなくて「売ってやる」という姿勢が基本なのだ。
 そもそもインド人には「お客にサービスする」という意識が希薄で、仕事は仕事として割り切っている人が多い。そういう人たちが「お客様は神様です」とか「お客様の笑顔を見るのが私の幸せです」などと言う日本人を見たら、心の底から驚くに違いない。


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by butterfly-life | 2011-08-02 11:33 | インド一周旅行記