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東南アジア旅行記がついに完結! 結末はCD-ROMで
 3ヶ月にわたってブログで連載を続けてきた「東南アジア旅行記」は前回で更新を終えました。
 この続きはぜひCD-ROM版を購入してお読みください。
 メルマガでは未公開のエピソードが実に46話も入っている大変お得な電子書籍です。
 ここでは未公開エピソードの「読みどころ」をご紹介します。

◆ ブログで未公開旅行記の読みどころ

 ベトナム旅行記では、雨にたたられて思うように進めなかったり、村を歩いていただけなのに兵士に拘束されて宿営地に連行されたり、といったトラブルに次々と襲われる様子を書いています。ベトナムって縦に細長ーい国だから、南と北とでは自然環境も人々の気質も大きく違うんです。それを強く実感した旅になりました。



 カンボジアではひょんなきっかけで知り合った生後2日の男の子の「名付け親」になるという不思議な体験をしました。何という名前を授けたかはCD-ROMを見てのお楽しみ。2年後に同じ村を訪れる機会があったのですが、ちゃんと僕が付けた名前で呼ばれていて、ちょっと感動しました。


[僕が名付け親になった赤ちゃんとその父親]

 フィリピンは普通のおばさんも英語を話すというお国柄のおかげで、コミュケーションを計るのが楽でした。
 とある美容院で出会ったのは、日本人の父親とフィリピン人の母親を持つ17歳の少女でした。彼女はお客さんとして店に来た60歳のオーストラリア人にデートに誘われ、いきなりプロポーズされるという経験をするのです。少女が出した答えは・・・これもぜひ本文をお読みください。フィリピンという国の一側面を知ることができるはずです。

 そしてこの「東南アジア旅行記」一番の読みどころは東ティモールです。この国の魅力はメルマガでもご紹介した通り、子供たちの屈託のない笑顔や手つかずの美しい自然にあるわけですが、多くの問題も抱えています。
 学校教育のレベルはお粗末だし、使用言語の問題もあります。まだ独立後の混乱の傷跡からは立ち直っていないし、人々の生活レベルは低いところにとどまったまま。そんな現実を感じる出会いもあったし、それを変えようと努力している若い世代にも話を聞くことができました。


[ポルトガル語を学ぶ子供たち]

 驚いたのは、東ティモールの辺境の村に日本人のシスターが4人も住んでいたということ。全員が60歳以上という事も驚きだったし、「この国に骨を埋める」という覚悟で活動しているという姿勢にも感銘を受けました。

 東南アジアは僕の旅の原点でもあるし、この10年のあいだに大きく変化した地域でもあります。多様な文化や宗教が混在しているエリアでもある。
 共通しているのは、決して急ぐことなくのんびりと生きている人々の姿です。日本人から見ると「もうちょっと真面目に働いたら」と思うような部分もあるけれど、彼らは心から人生を楽しんでいる。

 CD-ROM版「東南アジア旅行記」から、そんな東南アジアの空気や時の流れを感じていただければ幸いです。


◆ 高画質の写真ファイル

 CD-ROMには高画質の写真ファイルも多数収録しています。
 その数なんと1377枚「デジタル写真集」としても楽しんでいただけます。最大サイズが1536×1024ピクセルもあるから、大画面PCならいっそう迫力が増すことでしょう。

 サンプル(1) サンプル(2) サンプル(3)



◆ ご注文方法

 CD-ROMの価格は1800円。通信販売でのみご購入いただけます。
 この作品集を買っていただくことが、今後も旅と撮影を続けていくための何よりの励みになります。ぜひご購入ください。

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by butterfly-life | 2011-12-09 08:52 | 東南アジア旅行記
パプアニューギニアの伝統舞踊
■ 東南アジア旅行記(最終回) わけのわからない踊り バックナンバーはこちら ■

 踊りはいっこうに始まらなかった。
 午後3時からサンバン村の人々が伝統の踊り「シングシング」を披露してくれることになっていたのだが、予定時間を過ぎても誰一人約束の場所にやってこないのである。

 パプア人は時間にルーズである。「時間を守る」ということの意味や概念が、日本人とは根本的に違っているのだ。彼らは一日を「午前」「午後」にざっくり分けるという。「午前中に○○をやる」とか、「午後に○○と会う」といった約束をするのだそうだ。何ともアバウトである。



 仮に「1時にどこそこに集合」と決めたとしても、全員が揃うのは3時ぐらい。みんな約束に遅れてくるのが当たり前なので、一人だけが律儀に時間を守っても損をするだけ。だから「約束の2時間遅れ」が暗黙の了解として定着してしまうのだ。

 日本でも沖縄や鹿児島の人は時間にルーズだし、「タイ時間」なんて言葉に代表されるように東南アジアの時間感覚もゆるゆるである。どうやら時間に対するおおらかさ(いい加減さ)というのは、緯度の低さと大いに関係があるようだ。

 午後3時の開始予定から2時間以上経ち、辺りがだんだん暗くなり始めた頃になって、踊りは唐突に始まった。椰子の葉っぱで全身を覆った男たちが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら登場したのだった。
 「さぁこれから始めます」という合図は一切なかった。いきなりの「ぴょんぴょん」。すっかり待ちくたびれていた我々は完全に不意を突かれた格好で、慌てて撮影の準備をする羽目になった。



 葉っぱの男たちが登場すると、それまでのんびりとタバコを吹かせていた村の男たちがいっせいに竹の棒を打ち鳴らし、歌をうたい始めた。その歌声に合わせて、葉っぱの男たちが奇声を上げながら飛び跳ねる。



 踊り自体は複雑なものではない。難しいステップがあるわけでもないし、トリッキーな動きもない。ひたすら飛び跳ねるだけである。しかし異様さは際立っていた。一つ目の仮面と黄色いカツラを被り、甲高い奇声を上げながら跳び続ける人たち。わけがわからないが、とにかくすごい。



 村の長老は「客人を歓迎する踊りだ」と言ったが、とてもそんな感じには見えなかった。戦いに備えて戦意を高揚させるための踊り、あるいは目の前の人間を威嚇するための踊りではないか。
 何の予備知識も持たないまま、いきなり道ばたでこの集団に出くわしたら、きっと驚いて腰を抜かすに違いない。化け物や妖怪のたぐいに出会った、と真剣に思い込むかもしれない。夜道では絶対に出会いたくない集団である。



 「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である水木しげるは、第二次大戦中にこのニューブリテン島で連合国軍と戦い、敵機の爆撃によって片腕を失う重傷を負っている。その水木が描く個性的な妖怪たちの造形は、もちろん日本に伝わる古典的な妖怪を下敷きにしたものだが、パプアニューギニアで目にしたであろう土着の舞踊や奇抜な衣装も加味されているではないかと思う。



 ちなみにこのシングシングは女人禁制だそうだ。女性はたとえ子供であっても老人であっても、絶対に見ることができない。その理由を長老に訊ねると、「わからんが、そうなっているのだ」という返事だった。まぁそんなものだろう。わからないものはわからないのだ。

 かつては理由があったのだろう。しかし何世代にも渡って口伝えで受け継がれた由来は、どこかの時点で消滅してしまう。彼らは文字を持たないからだ。そして不可解な習慣だけが残るのである。

 僕らのような外部から来た人間は「意味」を知りたがる。行為の理由づけをしたがる。そして一応納得できるような言葉が見つかると、ああそうなのかと安心する。たとえば「この踊りは男性が戦闘に臨む際に行っていたものであり、女性に見られると聖なる力が減じると信じられている」とかなんとか。

 しかし儀式や祭りに合理的な理由なんて必要なのだろうか?
「理由はようわからんけど、そうなっているのだ」
 という説明の方が、少なくとも僕にとっては腑に落ちるのである。



 意味不明の習慣や儀式をそのまま守り続ける頑固さが、この世界をより多様で豊かなものにしている。
 何もかもが説明可能な「透明な世界」よりも、わけのわからない混濁を含んだ「不透明な世界」の方がずっと魅力的だと僕は思う。

■  3ヶ月半にわたって連載を続けてきた「東南アジア旅行記」もついに今回で最終回です。お楽しみいただけましたか?
■ なおCD-ROM版では、メルマガでお届けできなかったエピソードを多数収録しています。ぜひご購入ください。
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by butterfly-life | 2011-12-07 11:33 | 東南アジア旅行記
パプアニューギニア旅行記
■ 東南アジア旅行記(82) ラバウル火山が作る灰色の世界 バックナンバーはこちら ■

 パプアニューギニアへの旅は、成田空港で酒を飲むところからスタートした。空港のレストランで酒を飲むなんてことは「清く正しく貧しい」バックパッカーには縁のない行為だが、今回はテレビ番組の取材という仕事がらみの旅だったのである。

「この一週間は酒が飲めなくなるかもしれませんからね。今のうちに飲んでおかないと」
 とディレクターAさんが言う。パプアニューギニアは禁酒国ではないが、僕らが取材に行く「オイスカ」というNGOがスタッフの飲酒を禁止しているので、僕らもそれに合わせることになるだろうと予想されたのだ(実際にその通りだった)。

 そんなわけで僕らはまずビールを飲み、続いて日本酒を頼み、出発時間が押し迫って「すいません閉店です」と言われるまで飲み続けたのだった。

 酒の席での話題はスチュワーデスについて。これは誰かからの受け売りだけど「客室乗務員が若くてきれいな国は、女性の社会進出が遅れている」という説がある。僕の実感からいって、これは正しい。
 たとえば今まで乗った中で、もっともスチュワーデスがゴージャスだったのはインドネシアの国内線だった。みんなそろって若くて背が高くて美人だった。インドネシアの町を歩いていてもまずお目にかかることのない際だった容貌であった。ムスリムが多数派を占めるインドネシアでは女性が働く場所が限られているから、才色兼備の人材が航空会社に殺到しているのだろう。

 プロデューサーMさんが目にした中でもっとも美しいスチュワーデスは、シンガポール航空のビジネスクラスだったそうだ。あそこならずっと居てもいいなぁ、と遠い目をして語っておられた。ビジネスクラス・・・空港内のレストランと並んでバックパッカー風情にはまったく縁のない場所である。

 僕らが乗ったニューギニア航空の客室乗務員は、なんだか肝っ玉母さんみたいな人ばかりだった。どの女性も我々の基準からすれば少々(あるいは相当に)太っていて、やたらどっしりしているのだ。
 さっきの説を当てはめると、パプアニューギニアは女性の社会進出が十分に進んだ国だと言えそうだが、まぁ何ごとにも例外はある。即断は避けよう。とにかくあんなに「どっしり構えた」スチュワーデスは他のエアラインではあまりお目にかかれない。それだけは確かである。


[火山とラバウルの町。]

 パプアニューギニアの首都ポートモレスビーへは、成田から週に一度直行便が出ている。僕らはそれに乗り、ポートモレスビーで国内線に乗り換えて、ニューブリテン島のラバウルへ向かった。

 ラバウル空港に到着した僕らは、その足で火山に向かった。ラバウルには今でも活発に噴煙を上げている活火山があって、それを見に行こうというのだ。

 1994年に起こった大噴火では、タバルビュル火山とバルカン火山の二つの火口がほぼ同時に噴火し、当時7万人が住んでいたラバウル市は壊滅的な被害を受けた。市内に降り積もった火山灰の量は厚さ5mにも達したという。ポンペイ遺跡のようにうち捨てられたラバウル市はいまだに復興されておらず、州都としての機能は20km離れたココポに移されたままである。

 僕らは四輪駆動車で活火山が間近に見えるポイントに向かった。
 そこは灰色一色の世界だった。山も平原も川も海も空までもがすべて灰色に塗り尽くされていた。生命の痕跡といえるのは枯れた立木のみ。死が支配するモノトーンの世界だった。



 車を降りると、ズーンという地響きを伴った重低音が襲ってきた。大地がうなっていた。そしてその音に呼応するように火口から噴煙が立ち上った。まるで悪魔の吐き出す息のように刻一刻と噴煙はその姿を変えた。



 しばらくすると、火山とは正反対の方向からもドーンという音が聞こえてきた。
 雷鳴だった。噴火音とは重みも広がりも違うが、同じように空気をびりびりと震わせている。もうすぐスコールが降るのだろう。ひんやりとした風が吹き始めた。

 それからしばらくのあいだ、噴火と雷鳴の競演が続いた。大地を揺るがす重低音と、雲を切り裂いて地上に降り注ぐ雷鳴。大自然が持つ底知れないエネルギーに、僕は言葉を失ってその場に立ちすくんだ。



 やがて雨粒が落ちてきた。いやに重みのある大粒の雨だった。
 反射的に腕を見ると、雨の跡が黒い斑点になってべったりと残っている。
 黒い雨?
 どうやら上空に飛散した火山灰がスコールに混じって降ってきたらしい。

 僕らが慌てて車の中に避難すると、すぐに本格的な土砂降りになった。たちまちランドクルーザーの窓が真っ黒に染まり、まったく外が見えなくなってしまった。火山灰を含んだ重たい雨粒がバラバラと車体を叩く音だけが暗い車内に響いた。

 雨が止むのを待ってから、海岸に向かった。地熱によって海水が沸騰している場所があるという。
「この温泉水は肌にいいんだ」と地元のガイドは言う。「虫さされにやられた足がたちどころに治る。あんたも足をつけてみたらいい」



 こんなところで足湯ができるなんてすばらしい。さっそくサンダルを脱いで海水に足を浸けてみた。
 あちちっ。熱湯だ。
「あぁ、そこは熱すぎる。65度はあるからな。入るんだったらあっちの方がいい」
 そういうのは先に言ってくれないと。
 海に近いところに、ちょうどいい湯加減の場所があった。足をザブザブと浸けてみる。すごく気持ちいい。何となく効能がありそうな気もする。以前、日本の露天風呂ライターがやってきたこともあるそうだ。

 正面に見える火口からは相変わらず噴煙が盛大に噴き出ている。雷も負けはいない。フラッシュライトが灰色の山肌を明るく照らし出す。
 地獄というものをまだ見たことはないが(当たり前だ)、きっとこういう光景だと思う。少なくともそれは僕が今まで目にした中で、もっとも地獄に近い光景だった。
「地獄みたいだって?」とガイドが不満そうに言う。「ノー、ここは天国だよ。灰色の天国だ」



 もちろん火山にもカメラを向けたが、あとで写真を見直してみてがっかりした。
 こんなんじゃない。あの場で感じたスケール感はこんなものではない。

 どこまで行っても灰色一色に塗り込められた世界、大地を揺るがす音、火山ガスのかすかな臭い、ざらざらとした雨の感触。火山には五感すべてに訴えかけてくる強い力があった。

 何万メートルもの地底に潜むマグマのエネルギーが何百万年もの時間をかけて作り上げた風景は、僕らの日常とはあまりにもかけ離れていた。その圧倒的なまでのスケール感を写真に納めることは、僕の力では不可能だった。



 その場に居合わせない限り味わえない体験というものがある。テレビではダメだ。写真でもダメだ。
 だからこそ、僕らは旅に出る。
 おそらく喜ばしいことなのだ。むき出しの自然が持つ力を前にして感じる無力感は、僕がまだこの世界のごく一部しか見ていないのだということを思い知らせてくれるのだから。


■ この続きはCD-ROM版で。未公開エピソードと高画質写真が多数! ■
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by butterfly-life | 2011-12-05 12:16 | 東南アジア旅行記
雨を乞い、雨に恋する男
■ 東南アジア旅行記(77) 雨を乞い、雨に恋する男 バックナンバーはこちら ■

 雨季の東ティモールを旅するのは予想以上に大変だった。特に中部から南部にかけての雨の降り方は激しく、ただでさえ悪い道が雨によってドロドロのぬかるみに変わってしまうからだ。目的の町まで行けるかどうかは、常にお天気次第だった。


[ドロドロのぬかるみに変わった道。]

 旅人にとって雨は悩みの種だったが、東ティモールの子供たちは大いにそれを楽しんでいた。彼らはスコールが降り始めると、雨宿りをするどころかサッカーボールを抱えて一目散に広場へと駆け出していくのである。もちろん広場は水浸しの状態で、ボールだってまともには転がらないし、全身泥だらけになってしまうのだが、それが楽しくて仕方ない様子だった。


[スコールの中サッカーをする子供たち。]

 どうせ濡れるんだったら、ズボンもパンツも全部ずぶずぶに濡れてしまえばいい。あとで洗濯するんだからさ。そんな思い切りの良い発想の元、子供たちはまさに水を得た魚のように全力で雨の中を走り回っていた。

 ビケケ県で出会った漁師たちも雨をまったく気にしなかった。
 それは僕が経験した中でももっとも激しい、まるで空そのものが落ちてきたかのようなスコールだった。大粒の雨が地上にあるものすべてを容赦なく叩き、またたく間に道路を泥水が流れる川に変えてしまった。僕は慌てて椰子の木の下に入って折りたたみ傘を差したが、それではとてもしのぎきれなかった。


[ひどい雨の中でも平気で歩く人々。]

 ところがこの激しい雨の中、漁師たちは海に出て漁を始めたのである。とてもシンプルな漁法だった。船さえも使わない。数人の漁師が海の中で網を広げる。ただそれだけである。雨粒が水面を叩くと、魚が集まってくる習性でもあるのだろうか。

 そうやって漁師たちが網を広げる中、なぜか一人の若者だけが砂浜に残って歌をうたいはじめた。両手を高く広げ、顔を空に向け、口の中に雨が入るのも気にせずに大声で歌っていた。
 最初は子供のようにスコールに興奮しているのだと思っていた。しかし彼は10分経っても20分経っても歌うことをやめなかった。漁のことなんて全然眼中にない。ただただ雨の中で歌をうたっているだった。



 叩きつけるスコールによって海面は白く煙り、灰色の空と海との境界線がぼんやりとかすんでいた。世界のすべてが雨に包まれていた。若者はその中心に立って恍惚の表情を浮かべながら、歌をうたい踊りをおどり続けていた。

 彼は何のために歌っているのだろう。
 何を目的として踊っているんだろう。
 雨乞い?
 それとも豊漁のためのお祈り?
 どれだけ考えてみても、その行動を説明することはできなかった。彼はただ踊りたいから踊り、歌いたいから歌っている。そうとしか思えなかった。



 若者は雨降りをそのままのかたちで受け入れていた。
 天からの恵みであり、同時に厳しい試練でもある雨を、全身で受け止めていた。
 彼は雨と一体化し、共に喜びを分かち合う仲間になっていた。



 なんて自由なんだろう。なんて生き生きとしているのだろう。
 彼のことが羨ましくなった。できることなら自分もすべてを脱ぎ捨てて、裸になって一緒に歌いたかった。

 でも僕にはどうしてもそれができなかった。カメラが濡れないように気を遣いながら、シャッターを切ることしかできなかった。
 僕の一部はどうしようもなく興奮していたが、一部はどうしようもなく冷静だった。それは写真家という「観察する者」の性なのかもしれなかった。



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 3ヶ月にわたって連載してきた「東南アジア旅行記」の一番の「読みどころ」が東ティモールです。美しい海と屈託のない笑顔と、そして多くの問題を抱えた島国・・・。
CD-ROM・東南アジア編」では、ブログで未公開のエピソードを多数収録してありますので、東ティモールの魅力をより深く知っていただけます。ぜひご購入ください。

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by butterfly-life | 2011-12-02 11:59 | 東南アジア旅行記
雨が降れば暇人が儲かる?
■ 東南アジア旅行記(76)  雨が降れば暇人が儲かる バックナンバーはこちら ■

 東ティモールの道路はかなりひどいものだった。首都ディリから伸びる何本かの幹線道路はまだまともだが、それ以外の道、特に中部から南部にかけての山道は、路肩が崩れていたり、土砂崩れで道路そのものが流されていたりしていた。主要道路はインドネシア占領時代に整備されたのだが、その後の騒乱と経済的困窮の中でメンテナンスが滞っているのだ。


[長雨で土砂崩れを起こした道路。]


[洪水で流されてしまった橋。]

 道路の状態は最悪だが、通る車の量も少ないので、交通事故はあまり起こっていないようだった。ベトナムやインドネシアのように一家に必ず一台のバイクがあり、いたるところで衝突事故が起こっているという状態とは全然違う。

 東ティモール人が安全運転なのも、事故が少ない原因のひとつかもしれない。アジアには「ハンドルを握ると性格が豹変する」人間も多いのだが、東ティモール人の場合は前に遅い車が走っていても、無理な追い越しをかけることもなく、のんびりと後ろについていくだけなのだ。ディリ市内を流しているタクシーも時速2、30キロほどでとろとろと走っている。これが高騰するガソリンの消費量を押さえるためなのか、「狭いティモールそんなに急いでどこへ行く」的な思想の表れなのかはよくわからなかった。


[東ティモールのローカルバス。]

 のんびりとした東ティモールの交通事情を反映しているのが犬たちである。どういうわけか東ティモールの犬は道のど真ん中で堂々と昼寝をしているやつが多いのだ。バイクが近づいてもピクリとも反応しない。「俺はここで寝てるんだからお前が避けろ」と言わんばかりの横着な態度なのである。



 まぁ滅多に車なんて通らないところだから、ほかほかと暖かいアスファルトの上に寝そべりたくなる気持ちもわからなくはないけど、カーブを曲がったところにいきなり「お昼寝犬」が現れて、慌ててハンドルを切って何とか避ける、ということを何度も繰り返していると、「んなことしてたら、いつか轢き殺されるぞ!」と怒鳴りつけてやりたくなった。

 東ティモールの中でも特にひどい状態だったのが、ティモール海に面したビケケ県の道だった。ここは1999年に起こった騒乱の際に主な橋がすべて破壊され、道路が寸断されたままになっていたのだ。最近になってようやく橋の再建が始まったのだが、それもたびたび起こる洪水のせいで思うように進んでいなかった。

 橋が壊れたままの場所では、バイクで川を渡ることになった。水深がさほど深くなければ簡単に渡れるのだが、前の日に大量の雨が降って水かさが増していたりすると、かなりの危険を伴うドライブになる。


[川をバイクで渡る男。この川はまだ浅い。]

 ラウテン県とビケケ県の県境のあたりを走っていたときには、幅が30メートルほどもある川に行く手を遮られてしまった。わだちは川に向かって直角に進み、そこで唐突に途切れていたから、ここを通る人はみんな川の中を突っ切っているに違いなかった。

 さて、どうしたものか。
 僕はとりあえずバイクを日陰に止めて、買っておいたビスケットを囓り、ボトルに入れた水を飲みながら、他のバイクが現れるのを待った。もし他の誰かがここを渡るようなら、その後に続こうと思ったのだ。「地元の人がやることを真似ろ」というのがこういうイレギュラーな事態に対処するときの基本である。

 しかし10分が経ち、20分が経っても、一台のバイクも現れなかった。どうやらここは極端に交通量の少ない道のようだ。
 仕方ない。自力でやってみるか。
 そう腹をくくった僕は、まず川の一番深いところまで歩いてみることにした。流れは速いが、水深は思っていたよりも浅かった。膝の少し上まで水に浸かるぐらいだった。これならバイクでも渡れそうだ。そう思ったが確信はなかった。

 そこへちょうど現れたのが、釣り竿を持った若者だった。
「ビサ? (できるか?)」
 僕はインドネシア語で訊ねてみた。そしてバイクと川を交互に指さして「このバイクで川を渡ることができるか?」と伝えた。
「ビサ! (できるさ!)」
 若者は自信ありげに頷いた。よかった。気休めにしかならない言葉だが、「できない」と言われるよりははるかにマシだった。

「よし、行こうか、相棒」
 僕はバイクに一声かけてスロットルを握り、ギアをセカンドに入れて川の中へと進んだ。こういうときには、行くと決めたら一気に走りきることが大切だ。少しでも躊躇してスピードを緩めると、川の流れに負けて身動きがとれなくなる可能性があるからだ。最悪の場合、バイクごと下流に流されてしまうかもしれない。

 出だしは順調だった。川底のツルツルした石にタイヤが取られて、何度かバランスを失いそうになったが、なんとかスロットルを緩めずに進むことができた。
 ところが、流れの真ん中を過ぎたあたりで急にエンジンが止まってしまったのである。エンジンが急に冷えたことでエンストを起こしたのだろうか。
 まずい。
 僕は一瞬パニックになりながらも、すぐにギアをニュートラルに入れてバイクを降り、下流に流されないように必死に足を踏ん張りながら全力でバイクを押した。水の中で息を止めたバイクはやたら重かったが、それでも何とか対岸までたどり着くことができた。

 やれやれ。僕は全身汗びっしょりになりながら、安堵のため息をついた。
「ビサ! (できたじゃないか!)」
 振り返ると、釣り竿の若者が右手の親指を立てて笑っていた。
「ビサ! (できたさ!)」
 僕も同じポーズで答えた。できたことはできた。でもギリギリだった。これ以上水かさが増していれば、渡れなかっただろう。運が良かった。

 そこからさらに1時間ほど進んだところにある川には、コンクリート製の立派な橋が架けられていた。壊された古い橋の代わりに新しい橋を一から造ったようだ。今度は楽に川を渡れそうだ。そう思ったのもつかの間、また別の問題が僕を待っていた。
 実はこの橋は未完成だったのである。橋そのものの工事は終わっているのだが、道路と橋桁とを繋ぐスロープの部分がまだ完成していなかったのだ。道路と橋桁のあいだには高さ3メートルほどの大きなギャップがあって、これがバイクの行く手を遮っていた。


[未完成の橋が目の前に立ち塞がった。]

 完全にお手上げだった。橋には歩行者が渡れるように小さなはしごがかけられていたのだが、重いバイクを担いでこのはしごを登るのは不可能だった。いったいどうしたらいいんだろう?
 橋の前で茫然としていると、どこからともなく若者たちが集まってきた。やたらテンションが高く、口々に「マライ! マライ!(外国人だ!)」と叫んでいる。

 若者たちは僕のバイクを取り囲んで「リマ・ドラー!(5ドル)」と言った。そしてバイクを持ち上げる仕草をした。どうやら彼らは「5ドル払えば、俺たちがバイクを橋の上に引っ張り上げてやる」と言いたいらしい。なるほど。そういうことですか。

 それにしてもセコい商売を思いついたものである。この橋をバイクで渡ろうとする人間はそれほど多くないはずなのだが、若者たちはその滅多に来ない「顧客」が現れるのを、ぺちゃくちゃお喋りをしながらずっと待ち続けていたのだ。よっぽど暇な人間じゃないとできないことだ。もちろんそんな暇人たちがいなければ、僕はここで立ち往生する羽目になっていたわけだが。

 5ドルという言い値は、3ドルにまで値切ることができた。交渉が成立すると、5人が橋の上に、5人が下の道路に分かれ、声を合わせてバイクを引っ張り上げた。そして橋の反対側でも同じ要領でバイクを下ろしてくれた。作業は実に手慣れていて、チームワークも抜群だった。

 こうしてバイクが無事に橋を渡りきると、僕は約束通り1ドル紙幣3枚をリーダーに渡した。リーダーはそれを戦利品のように頭上に掲げると、「ヒャホー!」と叫びながら橋の上を走り回った。

 いやはや、この道には予想もつかない罠がいくつも仕掛けられている。
 僕はため息をついて、バイクにまたがった。


 実はこの「バイクの引っ張り上げ」によく似たセコい商売を、別の場所で目撃したことがあった。
 現場は首都ディリから50キロほど西に行ったところにある橋の上。前日に大量の雨が降ったせいで川が氾濫し、流れてきた泥が橋桁の上に分厚くたまっていた。この橋の上を通過する自動車やバスが、地元の若者たちにとっての「顧客」だった。彼らは橋を通過する車のタイヤが泥にはまり、身動きがとれなくなるのをじっと待っていたのだ。まるでアリ地獄に潜むウスバカゲロウの幼虫のように。


[ぬかるんだ道を走る車。]

 運悪く泥にはまって立ち往生する車があると、たちまちそのまわりに若者たちが群がり、口々に「10ドル! 10ドル!」とはやし立てた。「10ドルくれたら後ろから押してやるぞ!」というわけだ。運転手は困った顔で値切り交渉を行おうとするのだが、優位に立ってっているのは若者の側なので、結局10ドルを払わされる羽目になるのだった。ご愁傷様です。


[10ドルくれたら後ろから押してやる!]


[橋の上で「顧客」が現れるのをじっと待つ若者たち。]

 この若者たちにしかるべき賃金を出して、「いますぐ橋の上の泥を取り除いてくれ」と指示すれば、ものの10分でやり遂げるに違いない。その方がずっと効率的だし、公共の利益にも適っている。でも、この国ではそういうアイデアを出す人は誰もいないのだ。そして大型のショベルカーが到着して泥を取り除くまで、この「アリ地獄的ビジネス」を延々と続けるのである。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、「雨が降れば暇人が儲かる」というのがこの国の現実なのである。

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 3ヶ月にわたって連載してきた「東南アジア旅行記」の一番の「読みどころ」が東ティモールです。美しい海と屈託のない笑顔と、そして多くの問題を抱えた島国・・・。
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by butterfly-life | 2011-11-30 11:44 | 東南アジア旅行記
平均8人の子供を産む! 東ティモールのベビーブームの実態
■ 東南アジア旅行記(75) ベビーブーム、来たる バックナンバーはこちら ■

 教会に泊まった翌日は、洗礼式が行われた。
 洗礼式は結婚式のような盛大なものではないし、厳粛さにも欠けていた。親に抱かれた赤ん坊の頭を神父が水で濡らし、それを布で拭いたらお終いという簡単なものだった。


[洗礼式の様子]

 「洗礼」という言葉から連想されるのは、裸の赤ん坊がちゃぷんと水に浸かっている場面なのだが、一人一人にそんなことをしていたら何時間あっても足りないということで、儀式も簡略化されているようだ。何しろこの日だけで160人もの子供が洗礼を受けるために集まっているのである。


[洗礼式に集まった人々。]

 ミゲル神父によると、このような洗礼式は年に6,7回行われているということなので、単純計算でも毎年1000人近くの子供がこのマウベシ周辺で生まれていることになる。ものすごい数である。

 統計的に見ても、東ティモールの子供の数は劇的に増えつつある。合計特殊出生率(一人の女性が一生に生む子供の数)はなんと7.8人。これは国連が認める世界ナンバーワンの数字だという。ちなみに少子化問題に頭を悩ませている日本の合計特殊出生率は1.27。東ティモール人女性は日本人女性の実に6倍もの子供を産むわけである。もしこの高い出生率が今後も続けば、わずか18年で今の人口が倍になるという。すさまじい勢いだ。

 東ティモールには「子供がたくさんいた方が幸せだ」という価値観が根強くあるようだ。それに加えて今のベビーブームの背景には、インドネシア占領時代と独立後の混乱によって多くの人が殺され、とても子供を産めるような環境になかったことの反動もあるようだ。


[東ティモールにはとにかく子供が多い。どこに行っても子供が元気に遊び回る姿がある。]



 平和を取り戻した国で多くの子供を産み育てたいという願い自体は、とても自然なものだ。しかしこのままの勢いで子供の数が増え続けていくとしたら、今後大きな社会問題となるのは間違いないだろう。小さな島国東ティモールにそれだけの人口を養う余地があるのかは疑問だし、失業者の問題もより深刻化することになるだろう。今でさえこの国の若者の半分は定職に就けずにぶらぶらしているというのに、これからさらに若年人口が増えればどういう結果になるのかは考えるまでもない。

 東ティモール政府も人口抑制策を打っているのだが、今のところあまり効果は上がっていない。その原因の一部はカトリック教会にあるという話を聞いた。教会がバチカンの意向に従って信者に対して避妊を勧めていないことが、次から次に女性が妊娠することに繋がっているというのだ。



「確かに子供の数は多いですね」とミゲル神父は言った。「お腹の大きな母親が、腕に1歳にもならない赤ん坊を抱え、足下には3歳の子供がいて、さらに離れたところで二人の子供を遊ばせている。そんな家族が教会を訪れるのです。母親は大変ですよ」
「そういう母親に対して教会は何かアドバイスをしているのですか?」
「我々カトリック教会が説いているのは、『結婚とは子供を作るための扉を開く鍵である』ということです。毎年のように妊娠して子供を産むのは母親の体にも負担がかかるし、生まれてくる子供にも良くない。だから3、4年あいだを置いてから次の子供を作りなさいと言っています。そのために女性の生理周期を知り、妊娠しそうなときにはセックスを控えるように教えています」
「避妊具、例えばコンドームは使わないのですか?」
「政府はコンドームの使用を勧めています。エイズ感染の防止のためにも必要だと。でも教会は『コンドームを使うべきではない』と教えています」
「それはなぜですか?」
「人々がコンドームの正しい使い方を知らないまま使うのは、危険だからです」

 それはずいぶん無理のある説明だった。コンドーム自体に危険性があるという話は聞いたことがないし、「エイズと望まない妊娠に対してもっとも安価で有効な対策はコンドームの使用だ」というのは世界中で広く知られた常識である。東ティモールでもエイズが深刻な問題になりつつあるということだから、なおさらコンドームの使用を勧めるべきではないのだろうか。

「教会で結婚するカップルは、必ずエイズ検査を受けることになっています。その結果が出ないと結婚の許可が下りないのです。二人とも陰性であれば、コンドームを使わずにセックスをすればいい。どちらかが陽性だった場合には、二人の判断に任せます。それでも愛し合っていて夫婦になるというのであれば、そのときには教会も特別にコンドームの使用を認めています」

 その説明もやはり苦しい言い訳にしか聞こえなかった。仮に結婚前のエイズ検査で陰性だったとしても、結婚後に夫婦のどちらかが買春やドラッグなどによってHIVに感染し、それをパートナーにうつす可能性もある。その場合には婚前診断の結果は全く意味をなさなくなる。エイズを広めたくないのであれば「コンドームを使え」と言うしかないのではないか。

 ミゲル神父もコンドームの有効性は知っているのだと思う。高い教育を受けた彼が爆発的な人口増加がもたらす未来を予測できないはずはないし、エイズの蔓延も止めなければいけないとわかっているはずだ。しかし彼は神父であり、カソリックの総本山バチカンの「人工的な避妊と妊娠中絶を禁ずる」という方針には逆らえない。板挟みの状態なのだ。だからこのような詭弁に近いロジックを持ち出さざるを得ないのだろう。

 東ティモールのカトリック教会はインドネシアによる占領時代に信者の数を大幅に増やした。それ以前は土着のアニミズム信仰が優勢だったのだが、カトリック教会が占領時代に虐げられていた東ティモール人の権利を守るという立場を貫いたことで、人々から厚い信頼を得たのだ。教会は東ティモールが独立を勝ち取るための「精神的支柱」となったのである。

 この国で教会が持つ影響力は大きい。だからこそ教会にはバチカンが決めた方針に従うだけではなく、東ティモールの実情に合った助言をする責任があると思う。たとえば「バチカンの方針はともかく、我々は避妊の問題に関して何も言わない」という態度を取るのもひとつの方法だろう。コンドームの推奨はしないが、禁止もしない。選択は信者に任せるということにすれば、事態は改善されるのではないだろうか。
 そんなことをミゲル神父に提案すると、「うーん」とうなったまま黙り込んでしまった。彼にとっても頭の痛い問題なのだろう。

 もっとも、神に仕える立場の神父が性生活についてアドバイスをするなんて土台無理な話なのかもしれない。カトリックの神父は結婚してはいけないし、もちろんセックスもしない。性欲さえもコントロール可能だという。この教会の見習い神父いにレオニルドという17歳の若者がいるのだが、彼も(おそらく性欲がもっとも盛んな時期であるのに)「女性に惑わされることはない」と言い切った。
「もちろん女性に対して興味が湧くことはあります。自然な欲求として。でもそれは自分の中の欲望のありかを見つめることによってコントロールできるものなのです」

 残念ながら僕はそのようなストイックな青春時代を送ってこなかったので、「性欲は意志の力で制御可能である」と言われると、「ほんまかいな」と首をかしげたくなってしまう。それが可能な人もいるのだろうが、一般的な欲望のあり方とはかけ離れたものであるのは確かだ。そんな人が世間一般の男女の性生活についてリアルな助言を与えることなどできるのだろうか。
 カニを一度も食べたことがない人に、カニのうまさについて語ることはできない。どれほど生物としてのカニの生態に精通していても、カニ肉の味は実際に口に入れない限り絶対にわからない。セックスもそれと同じではないだろうか。



 洗礼式が行われた日は一日中雨が降っていたので、教会とその周りをうろうろして時間を潰すことにした。
 夕方の教会は人気がなく、がらんとしていた。白く塗られた高い天井と、きちんと並べられた長椅子。磨き上げられた床。正面には聖母マリア像と磔になったキリスト像。そんな教会らしいしんとした空気の中で、僕は雨だれの音を聞いていた。

 しばらくすると賛美歌の練習が始まった。教会の最後部には聖歌隊専用の二階席があり、そこに少年少女が集まってきたのだ。僕は目を閉じてその歌声に身を委ねた。とても美しい旋律だった。天井や壁に反射して複雑なエコーのかかったハーモニーは、体の芯をじんわりと温めてくれるような力があった。

 6時になると聖歌隊の練習は終わり、それと入れ違いに棺を担いだ人々が教会に入ってきた。これからお葬式が始まるらしい。参列者は200人ほど。全員で賛美歌を合唱し、神父が説教を行う。再び賛美歌。それを何度か繰り返した。


[棺が運び込まれて葬式が始まった。]

 妙な外国人がお葬式に紛れ込んでいても誰も咎めなかったし、僕の存在を気にする人もいなかった。僕は全員が起立すれば一緒に立って、一緒に手で十字を切った。

 これまでにも何度か道ばたで葬列とすれ違うことはあった。東ティモールではたくさんの人が生まれると同時に、たくさんの人が死んでいるのだ。


[道で出会った葬列。]

 東部トゥトゥアラでは流産した胎児のお葬式を目にした。亡くなった胎児の母親は親戚の葬式に「泣き女」として参列した際、あまりにも感情を高ぶらせて泣きすぎた結果、道ばたで転んでしまい、それが元で妊娠5ヶ月の子供を流産してしまったという。その手のことはしょっちゅうは起こらないにせよ、特別珍しいわけでもないらしい。その村では3日間で4度もお葬式が行われたそうだ。そのうちの3人が幼児か赤ん坊。衛生状態が悪くマラリアなどの風土病も多いので、乳幼児死亡率が極めて高いのだ。だからこそ、「できるだけ多くの子供を産んでおかなければ」と考えてしまうのだろう。

 死者が埋められる墓地は、貧しい村には不釣り合いなほど立派なものだった。人々は見晴らしの良い丘の上や椰子の木陰に、コンクリート製の大きなお墓を作るのである。生前よりも死後の方がよっぽどのんびりと暮らせそうだった。


[海を見下ろす丘の上に作られた墓地。]


[コンクリートでお墓を作る男たち。]

 教会の一日。それは生と死を司る一日だった。
 朝には新しい生に祝福を与え、夕方には死者を弔う。

 東ティモールでは、人の生も死も日々の暮らしのすぐそばにあった。毎日多くの人が生まれ、毎日多くの人が死ぬ。
 だからこそ、この国の人々は教会というものを切実に必要としているのだ。

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 3ヶ月にわたって連載してきた「東南アジア旅行記」の一番の「読みどころ」が東ティモールです。美しい海と屈託のない笑顔と、そして多くの問題を抱えた島国・・・。
CD-ROM・東南アジア編」では、ブログで未公開のエピソードを多数収録してありますので、東ティモールの魅力をより深く知っていただけます。ぜひご購入ください。

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by butterfly-life | 2011-11-28 11:28 | 東南アジア旅行記
お金がなくても幸せになれる方法
■ 東南アジア旅行記(69) 幸せになれる方法 バックナンバーはこちら ■

 東ティモールという国と水牛の歩みとを重ね合わせて語ってくれたのは、ジュヴィナルという名の若者だった。
 彼と出会ったのはティモール島の東の果てにあるトゥトゥアラという町だった。海を望む高台にあるベンチに座って一休みしている僕に、英語で話し掛けてきたのだ。

 ジュヴィナルはディリの大学で農業を勉強していたのだが、ディリではいい仕事が見つからないので、実家に戻って農作業を手伝っているという。要するに半失業者なのだ。
「東ティモールの経済ははっきり言って良くないね」と彼は言った。「この国には農業以外の産業がほとんどないから働く場所がないし、生活必需品もみんな輸入に頼っているから物価が高いんだ。失業率? そうだなぁ、よくは知らないけど50%を超えているのは間違いないよ」
 インドネシアから独立した後、東ティモールでは経済の混乱が続いていると聞いていたが、ここまでひどい状態だとは知らなかった。半分以上の人が仕事を見つけられないというのは、どう考えても異常である。



「日本ではどうなんだい?」
「日本じゃつい最近、失業率が5%を超えたことで大騒ぎになっていたよ」
 僕がそう答えると、彼は肩をすくめてみせた。確かにあまりにも違いすぎる状況だった。
「この国の経済は、ちょうどあの水牛の歩みみたいなものさ」
 ジュヴィナルは原っぱの隅で黙々と草を食べている水牛たちを見ながら言った。
「アメリカや日本の車みたいに時速100キロで突っ走ったりはしない。水牛みたいにゆっくりしか前に進めないんだ」

 東ティモール人の生活リズムはとてものんびりしている。時間に追われているような人はまずいない。そもそも誰も腕時計をしていないのだ。高性能のクォーツ時計が安く手に入るようになったこの時代、「時間にルーズだ」と言われる東南アジアの人々でさえ腕時計のひとつぐらいは身につけているのだが、この国にはそういう習慣がないらしい。

 ジュヴィナルも時計を持っていなかった。だいたいの時刻は太陽の位置でわかるから、特に問題はないという。みんながそんな風だと困ったことも出てくるとは思うのだが(集合時間を決めても誰も守らないとか)、その点は誰も気にしていないのだろう。

「スローライフだね」と僕は言った。
「その通りさ」と彼は笑った。「ここでは、ものごとは全てゆっくりとしか進まない。でも僕はそんな生活がけっこう気に入っているんだ。田んぼではお米がとれるし、海に行けば魚がとれるからね。食べるものには困っていないんだ」
 ジュヴィナルは「ちょっと待っていろ」と言い残して家に帰り、干した小魚とペットボトルに入った地酒・トゥアを抱えて戻ってきた。これから即席の酒盛りを開こうというのだ。

「新しい友人ができたらトゥアで歓迎するのが、東ティモールの習わしなんだ」と彼は言った。
 僕らはプラスチック製のコップになみなみとトゥアを注ぎ、小魚をつまみながらそれを飲んだ。程良い塩味が効いた干し魚は、さっぱりした酸味が特徴のトゥアと実によく合った。1リットルのペットボトルがすぐに空になったので、2本目を開けた。



「君はキューバには行ったことがある?」
 頬を赤く染めたジュヴィナルが言った。
「キューバ? 行ったことはないな」
「そうか。僕は外国って一度も行ったことがないんだけど、もし行けるのならキューバに行ってみたいんだ」
 意外な答えだった。東ティモール人なら普通、隣国のインドネシアやオーストラリア、あるいは豊かなアメリカや日本などに憧れるのではないかと思ったからだ。



「どうしてキューバなんだい?」
「キューバは東ティモールに似ているからね。国は豊かじゃないけど人々が陽気に暮らしているところや、アメリカという大国の隣にいながらも独立を保っているところなんかが」
 そういえば、キューバ革命の英雄チェ・ゲバラのTシャツを着た若者が東ティモールには多かった。ソ連が崩壊し、中国が資本主義経済の元で高度成長を続ける今、真の意味でコミュニストの象徴たり得るのはキューバをおいて他にはないのかもしれない。

「でも、僕は東ティモールが社会主義の国になればいいと思っているわけじゃない。大切なのは助け合いの精神なんだ。お金さえあれば豊かに暮らせるけれど、お金がなければとことん貧しい。そういうアメリカのような国になって欲しくはないんだ。ここでは、たとえお金がなくても、みんながひとつの家族のように食べ物を分け合って生きていける。そういう精神を失いたくないんだよ」

 僕らは海を眺めながら酒を飲み、干し魚を食べた。南国の午後の日差しは強烈だったが、海に面した高台にいるせいで、吹き抜ける風は心地良かった。僕らが座っている場所からは、エメラルドグリーンに輝く海が一望できた。それは、どれだけ目を凝らしても汚れというものが見当たらないほど美しい海だった。沖合に目をやると、小さな手こぎボート二、三隻が穏やかな波に揺られているのが見えた。





 ジュヴィナルは家から古いギターを持ってくると、それを弾きながら歌をうたった。水牛を追っていた男たちが出していたのと同じ、伸びやかな歌声だった。
「水牛って好きだよ」と僕は言った。「とてもクールだって思っていたんだ。それにこの国にとても似合っている」
「僕もそう思うんだ。水牛ってとてもいい奴なんだよ」

 彼はギターの手を休めてトゥアで喉を潤すと、自分の夢を語り始めた。牛をたくさん飼って、ここで酪農を始めたい。そのために大学で農業を学んでいた。でも牛を買うのに必要な資金の目処が立たないので、計画はなかなか前進しない。
「何ごとにもお金は必要さ。それはよくわかっている。でもそれだけじゃない。僕らはお金が無くても幸せになれる方法を知っているんだ。簡単だよ。家族や仲間と一緒にご飯を食べ、お酒を飲み、歌をうたう。それだけで十分に幸せな気持ちになれるんだ。ここでは、食べ物も飲み物も、楽しいことも辛いことも、何でも分け合うんだ。たとえば僕が今死んだら、たくさんの友達が葬式にやって来るだろう。僕の死を悼んで涙を流し、歌をうたってくれるだろう。たぶん、そういうのが幸せってことなんじゃないかな」



 お金が無くても幸せになれる方法を知っている――東ティモールの人々の豊かな表情を目の当たりにしてきた僕には、その言葉が強がりや誇張ではなく、ありのままの真実なのだと信じることができた。

 水牛の歩みのようにゆっくり、しかし確実に前に進む。
 この国の人々は、そのような生き方を誇りにしているに違いなかった。




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by butterfly-life | 2011-11-24 16:21 | 東南アジア旅行記
東ティモールの牛歩戦術
■ 東南アジア旅行記(68) 東ティモールの牛歩戦術  バックナンバーはこちら ■

 何を隠そう、水牛好きである。
 黒々とした存在感のある巨体。何を考えているのかさっぱりわからない飄々とした表情。クロワッサン型の立派な角。どこをとっても魅力的な動物だ。ひとことで言えば「絵になる」のである。



 田植えを間近に控えた2月はじめの東ティモールは、水牛ファンにとって心躍る光景のオンパレードだった。機械化があまり進んでいない東ティモールの農村で、水牛は田植えのために必要不可欠な労働力となっていたのだ。

 乾季と雨季が比較的はっきりと分かれている東ティモールでは、田植えは雨季も半ばを過ぎた頃に行う。乾燥した棚田に水を引き入れ、そこに何頭もの水牛を歩かせて土と水を混ぜ合わせ、田植えに適した柔らかい下地を作るのだ。普段はのんびり草を食べながら、ぬぼーっと過ごしている水牛たちが最も必要とされ、最もこき使われるのがこの時期なのである。



 かつて「牛歩戦術」という言葉が流行ったことがあった。あれは確か野党の国会議員が採決を遅らせるために、まるで牛の歩みのようにゆっくり進むという戦術だったと記憶しているけれど、東ティモールの田んぼで行われていた「牛歩戦術」は、それとは対照的にとにかくダイナミックだった。

 水牛たちは泥を思いっきり跳ね飛ばしながら猛然と突進していた。スローな動物というイメージを覆すように、その巨体を揺らしながら田んぼの中を走り回っていた。この「牛歩戦術」を取り仕切っている若い農夫たちは、長い棒で水牛たちの尻を叩き、独特の節回しの歌をうたいながら水牛を追っていた。伸びやかで力強いその歌声は、初めて耳にするはずなのにどこか懐かしさがあった。


[すさまじい数の水牛が走り回る。]





 ひと仕事を終えて田んぼの中にたたずむ水牛たちは、またいつものクールな表情に戻っていた。あれだけ激しく走り回った直後だというのに、その顔に疲れた様子は浮かんでいなかった。呼吸も乱れていない。艶やかに黒光りしているはずの肌が、泥を被って茶色く粉を吹いているところだけが、いつもと違っていた。



 「牛歩戦術」による代掻きが終わると、女性や子供たちが田んぼに入って苗を植える。大人も子供もみんな腰をくの字に曲げて、一束ずつ手で苗を差し込んでいく。田植えは一家総出で行う仕事なのだ。

「あんたも手伝ってみるか?」
 と言われたので、僕もサンダルを脱いで田んぼの中に入り、おっかなびっくりで田植えを手伝うことになった。もちろん全くの素人だから「手伝う」なんてレベルではない。ベテランのおばちゃんたちが目にも止まらぬスピードとは比較にもならなかった。



 それでもサンダルを脱いで田んぼに入るのはとても気持ち良かった。ズボンは泥で汚れてしまうし、ヒルに吸い付かれて足から血が出たりもしたけれど、そんなことは全然気にならなかった。田んぼという暮らしの基盤に足を踏み入れることで、人々の素顔に半歩近づけたような気がした。





 東ティモールを旅するあいだ、僕はいくつもの田んぼを歩いた。そこで気付いたのは「田んぼにも個性がある」ということだった。沿岸部にある田んぼは生温かく、山間部の田んぼはひんやりとしていた。泥の粘りけや、漂っている匂いも田んぼごとに違っていた。代掻きするのに水牛ではなく、馬を歩かせているところもあった。



 東ティモールに残る手つかずの自然は、時間を忘れて見とれてしまうほど美しいものだったが、田んぼと水牛と農民が作り出す「暮らしの場」としての自然は、それ以上に強く僕の心を捉えた。朝の透明な光の中に鮮やかに浮かび上がる苗の緑。青空と白い雲とのコントラスト。引き入れられた清浄な湧き水。田んぼには人々が少しずつ自然に手を加えて作り上げた、調和の取れた美があった。




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by butterfly-life | 2011-11-22 13:53 | 東南アジア旅行記
東ティモール・21世紀最初の独立国の素顔
■ 東南アジア旅行記(67) マングローブのつぶやきが聞こえる国  バックナンバーはこちら ■

 僕は退屈なディリに見切りをつけて、旧式のバイクを借りて東ティモールをぐるりと一周する旅に出た。東ティモールは公共交通機関というものが極めて貧弱なので、自由に旅をするためには車かバイクを借りるしかなかったのである。

 ディリで借りたバイクは大変なオンボロだった。バイクを貸してくれた安宿のオーナーによれば、このホンダ製バイクは30年近く前にオーストラリアで郵便配達人が使っていたものだという。本当は新しくて性能の良いバイクが欲しかったのだが、東ティモールでバイクを借りられる場所はここしかないということなので、これで我慢するしかなかった。オンボロのくせにレンタル料は1日10ドルもした。他のアジア諸国に比べると2倍から3倍だが、これも値切る余地はなかった。独占商売の強みというやつである。


[旅のパートナー。オーストラリアで郵便配達人が使っていたバイク。]

 安宿のオーナーはこのバイクの信頼性の高さを力説した。きっとそれ以外に自慢できる部分なんてないのだろう。
「俺は2年間この商売をやっているけど、壊れて走れなくなった人なんて誰もいない。このバイクはとにかくタフなんだ。わかるかい。信頼性が重要なんだよ。何しろ東ティモールにはバイク修理屋なんてほとんどないんだからね」

 しかしその言葉とは裏腹に、このバイクはディリの外に出た直後から次々とトラブルに見舞われることになった。最初に直面した問題はキックスタートのかかりが悪く、10回も20回もキックし続けないとエンジンがかからないことだった。次に発生したトラブルは、方向指示ランプの点滅が止まらなくなったこと。山道を走っているときには、サイドミラーが何の前触れもなくぽろっと脱落した。どれも深刻なトラブルではなかったが、このまま走り続けると昔のディズニー映画みたいにあらゆる部品が片っ端から外れてしまうのではないかと心配になってしまった。

 一番困ったのは、バイクを止めるときに使うスタンドが壊れてしまったことだった。海岸線の道を走っているときにスタンドとバイク本体とを繋ぐバネが外れてしまったらしく、走行中もスタンドが出たままの状態になってしまったのである。

 走行にはあまり影響がなかった。せいぜい左カーブを曲がる時にスタンドが地面と擦れて「ガガガッ」という不快な音を響かせる程度だった。問題なのは東ティモール人がこぞってそのことを僕に知らせてくることだった。道を歩いている人や、バイクですれ違う人、トラックの荷台に乗っている若者や、ただ道端で走る車を眺めている子供たちが、僕のバイクを見ると一斉に大声で「スタンド!」「スタンド!」と連呼するのである。



 もちろんこれは純粋な親切心の表れである。スタンドを戻し忘れたままうっかり発進するミスは誰にでもあるから、人々はそれを注意しようとしてくれているわけだ。日本にもフロントライトの消し忘れを知らせてくれる親切なドライバーがいるが、それと同様の気くばりなのである。そのことは僕にも十分わかっているのだが、それが一度や二度ではなく、何十回も続くとさすがにうんざりしてくるのだった。

 バイクで追い越していった若者なんて、わざわざ僕の方を振り返って「スタンド!」「スタンド!」「スタンド!」と三度叫び、その間に前方のカーブから現れたトラックと危うく衝突しそうになっていた。どうして命を危険に晒してまでスタンドの指摘に執着するのか、僕にはまったく理解できなかった。

 なにはともあれ、このスタンドの一件によってはっきりしたのは、東ティモール人の視力と反射神経の良さである。なにしろ時速50kmで走っているバイクの横にちょろっと出ている部品を一瞬にして見つけて、即座にそれを指摘できるわけだから。

 というわけで、これから東ティモールをバイクで旅される方には、「スタンドが壊れた場合には、できるだけ早く修理せよ」とご忠告申し上げたい。



 スタンドの一件にも表れているように、東ティモール人は親切で陽気な(そしてちょっとお節介な)人々だった。それは国自体の静けさとはまったく対照的だった。

 バイク旅行初日はスタンドの故障があって、道行く人から次々と声を掛けられる羽目になったのだが、故障を直した翌日以降も、僕とバイクが人々の注目を浴びる状況は変わらなかった。バイクで走っている僕を見ると、多くの人がさっと右手を挙げた。「やあ、久しぶりだね」というような気楽な感じで。

 最初はその意味がよくわからず、「ヒッチハイクをしているのか?」とか、「僕のバイクがまた故障したっていうのか?」などと考えていたのだが、しばらく走るうちに、この国ではすれ違う人に対してごく当たり前に手を挙げるらしい、ということがわかってきた。相手が外国人であろうがなかろうが、遠方からやって来た人にはにこやかに手を挙げて挨拶をする。それがこの国の習慣なのである。

 東ティモールの田舎道には車やバイクといった騒々しい乗り物は滅多に通らず、もっぱら水牛や馬などの家畜がゆったりと行き来していた。何かを焦る理由はなく、誰かを急かす人もいない。そのような穏やかな時間が流れる土地では、人々はすれ違う人ひとりひとりの顔を見て、挨拶を交わしながら暮らすことができるのだ。

 さりげなく右手を挙げる大人とは違って、子供たちの反応はもっとストレートでエネルギッシュだった。彼らは外国人がやってきたのを目ざとく見つけると、「マライ! マライ!」と叫びながら大きく手を振った。「マライ」というのは現地の言葉で「外国人」を意味していて、そう言われてもどう返したらいいのか困ってしまうのだが、こちらも「ハーイ!」とにこやかに手を振り返すと、また嬉しそうな笑顔を返してくれるのである。



 それだけならいいのだが、学校帰りの子供たちが何十人も集まっているところを通りかかったときには、興奮した子供たちに頭や腕をバシバシ叩かれるというひどい目にも遭った。子供たちに悪意はないのだとは思う。プロ野球でサヨナラホームランを打った選手がホームベース上で受ける「勝利の洗礼」に近いノリなのである。しかし子供というのはどの国でも大人数になると調子に乗りすぎて収拾がつかなくなる傾向があるので、この時ばかりはバイクのスロットルを目一杯回して、バイクにしがみつこうとする子供たちを振り払いながら前に進まなければいけなかった。


[こういうときの子供たちは危険だ。]

 僕は東ティモールという国に対する具体的なイメージをまったく描けないまま、首都ディリにある空港に降り立った。
 21世紀最初の独立国であり、内戦を経てインドネシアから別れた小さな国――東ティモールについて僕が持ち合わせている知識はそれぐらいだった。その国についての情報をほとんど持たないまま旅を始めるのはいつものことだったが、治安や交通事情や宿の有無といった旅に必要な基本的な事柄でさえ知らないまま空港に降り立つというのは、やはり少し不安だった。

 しかし、そんな不安は人々の笑顔によってすぐに消えてしまった。道行く人が手を挙げて微笑みかけてくると、僕も手を挙げて笑顔を返した。そんなシンプルなコミュニケーションが、未知の土地にいることの緊張感を和らげてくれた。




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by butterfly-life | 2011-11-18 12:25 | 東南アジア旅行記
東ティモール旅行記(1)
■ 東南アジア旅行記(66) マングローブのつぶやきが聞こえる国  バックナンバーはこちら ■

 人影のない海岸にバイクを止めた。右を見て、左を見て、そして正面の水平線を眺めてみるが、どこにも人の気配はない。車も全然見かけない。数分おきに一度通るか通らないかだ。誰かが住んでいる痕跡もない。古びた木製のボートが遠くにあるマングローブの根元に引っかかっているだけだ。



 波は穏やかで、水は限りなく澄んでいる。遠くの丘の上から見下ろしても、海底の小石のひとつひとつがはっきりとわかるぐらいだ。本当の意味で手付かずの自然、何ものにも汚されていない無垢のままの自然が残されている。

 波打ち際まで歩いていくと、寄せては返す波の音に混じって、微かに「プチッ、プチッ」という音が聞こえてきた。小さな泡が弾けるような音だった。何だろうと思った。今までに聞いたことのない不思議な音だった。



 しばらく耳を澄ませていると、その音がマングローブの根元から聞こえてくるのだとわかった。マングローブは海水の中でも生きられる熱帯特有の樹木で、根の先が普通の木とは逆に空中へと突き出ている。これは「気根」といって、海水が満ちている場所でも呼吸するための仕組みなのだ――そんなことを何かの本で読んだことがあった。

 この「プチッ、プチッ」という小さな音は、マングローブが呼吸するときに出す音なのかもしれない。僕は時の経つのも忘れて、その音に聞き入った。剣山のような格好で海面から突き出ている気根は、ひとつひとつが個性を持っているかのように、微妙に違う音を発していた。そしてその音が重なり合うとき、そこに言葉が生まれるのだった。自然から生まれた不思議なつぶやきが。


[マングローブの根元から無数の気根が突き出していた。]

 それにしても、なんて静かなんだろう。
 マングローブのつぶやきが聞こえる国。命の小さな響き合いがこだまする国。それが東ティモールという国の第一印象だった。



 「静かな国」という印象は、この国で唯一「街」と呼ぶことのできる首都のディリにおいても変わらなかった。首都といっても人口はわずかに15万人しかおらず、街の賑わいはごく一部だけに限られていたのだ。

 ディリの街は実に歩きやすかった。東ティモールを訪れる前に旅していたインドネシアの地方都市に比べると、車や人の量が桁違いに少ないし、建物の密集度も低いので、すいすい歩くことができた。排気ガスにうんざりすることもなければ、行き交う車の間を縫うようにして道路を横断する必要もなかった。

 とはいえ、ディリの街歩きは決して面白いものではなかった。歩きやすいのは確かだが、どこまで行っても同じようにのっぺりとした町並みが続くばかりで、全然楽しくないのだ。

 ディリには街の中心になるようなやかましく猥雑な繁華街というものはなく、商店街と呼べるような場所もなかった。この町にあるのはポルトガル植民地時代に建てられた古びたコロニアル風の建物と、物流の中心である港と、道端に座り込んで話をしている失業中の男たちだけだった。モノの流れも、お金の流れも、時間の流れすらも緩慢な街。それがディリだった。



 首都の活気はその国の人口規模に依存する。国の人口が少なければ中心に集まろうとする人の流れは緩やかになり、首都が持つエネルギーも低くなる。その意味では人口100万人足らずの小国である東ティモールの首都が閑散としているのは、ごく自然なことなのだ。


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by butterfly-life | 2011-11-16 12:24 | 東南アジア旅行記