カテゴリ:旅行記2013( 40 )
旅行記2013がついに完結! 結末はCD-ROMで
 半年にわたって連載を続けてきた旅行記2013は最終回を迎えました。
 この続きはぜひCD-ROM版を購入してお読みください。
 未公開エピソードが26話も入っている読み応えのある電子書籍です。

 今回はこのCD-ROMの「読みどころ」をご紹介します。



「虹を架ける男」を撮る

 ミャンマーでは心に残るシーンに何度か遭遇しましたが、その中でもとりわけ印象的だったのが「虹を架ける男」でした。

 乾季のミャンマーにしては珍しく、朝から雨が降り続いていました。雨が降り始めたら適当な場所で雨宿りして、雨が上がると再びバイクにまたがって走り始める。それを何度か繰り返していると、東の空に虹が出ているのが見えたのです。



 そこでどんな風に「虹を架ける男」を見つけたのか。どうやってこの奇跡的な一瞬をものにできたのかは、ぜひCD-ROMでお確かめください。

 大切なのは「光を観る」こと。光そのものに感動し、光の変化を楽しむ姿勢が、シャッターチャンスを生むのです。

 旅は「地図のない宝探し」のようなもの。宝物がどこに埋まっているのかはわからないんだけど、最後まで諦めずに何かを追い続けた者には、必ず旅の神様が微笑みかけてくれる。僕はそう信じています。





絶望の中の希望の光

 ミャンマーは3,4年前から国の方針が大きく変わりました。広く外国に門戸を開き、人や投資を呼び込もうという政策に転換したのです。そのおかげでミャンマー経済は好調で、日本でもちょっとした「ミャンマーブーム」が起こっています。

 でも5年前まではまったく違いました。秘密警察が跋扈し、メディア統制と密告が日常を支配する国だったのです。

 その現実を赤裸々に語ってくれたのが、マンダレーで出会ったリンリンさんでした。彼は「アウンサンスーチーの著書を持っていた」というただそれだけの理由で逮捕され、4ヶ月にもわたって監獄に閉じ込められ、拷問を受けることになったのです。

 しかしその過酷な経験は彼を強くしました。政府への憎悪を募らせるのではなく、まったく違う方法で、自分を大きく成長させたのです。

 絶望の中にあっても決して希望の光を失わない。リンリンさんの生き方に、僕は深く共鳴したのです。



ゴミの町に生きる

 「美しいもの」と「醜いもの」が同居するバングラデシュを代表するような場所が、首都ダッカの片隅にありました。ここに住む人々は、膨大なゴミの中から再利用できそうなプラスチックをより分け、新しい製品に作り替えることを生業としていたのです。ダッカ中で消費され、廃棄されたものが、最後の最後に流れ着く場所。それが「ゴミの街」でした。

 すさまじい騒音と悪臭が支配するゴミの街にあって、人々は驚くほど陽気でした。「いやいや働かされている」という後ろ向きな雰囲気はまったく感じられなかったのです。



 人々の明るい表情と置かれている環境とのギャップの大きさに、僕は言葉を失いました。いったい自分は何を撮るべきなのか。自問しながら歩き続けました。

 そこで僕はある男と出会うことになります。彼が教えてくれたのは、
「あんたは、ここにいてもいい」
 というメッセージだったのです。

 この世界はこのままで十分に美しいし、誰にとっても生きる価値のあるものなのだ。そう確信することができたのは、この「ゴミの街」を歩いたからでした。






 CD-ROM2013に収められているのは旅行記だけではありません。
 WEB未公開の写真を数多く含む高画質の写真も必見です。
 その数なんと934枚「デジタル写真集」としても楽しんでいただけます。(サンプル(1)(2)(3)でお確かめください

 このデジタル写真集には、ミャンマー、バングラデシュ、東ティモールで集めた素晴らしい笑顔が詰まっています。笑顔のチカラを感じてください。




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インド色を探して

南アジア編

東南アジア編

インド一周旅行記

2005

2004

ユーラシア一周2001
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by butterfly-life | 2014-07-16 11:09 | 旅行記2013
最終回:電動リキシャが開く未来
 長い間連載を続けていました「旅行記2013」の更新も、今回で最終回です。この続きは「CD-ROM2013」でご覧ください。未公開旅行記26話と未公開写真を多数収録した完全保存版です。


進化したリキシャ


 バングラデシュを代表する乗り物といえば、なんといっても「リキシャ」である。リキシャとはインドやバングラデシュを走っている三輪自転車タクシーのことで、車夫がペダルを漕ぎ、とても安い料金で短い距離を移動する「庶民の足」だ。ちなみにリキシャという呼称は日本の「人力車」に由来するのだとか。



 僕は2010年にリキシャに乗って日本を一周する旅を行ったこともあって、この乗り物には強い思い入れがある。自称「リキシャを語らせたら日本で一番話が長くなる男」である。いや、ほんとに。

 リキシャの魅力は「合理性から遠く離れた過剰さ」にある。無意味に派手なデザイン。総重量が80キロにも達する無骨なつくり。空力を完全に無視したフォルム。そうした「B級感」や「キッチュさ」こそがリキシャの持ち味であり、良くも悪くもバングラデシュという国を表すシンボルとなっているのである。



 しかし最近になって、そのリキシャに新しい変革の波が押し寄せているという。モーターとバッテリーを搭載した「電動リキシャ(オートリキシャ)」なるものが、急速に普及しているというのだ。

 その真偽を確かめるべく、僕はバングラ第二の都市チッタゴンに向かった。そして街を走るリキシャを一台ずつのぞき込んで、驚くべき事実を知ったのである。なんとこの街を走るリキシャの60%以上が、すでに「電化」されていたのだ。4年前に来たときには、電動リキシャなんて一台も見なかったというのに。


【動画】チッタゴンの街を駆け抜ける電動リキシャ。ペダルがまったく動いていないことに注目。


 電動リキシャの仕組みはとてもシンプルなものだ。フレームに取り付けたモーターの力を、チェーンを介して車軸に送る。ただそれだけである。既存のペダルもそのまま残っているので、もしバッテリーの残量がなくなったら(そういうことはほとんどないようだが)ペダルを踏んで走ることも可能だ。つまり人力と電力の「ハイブリッド」なのである。


電動リキシャに取り付けられたモーターの力は、チェーンと歯車を通じて後輪に送られる。既存のペダル駆動力も残した「ハイブリッド仕様」だ。


 500Wのモーターには十分なパワーがあり、乗客を3人乗せて緩やかな坂道を上ることもできる。座席の下に収められたバッテリーは8時間の充電で12時間走ることが可能だという。ハンドルに取り付けられたスロットルで操作できるので、誰もが簡単に運転できる。最高時速はおよそ40キロ。加速力もなかなかのもので、混み合った市街地であればCNG(天然ガスを使った三輪タクシー)と変わらない速さで目的地に着くことができる。


バッテリーは座席の下に収まっている


ハンドルに取り付けたスロットルでモーターパワーを操作する。乗り味はバイクと同じだ。


「チッタゴンで電動リキシャが走り始めたのは、2009年頃のことだったと思う」
 と教えてくれたのは、1年前から電動リキシャの製造販売を始めた企業のオーナーだった。
「本格的に普及したのはこの2年ぐらいだね。今じゃうちの会社だけで1ヶ月に100台も売れているんだ。注文がさばけないぐらいの人気だよ。値段が安くなったことが大きいね。去年までは1台68000タカ(8万5000円)したんだが、今年は55000タカ(6万9000円)にまで下がったんだ。中国から輸入しているモーターとパワーコントローラーが安くなっている。バッテリーはバングラデシュ製なんだが、これも将来はもっと値段が下がるだろうね」


リキシャにモーターを取り付ける職人



 昔ながらの人力リキシャは1台14000タカ(1万7500円)程度なので、それと比較すると4倍も高価なのだが、得られるメリットは価格以上だとオーナーは強調する。目的地までの移動時間が短くなるから、運賃を高く設定することもできるし、リキシャ引きの疲労が軽減されることで、一日に運べる客の数も格段に増える。「収入が増えるから、リキシャ代なんてすぐに回収できるよ」とオーナーは自信たっぷりだった。



電動リキシャ誕生の物語


 リキシャで日本を一周していたとき、何度となく「こいつに電動アシストがついていれば、さぞかし楽だろうなぁ」と思ったものだった。リキシャという乗り物は重量が80キロもあるせいで、平らな道でも立ち漕ぎが必要なほどペダルが重かったのだ。変速ギアもないから、ちょっとした上り坂でもリキシャを降りて歩かなければならなくなる。バングラデシュは平坦な国なのでまだマシだが、山の多い日本では致命的な欠点だった。(一番大変だったのは箱根越えだった・・・)

 リキシャの欠点はペダルの重さだけではなかった。効きの悪いブレーキや、空気抵抗を受けまくる幌、座り心地の悪い座席などなど、数え上げたらきりがないほど問題だらけの乗り物だったのである。


リキシャの座席を作る職人


 どうしてリキシャはこんなにも乗りにくく、壊れやすいのか。リキシャ工房の職人たちに訊ねてみたことがある。
「なんとかできないのかい?」
 しかし職人たちはこう口をそろえた。
「リキシャってのはこういうものだからね」
 昔からペダルは重かったし、座席は硬かったし、ブレーキの効きも悪かった。それでもみんな乗っているんだから、いまさら変える必要なんてない、ということらしい。

 以前からあるものを何の疑問も持たずにそのまま継承する。ほとんどのリキシャ職人がこうした既成概念の枠の中で仕事をしていた。問題点を改善し、よりよい製品を作ろうという人は見当たらなかった。だからこそリキシャは何十年ものあいだほとんどその姿を変えなかったのである。生きた化石シーラカンスのように。



 実際のところ、電動リキシャで使われているテクノロジーは目新しいものではない。昔からあるモーターとバッテリーを組み合わせただけだから、10年以上前に普及していても不思議ではないのだ。それができなかったのは「リキシャとはこういうものだ」という思い込みにとらわれていたからだと思う。「コロンブスの卵」の例にあるように、既成概念を打ち破るのはそう簡単なことではないのだ。

 「リキシャとはこういうものだ」という先入観を打ち砕き、電動リキシャが生まれるきっかけを作ったのは、中国で開発された「電動輪タク」だった。後部座席に6人の客を乗せられる電動輪タクは、10年ほど前からバングラデシュにも輸入されるようになり、主に地方都市で普及していたのだが、13万タカ(16万円)以上という価格がネックになって、爆発的人気には至らなかった。


中国製の電動輪タクは本格的な普及には至らなかった

 電動リキシャは、この電動輪タクの部品をそのまま流用し、値段を半額以下に抑えたことで一気に広まった。外観や乗り方が既存のリキシャと同じだったことも、普及の手助けになったのだろう。つまり電動リキシャの誕生には、それとほとんど同じ機能を持つ電動輪タクの登場が不可欠だったわけである。残念ながら「バングラ人オリジナルの発明」とはとても呼べない代物なのだ。


電動リキシャのパワーコントローラーには中国語の文字が見える。部品はすべて中国からの輸入品なのである。


 これがもし日本だったら、状況はずいぶん違っていただろう。国民的乗り物が何十年ものあいだ何の変化も加えられないまま放置されるなんてことは、日本ではあり得ないはずだ。技術者がアイデアを競い合い、少しでも安全で快適な乗り物にしようと努力するだろう。

 日本の企業は小さな改善を積み重ねて、現行の製品をバージョンアップしていくのが得意だと言われる。自動車の燃費を何十年にもわたってこつこつと改善してきた歴史がその代表例だ。それに対してアメリカ人は大胆な発想の転換で、まったく新しい製品と新しい市場を作り出すのが得意だ。パソコン、インターネット、検索エンジン、スマートフォン、SNSなどは、数多くの失敗を繰り返しながら生まれた革新的なイノベーションの好例だ。

 そんなわけで、ビジネス誌には「日本人にはイノベーティブな発想が欠けているから、アメリカ人を見習うべきだ」という主張が載ることになる。しかし広く世界を見渡してみれば「イノベーションどころか、小さな改善を積み重ねることができる国民ですら稀だ」という事実が浮かび上がってくる。

 この世界は「横並び」がデフォルトなのだ。競争よりも共存を目指し、先行者よりも「二匹目のドジョウ」になることを狙う。それが人間の――もっと言えば生物の――本質なのではないだろうか。

 革新的な技術はもちろん素晴らしい。でも「今あるものをよりよいものに作り替えていく」という地道な努力もまたこの世界には必要なものなのだ。



電動リキシャが開く未来


 ここに電動リキシャの可能性を感じさせる一枚の写真がある。



 お気づきだろうか?
 このリキシャ引きの両足が切れていることに。

 彼の姿を最初に見たとき、僕はまず我が目を疑った。
 信じられなかったのだ。「足のないリキシャ引き」がいるなんてことが。

 しかしそれは僕の見間違いでも空想上の産物でもなかった。彼は電動リキシャという新しいテクノロジーのおかげで、足がなくてもリキシャを運転できるようになったのである。

 福祉制度が整っていないこの国では、彼のような身体障害者の多くが物乞いをせざるを得ない状況に追い込まれている。自らの障害を「武器」にして、道行く人にお金を恵んでもらう。哀れみと蔑みの目で見られることと引き替えに、いくばくかの小銭を受け取る。そうすることでしか生きていけない人々が大勢いるのである。



 「足のない男」がリキシャを引くことで得ているのはお金だけではない。健常者と同じように働くことによって、彼は自尊心や生きがいを感じることができているのだと思う。

 大いなる可能性を秘めている電動リキシャだが、その普及にはまだ課題も多かった。実は首都ダッカではいまだに電動リキシャの走行が禁止されているのだ。ただでさえ電力需給が逼迫しているダッカで、もし電動リキシャが普及したら、停電が頻発しかねない。政府はそれを恐れているのである。1台の電動リキシャが必要とする電力は微々たるものだが、それが何十万台にもなれば無視できなくなるというわけだ。

 もともと政府はダッカからリキシャを排除する方向で規制を強めていた。スピードが遅いリキシャは渋滞の原因ともなるので、ダッカを近代的な街に発展させたいと願う人々から目の敵にされているのだ。すでに幹線道路の多くはリキシャの走行が禁止されている。カルカッタから人力車が閉め出されたように、バンコクからトゥクトゥクが消えつつあるように、ダッカからリキシャが消える日もそう遠くはないだろう――2,3年前まではそう考えられていた。


リキシャ引きは肉体を酷使する過酷な仕事だ。電動リキシャは彼らのタフな人生を楽にすることができるだろうか。


 しかし電動リキシャの登場で、この状況が変わる可能性が出てきた。ガソリン車やCNGと同レベルの加速性能を持つ電動リキシャは、渋滞の原因にはならない。しかも騒音も排気ガスも出さない極めてエコな乗り物なのである。確かに電力は今よりも必要になるだろうが、トータルのエネルギー効率で見ればガソリン車よりも優れているのは明らかなのだから、むしろ積極的に電動リキシャを推進するべきだと思う。

 政府が本気で取り組めば、てんでばらばらな電動リキシャに統一規格を設けて、関連産業を国内で育てることもできるはずだ。モーターやパワーユニットを中国からの輸入に頼らず、国内で作れるようになれば、新しい雇用も生まれるだろう。


リキシャに独特のペイントを施す職人

 そのうえでリキシャの特徴である派手でキッチュなデザインは、さらに趣向を凝らしたものにしていけばいい。そうすればユニークな乗り物として外国人旅行者にも大いにアピールできるだろうし、ダッカのイメージ向上にも一役買うはずだ。

 新しいテクノロジーと古い伝統とが融合した電動リキシャが、バングラデシュの新しい未来を切り開くかもしれない。


ダッカの東にあるリキシャの墓場。使い物にならなくなったリキシャがおよそ千台近くも捨てられている場所である。電動リキシャの普及は、このような古いリキシャの再生の道を切り開くかもしれない。


長い間連載を続けていました「旅行記2013」の更新も、今回で最終回です。
この続きは「CD-ROM2013」でご覧ください。
未公開旅行記26話と未公開写真を多数収録した完全保存版です。(詳細はこちら)
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by butterfly-life | 2014-07-14 15:55 | 旅行記2013
無駄にカッコいい男たち(市場編)
「旅行記2013」のバックナンバーはこちらをご覧ください。


無駄にカッコいい男@市場


 市場で働く人にも「無駄にカッコいい男」が多かった。

 東南アジアでは市場は女の世界で、ものを売るのも買うのも女性が中心なのだが、ムスリムが大半を占めるバングラデシュではこれが完全に逆転してしまう。市場のどこを見渡しても、いるのは男、男、男ばかりなのだ。




野菜を扱うのももちろん男だ


据え付けられた包丁で魚をさばく魚屋。煙草を吹かして一服していた。


市場で出会ったマッチョな男


卸売市場で米袋を担ぐ男。背は低いが体幹ががっしりしている。それが「担ぎ屋」たちに共通した体格だ。


大きなカゴを頭に乗せているのは市場の運び屋たち




スパリの実を運ぶ男。乾燥させて砕いたスパリの実は、パーン(ビンロウ)の材料になる。


魚の干物を売る店で働く若者


バナナを運ぶ若者


トラックに積まれた大量のバナナを降ろす男。


カゴに入れた陶器を運ぶ男


トウガラシを粉に挽く機械。部屋の中は刺激臭に満ちていて、くしゃみが止まらない。


怪しげな赤い照らし出されているのはタマネギである。タマネギ市場は赤い光と扇風機が必須アイテムなのだが、なぜなのかはわからない。


魚の卸売市場で声を張り上げる男。競りは即断即決で行われる。


肉屋の店先には生々しい色の内臓が並んでいた



鶏だらけの市場


 市場の中でもっとも荒っぽく、バングラらしい猥雑さに満ちあふれていたのは、鶏市場だった。鶏肉はバングラデシュでもっともポピュラーな肉なので、その数もすさまじく、見渡す限り鶏だらけの光景は壮観だった。



【動画】バングラデシュ最大の鶏市場は壮観のひとこと


 鶏はまるでバスケットボールのようにひょいひょいと籠の中に放り込まれ、三輪リヤカーに乗せられてどこかに運ばれていく。大切な商品に対する扱いとは到底思えないような雑さだが、そうでもしないとこれほど大量の鶏はさばけないのだろう。


鶏はバングラデシュで一番食べられている肉なので、扱う量も多い






鶏は竹を編んだ大きなカゴに入れられ、荷台付きのリキシャ(バン)に載せられて運ばれている。


鶏の扱いはとにかく雑。ひっつかんでは投げ、ひっつかんでは投げ、という感じだった。


鶏の頭を切り落としている男。見よ、この贅肉のない肉体を。これぞ働く男のボディーだ。


男が担いでいるカゴにいったい何羽の鶏が入っているのだろう? この国では鶏は帽子なのかもしれない。


何十羽もの鶏を生きたまま運ぶ男。この国じゃ、鶏はアクセサリーなのか?



 この続きは「CD-ROM2013」でお楽しみください。
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by butterfly-life | 2014-07-09 10:33 | 旅行記2013
町工場に萌える
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町工場萌え


 「無駄にかっこいい男」の出現率がもっとも高いのが町工場だった。高い塀で囲まれた立派な工場(こうじょう)ではなく、従業員が数人しかいないようなトタン屋根の工場(こうば)には、油や煤にまみれた熱い職人たちの働く姿が見られたのである。


刃物を研ぐ男。飛び散る火花と火花避けのゴーグルがやたらカッコいい。


鉄パイプをグラインダーで削っていた男。激しく火花が飛び散るから防護グラスは必須だ。


ふいごを使って石炭に空気を送り込む鍛冶屋。バングラデシュの田舎町にはこうした昔ながらの鍛冶屋がいて、農作業に使う刃物などを作っている。


かんなを使って木の板を削る家具職人たち


アルミの板をしぼって水瓶を作る


ブリキの板を加工して一斗缶を作る町工場


古い鉄管をリサイクルする工場


ダッカの旧市街には一間だけの小さな町工場が無数にある。ここは金属加工を行う工場。


旋盤工場で働く男。小さな裸電球で手元を照らしながらの作業だ。














ボルトとナットを作る小さな町工場。部品にメッキを施している。


ガスコンロを作る小さな工場。溶接のアークライトの中に男のシルエットが浮かび上がる。


溶接工場で働く男。スパークする火花がクールだ。


油を作る工場。古めかしい油絞り機を動かす若い男。


ゴマや菜種から油を搾る


鉄を溶かす工場


 ジョソール近郊にはポンプを作る工場があった。井戸水を汲み上げる小さなポンプから、川の水を田んぼに引き入れるための大型ポンプまで、様々なポンプを作っている。

 ポンプは鉄の鋳物で作られていて、この手の町工場にしては大がかりだった。砂で鋳型を作る人、石炭を運ぶ人、溶かした鉄を鋳型に流し込む人、型から取り出す人、取り出した鋳物に穴を開ける人など、何人もの職人の分業制になっていた。


ポンプの部品を作る鋳物工場で働く男。鉄を溶かすための炉に石炭をくべ、送風機で風を送って高温にする。どろどろに溶かした鉄を砂型に流し込むのだ。


ポンプの部品を作るための鋳型を並べている


鉄くずを溶かしている職人




ポンプ工場で働く男。鋳造された部品にドリルで穴を開けている。


ポンプ工場では女性も働いていた。鋳物加工という男っぽい職場で、女性が働いているのは珍しい。


ポンプ工場では女性も働いていた。鋳造に使う石炭を運ぶ。



アルミのリサイクル方法


 バングラデシュはリサイクル大国で、一度捨てられたものもできる限り再利用する。アルミは低温で溶けるのでリサイクルに向いている材料なのだが、バングラデシュの町工場ではかなり原始的な方法を採っていた。

 ゴミとして回収されたアルミのクズを細かく砕き、それを石炭に混ぜて高温で熱し、どろどろに溶かすのだ。


アルミのクズからアルミの塊を作る

 こうしてできたアルミのインゴットは1キロあたり170タカ(210円)で取引されているという。インゴットひとつは5キロ。アルミだから見た目ほど重くはないようだ。

 「私はここで35年働いているんだ」という職人がいるぐらいだから、ずいぶん昔からこのやり方でアルミをリサイクルしているようだ。


細かく砕いたアルミを石炭と混ぜて熱する


アルミのクズを細かく砕くときに使うのは、足踏み式の米つき機そっくりの道具だった。


こちらも農作業の一コマにしか見えないのだが、実は細かく砕いたアルミをザルでより分けているのだ。



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by butterfly-life | 2014-07-03 16:30 | 旅行記2013
「無駄にカッコいい男」それは自分のカッコよさに全然気づいていない男
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無駄にカッコいい男たち


 バングラデシュの街角には「無駄にカッコいい男」がたくさんいた。存在感みなぎるいい面構えをしているのに、当の本人たちは自分のカッコよさに全然気づいていない。そういう無頓着な男前があちこちにいたのだ。


これぞ「無駄にカッコいい男」のお手本。それにしても何という筋肉だろう

 彼らは日本でもてはやされているイケメンとは目指している方向がまったく違っている。決して「モテる男になろう」と意識しているわけではないのだ。ただ自分に与えられた仕事をこなしているうちに、自然と体に筋肉が付き、身のこなしが洗練され、外見に味わいが出てきたのである。


このマッチョな男は俳優になれるほどの存在感


 そんな「無駄にカッコいい男」を見つけると、僕は迷うことなくカメラを向けた。
「あんた、すっごくいい顔してるよ。輝いてるよ」
 その気持ちを相手に伝えたかったのだ。

 言葉で伝えるよりも先にシャッターを切る。それが僕なりのコミュニケーションの方法だ。彼らがもっとも輝いている瞬間を撮り、それを液晶モニターに映し出して本人に見てもらう。
「ね、いいでしょう?」
「お、いいねぇ」
 いい表情が撮れたときには、被写体となった男たちも嬉しそうに笑ってくれた。たとえ言葉は通じなくても、何かを共有できたという確かな手応えを得ることができた。


チッタゴンの船着き場で塩を運ぶ男。南部の塩田で作った塩を船で運び、チッタゴンにある工場で精製する。


バングラデシュの特産品ジュートの繊維を運ぶ男


街角で包丁を研ぐ男


靴の修理屋。針と糸と接着剤といういたってシンプルな商売道具だけで、この街で生きてきた。


重い碇を頭に載せて運ぶ漁師


子供のおもちゃを頭に載せて売り歩く男。売っているものと表情とのギャップがすごい。








まるで哲学者のような威厳を持った白いひげの老人


バスの呼び込みをする男。でかい声を張り上げ、車体をバンバン叩いて客を呼び込む。


ドックで古い船の修理を行う男。金づちで船底についた錆を落としている。


広げた漁網の前に立つ漁師




バラバラだったジュートの繊維をまとめている男たち


染色工場で働く男


ダッカの港でドラム缶を運ぶ男たち


稲を収穫する男




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by butterfly-life | 2014-06-26 16:26 | 旅行記2013
生きるためにはゴミの山さえ漁る、ダッカの貧しくもたくましい人々
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弱肉強食の世界


 イスラムの犠牲祭「コルバニ・イード」の午後には、貧しい人々が牛肉のおこぼれを求めて、街のあちこちで行列を作っていた。コーランには「犠牲となった牛の肉は、牛を買った家だけでなく、貧しい人々にも分け与えなさい」と書かれている。犠牲祭は貧しい人々にとっても牛肉にありつける数少ないチャンスなのである。


おこぼれ肉を求めて、お金持ちの家に集まる人々



 いつもはモスクの前で喜捨を待っている物乞いたちも、この日ばかりは肉を求めてお金持ちの家の前に殺到していた。両足がない者。両手がない者。せむし。極端に身長が低い者。巨大なこぶを抱えた者。形容しがたい皮膚病に冒された者。様々な障害や病気を抱えた人々が、狭い道にどっと押し寄せてくるのだ。


お祭りの日にもかかわらず、いやお祭りの日だからこそ、「持てる者」と「持たざる者」との格差が残酷なまでにクローズアップされる。

 お金持ちからの「おすそ分け」を求めて肉に群がる人々の姿は、まさに「弱肉強食の世界」そのものだった。この競争にルールはない。とにかく1ミリでも先に肉に手を伸ばした者が勝ちなのだ。女だろうが子供だろうが老人だろうが病人だろうが一切関係ない。当然のことながら、そこには大混乱が引き起こされることになる。

 ある商店の軒下で「おすそ分け」が行われていたときには、あまりにもたくさんの人々が殺到しすぎて、軒を支えている竹の支柱がぐしゃっと折れてしまった。軒には昨日降った雨水がたまっていて、支柱が折れると同時にその水が人々の頭にざーっと降り注いだのだった。


【動画】肉を求めて集まった人々に降りかかったアクシデント

 コントじゃないか。
 そばで見ていた僕は、誰かが筋書きを書いたとしか思えないようなベタな展開に思わず吹き出してしまったのだが、肉を求める人々の闘争心は水を被ったぐらいで消えることはなく、すぐに気を取り直して獲物に突進していくのだった。強い。そしてたくましい。

「なるほど、これがバングラ人スピリットってやつなのか」
 僕は深く納得した。

 普段は気さくでフレンドリーな人々が、ひとたび車のハンドルを握るとなぜあれほど自己中心的に振る舞うのか。銀行でも役所でも駅の窓口でも、列に割り込もうとする人が絶えないのはなぜなのか。バングラデシュという国に来るたびに感じる数々の疑問に対する答えが、この光景の中にあったのである。

 バングラ人の体に深く染みこんでいるのは、他人との競争である。とにかく人口が過密で、何をするときにも隣に他人がいる環境で育ってきた人々には、「譲り合い」なんて悠長なことを言っている余裕はないのだ。「お先にどうぞ」なんて言っていたら、いつまで経っても自分の番は回ってこない。パイは分け合うのではなく、力尽くで奪い取るものなのだ。



 生きるためには、人よりも先にあの肉を掴むしかない。
 肉に殺到する人々の表情は真剣そのものだった。だからこそある種のおかしみを感じないわけにはいかなかった。

 生きることへの執念と、壮大なエネルギーの浪費。
 それこそがバングラデシュがバングラデシュたる所以なのだ。

 肉の奪い合いはお金持ちの家の前だけではなく、ゴミ捨て場でも行われていた。物乞いの老婆が肉の一片でも手に入れようと、カラスや野良犬を相手に闘っていたのだ。


牛糞の中から肉の切れ端を探し求める



 ゴミ捨て場に置かれているのは内臓、それも茶色い糞が詰まっている腸の一部ぐらいなので、食べられる部分なんてまったくないように見える。それでも老婆は諦めなかった。腰を深く折り、文字通り血眼になって、ゴミの山の中から食べられそうな肉片がないか探し求めていた。

 その姿には「食えるものなら何でも喰ってやる」という執念が宿っていた。その執念によって、彼女はこのタフな世界を今日まで生き延びてきたのだ。

「我々も牛も同じように血と内臓と糞がつまった袋でしかない」
 それがコルバニ・イードを通じて僕がもっとも強く感じたことだった。貧しき者も富める者も、人も牛も、結局は肉と内臓のかたまりとして死を迎えねばならない。この冷徹な事実をまざまざと見せつけられたのだ。

 会社を経営する金持ちも、内臓のひと切れを求めてゴミの山を漁る老婆も、たまたまここにやってきた日本人も、いつか必ず死ぬ。その運命から逃れることができないという点で、我々は平等なのである。







イスラムを捨てた男

 人口の16%を占めるヒンドゥー教徒は別にして、コルバニ・イードに表立って反対する人はほとんどいなかった。犠牲祭は世界中のムスリムが行う儀式であり、牛の犠牲は必要だというのが一般的な意見だった。

 しかし26歳の大学生ハッサン君は違った。「イードなんて必要ない」ときっぱりと言い切ったのだ。
「あんなにたくさんの牛を一度に殺す必要がどこにありますか。残酷だし、お金の無駄遣いでもある。10万タカもする牛を買うお金があるんだったら、そのお金で貧しい人々に食べ物をあげた方がよっぽど世の中のためになるじゃないですか」


「イードなんて必要ない」と言うハッサン君

 イードで殺された牛の肉は貧しい人にも分けられるが、実際にはその量は微々たるもので、肉の大半は牛を買った家で食べている。それに牛は食料としての効率がきわめて悪い。10万タカ出せばいったいどれほどの量のお米が買えるか考えて欲しい、とハッサン君は言うのだった。

「ダッカにはたくさんのホームレスがいます。彼らが貧しい暮らしを送っているのは、能力がないからではありません。この国のシステムが悪いせいなんです。まともな教育を受けられず、物乞いでしか生きていけない人がたくさんいる。その一方で豪邸をいくつも持っているお金持ちもいます。システムが間違っているのです」

 彼の意見はうなずける部分が多かった。確かに犠牲祭は牛肉という「富」を貧しい人々に再分配するひとつの方法ではあるのだが、その効率が悪すぎるのである。わずかな牛肉が手に入ったからといって、ホームレスたちの貧しい生活が改善されることにはならない。結局のところ、コルバニ・イードは「お金持ちの無駄遣い」でしかないのではないか。この批判に正面から反論するのは難しいように思う。







 ハッサン君が犠牲祭に反対していることにも驚いたが、次の一言にはもっと驚かされた。
「僕は無宗教なんです」と言ったのだ。
 最初は聞き間違いだと思った。しかしそうではなかった。彼は「どのような神も信じていない」と言い切ったのだ。

「僕の家族は全員ムスリムです。でも僕はイスラムを捨てました。今は神の存在も創造主も信じてはいません」
「それはお父さんもお母さんも知っていることなの?」
「ええ、彼らにも告げました。僕はイスラムを捨てる、と。もちろん大反対されました。父親はとても腹を立て、母親は口をきいてくれなくなりました。だから何年も実家には帰っていません。友達も離れていきました。ある友達は『そんなことを言っていたら天罰が下るぞ』と僕を脅しました」

 この国で「宗教に属さない」というのは「どのコミュニティーにも属さない」のと同じである。家族との縁を切り、友達からも孤立する。それを覚悟した上で、彼は無宗教であると宣言したのだ。よほど強い思いがあるのだろう。

 ハッサン君が宗教を捨てたのは、大学で数学と物理を学んだことがきっかけだった。西洋の合理主義的な考え方を学び、哲学書も読むようになった彼は、やがてイスラムの教えそのものにも疑問を感じるようになった。創造主がすべておつくりになったのなら、その創造主を作ったのは誰なのか。論理的に考えて矛盾が多すぎるコーランを丸ごと信じることなどできない。それが彼の結論だった。

 ハッサン君は近代的自我を身につけたことによって、宗教の縛りを自らほどいたのである。脱宗教化が進んだ日本ではごく自然に受け入れられる彼の行動も、バングラデシュではきわめて特異で、異端と言えるものだ。無宗教を貫くためには、家族と友達を捨てる覚悟が必要だったのである。

「僕の考えを受け入れる人が少ないのは知っています。悲しいことだけど仕方ありません。でも僕は信じているんです。いつかきっと父親も母親も僕を理解してくれると」



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by butterfly-life | 2014-06-05 11:49 | 旅行記2013
イスラムの犠牲祭「イード」のあまりにも血なまぐさい儀式
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ダッカが血に染まる日


 イスラムの犠牲祭「コルバニ・イード」当日の朝、ダッカの街はいつもにもまして賑やかだった。男たちは朝早く起きてモスクに行き、礼拝を済ませてから牛を殺す儀式の準備に取りかかるのだ。


巨大なモスク「ナショナル・モスジット」から、朝の礼拝を終えた男たちが続々と出てきていた。礼拝を終えた人々にお金を恵んでくれと集まってくる物乞いたちも多い。特別な儀式がある日は、喜捨に応じる人の数も多くなるようだ。


牛の喉をかき切るために使われる刀

 牛の喉をかき切ること自体は、それほど大変ではなかった。牛の首は柔らかく、入念に研がれた刀は十分に鋭利だからだ。

 首を切るよりもずっと大変なのは、立っている牛の足を縛って横倒しにし、動けないように上から押さえつけることだ。普段は従順で鈍感な牛でも、さすがに自らの死期が間近に迫っていることは察知しているらしく、必死の形相で最後の抵抗を試みるのである。

 250キロを超える大型の雄牛ともなると、力も強く気性も荒いから、5人がかりで押さえつけようとしても、それをはね飛ばして暴れ回ることもある。僕が撮影していた黒い牛も、突然狂ったように暴れだし、前足を大きく跳ね上げて逃げようとした。これは牛の周りを取り囲んだ人々にとっても予想外の反応だったようで、悲鳴を上げて家の中に駆け込む人もいた。





 しかし最後の力を振り絞った牛の抵抗も、男たちの落ち着いた対処によってあっけなく鎮火された。男たちは牛の後ろ足につけた綱をしっかりと握りしめ、牛の反抗が落ち着くのを待ってから、前足に縄をかけて動きを封じ、一気に綱を引いて牛を横倒しにしたのだった。それでジ・エンド。巨大な黒牛はすっかり観念した様子で目を閉じてしまった。

「アッラーフアクバル(アッラーは偉大なり)」
 と三度唱えながら刀で牛の喉をかき切るのはイスラム聖職者の役割である。しかし牛の数があまりにも多すぎるので、正式な聖職者だけではとても数が足りず、マドラシャーと呼ばれるイスラム学校を卒業したばかりの若者がその代役を務めることも多かった。



 鋭く研いだ刃先が牛の頸動脈に達すると、真っ赤な血が噴水のように噴き出してくる。インクのように鮮やかな色だ。牛は断末魔の叫び声を上げながら、4本の足を激しく動かす。



 刀はたちまち首の骨にまで達し、気道が真っ二つに切り離される。しかしその後も「グハー」というおぞましい牛の叫び声は続く。正確に言えば、これは声ではない。肺にたまった空気が気道から直接外に漏れ出ている音なのだ。


牛の喉から勢いよく噴き出てきた血を浴びる男



 頭を切り落とされた牛は、すぐさま皮を剥がれ、肉と骨と内臓に切り分けられていく。真ん中から腹を割いて内臓を取り出し、あばら骨から肉を切り離し、さらにその肉の塊を細かく切り刻んでいく。すべての作業は実に手際よく、短時間で進められていた。









 ダッカは文字通り血の色に染まった。
 ありとあらゆる街角、ありとあらゆる路地裏で、牛が倒れ、血を流し、肉と骨に変えられていったのである。

 牛の巨体を力づくで押さえつけ、返り血を浴びながら首を切り落とす。それは実に男っぽい儀式だった。男がやるべき仕事だった。実際、牛を屠殺するのも肉を切り分けるのもすべて男性が行い、女性は家の窓から遠巻きに見ているだけなのだ。

 街の男たちにとっても、この儀式は「男らしさ」をアピールするまたとないチャンスになっているようだ。父親が鮮やかな手つきで牛の巨体をかっさばいていく様子を、息子たちは少し離れたところから「すげぇな」という憧れの眼差しで眺めていた。









 そこには我々の原初的記憶――おそらく狩猟民だった時代に植え付けられたもの――を蘇らせてくれるような圧倒的な迫力があった。

 ダッカの人々は肉を食べるために牛を犠牲にしていた。しかしそれだけではないのだと思う。ただ牛肉を食べるためだけにしては、あまりにも多くの血が流されているからだ。
 牛の喉を切り裂き、大地を血で満たす。それがこそが、ダッカにおけるイードの真の目的なのではないか。僕はそう感じた。

 イスラム教におけるイードの本来の意味は、僕にはわからない。おそらく立派な宗教的意味があるのだろう。しかしそれとは別に、バングラデシュで繰り広げられたこの儀式には、僕の中の何かを揺り動かす強い力があった。
 人間は他者の血と生命を犠牲にして生きながらえている。その事実に対する誇らしさと怖れとがないまぜになった複雑な気持ちを味わうことになったのだ。
 それは清潔なスーパーでラッピングされた肉を買う現代人に対する強烈な一撃だった。お前はこうして命を食べているんだぞ、と問いかけられているようでもあった。

 野性から遠ざかって久しい現代人にとって、本物の血を見る機会は少ない。それはダッカ市民にとっても同じだ。だからこそ、この儀式が必要なのだろう。忘れてはならない野性を呼び覚ますために、我々の体内を駆け巡る血と肉をバーチャルなものにしないために、人々は刀を研ぎ、大地を血に染めているのかもしれない。

 街を埋め尽くしていた牛たちも、夕方までにはあらかた姿を消してしまい、あとには大量の牛の皮だけが残されていた。肉はそれぞれの家に持ち帰られ、内臓はゴミ捨て場に捨てられ、骨は専門の業者に回収されてしまったのだ。道ばたに積み上げられた皮は、祭のあとの寂しさをよりいっそう際立たせていた。



 やがてその牛皮も業者が回収しに来る。1枚3000タカ(3700円)で引き取られた皮の大部分はインドへ輸出されるという。バングラデシュには皮なめし工場の数が少ないからだ。つまりインドからやってきた牛が、バングラデシュで首を落とされ、皮を剥がされ、またインドに送り返されるというわけだ。そしてその皮の一部は靴やバッグに加工されて、再びバングラデシュに輸入されることになるだろう。



 こうして犠牲祭を中心においた「牛貿易」は、インドとバングラデシュとのあいだに大量の肉と皮と現金とを行き来させているのである。



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by butterfly-life | 2014-05-14 09:32 | 旅行記2013
牛糞ですべる道を歩け
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牛糞ですべる道を歩け


 ダッカの街はおびただしい数の牛で溢れていた。のんびりと草を食べる牛。ボテッとした糞を遠慮なく垂れ流す牛。遠くを見つめたまま微動だにしない牛。いつもならリキシャや通行人でごった返しているはずの道が、なぜか牛たちに占拠されていたのだ。





 狭い路地にでんと牛が寝そべって人の往来を邪魔しているのは、インドではごく当たり前の光景である。牛を神様の乗り物だと考えるヒンドゥー教徒は、たとえ用済みになった雄牛でも決して殺すことはなく、野良となった牛たちが街のゴミを漁るのを許容しているのだ。

 しかしバングラデシュは国民の8割をムスリムが占めている国。インドのように街が野良牛で溢れているなんて光景はあり得ないはずだった。それではこの牛たちはいったい何なのだろう?



「もうすぐコルバニ・イードって祭りが行われるんだ」と教えてくれたのは、牛の手綱を引っぱって歩いている男だった。「何十万頭って牛がいっせいに殺される。その肉をみんなで分けて食べるんだよ」

 牛や山羊などの肉を神様に捧げる犠牲祭(イード)は、バングラデシュだけでなく世界中のムスリムが行う儀式である。もともとは預言者アブラハムがアッラーから「信仰心を示すため、お前の息子を生け贄に捧げよ」という無茶ぶりをされて、それを真に受けたアブラハムが本当に息子を殺そうとしたときに、アッラーが「息子はいいから、代わりにこいつを生け贄にしなさい」と羊を与えたのが始まりなのだそうだ。

 この逸話のどのあたりに教訓があるのか、異教徒の僕にはいまいちよくわからないのだが、神話とは元来そのようなものである。意外性と多義性に満ちていて、常識では計り知ることができないのだ。

 神への生け贄となるべく集められた牛は、ダッカの街に大混乱をもたらしていた。車やリキシャの通行は妨げられ、街のあちこちで大渋滞が起きていた。もともと人口過密で迷路のように入り組んだ街に、無数の牛たちが新たに障害物として加わったのである。これで街が混乱しないはずがないのだ。


【動画】牛と牛の排泄物で大混乱のダッカ旧市街



うずたかく積まれた牛糞で交通が妨げられていた

 牛が垂れ流す大量の糞尿によってドロドロになった道で、うっかり足を滑らせる人も続出していた。転んで全身牛糞まみれになるのを選ぶか、裸足になって(もちろん足が牛糞まみれになるのを覚悟の上で)牛糞の中をズブズブと進むのか、究極の選択を迫られる通行人もいた。

 それでもダッカの人々はこの状況を粛々と受け入れていた。宗教儀式は何よりも大切なものであり、経済活動や社会生活よりも優先される、というコンセンサスが出来上がっているようだ。牛のせいで交通渋滞が起きようが、足がウンコまみれになろうが、ひどい臭いが街に充満しようが、それはやむを得ないことなのだ。


コルバニ・イードはバングラ人にとってお正月のようなもの。みんながこの祭りを故郷で祝うために大規模な帰省ラッシュが起こっていた。ダッカのバスターミナルや船着き場は、大きな荷物を抱えた帰省客でごった返していた。


船着き場には屋根の上まで人を満載した連絡船が出発を待っていた。よくこれで沈まないものだと感心するほどだ。人口過剰なバングラデシュならではの光景だった。





その牛いくら?


 コルバニ・イードの前日、ダッカの人々の興味はもっぱら牛の値段に集中していた。牛の値段はだいたいの目安はあるものの、体格や健康状態によってまちまちなので、基本的に売り手と買い手が直接交渉して決めるのである。いい牛を安く手に入れるために必要なのは、情報収集力とタフな交渉力なのだ。

 牛を連れて歩いている人がいれば、すれ違いざまに「その牛、いくら?」と訊ね、条件が合えばその場で取引が成立するということもある。しかしほとんどの場合、値段交渉は期間限定で開かれている牛市場の中で行われていた。

牛市場はダッカの街のあちらこちらに点在していて、数十頭の牛が集まる小規模なものから、千頭を超えるような大規模なものまであった。

牛市場は線路の上でも開かれていた。列車が来たらどうするのか? もちろん逃げるのである。


 小ぶりな牛は3万タカ(3万7000円)から5万タカ(6万円)ほどで買えるが、250キロ以上ある大型の牛は10万タカ(12万5000円)から20万タカ(25万円)にもなるという。もちろん大型の牛を買えるのはダッカでも相当なお金持ちだけで、会社経営者やビルのオーナーといった資産家にしか手が届かないもののようだ。

 大きな牛を買うことは、自らの信仰心の強さを示すだけでなく、ある種のステータスシンボルにもなっているようだった。親戚やご近所の人にたくさんの牛肉を気前よく振る舞うことが、「あの人は富を独り占めしない立派な人物だ」という評判に繋がるというわけだ。





「私は60年ダッカに住んでいるけど、こんなにたくさんの牛を見たのは初めてだよ」
 旧市街で文房具屋を営むマハブーさんはうんざりした顔で言った。彼によれば、コルバニ・イードで殺される牛の数は年々増えているという。それはバングラデシュが豊かになって、消費に回せるお金が増えた結果なのだが、あまりにも牛が増えすぎたせいで、ダッカの交通渋滞が深刻化し、物流が滞っているのも事実だった。

「バングラデシュで育てた牛だけじゃとても足りないから、インドから運んでくるんだ。インドは牛がとても安いからね。インドで1万タカで買った牛が、バングラでは5万タカで売れるって話だ。5倍に跳ね上がるわけさ。ほんとにいい商売だよ。あんたもお金を持っているんだったら、インドの牛を飼うことだな。ミリオネアになれるよ」

 「内外価格差」を利用して利益を生み出すというのは貿易の基本だが、そんなにボロいビジネスがいつまでも成り立つとは思えない。マーケットに「見えざる手」の力が及べば、牛の価格も適正なところに落ち着いていくのではないか。



 それはともかく、バングラデシュ国内の牛不足を解消するために、インドやネパールから大量の牛が輸入されているのは事実だった。水田が多く、ウシの飼育に適した乾いた草原が少ないバングラデシュでは、もともと牛を飼っている農家が少ないのだ。

 その一方で、インドではたくさんの牛が使役牛や乳牛として飼われている。しかもヒンドゥー教徒たちは牛を決して殺さないから、常に牛が余っているのだ。そんなわけでインドで役割を終えた牛たちが、ドナドナよろしくバングラデシュまで運ばれてきて、最期を迎えることになるのである。







 ただしインドから入ってきた牛は食肉用に飼育されたものではないから、味はそれほどよくないという。肉の脂肪分が少なく、筋肉質で硬く筋張っているのだ。市場でも牛肉は鶏肉よりも下の扱いである。鶏肉1キロが400タカなのに対して、牛肉1キロは280タカしかしない。「日本では牛肉が最高級の肉なんだ。1キロ1万タカするものもある」と僕が言うと、絶句されてしまった。

「ムスリムは牛を食べるからハートが熱い。ヒンドゥー教徒は牛を食べないからクールなんだ」
 というのがマハブーさんの持論である。確かに同じ国に住むムスリムとヒンドゥー教徒を比べると、性格や人当たりがずいぶん違う。暑苦しいほど親切で、過剰にフレンドリーなのは、たいていの場合ムスリムだ。それが食べ物のせいなのかどうかは僕にもわからないのだが。


犠牲祭の前日には家の前に牛が繋がれ、家人に優しく世話される光景があちこちで見られる。子供たちは干し草などのエサを与え、牛の頭を優しくなでてやっている。明日になれば問答無用で殺される運命にあるのだが、それまでは大事な家族として扱われているのだ。



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by butterfly-life | 2014-05-07 10:34 | 旅行記2013
東ティモールの未来は原油が握っている
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外貨の稼ぎ手は誰?


 それにしても不思議なのは、国内に産業らしい産業がほとんどない東ティモールが、どのようにして外貨を得ているかだ。外からドルが流入してこない限り、中国やインドネシアから大量に物品を購入することなどできないはずだ。

 東ティモールの主要産業は今も昔も農業だが、これは自給自足的な暮らしを支えているだけで、外貨の稼ぎ手ではない。コーヒーがフェアトレードのかたちで輸出されているものの、量としては微々たるものだし、主食の米さえも外国から輸入しているような状態である。製造業はないも同然だし、サービス業も発展途上だ。


今でも東ティモールの主要産業は農業だ



 東ティモールの外貨の稼ぎ手は大きく分けてふたつある。ひとつは外国からの援助。もうひとつは油田・天然ガス田からの収入である。

 物価がここまで上がった原因の大きな部分を占めているのが、実は外国からの援助だ。特に国連関係者が落としていくお金が大きかった。東ティモールには外国人国連スタッフが2000人以上、治安維持にあたる国連警察官が1600人も駐留していた(2012年末に撤退)。それ以外にも多くの国から政府関係者、NGO、NPOが入って活動していた。

 もちろん2002年の独立前後の混乱期には、この国は切実に援助を必要としていた。それどころか国連の介入がなければ、大国インドネシアからの独立が自分たちだけの力で果たせるはずなどなかった。しかし治安が回復したあとも、人と資金の流れは簡単には止まらなかった。そうして投入される援助の量が、人口わずか100万人の国には到底釣り合わないものになってしまったのだ。

 豊かな国からやって来た数千人の人々が落とす潤沢なドルキャッシュは、それ自体が一種の産業となり、バウカウで出会ったジョーのような雇われ運転手や雇われ事務員を劇的に増やすことにつながった。こうした援助は短期的なもので、東ティモール国内の産業を育てるための長期的な投資ではなかった。それどころか援助資金によって国内の物価と人件費が高騰し、外国企業を誘致することが以前にも増して難しくなってしまった。東ティモールは「援助の罠」にとらわれていると言えるだろう。

 国際機関の多くが東ティモールに過大な援助を行ったのは、「国」という単位にとらわれすぎているからだ。たとえばバングラデシュには1億5000万の人口がいるから、東ティモールに対する援助の150倍の人的経済的支援を行わなければ釣り合わないはずだ。でも実際にはそうならない。バングラデシュで100人雇っている組織は、おそらく東ティモールでは20人ぐらいは雇うだろう。

 東ティモールのように人口の少ない国は、どうしても手厚い援助を受け取りがちになる。「国家」を単位としてその規模にかかわらず同列に扱おうとすると、助けるべき「国民」を不平等に扱うことになってしまうのだ。

 東ティモールのように経済規模が小さな国は、繊細で「壊れやすい」。だから丁寧に扱わなければいけない。丁寧というのはむやみに手厚い援助とは違う。その国のニーズを見極め、必要最低限の介入を行い、やり過ぎたと思ったらすぐに手を引かなければいけないのだ。

「いまこの国を支配しているのは、物乞いのメンタリティーだよ」
 と言ったのはスアイで食堂を営むフランクさんだった。彼は長年バリ島のリゾートホテルで働いていたので英語が堪能で、自分の国を外から眺める視点も持っていた。

「待っていればどこかからお金が降ってくる。外国や政府が助けてくれる。そう思っている人が多すぎるんだ。外国からの援助によってもたらされたネガティブな影響だよ。我々はそろそろ自分たちの足で立たなければいけないんだ」



この国の未来は

 それでは外国の援助機関が引き上げていった後、この国の未来はどうなるのだろう。

 ある開発援助の専門家は「東ティモール経済の将来は原油の埋蔵量に左右されるだろう」と予測する。いまこの国の国家財政は石油に頼り切っている。なにしろ国家予算の90%を原油と天然ガスを売って得た基金によってまかなっているほどなのだ。昨今の原油価格の高騰を受けて収入は増加しているが、この好調がいつまで続くのかはわからない。

 仮に原油の埋蔵量が豊富だったとしても、それだけでこの国が必要する雇用を生み出すことはできない。今でも油田の採掘を行っているのは外国企業であり、東ティモール政府はそこからの「あがり」から税金を徴収しているに過ぎないからだ。油田から得た資金をどのような形で国民に分配していくのかが、今後の課題になるだろう。

 他の産業の育成はどうだろう。
 さっきも書いたように、観光業は厳しい。宿代、食費、交通費がいずれもバリ島の二倍もするのだ。交通の便も悪く、余計な手間もかかるのに、なぜわざわざ東ティモールに行かねばならないのか。その疑問に答えられる人はいないはずだ。

 もちろん「みんなが行きそうもないところに行こう」とする物好き(つまり僕のようなタイプの人間)は一定数いる。しかしそれはマイノリティーだ。ほとんどの観光客は、美しく、快適で、しかも値段が高すぎず、文化的にもユニークな場所を選ぶ。残念ながら、そのいずれを取っても、東ティモールはバリ島に劣っているのだ。

 最近、東ティモールでは「カジノを作ろう」というアイデアが議論されているらしい。ごく最近まで信号ひとつなかったこの国にカジノを作るだなんて悪い冗談にしか聞こえないのだが、当事者は真剣なのだという。カジノを作ればバリ島との差別化が計れるし、世界の富裕層がやってきてお金を落としてくれる。その考え方自体は僕の好むものではないけれど、まぁ一応の筋は通っている。

 しかし現実をよく見て欲しい。バックパッカーでさえ寄りつかないような国が一足飛びに「世界の富裕層」にターゲットを絞ろうなんてのは、いささか虫がよすぎるのではないだろうか。それとも農民が熱狂する闘鶏場にガイジンを呼ぶつもりなんだろうか。それならそれで面白いけど。


闘鶏用の鶏を大事そうに抱える男


闘鶏はエキサイティングなギャンブルだが、一般ウケは期待できないだろう

 製造業を育てるのもかなり難しい。外国企業を誘致しようにもインフラは整備されておらず、人件費も高騰しているし、交易条件も悪いからだ。これでは他のアジア各国(インドネシアやマレーシアやベトナムなど)との競争に勝てる見込みはまずないだろう。

 僕がもっとも現実的だと思うのは、外国への「出稼ぎ労働」を外貨の稼ぎ手の柱にしていくことだ。国内で仕事が見つからない以上、人々が海外に出て行くのは自然な成り行きであるし、幸いなことにポルトガルという強い味方がいるから、他の国よりも条件がいいのである。東ティモールは人口100万あまりの小国だから、わずか数万人がヨーロッパに出稼ぎに行っただけでも、国の経済には大きなインパクトになる。

 僕は出稼ぎ労働を必ずしも否定的に捉えてはいない。もちろん国内に強い産業を育てて、自立的な発展を促すのがベターな道だが、様々な条件(地理的・政治的・人口規模)でそれができない国もあるのだ。それでも人々は生きていかなければいけないし、働かなければいけない。

 「人口ボーナス期」に国内産業を育てることができず、経済成長の波に乗れなかった国が、労働力を外国に送り出して外貨を稼ぎ出すというのは、比較的穏当な問題解決法だと思う。実際、ネパールやフィリピンやインド南部のケララ州などは、出稼ぎによって貧しさから抜け出そうとしている。

 出稼ぎ労働を主軸に置いた社会は、村落の伝統的な暮らしを維持しながら、経済的にもそれなりに豊かになることができる。農業の担い手(主に年寄りや女性)が田んぼでお米を作り、海で魚を捕って暮らしながらも、出稼ぎに行っている家族から送られてくるお金で家を建てたり、バイクや電化製品などを買うことができるのだ。

 農村は子供を産み育てたり、老後を過ごしたりする場所になるだろう。
 そこは「いつか出ていく家」であり、そしてまた「いつか帰ってくる故郷」でもある。













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by butterfly-life | 2014-04-30 08:48 | 旅行記2013
東ティモールはもう「アジア最貧国」ではない
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ホテル代が高すぎる


 次から次に財布からドル紙幣が消えていく。
 それが5年ぶりに東ティモールを訪れた僕の正直な印象だった。

 とにかく物価が高い。しかもその上がり方がすごく速い。もちろん日本やオーストラリアなどの先進国に比べればまだまだ安いレベルだ。しかし東ティモールはアジアでももっとも若く、経済規模も小さく、まともなインフラさえ整っていない国なのだ。にもかかわらず、物価だけは東南アジア諸国でもトップクラスになってしまったのである。

 特に旅行者の財布を直撃するのがホテル代の高さだ。首都ディリではごく普通のホテルでもシングルルームが60ドル以上もするのだ。ちょっといいホテルだと軽く100ドルを超える。異様なまでに強気な値段設定なのだ。

 もちろん僕は60ドルもする部屋には泊まらない。長旅を続けるのに、そんな贅沢はできない。なのでディリにある(たぶん)唯一のバックパッカー向け安宿「バックパッカーズ」に向かうことになる。ここも以前に比べれば値上がりしているものの、シングルルームには25ドルで、ドミトリーには12ドルで泊まれる。だから欧米人旅行者(ほとんどがオーストラリア人だ)でいつも混み合っていた。


「バックパッカーズ」のシングルルームは25ドル

 宿代の高さは首都ディリだけにとどまらなかった。田舎町の宿も軒並み高かったのだ。決してホテルと呼べるような代物ではなく、民宿に近い宿であっても、最低15ドル以上は出さないと泊まれないのだ。

 たとえばサメという何の変哲もない田舎町の宿は25ドルもした。建てられたのはわりに最近らしく、それなりに清潔なのはいいのだが、窓がないので部屋は暗く、シャワーの水もちょろちょろとしか出ない。それが25ドルで、エアコン付きだと50ドルもするのだった。


サメの宿も1泊25ドル。田舎の安宿にしては高い。

 外国人も滅多に訪れないような町で、いったい誰が利用しているのか不思議に思って訊ねてみると、「客のほとんどは地方視察にやってきた役人かビジネスマンなのだ」という答えが返ってきた。なるほど、自腹を切って泊まっている人は少ないのだろう。

 食費も高かった。ディリで地元の人が通うごく普通の食堂で、ご飯に豚肉の煮込みとナスの炒め物を取ると4ドルになる。味もそれほどうまくはない。コストパフォーマンスでは「すき家」の牛丼にはるかに及ばない。

 宿代や食費だけではない。そもそもこの国に入るためだけに、かなりのお金が必要になるのだ。
 もっとも一般的なルートであるバリ島経由で東ティモールに入国するためには、バリ島とディリの往復航空券240ドル、インドネシアの入国ビザ25ドルを2回分と空港利用税15ドルが2回分が必要になる。これに東ティモールの到着ビザ代30ドルと空港利用税10ドルも加算すると、合計360ドルもかかってしまう。

 これだけのお金を余分に支払ってでも東ティモールに行かなければならない理由は、正直言ってほとんど見当たらない。息をのむほどの美しいビーチには人がまったくいない。それだけはバリ島と違うところだ。でもわざわざそれだけのために300ドル以上ものお金と手間暇をかけてこの国にやってくる人は、まず間違いなく例外中の例外である。

 実際、バリ島から東ティモールへ飛ぶムルパティ航空機には、旅行者とおぼしき人はほとんど乗っていなかった。ほとんどが地元民かインドネシア人だった。欧米人もバックパッカーらしき人もいない。いまだに東ティモールは旅行者にとって縁遠い国であり続けているのだった。


インドネシアのムルパティ(メルパチ)航空が飛ばしているデンパサール・ディリ間の定期便。150人乗りの中型機の座席は9割がた埋まっていた。

 空港で出会った日本人旅行者は「東南アジア制覇」を目的として東ティモールに入国したそうだ。その彼の率直な感想は「物価が高いだけで何もない国」というものだった。いや「何もないくせに物価だけは高い国」と言ったんだったけ。とにかく「そこに独立国があるから、パスポートのスタンプを増やしに行ってみようか」という酔狂な目的の為だけに3日間ディリで過ごした彼は、最後に吐き捨てるように言った。
「こんな国、二度と来ることはありませんよ」

 いや、それでも東ティモールを訪れる価値はあるんだよ。
 僕にはそう言い切ることができなかった。「何もない国」を楽しむためにはそのための素養(偏った情熱と言ってもいいかもしれない)が必要になるし、それは誰もが持つものではないからだ。この国の魅力を十分に味わうにはそれなりの資格がいるということだ。






 バイクを借りて気ままに旅をする僕にとって、もっとも痛かったのはレンタルバイクの値段だった。125ccのホンダのスクーターが1日22.5ドルもするのだ。ベトナムやカンボジアなら同じものを1日4ドルで借りられるというのに。そもそもディリにはレンタルバイク屋はほとんどなく、競争相手がいないので、向こうの言い値を受け入れざるを得ないのである。

 旅行者がいない国でレンタルバイクの値段が高いのは仕方ないにしても、ガソリンが高いのには納得できなかった。仮にも産油国なのに1リットル1.5ドルもするのだ。ガソリンに高い税金をかけている純輸入国の日本と同じレベルなのである。

 もちろん、東ティモールは産油国であっても原油を精製するコンビナートはないから、外国で加工された製品を輸入しなければいけない。だからある程度高くなるのはわかるのだが、1.5ドルというのはいくらなんでも高すぎると思う。

 商店で売られている日用品の値段も、隣国インドネシアのおよそ1.5倍から2倍というところだった。たとえば1.5リットルのミネラルウォーターはインドネシアでは20円ほどだったが、東ティモールでは50円(50セント)だった。お菓子も蚊取り線香も石けんも歯ブラシもタオルもサングラスも、たいていの商品はインドネシアや中国からの輸入品だが、東ティモールに運ばれてくると値段が倍に跳ね上がってしまうのだ。


市場で売られている日用雑貨はすべて輸入品だ

 輸入品だけでなく、地産地消の野菜でさえも値段が高かった。トマト一盛り(500グラム程度)が50セント、小松菜一束が50セント、小ぶりのキャベツ一個が50セント、ニンニク一盛りが50セントといった具合である。


小松菜っぽい菜っ葉はひと束50セント(50円)


地方の市場で売られている野菜。種類はそれほど多くはなかった。

 そもそも値段の刻み方がおおざっぱ過ぎるのである。一応5セント貨まで流通しているけど、あまり使われることはなく、通常の商品は50セント、25セント(クォーター)単位で売られることが多い。野菜も基本的に50セント単位で売り買いされている。しかし50円といえば東南アジアの基準では結構な金額である。少なくとも丸め込める端数などではないはずだ。



もう「アジア最貧国」ではない

 全国的にこれだけモノの値段が上昇しているということは、東ティモールの人々が旺盛な消費意欲を持ち、しかも購買できるだけのキャッシュを持っていることを意味している。ひとことでいえば、東ティモールは豊かになったのだ。「アジア最貧国」なんて言葉はもうこの国には当てはまらない。

 子供たちの身なりもずいぶんきれいになった。以前は穴だらけの服を平気で着ていた子供も多かったのだが、いまではインドネシア製品や中国製品が大量に入ってくるようになったので、ボロを着ている子供は少なくなった。


ボロを着ている子供は少なくなった

 子供たちの栄養状態も良くなり、死亡する乳児の数も大幅に減少した。以前は妊婦の栄養が足りずに、がりがりで生まれてくる赤ちゃんが多かったのだが、今ではまるまると太って生まれてくるという。国際援助のおかげで医療体制も整い、生まれてくる子供が病気にかかることも少なくなったようだ。



 経済的なゆとりができたことで、新しい家を建てる人も増えていた。これは独立後の混乱がやっと収束し、「もう家を建てても大丈夫だ」という安心感が広がったのが大きいという。これまではせっかく家を建てても、騒乱が起きて焼き討ちや略奪に遭うことたびたびあったのだが、治安が回復し、将来が見通せるようになって、ようやく地に足の付いた生活が送れるようになったのだ。


新しい家はコンクリートブロックとセメントと鉄筋とトタン屋根があれば作ることができる。材料費は一軒あたり2500ドルほどだそうだ。


国の隅々にまで電気が行き渡るようになり、田舎でも衛星テレビのパラボラアンテナを持つ家が増えた。パラボラアンテナを立てるのには150ドルのお金がいる。決して安くはないが、多くの家が設置している。



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by butterfly-life | 2014-04-23 10:01 | 旅行記2013