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17日目:大入島に渡る (大分県佐伯市)
 本日は雲ひとつない快晴。ぽかぽか陽気で一気に春めいてきた。
 臼杵市から佐伯市に向かう道はとても走りやすかった。きつい上り坂もあったが、昨日の九六位峠に比べれば屁みたいなものである。嫌なこと、辛いことを経験することのメリットは、そのあと同じようなことが起きても「あれを乗り越えられたんだから」と思えることである。自分の中に「経験の貯金」がたくさんあれば、困難な状況にも対処できるようになる。

 まず山を越えて津久見という町を通り過ぎると、あとは海沿いの平坦な道である。
 数キロごとに小さな漁村があり、堤防に囲まれた「船の駐車場」とも言える場所に、小型の漁船が浮かんでいる。漁を終えたばかりのおじさんにカメラを向けると、いかにも海の男らしい日に焼けた笑顔を向けてくれた。



 何が起きるわけでもない道だったが、ただリキシャを走らせているだけでも気分が良かった。海は青く、漁船の白さと鮮やかなコントラストをなしている。山に目を転じると、あちこちに山桜が咲いているのが見える。風はまだ冷たいが、確実に春が近づいている。

 佐伯市で昼ご飯を食べてから、対岸の島に渡ってみることにする。佐伯湾に浮かぶ大入島は佐伯市からは700mほどしか離れていないので、フェリーに乗れば10分で渡ることができるのだ。車を積めるフェリーは朝7時から午後6時まで1時間おきに出ているし、それに加えて人だけを乗せる連絡船もあるから、交通の便はさほど悪くはない。それでも離島は離島。リキシャが日本の離島を走るのはこれが初めてであろう。


【大入島の船着き場と入港するフェリー】

 フェリーに乗っていた乗客は7、8人で、ほとんどが島に住みながら佐伯の町で仕事をしている人である。島にはこれといった産業がない。昔は漁業が盛んだったが今ではかなり衰退しているし、ミカン栽培に力を入れていた時期もあったが、ミカンの値段が下がったためにやめてしまった農家が多い。結局、町の造船所や化学工場、商店などで仕事を見つけないことにはやっていけない。

 大入島はひょうたん型をしていて、海岸線に沿って島を取り囲むように道路が走っている。内陸部分は険しい山なので道はない。島をぐるりと一周するとおよそ16キロの道のりになる。リキシャでも十分に走りきれる距離である。ここはひとつのんびりと島巡りをしてみよう。
 船着き場の石間から時計回りに進む。逆方向でも構わないのだが、フェリーの船長さんが「時計回りの方が風が少のうてええよ」と言ったのでそれに従うことにした。

 島は静かだった。津久見から佐伯までの海沿いの道も静かだったが、それとは次元の違う静けさだ。車がほとんど通らない。数分間に一度、軽自動車やバイクが通りかかるぐらい。寄せては返す波の音、遠くの漁船のエンジン音、ウグイスのさえずり。聞こえるのはそれだけである。時間の流れが止まっているような空間。


【大入島特産のちりめんシラスを捕る漁師】

 歩いているのはお年寄りとおばさんばかりだった。若い人、特に子供の姿をまったく見かけない。それもそのはずで、島にある小学校は全校生徒14人、中学校は11人しかいないという。しかも中学校は来年度になるとたった4人になってしまう。それでも先生の数が10人もいるというのは驚きだ。生徒よりも先生の数が多い学校。うーん、どんな授業になるのかちょっと想像できないね。


【島でミカンを作っているおばあさん】

「今は島全体で1000人ちょっとじゃけのぉ。昔は3000人以上おったこともあったんよ」
 ちょうど漁から帰ってきたばかりの漁師のおじさんが話してくれた。
「昭和40年代ぐらいかの。そのときは魚もようけ捕れたし、子供の数も多かったんよ。わしが小学生じゃった時分は戦争中だったがのぉ、同級生が何十人もおったけん。それが今や片手で数えられるぐらいじゃろう」
 目の前に広がる海と対岸の佐伯の町を見つめながら、漁師のおじさんは大入島の歴史をぽつぽつと語ってくれた。戦時中、佐伯の町には海軍の飛行場があったので、米軍の空襲の標的にされた。青い海が赤く染まったことをよく覚えている。その当時、大入島は発展からははど遠く、道路も未整備だった。男たちは小さな漁船で漁を行い、女たちは山の斜面で芋を育てた。
 戦後、佐伯市の復興と発展に伴って、大入島も活気を帯びる。佐伯湾内には豊かな漁場があり、漁に出ればいくらでも魚が捕れた。漁船の数も今の5倍近くに達していた。しかしその後、漁獲量は急激に落ち込んだ。乱獲がたたったのか、佐伯湾周辺の工業化のせいなのか、あるいは温暖化の結果なのか。漁をやめて町で仕事を探す人が増え、その多くが島に戻ってこなかった。こうして島の人口は最盛期の三分の一になり、若い世代がほとんどいない超高齢化社会となってしまった。
「この海で捕れる魚は脂肪がのっておいしいんよ。ここの魚を食べとったら、他の魚なんてよう食べんわ。湾の中はエサが豊富じゃし、波が静かやから魚の味がおいしくなるんよ。でも最近は温暖化で冬の魚がとれんようになってしもた。フク(フグのこと)なんてもう幻の魚じゃ。今はえ縄を引いてもかかるんわフカとかエイとか金にならん魚ばっかりじゃ。南に住んどる魚が北に上ってきとるんじゃろうな」


【足が悪いおばあさんが台車を支えに歩いていた】

 いろいろあったけれど、漁師のおじさんにとってこの島の暮らしは「こんなにえぇところはないわ」と言うほど気に入っている。気候も温暖だし、魚も野菜も新鮮なものが手に入る。
「漁師は自営業みたいなもんじゃろう。わしは人に使われるのは好かんけん、気ままにできる漁師が好きなんよ。まぁ最近は漁に出ても昔ほどは魚はかからんけん、気楽でもないけどな」


【漁から戻ってきた漁師】

 静かで平和そのものに見える大入島にも、実は住民を二分している問題がある。
 いまから15年ほど前、国が大入島の埋め立て事業を行おうとしたときに、島の住民が反対運動を起こしたことがあったのだ。当初、埋め立ては住宅地の造成が目的だと説明されていたが、過疎化が進む地区に住宅地を作るというのは誰の目にも不合理なので、途中から佐伯港に大型船を通すための航路を作る目的に変更された。しかしその実効性はかなり疑わしい。結局のところ、これも地元の建設業者を潤すための目的のはっきりしない公共事業のひとつだったのだ。
 埋め立てによって沿岸の生態系が壊され、貝類や海草の漁場が壊滅的な被害を受けると地元住民は反対の声を上げた。しかしそれが島の総意ではなく、埋め立てに賛成する住民も少なからずいたのは、この埋め立て事業と引き替えに、島と本土とを結ぶ橋を造ってあげましょうという行政側からの提案があったからのようだ。
 しかし住民の反対運動によって埋め立て事業は頓挫し、その後の不況と地方財政の逼迫によって橋の建設の話も立ち消えになってしまった。無駄な公共事業を続けていけるだけの余裕が、国にも地方自治体にもなくなったのである。そして埋め立て賛成派と反対派の住民の対立だけが残った。

「今でもな、隣同士に住んでおっても、賛成派と反対派は口もきかんし目も合わせんのよ。15年もたっとるんやけどな・・・」
 もう終わったことだから水に流しましょう、とは簡単に言えないような複雑な事情があるのだろう。小さな島、誰もが顔見知りの共同体だからこそ、一度反目すると取り返しがつかないことになる。都会なら気に入らない隣人がいても直接顔を合わさないで暮らすことができるが、ここではそうはいかないのだ。
 漁師のおじさんが「こんなにえぇところはない」と言いながらも、どこか寂しそうな顔をしているのは、かつて豊漁に沸いた島の活気も、島民の一体感も、もう二度と戻ってはこないのだと知っているからなのかもしれない。


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本日の走行距離:46.0km (総計:562.5km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:15535円)

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by butterfly-life | 2010-03-20 09:17 | リキシャで日本一周
16日目:どん詰まりの村にUFOが降りる (大分県臼杵市)
 別府から大分に向かう海沿いの道は、歩道が広々と取ってあってとても走りやすかった。
 ウォーキング中のおじさんと並んで話をする。おじさんが「これはなによ?」と声をかけてきたのだが、まったく足を止めないので、しばらくの間併走しながら話をした。ウォーカーもジョガーもサイクリストも「勢いをそがれたくない」という気持ちは同じなのだろう。立ち止まることなく、一定のペースを守ることが大切なのだ。
 おじさんは毎日20キロ歩いているという。だいたい3時間。もともと歩くのが好きで、歩いて福岡まで行ったこともある。化学プラントでオペレーターの仕事をしていたのだが、退職後は毎日本格的に歩いている。



 今日は非常に風の強い。風速は7、8m。僕にとって幸いなのは北西の風、つまりちょうど追い風だったことだが、追い風の利というものは実際にはあまり感じなかった。これが向かい風だったら、おそらく普段の1.5倍の負荷がペダルにかかることになる。立ち漕ぎでもなかなか進まないぐらいの重さだ。しかし追い風の時に、普段の7割の力で楽に前に進めるかというと、残念ながらそうはならないのである。5%程度のパワーアシストがせいぜいだ。おそらくリキシャの幌の構造上の問題なのだろう。

 大分市の「鳴門うどん」で昼食を食べる。ここはうどんは量を選べるのだが、1玉でも2玉でも3玉でも料金が同じというから驚きだ。せっかくだからと欲張って「おろしうどんトリプル+親子丼セット」を注文する。どでかい器に本当に3玉分のうどんが入っている。味もなかなかのものだ。これで557円は激安。店が繁盛しているのも納得できる。
 運ばれてきたときには「こりゃ食べきれないかなぁ」と思っていた「トリプルうどん」だが、喉ごしがいいので案外ツルツルといけてしまった。一気に完食。
 でも、このあとしばらく腹が重くてリキシャを漕ぐのがしんどかった。欲張りすぎるといけない。イソップ物語の教訓を地で行ってしまった気分。反省、反省。


【これが「おろしうどんトリプル+親子丼セット」】

 大分市から臼杵市に向かう国道21号線はアップダウンの激しい山道である。山をひとつ越えるごとに家の数も道路を走る車の数も減っていく。田舎の奥の奥へと入りつつあるという実感がある。
 21号線沿いに「キリシタン殉教記念公園」という公園があったのでリキシャを止めた。公園の奥には高さ3mほどの巨大な石碑があった。隠れキリシタンを弾圧する武士と、神に祈る地元農民、それを天井から見守るイエス・キリスト、という構図のブロンズ彫刻が石碑にはめこまれている。劇的な場面を写し取った迫力ある彫刻だった。



 この地は国主・大友宗麟の庇護の元でキリスト教が広まったのだが、幕府から禁教の令が下ると200人もの殉教者が出たそうだ。
「これらの人達は、幕府の残虐な迫害にも屈せず、峻烈な刑罰をも怖れず、ひたすら信仰一筋に生き抜いて、ついに殉教者として天に召されたのであります」
 と石碑に書かれている。これを読んで、3日前に出会った「すんごい神様おばちゃん」のことを思い出してしまった。彼女は節操なく信仰をころころと変えていて、それでも実にあっけらかんと生きていた。借金にまみれているけれど、不幸そうには見えなかった。時代が時代なら彼女のような生き方は許されなかっただろう。信仰とはある時代、社会においては「生きるか死ぬか」の問題だったわけだ。信仰がずいぶん軽くなって、まるで流行のファッションみたいにすぐに取り替えられるようになった。それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。少なくとも「殉教」なんて言葉がもう日本から消えてしまったのは確かだ。

 山はどんどん深くなり、集落の規模も小さくなっていく。杉の木で覆われた山と、ところどころにひらかれた畑。古い木造の日本家屋。こんなところに突如UFOが現れたら・・・誰だって「え?」と息を飲むだろう。僕だってそうだった。
 その白くて巨大な円盤状の物体は、屋根の高いガレージのような建物に収まっていた。農業や林業にあんな物体は必要ない。遊園地の遊具? いや、そんなもの過疎の進んだこの土地には必要ないだろう。やはりUFOだ。空飛ぶ円盤に違いない。しかし何でこんなところで(秘密裏というわけでもなく堂々と)UFOが作られているのか。
 ガレージで作業をしている女性が見えたので、意を決して話しかけてみた。
「あの・・・あれはUFOですよね?」
「ええ、UFOです」と彼女はうなずく。
「あなたが作っているんですか?」
「そうです」
「空は飛びますか?」
「いいえ、まだ作っている途中ですから。でもひょっとしたら・・・」
 この女性・サバコさんはマッドサイエンティスト・・・ではなくて、立体オブジェを創っているアーティストであると判明した。つまりここは秘密基地ではなくて、芸術家のアトリエなのだ。なるほど。
 サバコさんによれば、このUFOは3年前から製作しているのだが、何しろ大がかりなのでまだ完成には至っていない。直径は8mもあり、骨組みは鉄製で外装はFRP(繊維強化プラスチック)である。完成までにはあと1年かかるという。船内には宇宙人のオブジェを置く予定なのだそうだ。





 しかしまぁ、どうしてこんなド田舎でアトリエを構えることになったのだろう。
「主人の実家がこの近くにあって、もともと大工さんの作業場だったところを安く買い取ることができたんです。私はずっと東京で編集の仕事をしていたの。雑誌のライターをしたり、単行本やマンガの編集をしたりしていたんです。でも編集者って裏方でしょう。それはそれでやりがいがあるんだけど、作家たちを相手にして仕事をしていると、だんだん『自分も表現したい』という願望が強くなっていったんです。で、アーティストになったわけ」
 アーティストになってからしばらくは東京で活動していたが、7年前から大分に拠点を移した。東京は刺激も多いしギャラリーもたくさんあるからアーティストとして活動するのには適した場所だが、アトリエを借りるとなると家賃だけでも大変な出費になる。
「それに田舎暮らしをしてみるのもいいかなぁと思っていたのよ。一生ここに住み続けるつもりは最初からなかったし。でも頭で思い描いていた田舎暮らしと現実とのギャップは大きくてね、慣れるまではすごく大変だった。九州っていってもここは山の中だから冬は寒いしね。このあたりは『耳はぎ場』って呼ばれるほど寒い風が吹く場所なの。ご覧の通りこの建物は開放的だから、風がビュービュー吹き込んでくるし。焚き火をするために薪を集めてきたりしてね。3年前までは携帯の電波も入らないようなところだったの。でもそのおかげでたくましくはなりました」



 僕は坂道をリキシャで走ってきたから体がぽかぽかしていたが、サバコさんは寒いのでダウンジャケットを着込んで、さらに猫を抱いている。猫はとても人懐っこくて、カメラを向けてまったく動じなかった。
「地元の人とコミュニケーションを取るのも大変だった。幸いにしてここは『よそ者は出てけ』というような排他的なところじゃないんだけど、でも私が何をしているのかはわかってもらえないのね。『アート』という概念が頭にないのよ。だから展覧会に出展するために作品をトラックに載せて運んで、展示が終わったんでそれをまたトラックで持って帰ってくると、『あらー、売れ残ったんね。気の毒に』なんて言われちゃう。『これは別に売りものじゃなくて、アート作品として作ったものですから』って言っても通じないの」



 文化がない、ということが最大のカルチャーショックだった。この村の人々は生活のために生きている。生活に必要なものを作り、生活に必要なものを買う。それ以外にすることはない。だからみんな似通った考え方になる。
「ここには本当に何もないから、作品づくりには没頭できます。でも2ヶ月とか3ヶ月のあいだモチベーションを維持するのが難しいの。孤独な作業だし、それが評価されるのかもわからないから。なるべく他人の評価は気にしないようにはしているけど。私の作品は自分の頭にある『宇宙』を具体的な形にしているので、それをわかってくれる人もいれば、わからない人もいる。それは仕方がないことなのね」
 サバコさんの創作の原点は、自身の空想上の星である「パジャマジャ星」とその住人たちを具現化することにある。代表作である三つ目の宇宙人「ポルチコポピリン」はアトリエの外にも飾られていた。カラフルでポップだけど、村の人がこれを見たら間違いなく困惑するだろう。
 強化プラスチックによるオブジェ作りは、まず粘土で型を作ることからはじめる。その粘土を元に石膏で鋳型を取り、そこにFRPの原液を流し込んで固める。この技法は独学で学んだ。誰かに教わると自分なりのやり方でものが作れなくなってしまうからだという。見た目は柔和そうなのだが、意志の強さというか譲れない頑固さを秘めた人なのだろう。



 アートとは「私はなにものであるのか?」という問いかけから始まるのだとしたら、この村の人々がアートを必要としていないことも理解できる。
 私は米を作り、大根を植える○○である。その揺るぎない日常、ソリッドな現実を生きる人にとって、アートはただの「ようわからんもの」になる。そんな意味不明な想像の産物なんて、なんの役に立たないし、お金にもならないじゃないか、と。

 そんな圧倒的な日常が支配する「どん詰まり」の村で、サバコさんは宇宙人やUFOといった非日常的なオブジェをせっせと作り続けている。その行為そのものがすでに「アート」であるようにも思う。
 やがてUFOは完成するだろう。
 空は飛ぶだろうか?
 うん、きっと飛ぶだろう。想像力の羽さえ広げれば。


 サバコさんのアトリエを離れてからが、実は本格的な山道の始まりだった。これまでの坂道はほんの序章にすぎなかったのだ。。
 ただの坂道ではなかった。完全なる「峠道」だった。とにかく角度が急なのだ。自動車でもローギアに入れないと上れないような坂。それを重量100キロのリキシャを引っ張って歩くのは、もう気が遠くなるほど大変だった。
 下半身に力を込めて、重心を低くして歩を進める。数メートル進んだだけで息が上がる。汗がしたたり落ちて目に入る。奥歯を食いしばって進む。でも上り坂はいっこうに終わらない。次のカーブを曲がっても、そのまた次を曲がっても、まだ上りが続く。永遠に続くかと思うほど。
 僕は「150歩作戦」を実践した。150歩進んだら少し休憩して呼吸を整える。そして次の150歩に向かう。歩数をカウントすることだけに集中して、余計なことを考えないためだ。

 峠道との悪戦苦闘は1時間半続いた。ようやく九六位峠(くろくいとうげ)の頂上を越えたときは全身の力が抜ける思いだった。ここから先は一気の下り道。空気はひんやりしていているので、大量にかいた汗もたちどころに引いていく。

 坂を下りきったところにある末広という集落で、ニンニク畑の手入れをしているご夫婦に出会った。僕が今しがた九六位峠を越えてきたと言うと、
「わけぇもんは無茶しよるなぁ」と笑われた。
 たいして若くもないし、無茶をするつもりなんて全然なかったのだが、道の選択を間違えた結果、不本意ながらこうなってしまったのだ。
 79才のご主人は専業農家一筋だが、息子たちは町に働きに出ていて畑仕事を手伝うことはほとんどない。このような規模の小さな農業を続けていくのは難しく、おそらくは自分の代で農家は終わってしまうだろう。
「でもこんな山ん中でもなぁ、住めば都いうて、ええところよ。ここは昔から水が美味しいところでな。山から流れてくる水は透き通っとるんよ」


【ニンニク畑にはニンニクのにおいが漂っていた】


 臼杵は港町である。集落もまばらな山を越えてくると、ずいぶん大きな町にも感じる。
 町をリキシャで走っていると、高校生や中学生からケータイのカメラを向けられた。
「どこから来たんですか?」と聞かれたので、
「今日は別府から」と答えると、
「べ、べ、別府? マジですか?」と言われてしまった。
 そう、その別府からだよ。距離的には51キロだから驚くほど遠いってほどじゃないけれど、山をいくつも越えるから心理的にはかなり遠くに感じる。
 いやー、それにしてもあの峠道は本当にきつかったな。


【臼杵の町の女子中学生。将来の夢は看護師になること】



【臼杵の町の女子高生。リキシャの派手さに写メ撮りまくりだった】

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本日の走行距離:51.8km (総計:516.6km)
本日の「5円タクシー」の収益:2203円 (総計:15535円)

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by butterfly-life | 2010-03-18 22:55 | リキシャで日本一周
15日目:昭和の香りとアジアの香り(大分県・別府市)
 別府市で泊まったのは、亀川の商店街の一角にある古い木造アパートの一室だった。このアパートのオーナーである近藤さんご夫婦が招いてくださったのだ。
 もともとこのアパートは60年前に下宿屋として建てられたもので、この20年はまったく使われていなかったという。それを近藤さんが買い取って外国人留学生のためのアパート「K-HOUSE」として改装オープンしたのは3年前のこと。現在、ベトナム、マレーシア、中国、イギリスから来た女の子たち(ここは女性限定)が住んでいる。来月にはケニア人が入居する予定だ。
「日本人の若者はこんな狭くて不便なアパートには住みたがりません。でも留学生たちは少しでも生活費を抑えたいから、安いアパートを求めている。そんな彼女たちの役に立てればと思って始めたんです」


【昭和の香り漂うアパートの玄関】

 部屋の広さは4畳半で押し入れと小さなキッチンがついている。お風呂とトイレは共同。電車が通過すると窓枠がカタカタと音を立てて揺れる。昭和の香り漂う「神田川」的世界である。しかし驚くべきは家賃で、なんと月1万5000円である。しかも高速インターネットが付いてこの値段。はっきり言って破格だ。儲けを度外視していると言っていい。
「留学生のお世話をしているときに、ネックになっていたのが『住』だったんです。留学生は昼間授業に行っているから、バイトできるのは休日か夜。日本語もあまりできない子が多いから時給も最低。だから月に4,5万稼ぐのが精一杯なんです。その中から家賃と食費と交通費をやりくりしなくちゃいけない。一番高いのが家賃で、どんなに安いところでも月に2万5000円以上はするんです」
 それだったら自分でアパートを作ってしまえ、という近藤さんの行動力はすごい。もちろんこの格安アパートの噂は留学生のあいだで瞬く間に広がり、卒業して部屋を出て行く人がいても、すぐに別の学生がその穴を埋めるという状態が続いている。

 別府に外国人留学生が押し寄せるようになったのは、2000年に「立命館アジア太平洋大学(APU)」ができてからのことだ。APUはその名の通りアジア太平洋地域を中心に世界中から留学生を受け入れているユニークな大学で、今では世界97カ国からやってきた学生が学んでいる。多いのは中国人、韓国人、タイ人だが、ボツワナ、ガボン、トルクメニスタンなどのマイナーな国からの留学生もいる。
「別府の山の上に突然大きな大学ができたんで、最初はみんなびっくりしましたよ。10年前にはこの町には外国人なんてほとんどいなかったんですからね。それが今では3000人の外国人が大学に通っている。すごい変化ですよ」
 APUができたことによって、別府は突然多国籍の町になった。最初はどう接していいのかわからずに戸惑っていた町の人も、今では外国人を当たり前の存在として受け入れている。


【お世話になった近藤さんご夫婦】

 慣れない異国の地で生活する留学生たちは、様々なトラブルに直面する。事故にあったり、病気になったり、経済的に行き詰まったり。
 「ぽにぃてーる」という美容室を営む近藤さん夫婦は、留学生たちの髪を切るうちに相談事を持ちかけられるようになった。周囲とのコミュニケーションがうまく行かずに鬱病になった留学生を世話したり、日本の複雑な賃貸契約の手助けをしたり、交通事故にあった留学生の入院手続きや本国の両親への連絡を取り持ったり。
「でも実際にはスリランカにもバングラデシュにもベトナムにも行ったことがなかったんです。彼らが現地でどんな生活を送っているのか知らなかった。ネットで三井さんの「たびそら」を見つけたのはそんなときだったんです」

 K-HOUSEに住む4人のベトナム人学生に話を聞いた。4人とも日本語がとても上手いのに驚いた。会話はもちろんのこと、漢字もかなりの種類を読みこなすことができる。大学では最初の2年間に集中的して日本語のレッスンを行うのだが、そのあとは基本的に授業は英語で行われるし、留学生同士の共通語は英語になるので、日本語があまり上手くない留学生も多いという。
「やっぱりバイトですね。アルバイトをして日本人と仲良くなって、日本語が上手くなりました。最初は大学の寮に入っていたんですけど、2年目からこのアパートに住み始めて、別府でアルバイトを探したんです。ホテルのベッドメイク、レストランの皿洗い、コンビニ。いろいろな仕事をしました」


【ベトナム人のタオさんとホワイさん。4畳半の部屋を二人でシェアしている】

 平日の昼間は大学で授業を受け、夜と休日はアルバイトの日々。月に5,6万円の生活費はベトナム人の家庭にとって大きな負担なので、仕送りを期待するわけにはいかない。かといって無理にアルバイトを掛け持ちしたりすると、学業の方がおろそかになってしまう。実際、女子留学生の中には学校には内緒で水商売系のアルバイトをしている子もいるという。
「このアパートはとても安いので助かっています。でもちょっと寒いね。ホーチミンは冬はありませんから、日本の冬は本当に寒いです」
 実際のところ、このアパートは構造的に冬に弱い。薄い磨りガラスがはめ込まれた立て付けの悪い木枠の窓からはすきま風が容赦なく吹き込んでくるので、それをビニールテープで目張りしている状態だ。3月の半ばでもこたつは欠かせないし、冬には部屋の中でもダウンジャケットを着ていないと耐えられないそうだ。南国ベトナムから来た彼女たちにはよりいっそう堪えるのだろう。
 僕らはこういう木賃アパートを見ると、ある種の懐かしさ、昭和の香りのようなものを強く感じるわけだが、実際にここに何年も暮らすとなるとノスタルジックだけでは乗り越えられない現実的な「寒さ」や「不便さ」が立ち塞がる。

 このアパートの売りは天然の温泉がいつでも使えるということ。温泉の町・別府だけあって、蛇口をひねればすぐに熱い温泉が出てくるようになっているのだ。これは寒い冬の大きな味方。しかし住人にとって温泉以上に嬉しいのは、常時接続のインターネット環境が無料で使えることだろう。今や留学生にとってノートパソコンとネットは生活の一部。これさえあれば故郷の家族とも話ができるし、SNSで留学生仲間との情報交換もできる。


【料理をするホワイさん。本日の昼食はスパゲッティ】

「お休みの日はショッピングに行きます」とリンさんは言う。「でもウィンドウ・ショッピングだけね。バーゲンセールをやっていたら別だけど。ベトナムに帰るときにはいつも日本製の化粧品をお土産にするんです。資生堂はベトナムでもすごい人気です。でもベトナムで買うとすごく高い」
 南国の太陽照りつけるベトナムでも、「美白ブーム」が到来している。女性たちはつばの広い帽子をかぶり、マスクと手袋をつけて日焼けを防ごうとする。日本人女性の白さは豊かさへの憧れと重なっている。
「日本の女の人はとてもきれい。男の人もとてもおしゃれです。でも日本人の男性はあまり強くない。ソフトですね」
「ベトナムは違う?」
「はい。私はレストランでウェイトレスをしていますが、カップルでご飯を食べに来たのに、女の人がお金を払うことにびっくりしました。そんなことはベトナムでは考えられません」
 女の人が一方的におごるかどうかは別にして、今の若い日本人にとってデートでのワリカンはさほど珍しいことではない。前はあなたが払ったから、今日は私が払う、というのもアリだろう。でもベトナムではどんなときでも男性が支払うのが当然。女に払わせるなんて男の風上にも置けない軟弱野郎なのだ。
「日本人は自分の気持ちをはっきり言葉にしませんね。ベトナム人なら好き、嫌い、をはっきり相手に伝えるんです。でも日本人はなかなか言わない。だから何を考えているのかわからないときがあります」
「あなたのことが好きだと言って、断られたら傷つくから言わないのかもしれないね。日本では『草食系男子』が増えているって話なんだよ」
「ソウショクケイ?」
「あの、草を食べる牛とか馬とみたいな男の子ね。肉をがつがつと食べるトラやライオンと違って、自分から積極的に口説いたりしないんだ。たぶんベトナムの男は肉食系なんだと思うよ」
 このアパートに住む6人のベトナム人は仲が良く、夜になるとよく誰かの部屋に集まって話をしているという。話題は遠距離恋愛中の恋人のことや、好きな映画や音楽について。日本人の若者とあまり変わらない。
 違っているのは真面目さや必死さだろうか。決して安くはない留学費用を親に負担してもらっているからには、なんとしてもその期待に応えなければいけない。日本で吸収できることは最大限吸収して、故郷でのキャリアアップに役立てたい。そういう思いが伝わってくるのだ。


【近所に住んでいるバングラ人留学生の二人がリキシャの出現に大はしゃぎ】

 別府にやってきた翌日は雨でリキシャでは動けなかったので、近藤さんの車でAPUの構内を見学させてもらうことにした。大学は春休み中なので学生はまばらにしかいなかったが、学生寮の世話係をしているタイ人留学生のインさんに話を聞くことができた。
 インさんは2007年にAPUに入学し、来年の9月に卒業する予定だ。日本での就職を希望しているので、現在は「シュウカツ」中である。リーマンショック以降の不景気のせいで、日本人学生にとっても外国人留学生にとっても就職事情は厳しいようだ。
「私の夢は自分で事業を興すことなんです。タイと日本の食材を扱う貿易会社を作りたい。食べ物にはとても興味があります。日本食も好きです。刺身も好きだし、わさびも食べますよ。でもタイの料理と違ってスパイシーじゃないから、少し物足りない。ラーメンにも唐辛子をたくさん入れて食べています」
 彼女はインターン制度を利用して、1ヶ月間京都の池坊で働いていた。池坊といえば華道の家元である。最近は日本国内にとどまらず、アジア各地にも海外支部を作って華道の普及に努めているのだそうだ。インさんはそこで組織のマネージメントの実際を学び、日本文化も学んだ。
「先生に教わってお花も生けました。すごく面白かったです。華道には『何もない空間』が必要なんですね。私はつい一度にたくさんの花を生けようとするんだけど、そうするとひとつひとつの花が弱くなってしまう。『あいだ』を使うことが大切なんだと教えてもらいました」
 彼女が日本に来て驚いたのは、町の清潔さだった。通りにも川にもゴミが落ちていない。バンコクのゴミだらけの川を見慣れた彼女には、それが新鮮に映ったのだ。
「日本人はマナーがいいし、サービスもいいですね。お店でどこに何があるか店員に訊ねたら、すぐにその場所に案内してくれる。タイでも他の国でもそんなサービスはしてくれません。あっちにあるから自分で探せって言うだけです」
 日本人の礼儀正しさや公共マナーの良さは、実はもっともアピールすべき「日本の美点」なのかもしれない。僕らはそれをごく当たり前のことだと思っているけど、外国に行けばそうではないことがわかる。
 町を清潔に保ったり、交通の流れをスムーズにしたりするために必要なのは、ルールではなくて個人のマナーなのだ。交通カオスのバングラデシュを旅してきた僕にはそう思えるのである。


【笑顔がすてきだったインさん。APUの学生寮にて】


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本日の走行距離:0.2km (総計:464.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:2331円 (総計:13332円)

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by butterfly-life | 2010-03-18 00:20 | リキシャで日本一周
03/14 14日目:県ミカン性(愛媛県・八幡浜市→大分県・別府市)
 伊予市を出発して、南西の八幡浜市に向かう。ここから九州・大分に向かうフェリーが出ているのだ。できれば今日中に九州に渡ってしまおうというのが本日の計画。
 伊予市を出るといきなり上り坂が待ち構えていた。けっこうきつい坂で息が上がる。後ろから次々とカッコいいスポーツ自転車にまたがったサイクリストたちが追い抜いていく。今日は日曜日で天気もいいので、絶好のサイクリング日和なのである。



「こんなんで旅してるんかぁ、すげぇな」
 ベテランサイクリストのおじさん二人が自転車を止めて話しかけてきた。体にぴっちりとしたウェアを着て、派手な色のヘルメットを被り、近未来的なバイザーをかけている。本格的な自転車愛好家だ。太ももの筋肉は女性のウェスト並みに太い。かれこれ30年ぐらいスポーツサイクルに乗っているそうだ。
 もちろん愛用の自転車は徹底的に軽量化されたもの。8キロしかない。めちゃくちゃ軽い。
「リキシャは100キロもあるんです。それにギアがひとつしかない」
 僕は肩をすくめて説明する。彼らとならリキシャで坂道を上る辛さをシェアできると思ったからだ。
「自転車は体にえぇよ。運動したあとやったら何を食べてもうまい。山の空気も海の空気もうまい」
 その通りだ。メタボが気になる人はスポーツクラブに行くより自転車を漕ぎましょう。その方が経済的だし。まぁリキシャを漕ぐ必要はないけどね。

 国道378号線では、たくさんの人から食べ物、飲み物をいただいた。中でも圧倒的に多かった柑橘類で、ポンカン、伊予柑、甘夏、デコポン、その他名前もよくわからない様々なミカン類を次々ともらった。味も食感もそれぞれに違う。酸味が強いものあれば、ものすごく甘いものもある。ジューシーなものもあれば、食べ応えのあるしっかりとした果実を持つものもある。ミカンにこれほどの種類があるとは知らなかった。最終的には大きめのビニール袋からミカンが溢れ出す有様で、「こりゃ一人ではよう食べきれんなぁ」と頭を抱えることになった。

 愛媛といえばミカン。そのイメージは全然間違っていない。いや、我々が想像する以上に「愛媛はミカンの国」なのである。何かあったら「じゃ、ミカンでも」と差し出すのが愛媛の県民性、いや県ミカン性なのである。いっそのことミカンを通貨にしたらいいんじゃないかと思うぐらい。


【収穫のシーズンではないが、ミカンがなっている木もあった】


【ミカンの木を植えるために畑を掘り起こしているおじさん】

 ミカン農園を経営している中村さんからは、(当然ながら)ミカンと缶コーヒーとドーナツをいただいた。中村さんはトラックに牛を4頭積んでいた。
「これから売りに行くんよ。明日になったら屠殺されることが決まってるんよ」
 ドナドナである。自分たちの運命を知っているからなのか、牛たちは興奮して口から泡を吹いていた。
「牛が興奮すると、目の色が変わるんよ」
 確かに牛はビー玉のように透き通った青い目をしていた。牛にそんな習性があるとは知らなかった。
「この牛は『愛媛の絹牛』いうてブランド牛じゃけ、100グラム1000円もするんよ。1頭が100万円。4頭で400万。このトラックより高いかもしれんわ」
 この牛は中村さんの持ち物ではない。彼は農業の傍ら、トラックの運転や公園の掃除などの仕事もアルバイトでこなしているのだ。
「昔は牛も飼ってたけどな、採算が合わんのでやめてしまった。安い輸入牛肉が入ってくるようになって、国産肉は厳しいんよ。デフレ、デフレでな、農業も畜産も難しいわ」
 中村さんは家に40アール(1200坪)のミカン畑を持っている。農業の現状は厳しいが、やりようによってはちゃんと儲けが出る。自分の仕事を誠実にこなすこと。それが中村さんのモットーだ。
「命あるかぎり働き続ける。そう決めとるんよ。僕は64やけど、まだまだ働くよ」


【中村さんのモットーは誠実と正直】


 378号線の双海・長浜間、通称「夕やけこやけライン」はとても走りやすい道だった。海沿いを緩やかにうねりながら進む道路には、愛媛県では珍しく幅の広い遊歩道が設けられているので、リキシャが交通の流れを妨げることがない。
 この道はドライブ、ツーリング、サイクリングに適しているらしく、珍しい大型バイクやクラシックカーに乗った人々とよくすれ違った。なぜかサイドカーを付けた大型バイクも多かったが、もちろんサイドカーには誰も乗っていない。じゃあサイドカーの意味ないじゃん、と突っ込みたくなるのだが、よく考えてみれば僕のリキシャも同じようなものなのだった。


【夕やけこやけラインは緩やかなカーブが続く道】

 昼食は双海にある「さんぺい食堂」でごちそうになった。いかにも古そうな食堂のそばを通りかかったときに、割烹着姿のおばさんたちに「これは何なの?」と呼び止められたのだ。おばさんたちをリキシャに乗せてあげると、それじゃお昼でも食べて行きなさいよ、と店に招かれたのだった。
 「さんぺい食堂」は食堂の看板を出してはいるものの、実際には仕出しの専門店である。食堂はずいぶん前に閉めてしまったそうだ。今日は双海町に住む新婚夫婦がご近所さんを集めて披露会を行うので、朝から62人分の昼食を作っていたそうだ。すべて地元の材料を使った手作り料理なので時間がかかる。朝4時から4人がかりで料理をして、ようやくお昼に間に合ったそうだ。


【さんぺい食堂のおかみさん】

 仕事が一段落し、ほっとしたところで余ったおかずでお昼にでもしましょうか、というタイミングで通りかかったので、本来は宴席で出されるご馳走の数々をいただくことができたわけだ。本当にラッキーだった。
 焼サザエ、子持ちイカの煮物、鯛とヒラメのお刺身、イカのお造り、山菜の煮物などなど。どれも材料がとびきり新鮮だし、味付けもシンプルで家庭的。腹が減っているものだから、遠慮なんかせずにばくばくといただいてしまった。あぁ美味しかった。



 食後は4人のおばさんたちと一緒にお茶を飲みながらテレビで「NHKのど自慢」を見た。毎週欠かさず見ているのだそうだ。僕自身は「のど自慢」を見るのは数年ぶりで、まだ番組が続いていることに(そしてまったく同じスタイルであることに)軽いショックを覚えたのだけど、侮るなかれ地方には彼女たちのような「のど自慢ファン」がおおぜいいるのである。偉大なるマンネリ。
 今日のゲストは坂本冬美と鳥羽一郎。
「鳥羽一郎かぁ。私は嫌いやなぁ」
 といきなり辛口の意見が飛び出す。鳥羽一郎と言えば「海の男」なのに、漁師町で支持されていないのはなぜだろう?
「それじゃ誰のファンなんですか?」
「氷川くんやねぇ。氷川きよし。コンサートにも4回行っとるんよ。でも最近あんまりテレビで見かけんようになったけん、人気が落ちとるんやないかと心配しとるんよ」


【さんぺい食堂で働く双子のおばさん。「仲は良いんですか?」と聞くと「しょっちゅう喧嘩しとるよ」とのこと】

 「さんぺい食堂」をあとにして、378号線をさらに進む。八幡浜市に入るためには大きな山を二つ越えなければいけない。急な上りとトンネル、少し下ってまた上りとトンネルの繰り返し。
 トンネルはどうも苦手である。照明のオレンジ色のトーン、何倍にも反響して耳に届くトラックのエンジン音、低い天井と迫り来る壁、よどんだ空気。背後から大きなカマを手にした悪魔がゼーゼー息を切らせながら迫ってくるような不気味な怖さがある。走っていると嫌な汗をかいてしまう。一刻も早く抜け出したいと思う。けれど焦りは禁物だ。キープレフトを守りながらあくまでも慎重に進まなければいけない。


【これは歩行者と自転車専用のトンネルなので安全だ】


 最後のトンネルを抜けると、八幡浜の港まで一気の下り坂。八幡浜は周りを山に囲まれた港町で、山肌には隙間なくミカンの木が植えられている。秋には山が一斉にミカン色に輝いて、それはそれは美しい光景なのだそうだ。
 八幡浜は小さな町なので、港にはものの5分で着いてしまう。別府行きのフェリーは17時25分発。あと15分で出発なので、大型トラックが次々と乗り込んでいる。今夜は八幡浜に一泊してもいいかなとも思っていたのだが、下り坂の「勢い」を借りてこのままフェリーに乗ってしまうことにした。

 ちょうど2週間で四国を横断した。
 これから九州を南下する旅が始まる。


【八幡浜と別府を結ぶフェリーの船上。甲板で語らうのはスイス人のエイドリアンと彼のお父さん。二人で日本を旅しているそうだ】


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本日の走行距離:63.7km (総計:464.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:5250円 (総計:11001円)

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by butterfly-life | 2010-03-15 19:17 | リキシャで日本一周
13日目:袖触れ合うも多生の縁(愛媛県・伊予市)
 松山を出発してすぐに雨が降り始めた。天気予報通りといえばそうなのだが、予想以上に激しい降りだった。たまらず近くの人形屋さんの軒下に避難して、雨が止むのを待つ。今日はあまり先へは進めそうにない。
 考えてみれば徳島にも愛媛にも人形屋が多かった。雛人形と五月人形と鯉のぼりを専門に扱う店である。今はちょうど雛祭りが終わったばかりだし、じゃあ次は端午の節句ですねというかき入れ時なのだろうが、シーズンが終わってしまったらどうするんだろう。たとえば7月8月の人形屋さんは何をしているのか。僕の長年の疑問である。
 人形というのは一年を通して売れるものなのか。あるいは年の前半で稼いだお金で後半は悠々自適に暮らしていけるのか。もし知っている方がいたら教えてください。



 そんなことを考えているうちに、雨も小降りになってきたので出発する。とりあえず松山市の南にある伊予市を目指す。伊予市に入ってすぐに、軽自動車から降りてきたおばさんから話しかけられた。
「あんた、何か困ったことがあったら、ここに電話しなさいね」
 そう言って手渡されたのは、とある宗教法人のパンフレットである。こんなところで宗教の勧誘をされるとは思わなかった。どう答えていいのかわからなかったので、とりあえず差し出されたパンフレットを受け取る。
「ここの神様はほんまにすごいんよ。神様がな、バーンと来るんよ」
 おばちゃんはアントニオ猪木がよくやる「かかって来い!」みたいに両手で手招きをする。
「バーンと、ですか?」
「うん、すんごい奇跡が起こるんよ。あらゆる苦しみが解決されるんよ」
「お母さんにはどんな苦しみがあったんですか?」
「借金や。借金まみれやったんや。いろんな商売に手ぇ出したり、出版詐欺にあったり、まぁいろいろあってなぁ。金利がかさんで毎月の返済だけでも大変なんよ」
「で、神様のおかげで借金がなくなった?」
「いや、まだ残っとるんやけどな。でもすごいんよ。この神様に出会ってから、すぐにFXをやってみたんよ。ほしたら1日で580万円も値上がりしたんや」
「じゃあそれで借金が返せたんじゃないんですか?」
「それがなぁ、うちはもうやめようと思ったんやけど、FXの専門家って人が『このまま置いといたら、もっと上がります。1000万、2000万になる』って言ったんで、置いといたら・・」
「そしたら?」
「3日でゼロになってしもうた。その3日間は寝られんかったよ。ずっとパソコンの前に座って、画面を睨んどった。ゼロになったときには意識朦朧よ」
「じゃあ奇跡はおこらんかったんですね?」
「まぁ私にはな。でも私がこの神様を紹介した人には、みんな奇跡がおこっとるんよ。近所の若い奥さんは動かん足が動くようになったし、おばあさんの目が見えるようになったこともある」
 トホホな話である。漫画家の西原理恵子がFXで1000万負けた話をしていたけど、ようするあれはギャンブルなのだ。為替相場の短期的な値動きは誰にも(専門家にも)予想できない。何百倍ものレバレッジをかければ、数日で莫大な金額が上下するけれど、欲をかけば元の木阿弥。それは神様の御利益でも何でもないと思う。まぁ損をしなかっただけで良かったじゃない。

 おばちゃんの話は終わらない。まだ入信して2年だけど、とにかくこの神様はすごいのだと力説する。
「まだ2年なんですか?」
「ほうよ、2年前に誘われて入ったんよ。けど、これまでにもいろんな宗教に入っとったんよ。創価学会、エホバの証人、真光教・・・で、最後に辿りついたんが、この神様なんよ」
 宗教的に節操がないのが日本人の特徴だとよく言われるけれど、このおばちゃんのように手当たり次第と言ってもいいほど無節操に信仰を変える人も珍しい。仏教系、キリスト教系、神道系、なんでもござれの闇鍋状態。次に来るのはイスラムかってな具合だ。たぶん熱しやすく冷めやすい性格なのだろう。何かのきっかけで「これだ!」と思ったらとことん入れあげ、その熱が冷めると他の「神様」を探す。

 いい人なのである。人が良くて、疑うことをしないから騙される。しかもただ善良なだけではなくて、「どこかに楽な儲け話がないかな」とか「奇跡が起こらないかな」という誰もが持つ欲望も人一倍強く持っているから、実にあっさり騙されてしまうわけだ。詐欺師にしてみたら『鴨ネギ』状態である。

 おばちゃんはパンフレットに自分の名前と電話番号、メールアドレスを書いてくれる。何かあったら連絡せよと念を押して。
「でも今はメールは見られへんの。借金でネットが止められとるから。アハハハ。でも来月に借金返したら繋げるようにするわ。大丈夫、大丈夫」
 それにしても借金まみれの自分を語るおばちゃんの明るさは一体何だろう。周りの人間は迷惑しているのかもしれないが(きっとしているだろう)、彼女自身はけっこう楽しそうに生きているように見える。

「ところであんたは何年?」
「寅年生まれですけど」
「トラかぁ。だからバングラデシュなんやな」
 おばちゃん意外に博識である。そうバングラデシュはベンガルトラが生息していることで有名なのだ。
「まぁあんたもがんばってな。寅年なんやから。今年、年男やろう? でも、ほんま、何か困ったことがあったら電話するんやで。袖触れ合うもなんとかの縁って言うやんか」
 彼女はそう言い残して、そそくさと軽自動車に乗って去っていった。一方的に早口でまくし立て、相手の話もろくに聞かないうちに去る。鮮やかなヒット・アンド・アウェイだった。

 おばちゃんの言うとおり『袖触れ合うも多生の縁』がこの旅のテーマである。5円タクシーとは「ご縁」を可視的に示す装置なのですね。いろんな出会いがある。いろんな縁がある。今日のような不思議な出会いも「ご縁」なのである。



 昨日の疲れも残っていたし、雨が降ったり止んだりというはっきりしない天気が続いていたので、今日は伊予の町に泊まることにする。小さな漁港と小さな駅、寂れた商店街のある町だ。昔はカツオ節の「花かつお」で有名だったそうだ。
「今はみんな大きなスーパーへ買い物に行きよるけん、お客さんは少ないわなぁ」
 婦人服の店を営むおじさんがため息混じりに言う。確かに通りを行き交うのは買い物カートを押して、カタツムリのようにゆっくり進むおばあさんばかり。国道沿いの100円ショップや大型スーパーの賑わいとは好対照だ。おじさんのお店も昔なじみのお客を相手にしているだけ。先細りである。
「こういう時代じゃけ、仕方ないわなぁ」

 天気のせいもあるのかもしれないが、伊予港もうら寂しい気分にさせられる港だった。
 空は相変わらずどんよりと曇っていて、吹き付ける風は冷たい。魚の加工工場の周りにはたくさんのカモメが群がっていて、切り落とした頭や内臓が捨てられるのを待ち構えている。魚のにおいがぷーんと漂ってくる。土曜日だというのに子供の姿は見かけない。歩いているのは老人ばかりだった。

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本日の走行距離:22.6km (総計:400.9km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:5751円)

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by butterfly-life | 2010-03-13 21:10 | リキシャで日本一周
12日目:今治街道をゆく(愛媛県・松山市)
 今治はすてきな町だった。
 港の近くに大きな商店街があるのだが、そこはまだ「シャッター街化」していなくて活気がある。車社会のよそよそしさを感じることが少なく、行商のおばあちゃんが荷車を押して歩いているようなレトロな雰囲気も残っている。



 今治はタオルと漁港で知られた町である。商店街の魚屋には朝から新鮮な魚が並び・・・と言いたいところだが、おかみさんの顔は渋い。「最近魚がとれんのよ」とぼやいている。
 港にいる漁師に話を聞くと、ここ数日は魚がまったくとれないので困っているという。今日も出漁を見合わせた。出ても燃料代の無駄になるだけだからだ。
「どうして魚がとれないんです?」
「ほなこと魚に聞いてくれよー。それがわかったら漁師なんてしとらんわ」
 いつも同じように水揚げがあるわけではない。それが漁の実情のようだ。今日のように漁がお休みの日には漁師仲間と世間話をしたり、パチンコに行ったりする。たまに勝つ日もあるがだいたいは負ける。でも1日3000円と決めているから大負けすることはない。

「底引き網漁やからいろんな魚がかかるよ。太刀魚、イカ、タコ、ハマチ、鯛。でも最近は魚の値段が安いし、漁師も厳しいんよ。肉の方が安いじゃろう? 油もたこなっとるわなぁ。昔は一回の出漁で1万円かかったものが、今では倍の2万円や。燃料をドラム缶一本使うからな」
 漁師のおっちゃんたちはみんなよく日焼けしていて、似たような体型をしている。ラグビー選手のようにがっちりとした固太り型。海の上は男の世界、肉体労働の現場なのだ。
「そやけどいまさら他の仕事ができるわけでもないからな。わしら中学を出てからずっと漁師をやっとるし。まぁ漁師一本でがんばるしかないんよ」





 今治市街を離れて松山に向けて南下する。海岸線に沿って蛇行しながら進む「今治街道」をひた走る。右手に見える瀬戸内海は春の穏やかな日差しを受けてきらきらと輝いている。潮のにおいがする。波は穏やかだ。
 途中で出会った漁師さんからクリームパンを、八百屋のおかみさんからはポンカンをいただく。ありがたい。この組み合わせは疲れた体には最高の贈り物だ。甘いパンはすぐにエネルギーに替わるし、筋肉の疲労回復にはクエン酸とビタミンCが効く。それにしてもポンカンの甘さ!



 街道沿いに小さな地蔵をまつった社があって、そこに花を飾っているおばあさんがいた。どうしてこんなところにお地蔵さんがいるのか。返ってきた答えは意外なものだった。
「3年前にここでじいさんが亡くなったんよ。交通事故じゃった。この道を渡ろうとしたときに車にはねられたなぁ。即死じゃった。今でもその光景が頭から離れんのよ」
 街道を走る車は猛スピードで流れているわけではないが、カーブが多いので人に気がつくのが遅れやすいのだろう。この近くには他にも同じように「交通安全」と刻んだお地蔵さんがあったから、事故で亡くなる人が多い危険地帯なのだ。
「この花は自分とこで育てとるものなんよ。毎日来られたらええけど、私も足が悪いからなぁ。あんたも車には気ぃつけてな。まぁこのキラキラした乗りもんやったら、車もよけてくれるやろうけど」



 おばあさんの言うとおり、僕が一番恐れているのは交通事故である。リキシャは小回りがきかないうえにブレーキの効きも悪いので、何か起こったときにとっさに避けることができない。だからなるべく目立って、他の車に「私を避けてください」とアピールするしかない。幸いにしてまだ危険な目には遭っていないが、この先はわからない。
 どうかこのまま安全に旅を続けられますように、という願いも含めて、お地蔵さんに手を合わせた。



 今日は64キロ進んだ。今までの最高記録である。アップダウンは少なかったが、夕方に向かい風が強まったのは辛かった。疲労して「足がない」状態なのに容赦のない向かい風が吹き付ける。ペダルを踏みつけてもなかなか前に進まない。
 それでも何とか5時前に松山市に到着。路面電車が町中を走る様子は情緒があっていいが、それを楽しむ余裕もなく、ホテルのベッドに倒れ込んだ。


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本日の走行距離:64.5km (総計:378.3km)
本日の「5円タクシー」の収益:950円 (総計:5751円)

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by butterfly-life | 2010-03-13 08:48 | リキシャで日本一周
徳島のテレビ放送
3月11日に四国放送「ゴジカル!」という番組内でリキシャが紹介されました。
5分ほどのVTRの中にいろいろな要素が盛り込まれていてとても面白いです。
さっそくYouTubeにアップしていただいたので、四国放送を見られない方もぜひごらんあれ。


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by butterfly-life | 2010-03-12 06:59 | リキシャで日本一周
11日目:スクールリキシャ登場(愛媛県・今治市)
 二日間降り続いた雨もようやく上がって、朝から晴天が広がっている。空気はひんやりとしているが、リキシャの走行にはちょうどいいぐらい。しかし万全のリキシャ日和とは言い難かった。向かい風が強かったからだ。南西からの風6m。猛烈な風というほどではないけれど、この程度の風でもまともに正面から受けると、ペダルが重くて前に進まないのである。前にも書いたけれど、リキシャの幌というのは見事に「帆船の帆」の役割を果たしてしまうのだ。


【大漁旗も見事にはためくほど風が強かった】


【西条市の漁港で。漁船に乗り込もうとするおじさん】

 新居浜は昔「別子銅山」という鉱山があった関係で、住友金属や住友化学などの大きな工場が多い。製紙の町・川之江もそうだったが、このあたりの海岸線は工場のトタン屋根と煙突で占められているようだ。

 西条市を抜けて今治街道を北上する。今治ではお遍路さんとよくすれ違った。白装束を着て杖をついて歩く夫婦も多いし、お遍路バスツアーで回ってしまう(それはお遍路ではない、という批判もあるようだが)団体旅行者も見かけた。
 昼食を食べようと入った「すき家」でも、若いお遍路さんに出会った。大学2年生の春休みを利用して、歩いて四国を巡っているという。白衣と杖と竹笠ではなくて、バックパックとトレーナーとスニーカーだったけれど、とにかくお遍路・四国八十八カ所巡りである。徳島を出発して28日目で59カ所の札所を回ったという。
「とにかく歩くのが好きなんです。遠くまで歩くと気分がいいんです」

 基本的には野宿をしているが、無料で泊めてくれるお寺があるときにはそこを使わせてもらっている。昨日のようにひどい雨が降った日には、公衆トイレで眠ったそうだ。これまでの1ヶ月間で使ったお金は5万円足らず。ほとんどが食費。ハードコアな旅人である。
 彼のお遍路はもうすぐ終わるが、そのあとも大学には戻らず、一年間休学して徒歩で日本一周をするつもりだという。それが終われば今度は世界を歩くということになるかもしれない。かなり重度の「旅中毒」にかかっているように見受けられる。彼の行く末は大丈夫だろうか。ま、僕が言うことじゃないけどね。


【59番札所・国分寺にて。バスツアーでやってきたお遍路さんの団体】

 それにしても「すき家」は我々旅人にとってなんと頼もしい存在だろうか。安い値段でできるだけ多くのカロリーを摂取したい徒歩および自転車ツーリストにとって、わずか500円で十分な満腹感を得られる「すき家」はまことに得難い旅の友だと言っていいだろう。お遍路の彼だって、心許ない財布の中身と相談しながら、「よし、ここはいっちょ牛丼特盛りだ!」と気合いを入れて入店したに違いない。

 今治市に入ってからしばらく田園地帯を走る。2両編成(しかもほとんど乗客が乗っていない)のJR予讃線の列車がリキシャを追い抜いていく。
 下校途中の小学生たちから「5円タクシーやって。乗せてぇ」とせがまれる。その辺をぐるっと一周して戻ればいいだろうと思っていると、「なぁ、うちまで送ってぇや」と言われる。なかなか人使いの荒い子供である。しかしこれも「ご縁」。むげに断ったりはできない。
 6人の子供を家が近い順に二人ずつ乗せてあげることにした。残りの子供は走ってリキシャを追いかける。家が近づくとメンバーチェンジ。「私の方が先やで」なんて喧嘩を始める子もいて、順番を決めるのも一苦労だった。





 田舎の小学生たちは本当に無邪気だった。派手な異国の乗り物に好奇心を刺激されている。一年生の男の子がまだ真新しいランドセルを背負って、息を切らせながらリキシャの横を走っている。
「おとうさん何してるん?」と訊ねたら、
「工場で船つくってる」とのこと。今治には造船所が多いのだ。
 無事に家まで送り届けると、リーダー格の子がみんなの分の運賃30円を払ってくれた。どうもありがとう。



 本日は今治で「スクールリキシャ」の登場とあいなったわけだが、リキシャの本家であるバングラデシュやインドにもスクールリキシャは存在する。どういうわけか子供たちは「ミニ護送車」とも言うべき四方を鉄板で覆われた狭い場所にぎゅうぎゅうに押し込められていて、それを一人のリキシャ引きが引っ張るのである。決して速くもなければ快適でもなさそうだ。交通事情が最悪の彼の国で、子供たちを事故から守るためなのだろう。


【これはネパールの「スクールリキシャ」。ぎゅうぎゅう詰めである】

 小学生たちを家に送り届けてから元の道を戻っていると、ほうれん草の収穫をしているおじさんに出会った。僕のリキシャを見て、「それ、リンタクやな」と言う。
 輪タクとは昔日本にあった自転車タクシーのこと。自動車が普及していない頃は、手軽なタクシーとして繁盛していたようだ。戦争が終わってしばらくのあいだは、今治でも輪タクが走っていたという。夜に病人が出たときなどには重宝したそうだ。



「うちは専業で農業をやっとるけどな、全然儲からへんよ。ここ20年ぐらいかな、農家が最低の仕事になってしもたんは。そりゃ北海道みたいに大規模な農家は違うよ。でもうちみたいに小さい畑で野菜をつくっとるようなところは難しい。息子も働きにでとるけん」
 おじさんは今日出荷する分のほうれん草を3箱分収穫して車に乗せた。これにて今日の仕事はおしまい。あとはお風呂に入ってご飯を食べて眠るだけ。
「愛媛は温暖で自然災害も起こらんから、ええところじゃよ。でも人間はけっこう世知辛いんよ。そりゃ南予に住んどるお百姓はみんなのんびりしとるよ。でも北に住んでいる商売人は、なんといったらええかなぁ、金儲けが上手なんよ。昔からそうよ。日本で最初に月賦払いを始めたんも今治の人間なんよ。はけん、『伊予の人間が歩いたあとには草一本生えへん』って言われたもんよ」
 その昔、今治の商人は漆器と陶器を船に乗せて西日本各地で売り歩いていたそうだ。そのときに生まれたのが月賦(今でいう分割払い)だった。漆器は高価だったので、当座の頭金だけを用意すれば品物が手に入る月賦払いは庶民のあいだで人気を博したらしい。

 ところで僕が出会った伊予商人(なんて今では誰も呼ばないだろうけど)は全然「世知辛い」人ではなかった。小さな八百屋で一袋150円ミカンを買ったのだが、レジに持って行くと何個か腐っていることがわかった。
「20円でええよ」
 おばさんはあっさりと言った。一部が腐っているといっても、7割方は無事である。なのに破格の20円。まぁこのまま置いておいても捨てるだけなのかもしれないが、このおおらかな応対に好感を抱かないわけにはいかなかった。


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本日の走行距離:49.5km (総計:313.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:75円 (総計:4801円)

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by butterfly-life | 2010-03-11 21:55 | リキシャで日本一周
この国のはたらきもの(色鉛筆画家・川上さん)
 徳島県三好郡に住む川上和彦さんは、「多発性硬化症」という難病に冒されながら色鉛筆で絵を描き続けている画家である。
 多発性硬化症とは中枢神経系の脱髄疾患のひとつ。神経の線を覆っている髄鞘というものが壊れて、中の神経がむき出しになってしまう病である。電線のビニールカバーが破れて銅線が露出した状態に近い。原因はまだわかっていない。日本では1万人に1人の割合で発生しているが、年々増加傾向にあるという。薬物による対処療法は行われているが、根本的な治療法は見つかっていない。症状はどこの神経が侵されるかによって千差万別で、川上さんの場合は視力低下、手足のしびれなどの症状にたびたび襲われた。

 最初に発病したのは18歳の時。しかし症状はあまり重いものではなく、再発のたびに治療を続けながら日常生活を支障なく送っていた。しかし2001年に突然大きな再発を起こし、下半身が完全に麻痺してしまう。車椅子での生活を余儀なくされることになった。
「医者に『もう歩けるようにはなりません』と宣告されたときはほんまに落ち込みました。真剣に自殺を考えたこともあったんです。11階にある病棟の窓から飛び降りたら楽になるやろうなぁと考えたり、眠れないと嘘をついて処方された睡眠薬をため込んだりね。睡眠薬は妻に見つかって、『何これ?』と笑って取り上げられてしまいましたけどね」
 気楽に振る舞っているように見えた奥さんが、実は帰り道につらくて涙を流していたと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

 高校時代は陸上部で短距離を走っていた。バイクに乗るのも好きだった。でも病によってそんな当たり前の日常生活を諦めざるを得なくなった。
「入院中は鬱との戦いでした。リハビリとともに精神科の医者にもかかっていました。でも退院してまた家族と一緒に過ごすことを希望にして、何とか乗り切ったんです。ところが退院してから二度目の鬱に襲われた。その当時住んでいた古いアパートはバリアフリーどころかバリアだらけでね。自由に外に出ることもできないし、トイレにも入れなかったんです」



 一日中部屋にこもり、何をすることもなく過ごしていた川上さんに24色の色鉛筆を贈ったのは奥さんだった。「少しでも気晴らしになれば」という思いからだった。水を汲む必要のある水彩画は準備に手間がかかってしまうが、色鉛筆なら簡単に取り組むことができる。
 しかしプレゼントされた色鉛筆を実際に手にとって描き始めるまでには時間がかかった。色鉛筆で絵を描くのは小学校以来一度もなかったし、どう描いていいのかわからなかった。
「あるときテーブルの上のリンゴに目がとまったんです。すごく鮮やかな赤い色をしたリンゴだった。それがあまりにもきれいだったんで、思わず色鉛筆を手にとって描き始めたんです。いったん始めると時間が経つのを忘れるぐらい夢中で描き続けていました。普段見慣れているリンゴも、いざ描き始めてみるといろんな色の要素、光の反射が混じっていることに気がついたんです。それをじっくりと観察し、色鉛筆を動かしているあいだは足が動かないこと、病気のことを忘れられるんです」



 リンゴから始まって、缶コーヒー、にんじんやナスなどの身近なものを次々に描いた。足が不自由になってから近所の人にたくさんおすそ分けをもらうようになったのだが、それに絵でお礼をしたいと思ったのだ。
「絵を描いているあいだは、病気のことを忘れられるんです。目の前のものを細かく観察しながら、次に何の色を塗るかを考えていく。たとえばリンゴを描くときにも赤鉛筆だけを使っているんじゃないんです。まず黄色を塗って、それから青、それからオレンジ、そして赤を重ねていく。実際にリンゴが色づく過程を再現してやると、不思議とリンゴが生き生きとしてくるんです」

 もともと川上さんには自分の絵を発表するつもりはなかった。あくまでも個人的な生き甲斐として、毎日の心の支えとして描き続けていた。ところが近所の人たちに絵をプレゼントするうちに、次第に「次はうちの犬を描いて欲しい」とか、「わたしの愛車を描いてちょうだい」といった依頼が来るようになった。地元のカフェで個展を開いたり、インターネットでポストカードを売り始めるようになると、少しずつファンが増えていった。
「僕の描いた絵を人に喜んでもらえる。それはもちろん嬉しいですよ。画家と呼ばれるのは恥ずかしいし、自分ではよう言わんのですけど、でも人が喜んでいるのを見ると『自分が生きとってもええんやなぁ』と思えるんです」





 川上さんの絵は温かく、かわいらしい。小さなもの、身近なものへの深い愛情が素直に伝わってくる。たとえ自由に外を歩けなくても、テーブルの上にこれだけ豊かな世界の広がりがある。宇宙がある。そのことに気づかせてくれる絵だ。

 川上さんがライフワークとして描いているのは、介助犬「たんぽぽ号」である。川上さんが「たんぽぽ号」に出会ったのは2005年。一人で家にいるときや車椅子で外に出るときに、靴を脱がせてくれたり、落とし物を拾いに行ってくれたりする。
「でも何よりも嬉しいのは、そばにいてくれるってことです。子供たちが学校に行って、妻が働きに行っているとき、家でずっと一人でおらんとあかんときに、ポポがいるだけで安心する。ほんとに頭のいい犬なんです」







 介助犬の存在は日本ではまだあまり認知されていない。僕も言葉だけは知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。それもそのはずで、現在、日本にはたった48頭の介助犬しかいないのだという。四国には「たんぽぽ号」1頭のみ。訓練をする施設やトレーナーが不足しているし、養成にかかる費用も維持費もとても高いそうだ。
 川上さんは「落ちた携帯電話を拾う」という命令を実演してくれた。川上さんの声を聞くと、たんぽぽ号はすばやく携帯を口にくわえて主人の元に戻ってきた。普通の犬だとアゴの力で携帯を壊してしまう。ちょうど良い力加減を覚えるのが難しいのだという。

 川上さんのご自宅で食卓を挟んで話し合ったのは2時間ほど。印象的だったのは、彼の明るさだった。
 再発直後は絶望感、自殺願望に襲われた。今でも目が見えなくなるかもしれないという恐怖や、手が動かなくなるかもしれないという不安は常に頭の隅にある。
 でも川上さんには家族や友達がいる。自分を支えてくれている人たちの存在を感じることができる。だから病気である自分を受け入れ、前を向いて生きることができる。つらいことも多いが、楽しいことはもっと多い。その気持ちは何よりも彼の描く絵に表れている。
「野菜はかたちがいびつな方がいいんです。近所の人がくれるねじ曲がって売り物にならへん野菜。そういうものの方が絵に描くと魅力的なんです」


【川上さんと彼を支え続けてきた奥さん。絵の中の文章は川上さんが考え、奥さんが書いている】


【川上さんがさっそく僕のリキシャを描いてくれた】


※はたらきもの大募集! 「ユニークな仕事人」や「地元に密着したはたらきもの」をご存じの方。ご自身の働く姿を三井に撮ってもらいたいという方は、ぜひメールでご連絡を。リキシャに乗って参上します。
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by butterfly-life | 2010-03-10 21:29 | リキシャで日本一周
8日目:モノトーンの町(愛媛県・新居浜市)
(今日の愛媛は雨模様。リキシャはお休みなので昨日の日記をどうぞ)

 何とか雨は上がったが、今日も曇天の一日。最高気温も6度までしか上がらず、冬の寒さだ。
 四国中央市川之江町を出発して西に向かう。瀬戸内海に面した海辺の地域には、巨大な煙突とプラントが立ち並んでいる。古くから紙の町として栄え、工場の大半は製紙関係のようだ。白い煙をもくもくと吐き出す様子は非常に男っぽい。


【建ち並ぶ製紙工場の煙突と暗い海】


 川之江の商店街もご多分に漏れずシャッターを閉めている店が大半だったが、その中でも営業を続けている畳屋さんと話をした。今日は市営住宅から畳の張り替えの注文がきて、10枚分を貼り替えているところだという。
「最近はどのうちもフローリングになってしもて、畳は少のうなっとるわな。畳っちゅうのは、高温多湿の日本の生活に馴染むように昔の人が考えたものや。汗をかいても畳が吸ってくれよるから涼しい。その代わり、ちゃんと風を通して清潔にしてやらんと、すぐにダニがわく。だから最近の畳はワラやのうて発泡スチロールと木材チップのボードを使ったものが多い。ワラは弾力があるけど重いし、虫も繁殖しやすいからな。畳の表はほとんどが中国製。日本製の3分の1の値段やからな」
 新品の畳独特のい草のにおいの中で、ご主人は仕事を続ける。畳を縫い付ける作業は専用の機械が行う。太い畳針を一本一本突き刺していくのは大変な力仕事だから、今でも手作業でそれを続けている職人はほとんどいないそうだ。



 産業道路は紙を運ぶ大型トラックがひっきりなしに行き交っていて、リキシャでは走りにくかったので、海辺の道を進むことにした。しばらく走ると、道ばたの女の子から「三井さんですか?」と声をかけられた。ええ、そうですよ。リキシャ三井ですとも。

 彼女・中川さんは以前から僕のブログを読んでくれていて、写真集も持っているという。おぉ愛媛に読者を発見! これは嬉しい。
 中川さんは会社の昼休みにいつも海辺を散歩している。今日もいつものようにぶらぶらと歩いていると、例の派手なリキシャがキコキコと現れたというのだ。何という偶然。
「すごいラッキーやけど、どうしよう。これで今年の運を使い果たしちゃったかもしれへん」
 彼女は若干興奮気味に言う。
 ノープロブレム。「5円タクシー」は乗ると運気が上がるパワースポットなのですよ。エヘン。今後も良い「ご縁」があなたに訪れることでしょう。

 中川さんは近くの製紙会社でデザイナーとして働いている。生まれてから一度も故郷を離れたことがない。離れたいと思ったこともないという。
「東京や大阪に遊びに行っても、全然楽しくないんです。人が多すぎるし、せわしないし、『消費する町』って感じで好きになれない。ここは海と山に挟まれたところ。この景色を見慣れているから、ビルばっりの都会にいると息苦しくなってしまうんです」



 夏が来ると、彼女はよく夜の海を泳ぐ。真っ暗な海の中で仰向けになって、力を抜いて水面に浮かぶ。頭上にはまぶしいぐらいに明るい満月が見える。海はあくまでも穏やかで温かく、どこか別の世界に浮かんでいるような不思議な気持ちになる。彼女はそうやっていつまでも月を眺めている。
「私にとって都会はカラフルすぎるのかな。色が騒々しい。この町はモノトーンなんです。灰色のイメージ。今日のような曇り空だと特にそうだし、たとえ晴れていたとしても基本はモノトーンなんです。でも嫌いじゃないんです。それが」
「将来はここで結婚するつもり?」
「うん、きっとそうするでしょうね。おばあちゃんになってもこの浜辺を歩きたい。孫を連れて。それが私の夢です」

 海沿いの道をしばらく走り続けると、小高い山が行く手に立ちふさがった。新居浜に行くためには、この山を越えていく13号線ルートと、山を南側に迂回する11号線ルートがあるのだが、僕はあえて山越えの道を選んだ。たいした山道ではないだろうと高をくくっていたからでもあったし、山の上から海を眺めたいと思ったからでもあった。

 しかしその選択は失敗だった。坂道は想像以上に急だったのだ。昨日の徳島・愛媛県境の山道よりもヘビーだったかもしれない。事前にミカンを収穫していたおじさんに注意を受けていたのである。「あんた、この道は大変じゃよ」と。おじさんは「すいかん」の黄色い果実をひょいっと投げて言った。
「ま、若いうちしかでんことじゃけ、きぃつけてな」


【すいかんを収穫していたおじさん。「ミカンは儲からんし、半分趣味みたいなもんよ」とのこと。愛媛県にはミカンの木が多い】

 坂道は2キロぐらい続いただろうか。それを登り切るのに1時間はかかったと思う。少し上っては休み、また上っては休む。途中で検問をしていた警官に「がんばれよ」と声をかけられるものの、息が上がって返事をする余裕もなかった。
 ようやくの思いで頂上にたどり着くと、あとは下りボーナスである。途中でサイクリストの若者とすれ違う。大きな荷物を両サイドにくくりつけたスポーツサイクルで風を切って走っている。これまでに何人かの長距離サイクリストとすれ違ったが、スピードを緩めたり声をかけてきたりする人はいなかった。このときすれ違った彼も同じ。あくまでもクールであった。きっと自分の目標に向かって突っ走っているのだろう。

 午後4時過ぎに新居浜市に到着。道は広く、車は多いが、人通りがないという典型的な車社会の町である。ここでもすれ違うのは下校途中の小学生ぐらい。6年生の女の子二人をリキシャに乗せてあげると、
「マジ、チョー受けるんだけど」と言った。渋谷の平板なジョシコーセー言葉が、愛媛の小学生にまで影響を与えているのである。テレビの力は怖いね。



 ホテルに向かう途中で、国際結婚夫婦とすれ違った。フィリピン人の若い奥さんと日本人の旦那さんと息子が一人。僕がフィリピンを旅したときにも、現地の人から「うちの娘は日本人と結婚したんだ」という話を何度も聞いた。出稼ぎ大国フィリピンでは、国際結婚も立派な出稼ぎである。娘からの送金で食べている家族がたくさんいるのだ。ことの善し悪しはさておいて、それがフィリピンという国の現実なのである。

 奥さんはモノトーンの町にそぐわないカラフルなリキシャの登場に興奮して、「すっごいねぇ」を連発していた。彼女のアジアの血が騒いでいるのかもしれない。フィリピンにも派手なデコレーションを施した乗り合いジープ「ジープニー」の文化がある。
 旦那さんに「新居浜には何がありますか?」と訊ねると、「見りゃわかるやろう。何にもないわな」と言われた。地元の人にそう言われるぐらい何にもないところのようだ。


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本日の走行距離:40.3km (総計:264.3km)
本日の「5円タクシー」の収益:5円 (総計:4726円)

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by butterfly-life | 2010-03-09 18:30 | リキシャで日本一周