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52日目:水俣というシンボル(熊本県水俣市)
 リキシャを「5円タクシー」と名付けたものの、これを実際のタクシーとして利用する人は稀だ。やたら目立つから恥ずかしいし、そもそも田舎ではほとんどの人が自家用車を持っているので、わざわざリキシャで移動する必要がないのである。
 しかし水俣市内で出会った上村さんは違っていた。彼女は「5円タクシー」の登場に目を輝かせて、ぜひ乗せくれと言った。
「あんた、これでどこまで行けるの?」
「どこまででもいいですよ」
「それだったら病院に用事があるから行ってもらえんかね。入院しているうちの母に洗濯物を届けようと思ってたところなんよ」
 上村さんは自宅から洗濯物を抱えて戻ってくると、「じゃ、お願いねぇ」と言ってリキシャに乗り込んだ。かなり強引かつマイペースなおばさんである。自分でも「誰にでも声を掛けるから、すぐに仲良くなるんよー」と言っていたが、その通りだと思う。
 病院にはものの5分で到着した。上村さんが「あんたも見舞いにこんかね」と言うので、なぜか僕も病室にうかがうことになった。上村さんのお母さんは93歳で、下半身が動かないので車椅子生活を余儀なくされている。水俣病で足の神経が侵されているのと、高齢とが重なった結果だという。しかしそれ以外は元気そうだ。血色だって悪くないし、ボケてもいない。僕が外国の人力車に乗って旅をしているのだと説明すると、すぐに事情を理解してくれた。



「水俣はええところよ」と上村さんは言う。「季候もええし、食べ物も美味しいし、温泉もある。単身赴任で来る人なんか、最初は『水俣』という名前に抵抗があるんやけど、帰る頃には必ず『また来たい』って言ってくれるんよ」
 水俣といえば水俣病。その強い負のイメージは公害発生から40年以上、裁判終結から20年以上が経った今でも変わっていない。「ミナマタ」は企業が引き起こした公害の象徴的存在であり、現代史に欠かすことのできない名前になっているからだ。
「水俣の人もいろいろよ」と上村さんは言う。「もちろん今でもチッソを恨んでいる人はたくさんいる。後遺症に苦しんでいる人も多いのよ。でも私はいつまでも過去にこだわるよりも、前を向いてこれからの人生を楽しむことが大事やと思ってる」
 水俣病を引き起こした化学メーカー「チッソ」は、今でも水俣市の中心部に大きな工場を構えている。水俣病訴訟以降のチッソは優良な化学メーカーとして毎年黒字を出し、水俣市の税収にも大きく貢献しているという。チッソの社員はみんな優秀で入りたくてもなかなか入れないのよ、と上村さんは言う。
 水俣では加害者と被害者の共存関係が続いている。外から来た人間には違和感を覚える光景だ。しかし会社として利益を出して被害者に償いをするのがチッソの社会的責任なのだとしたら、違和感を感じる方がおかしいのかもしれない。

 上村さんはいろんなものを差し入れに持たせてくれた。おせんべい、飴、レモン、ケーキ、去年のクリスマスの売れ残りだというサンタのチョコ。小さな駄菓子屋が開けるんじゃないかと思うほどたくさんの食べ物をいただいた。
 よく喋ること、よく笑うこと、マイペースなこと。旅先で出会う親切なおばさんの共通点である。よく考えてみれば、これは日本に限らず世界中どこでも同じかもしれない。

 車の往来が激しい3号線沿いをリキシャを引っ張りながら歩いているときに、89歳の六反田さんと出会った。腰も曲がっていないし、足取りも軽やかで、10歳以上若く見えた。この健康で穏和なおじいさんが実は波瀾万丈の一代記を秘めていたと知るのは、お家で昼ご飯をご馳走になった後だった。
「終戦当時、あたしは満州のハルピンにおったんよ。陸軍の士官としてロシア語を学んで、スパイのようなことをやらされとったわけよ。だから関東軍の参謀たちがどんなひどいことをやっていたかも全部知っとるよ。日本が戦争に負けて、ソ連軍が満州に攻め込んできて、シベリアに送られたんよ。日本に帰ってこられたんは終戦から5年後やった。これでも早く戻れたほうなんよ。なにしろ陸軍でも一番厄介な任務についとったわけやから。シベリアで抑留された1100人のうち、生きて日本に帰ったのは600人よ」
「生死を分けたのは何だったんですか?」
「やっぱりそれは体力的なもんよ。あたしは25歳でまだ若かったから耐えられた。そりゃ冬は寒いし、労働も厳しかったよ。炭鉱にも行ったし、自動車修理もやらされた。他の士官はみんな年上じゃったから、耐えられずに死んでいった」
 何とか生きて日本に戻ってきた六反田さんを待っていたのはレッドパージだった。彼自身は共産主義とは何の関わりもなかったのだが、ロシア語を話し、ソ連に5年間抑留されていたという事実が問題視され、公職に就くことができなかったのだ。仕方なく実家の農業を手伝いながら暮らす日々が続いた。
 その後、六反田さんは農地を売って得た資金で商売を始めた。鳥の餌を売る店を開き、やがて惣菜を売る店を始めた。これが当たった。チェーン店は12店舗まで増え、110人の従業員を抱えるまでに成長した。京都や大阪の料亭に通って味を覚え、オリジナルのメニューを次々と増やした。一時は「九州でもっとも成功した仕出し屋」と言われるまでになった。
 それが暗転するのは2001年。九州最大手のスーパー「寿屋」が倒産したときだった。当時六反田さんの店はこの寿屋とのテナント契約に大きく依存していたので、スーパーの倒産をきっかけに急速に資金繰りが悪化し、共倒れの憂き目を見ることになったのだ。
「借金がずいぶんあったし、従業員の給料も払わんといかんかったから、自宅も土地も全部売り払ったんよ。それでも財産の整理には4年かかったかなぁ。年金まで担保にして銀行から金を借りて、何とか未払いの給料は全部渡したよ。ご先祖からいただいた土地を売って商売をはじめたけど、結局何も残らんかった」
 今、六反田さん夫婦が住んでいるのは、ご自身が「あばら屋」と呼ぶ質素な木造住宅だ。表の3号線を大型トラックが通るたびに、振動で家が小刻みに揺れる。100人以上の従業員を抱えていた社長の生活を想像させるものは何もない。年金に頼った慎ましい暮らしぶりだ。


【89歳とは思えないほど若々しい六反田さん】

「商売はしくじったけど、ひとつも悔いはないね」と六反田さんは断言する。「自分の好きなことをやってきたんだから悔いはない。会社は倒産したけど、借金の整理も終わって、誰にも迷惑をかけることはなかったからね」
 この言葉は決して強がりから出たものではない。何かを包み込むような六反田さんの笑顔を見ていると、この人が心の底から人生に満足していることがわかる。
「やっぱり若いときに苦労したからじゃろうね。シベリアでの5年間もそうだし、商売を始めたときも苦労した。それがあるから、どんなことが起きても暗い顔はせんじゃった。社長が暗い顔している会社はダメじゃろうからね」
 奥さんが4年前に脳溢血で倒れてからは、六反田さんが一人で介護をしている。90歳で誰かを介護をするのは大変だけれど、奥さんには苦労ばかりかけてきたから今はできるだけ大事にしてやりたいという。家事も自分でやる。今日も炊き込みご飯をたくさん作って「やもめ」の友達に配ってきたばかりだ。
「これまでの人生を振り返って、幸せでしたか?」
「いやー、ほんとに幸せやったんは新婚時代の3年ぐらいかね。あとは苦労ばっかりじゃったからね」
「でも今も幸せそうに見えますよ」
「そうかのぉ。そうかもしれんなぁ」
 と六反田さんは笑った。




【港で出会った女の子たち。キックボードでリキシャを追い抜いていった。やるね】

 水俣市から八代市を結ぶ国道3号線は坂道の連続だった。片側一車線しかない細い道なのに交通量が多く、大型トレーラーやタンクローリーにどんどん追い抜かれていく。リキシャには向かない道だった。
 一番の難所は「赤松太郎峠」と呼ばれる峠道で、ここの勾配はかなり急だったが、これまでとうってかわって交通量が激減したので精神的には楽だった。最近すぐ横に自動車道の無料区間が新しく開通し、ほとんどの車はそちらに流れているのだ。
 新しい自動車道の開通は3号線沿いの地域に決定的な影響を及ぼしている。人と物の流れが途絶えたので、沿道のレストランや土産物屋は軒並み閉店に追い込まれているのだ。完全に廃墟と化したビジネスホテルもあった。かつての甲子園のように壁一面にツタが絡まり、背後の森と一体化したその様子は、中世の古城のような趣さえ感じられた。
 しばらく前に「廃墟ブーム」が起こったときには、見捨てられ朽ちていく建物につかの間のスポットライトが当たったが、こういう建物を目にすると、廃墟を追いかけたくなるマニアの気持ちもわかるのである。



 日奈久という町を通過する。ここは600年の伝統を誇る古い温泉街。しかし、かつての賑わいはすっかりなりを潜めているという。商店街にもシャッターを下ろすところが増え、訪れる温泉客も大きく減った。
「ただの温泉というのではお客さんは呼べない時代なんやろうね」とお米屋の奥さんはこぼす。「健康ランドみたいな複合施設やないとなかなか来ない。昔のように何ヶ月も湯治に来るいう人はおらんのよ」
 このお米屋も4,5年のうちには閉めるという。リーマンショック後の不況の影響は、今年あたりからじわじわと田舎にも浸透してきて、米や肥料の売れ行きが悪くなっている。これから過疎化がもっと進むのではなかと奥さんは心配している。


【日奈久にある魚屋のおかみさん。お刺身をご馳走になった】

「これおいしいから持って行きなさい」
 と奥さんから渡されたのは八代地方特産の「晩白柚(ばんぺいゆ)」という果物だった。ザボンの一種で、とにかくデカいのが特徴。小玉スイカぐらいの大きさと重さがある。こんな巨大なミカンは初めて見た。
 鹿児島でも熊本でもよくミカンをもらった。デコポンにはじまり、不知火という小ぶりのデコポンや、ボンタンなど。並べてみると太陽系の惑星のようで面白い。ボンタンが土星なら、晩白柚は木星だろうか。
 さっそく晩白柚を食べてみたのだが、(奥さんには申し訳ないのだが)味の方はいまいちだった。グレープフルーツを薄くしたような味。甘さも酸っぱさも香りも、全てが薄まっていて個性がない。果物でも野菜でもあまり大きすぎるものはダメなのだろうか。それともシーズンを過ぎていたからなのだろうか。食べ応えだけは十分にあって、半分も食べるとお腹が一杯になってくるのだった。


【左から、不知火、デコポン、ボンタン、晩白柚。見事な「惑星直列」の完成である】


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本日の走行距離:56.4km (総計:1596.4km)
本日の「5円タクシー」の収益:815円 (総計:24915円)

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by butterfly-life | 2010-04-30 23:38 | リキシャで日本一周
51日目:分厚い人(鹿児島県出水市)
 昨日に引き続き快晴の空のもと、リキシャ日和の一日がスタートした。
 泊まっていたブルートレイン宿のそばで、「空を飛ぶおじさん」と話をした。と言っても別に危ない人ではなく、モーターパラグライダーを趣味にしているおじさんである。今から7年前、60歳の時にパラグライダーに出会ってから、空を飛ぶことに夢中になってしまったそうだ。
「最初に試乗したときに飛んだ瞬間が忘れられんのですわ。わずか1メートルぐらい浮いただけなんやけど、これが気持ちよくてねぇ。すっかりはまってしまったんです」
 空を飛ぶときの気持ちよさを語るおじさんの表情は子供のように無邪気だ。しかし空を飛ぶスポーツには危険がつきもので、ついこの間も左手をプロペラに巻き込まれて大怪我を負ってしまったという。すぐに近くの病院で処置してもらったから壊死・切断の危機は免れたが、2週間の入院が必要だった。今も分厚く巻かれた包帯が痛々しい。


【白い包帯が痛々しいパラグライダーおじさん】

「見舞いに来た息子に散々小言を言われてしもうた。いい年して何をやっているのかと。でもこれだけは誰に何を言われてもやめられんのです。左手が治ったらまた飛びますよ。今度はね、足に鯉のぼりをくくり付けて、こどもの日に飛ぼうと思ってるんです」
 空を飛び回る鯉のぼり。すてきなアイデアだと思う。おじさんには去年のクリスマスに子供たちを喜ばせるためにサンタクロースの衣装を着て空を飛ぼうとしたのだが、強風が吹いたために断念したという苦い記憶がある。だからこどもの日までに何としても左手を治さなければいけないのだ。がんばれ。


【出水の町に舞う鯉のぼり】

 阿久根から海沿いの道を北上し、しばらく「肥薩おれんじ鉄道」というローカル線と並走する。この路線は列車の本数が極めて少ないようで、列車が走るのを見かけたのは30分に一度ぐらいだった。しかも1両編成。地方の鉄道はどこもそうだが、経営は厳しそうだった。

 出水市に入り、海沿いの堤防の上を走ってみた。雲ひとつない青空と、遠浅の海が一望にできる気持ちのいい道だ。今は干潮らしく、砂浜にはズボンの裾をたくし上げて潮干狩りをする家族連れの姿が目立った。この時期はマテ貝がよく採れるという。
 潮干狩り浜の隣には、長い竹竿が何百本も林立する不思議な光景が広がっていた。遠くの方で一人作業をしているウェットスーツ姿のおじさんがいたので、近づいて話を聞いてみた。
「こんにちは。何をしているんですか?」
「こがん・・・たい、・・・っととー、・・・もんで、・・・どんかん」
 ど、どんかん? ちんぷんかんぷんだった。おじさんの言っていることの3割も聞き取れなかったのである。これはお国訛りのレベルを完全に超えている。ほとんど別の言語だ。はぁ、すごかねぇ。日本は広かぁ・・・。
 おじさんは僕の言葉はちゃんと理解しているものの、口から出るのは「ネイティブの薩摩弁」の範囲から一歩も外に出ないガチガチの方言ばかりだった。もしテレビで放送するなら絶対に字幕が必要だ。
 というわけで以後の会話は海苔漁師シマナカさんの薩摩弁を僕なりに意訳したものであり、実際の口調とはずいぶん違うことをご了承いただきたい。本格的な薩摩弁は僕ごときが文字に起こすのは不可能なのである。



「ここでは海苔を作っとるんよ。この網はな、カモが海苔を食べよるんを防ぐもんよ。ほら、この近くには鶴が越冬に来よるやろう。鶴は天然記念物で保護されておるから、それにくっついてくるカモも増えてなぁ。こうして網を張らんといかんとよ」
 ここ出水は日本の海苔生産地の中ではもっとも南に位置している。以前は鹿児島県内各地で海苔養殖が行われていたが、水質の悪化と温暖化の進行にともなって(海苔は水温が高いと成長できない)、今も養殖を続けているのはここだけになってしまったそうだ。
「出水浅草海苔っちゅう品種があるんやけど、これは28年間途絶えとったんよ。環境が変わったせいで作れんようになってしもた。わしらは何とかこの出水浅草を復活させようと何年も試しよったけど、ずっと失敗続きでなぁ。それが今年やっと成功したわけよ。嬉しかったなぁ。ほんとに嬉しかった。女房と二人で涙を流しよったもんなぁ。本物の浅草海苔っていうんは香りも味も全然違うとよ。火であぶると磯の香りがぷーんとしよる。口に入れたら甘いんよ」
 今年の養殖が成功したのは、今までとやり方を変えて海苔の種を海底近くに沈めたのが功を奏しただろうとシマナカさんは分析する。
「まぁ結局まぐれが当たったんやろうなぁ。この仕事は自然が相手やから難しい。冬に長く雨が降ったら海苔は全滅してしまうし、カモに食べられてもダメになる。今はぬくいけど、冬場の海っちゅうのはほんとに寒いんよ。でも苦労した分、それが報われたときの嬉しさも格別よ。わしは10年間サラリーマンもしとったけどな、やっぱりハコの中の生活は性に合わんのやろうなぁ、また海苔作りに戻ってきたんよ。うまく行ったときの手応えが違うんやなぁ」





 竿を握りしめるシマナカさんの手は野球のグローブのように大きくごつごつしていた。毎日網を引く中で鍛えられ、分厚くなったのだろう。まさに働き者の手だ。その手を見ているだけで、なんだか少し胸が熱くなった。
「娘は4人、息子は1人おる。でも息子は海苔の仕事は継がんよ。このあたりでも若いもんは誰もやりたがらん仕事よ。きついからな。息子はいま眼鏡屋で働いとる。ああ、息子の手はわしみたいんじゃなかとよ」
 シマナカさんは僕がリキシャで日本を縦断していると知ると、顔を思いっきり空に向けて笑った。
「ほんのか、よかなぁ。わかかときしかできんこっちゃもん。(本当にいいなぁ。若いときしかできないことだから)」
 そう言って顔をくしゃくしゃにして笑うのだった。若いときに旅をしたら、きっといい年の取り方ができるはず。今の旅は将来のあんたにとってかけがえのない財産になる。シマナカさんはそう言ってくれた。
 分厚い人だった。手だけでなく、人間そのものが分厚い。自分の仕事に自信と誇りを持っているからこそ、彼の言葉にはしっかりとした重みがあった。

 シマナカさんと別れて国道3号線を走り続けた。出水市からの道のりはほぼ平坦なので、すいすいと走ることができた。やがて県境を越えて熊本県水俣市に入った。
 鹿児島県にはずいぶん長い間いた。奄美諸島、桜島、硫黄島、そして薩摩地方。いくつもの出会いを繋ぐことができ、密度の濃い時間を過ごすことができた。その鹿児島とも今日でお別れかと思うと、少し寂しかった。


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本日の走行距離:43.1km (総計:1540.1km)
本日の「5円タクシー」の収益:80円 (総計:24100円)

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by butterfly-life | 2010-04-29 08:54 | リキシャで日本一周
50日目:ブルートレインに眠る(鹿児島県阿久根市)
 朝、ホテルを出発して、串木野港で開かれている「まぐろフェスティバル」に行った。これは昔から遠洋マグロ漁船の基地として栄えていた串木野をより多くの人に知ってもらおうと、20年前から始まったお祭りである。最初はマグロを安く売るだけの物販イベントだったが、ゲストに鳥羽一郎(海の男だね)を呼んだり、ステージで伝統舞踊を踊ったりするようになった結果、今では2日間で10万人を集める一大イベントに成長した。

 今年の「まぐろフェスティバル」の呼び物のひとつが「SASUKE」ショーである。「SASUKE」は一般人が高難度のフィールドアスレチックに挑戦するテレビ番組で、13年前から半年に一度のペースで放送されている。SASUKEはとにかくクリアするのが難しいことで知られていて、制限時間内に全てのステージをクリアする「完全制覇者」は過去に3人しかいない。そのうちの一人が串木野で漁師をしている長野誠さん。今日のショーには長野さんも参加されていたので、話を聞くことができた。
 長野さんがSASUKEに出場するようになったのは、たまたま漁師仲間と一緒にテレビを見ていたときに「あれだったら長野さんもできるんじゃない?」と冗談半分で言われたのがきっかけだった。体操選手でもスタントマンでもなく、漁師というプロフィールも視聴者の心をつかみ、番組で活躍するようになると地元のヒーローとして鹿児島では広く人気を集めるようになった。今日のイベントでもサインや握手を求める人が後を絶たなかった。漁師町が生んだマッスルヒーローである。
「SASUKEをクリアするために一番必要なのはハートなんですよ。トレーニングをすればかなりのところまでは行けるけど、心が弱いと大事なところでミスをしてしまう。自分より前のチャレンジャーが次々に脱落していくのを見ると、『あそこは気をつけなきゃ』と余計なことを考えて、結果的になんでもないところでミスしたりする。ほんとに難しいんです」


【SASUKEの長野誠さん。さわやかな海の男である】

 会場では様々な特産品が売られていた。僕が昼食に食べたのは「まぐろラーメン」と「ぽんカレー」。どちらも地元の飲食店の人たちが知恵を絞って作り出したご当地メニューである。まぐろの刺身がふた切れ載った「まぐろラーメン」は、魚のくさみを消すためにスープに特別な工夫が凝らされている。「ぽんカレー」は特産のポンカンの果汁をカレーに混ぜたという一品で、後味がさっぱりとして美味しい。
 こういう新メニューを食べるときにいつも感じるのは、日本人の食に対する探求心の強さである。意外なものの組み合わせから、独創的なメニューを作り出そうとする。たとえばインドやバングラデシュの食堂ではどこでもほぼ同じメニューで統一されていて、それぞれの店の個性なんてないのが実情だ。カレーに柑橘果汁を入れようなんて発想をした人はたぶんいないと思う。インドの外食産業はまだ「とにかく腹を満たせれば満足」というレベルにとどまっていて、オリジナルの味を探求しようとする人は少ないのだ。


【農作業用の運搬車に乗るおじいさん。タマネギの収穫に向かう】

 腹ごしらえをしてから国道3号線を北上する。今日は薩摩川内市を通って阿久根市まで行くのが目標だ。
 薩摩川内市は比較的大きな町だが、国道沿いにある商店街は軒並みシャッターを下ろしている。ここも郊外化の波にはあらがえないようだ。洋服屋を営むイマイさんも今年限りで店を閉める予定だという。
「もうここらが限界でしょう。私も66ですからねぇ。あとは年金をもらいながらゆっくり暮らしますよ。心配なのは店をやめたら急に老け込むんじゃないかってことでね。うちの親父がそうでしたから。郊外のスーパーにお客を取られてしまうのは、世の中の流れとして仕方がないでしょうなぁ。資本力が違いすぎる。でもね、ほんとはコミュニケーションを取りながら商売する個人商店が残った方が町のためにはいいんです。こういうところで買い物をすることで、若いもんはルールやマナーを学んでいったんですから」

 川内の町を北上しているときに、車から降りてきたおじさんが冷えたアクエリアス渡してくれた。おぉ、私の命の水! ありがたい!
「俺も昔、自転車で旅をしたことがあるんよ。あれは昭和41年、18のときやったかな。15で大阪に働きに出て、お金を貯めて自転車を買ったんよ。10段変速で当時3万8000円したな。すごい高級品よ。それで大阪から鹿児島まで12日で来たよ」
「12日ですか。速いですねぇ」
 と僕は言った。リキシャでは到底不可能な速さだ。羨ましい。
「初日は200キロ走ったな。それからは150キロペースやったけどな」
 ふーん、それを聞くと日本は案外狭いんだなぁという気もする。
 おじさんの旅の思い出をもっと詳しく聞いてみたかったが、先を急いでいるらしく、「それじゃ頑張ってな」と言い残して、慌ただしく去っていった。


【薩摩高城駅で見かけたお風呂に入る西郷さんの像。鹿児島県民は西郷さんをこよなく愛しているが、人形をお風呂に入れるのはやり過ぎのような気もする。ちょっとミャンマーっぽいセンスだ】

 西方の海岸では、軽トラックに乗った漁師から声を掛けられた。
「これ、バングラデシュから持ってきたの?」と彼は言う。
「ええ、そうですよ」
「あのさ、俺バングラデシュに行きたいんだよな」
 今までに遭遇したことのない珍しいリアクションだった。バングラに行きたい? なんでまた。
「あそこには世界で一番長い砂浜があるんでしょう?」
コックスバザールね」
「そう。そこで波乗りがしたいんだよ」
 彼はサーファーだったのである。確かにバングラデシュには全長100キロを超える砂浜がある。けれどサーフィン文化は皆無で、おそらくバングラ人は誰もやらないはずだ。サーファーというのは「いい波がある」と聞けばどこへでも行く種族なのだろう。バングラデシュだろうがスリランカだろうがパプアニューギニアだろうが。


【面白いバス停名シリーズ「尻無(しりなし)」。第一弾のトトロケに匹敵するインパクトだ】

 これはきっと偶然なのだろうが、西方からさらに北に進んだところで、「うちの娘がバングラデシュに興味を持っているので、ぜひ話をさせてもらえませんか」と話しかけられたのには驚いた。このあたりではバングラデシュがブームになっているのだろうか。事情はよくわからなかったが、お母さんがあまりにも熱心だったので、それではと娘さんと三人でしばらく話をすることになった。
 高校2年生のさつきさんがバングラデシュに興味を持つようになったきっかけは、小学校の社会の授業で「どこかひとつの国を調べなさい」という自由課題が与えられたときに、たまたまバングラデシュを選んだことだった。それ以来、彼女の中に「バングラデシュ」という言葉の持つ響きがずっと残っていた。やがて彼女は将来途上国の開発援助をしたいと思うようになる。そのために大学で経済を学ぼうというところまでは決めた。バングラデシュで働くかどうかまではまだわからないが、近い将来必ず行ってみたいと思っている。まだ高校2年生なのにずいぶんはっきりとした将来像を持っていることに感心してしまった
 僕はあくまでも一介の旅行者としてバングラデシュを訪れているだけなので、彼女にしてあげられるアドバイスは限られている。貧しい国であること。イスラム国なので女性がほとんど表に出ないこと。人懐っこくて好奇心の強い人々。そんなことを話した。
「大学生になったら行ってみたらいいよ。話に聞くのと現地に行くのとではまったく印象が違うから。自分の足で歩いて、それでもバングラデシュのことが好きだと思ったら、もっと深く関わったらいい。今急いで決めることはないよ」


【海沿いの集落には猫が多い。青果店の店先にも置物のような猫がいた。招き猫か?】

 阿久根市に到着したのは7時前。最後の10キロはかなりへばっていて、ノロノロとしか進めなかった。
 泊まったのは阿久根駅のすぐ前にあるライダーハウス「あくねツーリングSTAYtion」というところ。中古の寝台列車「ブルートレインなは」の客室をそのまま宿に使っているというユニークな施設である。オープンは2009年1月とまだ新しいが、口コミで徐々にお客さんが増えているそうだ。
 「引退したブルートレインに泊まれる」なんて話に飛びつくのは鉄道オタクばかりなのかと思いきや、泊まり客の大半はバイクや自転車で旅をしている人だという。鉄ちゃん(鉄道オタクのことね)は写真を撮るだけで帰っていくそうだ。鉄道模型マニアは普段は見られない車体の底の部分にもぐり込んで熱心に観察していく。マニアというのは不思議な人種ですね。
 客室はベッドが二つ置かれたコンパートメントルームになっていて、一人ひとつずつの部屋が与えられる。一泊は1500円で、毛布とシーツはプラス600円である。簡易ベッドなので狭く、背の高い人間にはちょっと窮屈だ。シャワールームはないので、お風呂は近くの温泉に行くことになる。安いことは安いけれど、不便といえば不便だ。
 そんなわけで、この宿に集まってくるのは少々不便でも安い方を望むライダー&チャリダー(自転車旅行者)たち。数日前もオランダ人のチャリダーが泊まりに来たそうだ。




【外観も内装も現役当時のまま宿として使っている。窓の外の景色は動かないけれど】

 夜はあり合わせの材料で作った鍋を囲みながら、みんなで酒を飲んだ。泊まり客とスタッフだけでなく、近所の居酒屋の主人や中学校の英語補助教員のアメリカ人など、雑多な人々が集まっての大宴会。夜が賑やかに更けるのがライダーハウス・ルールのようだ。
 自転車で日本一周をしている箕野君は、この宿がすっかり気に入ってもう10日も泊まっているという。去年の9月に大阪を出てから野宿しながら南下を続け、冬は沖縄でアルバイトをしてお金を貯めて、春になってから再び北上を始めたそうだ。今年中には日本一周を達成するつもりだが、今のペースでは厳しいかもしれない。でも最近では急がずマイペースの旅を続けるのもいいかなと思うようになってきた。今まで見えていなかったものが見えるようになってきたからだ。
 彼はギターを弾きながら「スタンドバイミー」を歌ってくれた。薪ストーブのある部屋と、壁一面に並べられた焼酎の酒瓶。若者の歌声と、おじさんのだみ声。いろんなものが混ざり合いながら、阿久根の夜は賑やかに更けていった。


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本日の走行距離:51.7km (総計:1496.9km)
本日の「5円タクシー」の収益:335円 (総計:24020円)

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by butterfly-life | 2010-04-28 08:13 | リキシャで日本一周
49日目:美肌温泉(鹿児島県いちき串木野市)
 鹿児島市から国道24号線を西に進み、薩摩半島を横断して、いちき串木野市に向かう。
 途中いくつもの山を越える。考えてみれば本格的な山越えルートは久しぶりだ。ここしばらくは鹿児島と沖縄の離島ばかりを旅していたからだ。だらだらと続く上り坂がいつまでも続く。息が切れ、汗が噴き出てくる。でも悪くない気分だ。確実に一歩ずつ前に進んでいるという感じ。Moving forward。


【5円タクシーに乗ってくれたご家族が記念撮影。ちゃんと撮れるかな?】

 峠道を登りきったところに地元の野菜や花を売る小さな産直所があった。大ぶりのタケノコがでんと置いてあるのが目を引く。今日山で採れたばかりの新鮮な山の幸だ。
「あんたこれ一人で乗っちょるの? 後ろにオナゴは乗せんのかねぇ」
 かわいらしい割烹着を着たおばさんが笑顔で声を掛けてきた。
「お母さん乗りますか?」
「いいやー、うちなんかが乗ったらタイヤがつぶれてしまうよー」
「大丈夫ですよ。二人までなら余裕で乗れますから」
 結局、おばさんは恥ずかしがって「5円タクシー」には乗ってくれなかった。その代わりに「お腹が減ったら食べて」と大福をくれた。
「今日はよかご縁があったねぇ。よかよか」
 そう言って手を振ってくれた。



 市来では自転車で日本一周中をしている若者とすれ違った。顔にいくつものピアスをつけ、ギターを背負った今風の若者である。もう6ヶ月も旅を続けているという。お金に困ると路上ライブを行って稼いでいるのだとか。なかなかの強者だ。
「これ100キロもあるんですか? うわ、すげぇ。俺のチャリも40キロあるけど、それでも限界だもんなぁ。マジすげぇっすよ」
 ありがとう。同じ苦しみを分かち合う旅人から「マジすげぇ」の言葉をもらうのは嬉しい。


【市来で見つけた奇妙なホテル「一戸建」。どういう意味なのだろう?】

 いちき串木野市に到着したのは4時半。大きな漁港のある漁師の町である。
 漁港には小さな船がいくつもならんでいた。漁師のおじさんに聞くと、このあたりではアジがよく釣れるそうだ。船で沖合に出て、40mほどの深さまで釣り糸を垂れる。竿を使わずに手で釣り上げるのがここのやり方だ。釣り上げたアジは生きたままの状態でいけすに入れ、都会の料亭などに出荷する。活きがいいシロアジは高い値が付くが、漁だけで食べている専業漁師はほとんどいない。漁師の大半が60歳以上だそうだ。
 ちなみに漁港近くのコンクリート製の堤防は、地元の人たちから「年金波止場」と呼ばれているそうだ。年金をもらっているおじさんたちが日がな一日釣り糸を垂れる姿からそう名付けられたらしい。釣れても釣れなくても潮風に当たるのは健康にいいからと県外からもやってくる人も多いそうだ。



 串木野では国民宿舎「吹上浜荘」に泊まった。日本三大砂丘のひとつ吹上浜の海が一望にできる絶好のロケーションにあり、温泉にも自由に入れるファミリーorシニア向けリゾート施設である。はっきり言って僕には縁遠いタイプの宿だが、こんなところに(なんとタダで)泊まることができたのは、国道3号線を走っているときに総支配人の宇都さんに呼び止められて、「ぜひうちに泊まっていきなさい」と誘っていただいたからである。なんと太っ腹な総支配人。

 この「吹上浜荘」の温泉は美肌を作る「美人の湯」として知られているそうだ。温泉にはまったく疎い僕にも、湯上がり肌に張りがあるのを実感した。
 そう言えば鹿児島市内で出会った化粧品販売員の女の子から、唐突に「肌がきれいなんですね」と言われてびっくりしたことがあった。南海の強い日差しに焼かれてチョコレート色に日焼けした男に美肌も何もないと思うのだが、肌のプロは「いい肌をお持ちですよ」とおっしゃるのである。化粧品でも売りつけられるのではないかと若干警戒してしまったが(もちろんそんなことはなかった)、そんなふうに言われて悪い気はしなかった。
 僕は一年のうち何ヶ月もアジアの太陽の下をバイクで走り回る生活を続けている。それが肌に悪影響を及ぼさないはずはないのだが、今のところシミの発生は最小限に抑えられている。ありがたいことに紫外線には強い肌なのだろう。



 ゆっくりと温泉に浸かって筋肉をほぐし、総支配人と料理長と一緒に海の幸をいただきながら焼酎を飲む。こうして幸せな一日が終わっていく。

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本日の走行距離:47.1km (総計:1445.3km)
本日の「5円タクシー」の収益:325円 (総計:23685円)

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by butterfly-life | 2010-04-27 17:40 | リキシャで日本一周
46、47日目:硫黄と露天風呂と伊勢エビと(鹿児島県硫黄島)
 種子島から鹿児島市に戻ってきた翌日に、再びフェリーで離島に渡った。
 今回の目的地は硫黄島。薩南諸島北部に位置する周囲14.5キロの小さな火山島で、隣の竹島と黒島とあわせて三島(みしま)と呼ばれている。ちなみに映画「硫黄島からの手紙」の部隊になった硫黄島は東京都小笠原村に属するまったく別の島である。

 硫黄島を訪れることになったのは、昨日偶然知り合った大山さんに誘われたからである。大山さんは去年まで硫黄島を含む三島村の村長を務めていた人物で、自分も明日のフェリーで硫黄島に帰るところだから一緒に島に渡ろうと半ば強引に約束させられてしまったのだ。

 そんなわけで鹿児島港から「フェリーみしま」に乗り、船に揺られること約4時間。硫黄島の特徴的なシルエットが目の前に現れる。桜島と同じくここも活火山で、今も山のあちこちから細い噴煙が立ち上っている。「硫黄島」の名の通り、火口からは黄色い硫黄が噴出しているのがはっきりと見える。
 昔はこの硫黄が島の経済を支えていた。宋の時代の中国にここから硫黄を輸出していた記録が残っているという。戦後、硫黄の価値が上がり「黄色いダイヤ」と呼ばれるようになると、島は空前の硫黄ラッシュに沸き、内地からも続々と労働者が移住してきた。ピーク時には島の人口が1000人近くに達したという。しかし硫黄景気も長くは続かなかった。硫黄が石油を精製するときに多量に得られるようになり、露天掘りの硫黄鉱山の価値がなくなってしまったのだ。硫黄鉱山は昭和39年に閉山され、鉱山労働者の大半は島を後にした。その後、一時はオパール硅石(セラミック・ガラスの原料)の採掘が行われたが、それも安い輸入品に押されて工場は閉鎖されたままになっている。
 現在の島の人口は115人。僕が今まで訪れた離島の中でももっとも人口の少ない島である。もちろん全員が顔見知り。「大家族みたいなもんよ」と大山さんは言う。
 島の特産品は椿油とタケノコと黒毛和牛。硫黄島の火山から常に微量の亜硫酸ガスが噴出しているので、椿や芋などの作物以外は育たないという。


【火口からは黄色い硫黄が噴出する】

 フェリーを下ると、すぐに硫黄島にある唯一の学校「三島小・中学校」に向かった。大山さんの計らいで生徒たちの前で特別授業を行うことになっていたのである。体育館に集合した19人の小中学生の前で旅を話をし、校庭に移動してリキシャに乗ってもらった。みんな大喜びだった。腕白そうな男子が「俺も漕いでみたい」というので漕がせてあげたが、足の長さが少々足りなかったようで苦労していた(大人用だから仕方ないね)。



 ここには小中学校合わせて19名の生徒がいるのだが、よくよく聞いてみると島で生まれ育った子供は4人しかいない。あとは学校の先生たちの子供と、「しおかぜ留学生」たちである。
 「しおかぜ留学」というのは三島村の学校に外部出身の子供たちを一時的に受け入れる制度のことで、主に不登校やひきこもりに悩む子供が心機一転を計る場として実績を上げているという。自然に囲まれた島での暮らしや、顔の見える人付き合いがいい刺激になって、子供たちはたくましく成長して帰っていく。





 島の人口は100人あまりで高齢化と少子化が進んでいるから、放っておけば学校自体が閉鎖の危機に追い込まれてしまう。その危機感が「しおかぜ留学」制度を始めるきっかけになったようだ。もし地域から学校がなくなると過疎化が一気に進み、最悪の場合には無人島化することもあり得る。実際にそうなった離島の例もあるという。
 無人島になったって別にいいじゃないか。教員や警察官や郵便局員、交通や通信インフラなどの余分なコストをかけてまで島の生活を維持する必要がどこにあるのか。そういう島外からの声に対して、大山さんは「それは違う」と断言する。もし離島が無人島化すると、近海に侵入してくる不審船や密貿易船、外国の潜水艦などに気づかなくなる恐れがある。見張りのいない海域は守りが手薄になるわけだ。そのために自衛隊の海上警備を強化すると、結果的に今よりもっとコストがかかるようになる。島を維持した方が実は安上がりだというのだ。
 コスト面はともかくとして、できる限り島の独自の文化や暮らしを存続させるべきだという意見には僕も賛成だ。住人がいなくなれば何百年も続いた独自の文化や歴史が死に絶えてしまう。日本という国の豊かな多様性の一部が永久に失われてしまうことになる。


【三島村にたった一人の駐在さん。緊急の事件が起こると本部からヘリの出動を要請するが、そんなことはまず起こらない】

 特別授業が終わると、大山さんが車で「東温泉」と呼ばれる名物の露天風呂に連れて行ってくれた。この温泉は実にワイルドで素晴らしかった。ざっばーんと波が打ち寄せる岸壁に穴を掘って、わき出してくる温泉水を溜めているだけの正真正銘の天然温泉なのだ。屋根も脱衣所もなく、ただその辺に服を脱ぎ散らかして飛び込むだけ。もちろん混浴。料金はタダ。すごい。
「あー、極楽、極楽」
 先に入った大山さんがなんともベタな台詞を口にする。でもそれ以外に表現しようがないほどの極楽風呂である。目の前には硫黄分で黄色く染まった海が広がり、背後には切り立った崖が迫っている。大自然に囲まれた中で裸になって湯に浸る。なんという解放感。
 泉質は酸性で、最初に湯に浸かったときには少し肌がぴりぴりする。皮膚病やリウマチに効果があり、水虫なんか一発で治ってしまうとのこと。しかし湯そのものより、やはりこの雄大なロケーションである。ここに勝る温泉はそうはないだろう。
「漁の疲れをここで取るわけよ」
 と大山さんは言う。そう、大山さんの本業は漁師なのである。
「夜には満天の星空が広がって、それを眺めながらゆっくり温泉に浸かる。人工衛星が飛んでるのが見えることもあるんよ。宇宙飛行士の山崎さんもあそこにおるんかなぁと思いながら、空を見上げるんよ」





 島には民宿がいくつかあって、僕が泊まったのはそのうちのひとつ「民宿硫黄島」。いかにも田舎の民宿らしく、一応個室にはなっているのだが、廊下と部屋との仕切はカーテンのみというアバウトさだった。しかしおかみさんの手料理は絶品だった。ほとんどの品はこの島でとれたもの。イカ、タコ、イシダイのお造り。それからタケノコづくし。「大名竹」という名物のタケノコが焼き物から天ぷら、お吸い物や肉じゃがにもたっぷり使われている。ツワブキや山菜の煮物などの山の幸もてんこ盛り。僕の他にもう一人泊まり客がいたのだが、彼はとても全部は食べきれなかった。僕の方は相当頑張って完食し、ご飯もおかわりしたというのに、おかみさんは「もっと食べなさい。もう少し肉を付けた方がええよ」などと言う。食いしん坊には最適の宿だ。
 民宿のご主人は大工でもあり、漁師でもある。もともとは隣の黒島の生まれだが、硫黄ラッシュの時にこの島に移り、硫黄鉱山が閉鎖された後もここに残った。
「島では何でも屋にならんと生きていけんよ」とご主人。
 ここでは「農家兼・漁師兼・土建屋」といった兼業が当たり前で、季節労働を組み合わせることでなんとか収入を得ていくしかないのである。


【漁網を繕うご主人。網はセットで買うと高いから、自分で作っている】


 翌日は早朝5時半から大山さんの船で漁に出かけた。昨日仕掛けておいた網で伊勢エビを捕るという。大山さんの漁船は最大9人乗りの小さなもので、ナンバープレートには「KG3」と書かれている。「KG」とは鹿児島のことで、「3」とは漁船の大きさを示している。船が大きくなるとこの数字が小さくなり、支払う税金や点検にかかる費用も高くなる。この船は中古で600万円ほどしたそうだ。GPSや魚群探知機などの機器類だけで170万円かかったという。
「船の維持費もかかるし、燃料代だってかかる。漁師を続けるんも大変なんよ」
 この島で専業漁師なのは二人だけ。兼業漁師を含めても10人程度だという。漁師が儲かった時代もあるが、今は魚の値段が低く抑えられているうえに燃料費も高騰したので、利幅が少なくなってしまった。農作物もそうだが、水産物も安い輸入品に押されて値段を上げられなくなっている。消費者が気にしているのは産地ではなくて値札だからだ。
「流通がごっそり持って行きよるんよ。伊勢エビもな、足一本取れとったら、それだけで安く買い叩かれる。俺だって消費者に安いもんを届けたいんよ。だから流通を通さずに直接ホテルや料亭に売ることも始めてる。今の流れはそうよ。JA(農業)もJF(漁協)も大きくなりすぎた組織を維持するためにマージンと取っとる。生産者が報われないと日本の漁業は終わりよ」



 船は堤防に囲まれた港から外海に出る。港の水は赤茶色に濁っている。鉄分を含んだ温泉が海底から噴出している影響らしい。かなり不気味な色合いだが、この水の中にもちゃんと魚は住んでいるようだ。
 船は小型だが波は穏やかだったので船酔いの心配はなかった。大山さんは漁師なのでもちろん船酔いはしないのだが、フェリーに乗ると気分が悪くなるという。大型船と小型船では揺れ方が違うらしい。船酔いする漁師というのも妙な気はするけど。

 5時50分に竹島の方向から朝日が昇る。硫黄島の東に位置する竹島は、文字通り竹しか生えていない島なのだそうだ。沖合には僕らの船以外にもう一隻船が停泊している。これは珊瑚を採る作業船で、後部に小さな潜水艇を積んでいる。
 大山さんが網を仕掛けたのは硫黄島と竹島のあいだの海で、そこには溶岩が噴出してできた小さな岩礁がある。目印のブイに近づくと、船のエンジンを止めてウィンチで網を引き上げる。出港する前は「今日はボウズかもしれん。昨日網を仕掛けるのをちょっとしくじったから」と弱気なセリフを口にしていた大山さんだったが、その言葉とは裏腹に網には大きな伊勢エビが10匹以上かかっていた。他にもイシダイ、カサゴ、フカなどが上がった。
「大漁とまでは言わんけど、まぁまぁだな」
 大山さんもほっとした様子だ。ぱらぱらと雨が降ってきたので、慌てて引き上げたエビにビニールシートをかぶせる。伊勢エビは雨に弱い。真水を浴びて塩分濃度が下がるとすぐに死んでしまうという。伊勢エビは生きたまま箱詰めにして鹿児島の魚市場に出荷するから、その前に弱らせるわけにはいかないのである。







 意気揚々と港に戻ってきた後は、伊勢エビを慎重に網から外し、箱詰めにする作業が待っている。大山さんと奥さんがこの仕事に取りかかるあいだ、僕は大山さんの家の離れに住んでいるおばあさんと話をした。長濱ユミさんは三島村でもっとも長命で、明治42年生まれの御年100歳である。足は多少弱っていて杖はついているものの、耳もちゃんと聞こえるし、病気らしい病気にはかかったことがないという。すこぶる健康である。
「健康の秘訣? 毎朝モチを食べとることかなぁ。年を取ったらガリガリに痩せる人がおるけど、私はモチを食べて太るようにしてる。島の食べ物は体にええなぁ。今朝も近所の奥さんからシビ(マグロの幼魚)をもらったんよ。今の時期はタケノコがたくさん採れるし、今も自分で炊いておるんよ」
 この島には看護婦はいるが医者はいない。だから病気になったら船で鹿児島市内の病院に行くことになる。
「私は船が嫌いなんよ。鹿児島に上がるのも年に一回ぐらいかなぁ。70歳以上になるとタダで船に乗れる券がもらえるんやけど、船酔いするから乗りたくない」
 島のお年寄りにも体調を崩して町の病院に入院したことで一気に老け込む人が多いという。病院は何でも人の世話になるから、それがかえって体に悪いのだとユミおばあちゃんは言う。彼女は自分の身の回りのことはなんでも自分でする。寝るときは息子夫婦と一緒だが、昼間は自分専用の離れにいて、料理をしたりテレビを見たりしながら気ままに過ごしている。掃除も洗濯ももちろん自分でする。今日は孫やひ孫たちのためにコロッケをこしられているところだ。


【103歳のユミおばあちゃん】

「好きなことをして生きるのが一番幸せよ。好きなことができんようになったら死んだ方がマシよ。このあいだも医者に『あと10年は生きられますね』って言われた。でもほんとは10年も生きとぉないんよ。モチを喉に詰まらせたら楽に死ねるんちゃうやろかって思ったりしてなぁ。これ以上長生きしたら、『硫黄島に幽霊みたいなババアがおる』ってみんな見に来よるんと違うやろか」
 ユミおばあちゃんはちょっと口が悪い。近所のおばさんの悪口も平気で言うし、こんな自虐ネタも口にする。でもイヤミはまったくない。口の悪さだって元気な証拠だ。この人ならあと十年は生きそうな気がする。
「じゃあ10年経ったらまた島においで。幽霊ババアが生きとるか、本物の幽霊になったか、見に来りゃいい」
 ユミさんはそう言って顔をくしゃくしゃにして笑った。


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本日の走行距離:3.8km (総計:1398.1km)
本日の「5円タクシー」の収益:115円 (総計:23360円)

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by butterfly-life | 2010-04-26 08:49 | リキシャで日本一周
45日目:島の学校(鹿児島県種子島)
 種子島中部にある納官小学校は生徒数19人の小さな学校だ。この小学校の全校集会(といっても19人しかいないわけだが)に呼ばれて話をすることになったのは、朝たまたまリキシャで学校の前を通りかかったときに、校長先生と出会ったからだった。僕のリキシャをおもしろがってくれた松尾校長が「ぜひ子供たちにも見せてあげたいな」と言って学校の中に誘ってくれたのだ。


【リキシャに興味津々の子供たち】

 紺色の制服を着た生徒たちががやがやと集まってくる。リキシャを見つけた子供たちは口々に「これなに?」「わーすげぇ!」などと言っている。ずいぶん裾の長いブレザーを着た男の子がかわいい。きっと将来の成長を見越して買い与えられたのだろう。
 8時半に体育館で全校集会が始まる。歌の合唱と保健委員からのお知らせ(今月の目標は「仕事に慣れる」です)のあと、教頭先生から紹介を受けてみんなの前に立つ。
「あのリキシャはバングラデシュっていう国から持ってきました。バングラデシュって聞いたことのある人はいるかな?」
「・・・・」
 みんな顔を見合わせている。どうやら誰も聞いたことがないらしい。残念。バングラの知名度はやはり低いようだ。
 リキシャとバングラデシュについて簡単に説明する。バングラデシュには日本よりも多くの人が住んでいること。リキシャはタクシーとして使われているということ。1日100円以下の収入で暮らす人がおおぜいいるということ。
「リキシャに乗ってみたい人はいる?」
 と聞くと、今度は全員が「はーい!」と手を挙げた。反応が素直で気持ちがいい。
 1年生から順番にリキシャに乗せてあげた。雨で少しぬかるんだ校庭をぐるりと一周する。
「怖ーい」「気持ちいいー」「もっと乗りたーい」
 どの子も満面の笑みだ。早く乗りたくてうずうずしている男の子たちがリキシャを追いかけて走り出した。





「種子島の子供たちはとても素直だし、感情表現が豊かなんですよ」と松尾校長。「最初は少しシャイなんだけど、慣れればすぐに仲良くなる。よく笑うし、とても元気がいいんです」
 何しろ娯楽の少ない島なので、子供たちは豊かな自然と共にのびのびと育つ。伝統の和太鼓をみんなで叩いたり、ウミガメの卵を孵化させて海に帰したりといったここでしかできない体験ができるのもうらやましい限りだ。
 生徒たちに将来の夢を訊ねてみると、意外にも「自衛隊」や「警察官」という答えが返ってきた。種子島だけに「宇宙飛行士」という答えがあってもよさそうなものだが、小学生たちはけっこう現実的なのであった。
「どうして自衛隊になりたいの?」
「お金がたくさんもらえるから」
 なんだか身も蓋もない理由だが、まぁその通りなのだろう。この男の子の親戚には自衛官が何人かいるらしい。種子島に限らず、これといった産業のない田舎町では「公務員になれば安泰」という志向がことのほか強いようだ。しかし国の借金がかさみ、財政赤字に苦しむ自治体がもっと増えれば、公務員だって安泰とは言えなくなるのではないか。



 集会が終わった後、授業の様子を見せてもらった。
 この学校では生徒数が少ないので、一人の先生が2学年を同時に教える「複式授業」を行っている。1,2年生、3,4年生、5,6年生が同じ教室で机を並べている。教室には黒板が二つあって、先生が3年生に漢字の書き取りを教えているあいだに、4年生は朗読劇の読み合わせをする。先生一人あたりが受け持つのが6,7人だから、これでも十分に目が行き届くのである。
「ここでは学級崩壊なんて起こりませんよ」と松尾校長。「担任の先生もやりやすいんじゃないかな。ほとんどマンツーマンみたいなものだから、生徒がどこまで理解しているかはっきりわかりますからね。落ちこぼれができないんです。こんな小さな学校だけど、共通テストの成績はいい方なんですよ」
 子供たちは決してがつがつ勉強しているわけではない。学校が終われば外で思いっきり遊ぶ。塾がないから、塾通いをする子供もいない。少々のんびりしすぎている部分もあるけれど、小学生の頃はそれぐらいでちょうどいいのではないかと校長は言う。


【5、6年生の教室。黒板が二つあり、背中合わせに座っている】



 生徒の親をはじめとする地域の人々が学校を信頼してくれていることも、先生の仕事をやりやすくしている。島のじいちゃんばあちゃんたちが子供だった頃に当たり前だった「先生は偉いもの」という価値観が、今の子供たちにも受け継がれているのだ。
 内田樹氏も言っているように、「先生は偉い」というのはフィクションなのだけど、そのフィクションを受け入れることによってはじめて「学び」という装置は起動する。教師が実際に尊敬に値する人物かどうかとは関係なく、子供たちが「師から多くを学べる」と思い込むことが学習意欲を高める鍵になるのだ。
「集落の人はみんな親切ですよ。タケノコ、つわぶき、はまぐり、旬の食べ物をいつも持ってきてくれるんです。『芋は好きか?』と聞かれたんで、『はい』と答えると、唐芋を段ボールに二箱も持ってきてくれたりね。とてもうちでは食べきれないから、それをまた他に配ったりして。物々交換で十分に食べていけるんですよ」
 島でののどかな暮らしは、離島に赴任してきた先生たちにとってもかけがえのない豊かな時間になっているようだ。



「さようならー」「またきてねー」の声に送られて、納官小学校を後にした。
 朝からぱらぱらと雨が降り続いていたが、走り出してしばらくすると本格的な降りに変わった。雨宿りをしようにも屋根のある建物が見当たらないので、カッパを着込んでひたすら走り続けるしかない。
 ザーザー降りの中を西之表港に向けて走った。昨日と同じ道を引き返したのだが、晴天と雨天では見える景色がまったく違う。もちろんリキシャを漕ぐときの気分も違う。
 出港時間が迫っていたので少し焦ったけれど、何とか2時の船には間に合った。やれやれ。


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本日の走行距離:30.3km (総計:1394.3km)
本日の「5円タクシー」の収益:100円 (総計:23245円)

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by butterfly-life | 2010-04-23 21:40 | リキシャで日本一周
44日目:ロケットの島(鹿児島県種子島)
 朝8時に宿を出て鹿児島港に向かう。
 同じ宿に泊まっていた3人組のおばさんから「山登りに行くのー?」と聞かれた。僕が背負っていたバックパックを見てそう思ったらしい。
「いいえ、自転車なんですよ」
 リキシャを見たおばさんたちは驚嘆して、「きゃー、かわいいわねぇ」「こんなんで旅してるのー」と大騒ぎ。たちまち3人が代わる代わるにシャッターを切りあう撮影会となった。今どき珍しい「写ルンです」である。
「失敗してたらいかんから、もう一回ね」
「あなた写真を撮ってるの? でもこれは撮る方やなくて撮られる方やねぇ」
 なんて口々に言い合っている。元気なおばちゃん、かしまし娘である。
「す、すいません。フェリーの時間があるもんですから」
 と言い訳して(実際にそうだったんだけど)かしまし娘たちと別れて、南埠頭に向かう。
 今日も朝から桜島は噴煙を噴き上げている。昨日とは反対に東風が吹いているので、火山灰はもろに鹿児島市方面に向かっている。ほんの20分ほど走っただけで、シャツもズボンも細かい灰だらけになってしまった。

 「プリンセスわかさ」は8時40分の定刻通り出発。自転車込みで片道4000円。珍しく若い女性の客室乗務員が客室まで案内してくれる。乗客は少なくて20人ぐらい。種子島にはこのフェリーの他に旅客だけの高速船「ロケット」も就航していて、急ぐお客はそちらに乗っているのだろう。

 出発から2時間でフェリーは大隅半島最南端の佐多岬を抜けた。外洋に出ると途端に揺れが大きくなったので、デッキから「ごろ寝ルーム」に移って、地元のおじさんたちに混じって少し眠る。
 12時過ぎに種子島の西之表港に到着。西之表は種子島でもっとも大きな町のようだが、人通りはまばらだった。日曜日だからなのか、いつもこうなのかはよくわからない。


【日曜日のピクニックに海辺にやってきた種子島在住のご家族。リキシャに乗ったユウタ君は「絵日記に書ける!」と喜んでいた】

 西之表でタクシー運転手のおじさんたちと話をした。例によってここ最近は観光客の足も遠のき、景気は悪いという。夏休みには旅行者がたくさんやってくるが、それが終わってからは暇な日が続く。
「タクシーだけでは食うてけんからな、イカを釣っとるんよ」
 一人のおじさんは運転手と漁師を兼業しているそうだ。自分の船も持っている。タクシー運転手と漁師の兼業というのは珍しいパターンだと思うのだが、ひょっとしたら種子島では当たり前なのかもしない。
「来月ロケットが打ち上がるから、見ていったらええよ」とイカ釣り運転手のおじさんは言った。「あれはすごいもんやから。次は金星探査機やな。だからH-ⅡAやな。H-ⅡBっちゅうのはもっと大きくて、宇宙ステーションに荷物を運ぶんよ。打ち上げを三菱重工が担当するようになってからは失敗がほとんどなくなったんや。やっぱり民間の方がいい仕事をしよるなぁ」
 さすがは種子島。普通の世間話の中に宇宙開発用語が頻出するのはロケットの島ならではだと思う。ちなみに次回の打ち上げは5月18日の予定。さすがに1ヶ月は待てないので今回はパスするしかないが、一度は見てみたいものである。
「ここから宇宙センターまでは50キロぐらい離れてるからな。ドーンと音が聞こえたときには、もうロケットははるか上空を飛んどるわけよ」
 おじさんはイカ釣りの網を手に持ったまま空を見上げる。あの白い雲を突き抜けて猛スピードでロケットが上昇していくわけだ。すごいね。


【漁師兼タクシー運転手のおじさん。手に持っているのはイカをすくう網】

 種子島の道路も他の離島と同じようにアップダウンが激しかった。島の中心に高い山を持つ屋久島に比べると、種子島はおおむね平らな島なのだが、上っても下ってもいないフラットな場所というのは意外に少ないのだ。
 58号線に乗って南に下る。ところどころに美しい砂浜があり、青い海がまぶしく光っている。砂浜には人影はなく、ときどき小型の漁船が横切るだけだ。
 港のそばの集落には、お年寄りの姿が目立った。乳母車を押して歩くおばあさんや、電動カートで移動するおじいさん。老人ホームのマイクロバスから降りてきたお年寄りたちが、木の下で記念撮影に臨んでいる。高齢化の進んだ島であることが一目でわかるような光景だった。

 住吉という集落では、アジア雑貨とアクセサリーの店を経営するバレリーさんに出会った。バレリーさんは18年前に種子島に移り住んできたフランス人女性である。タイを旅しているときに日本人の旦那さんと出会い、一時は東京に住んでいたのだが、都会の空気に馴染めずに種子島にやってきたという。その後いろいろな仕事をしながらお金を貯めて、夫婦で2年かけて世界一周の旅を行い、そのときに買い集めたアクセサリーを元にしてお店を始めた。アフガニスタンの古いビーズ、チベット人が染めた石などを使ったオリジナルのネックレスを作り、店で売り始めたのだ。
 種子島にはサーファー的人生(パートタイムで働きながら波に乗る日々)を送るサーファーが500人程度住んでいる。この店のインドテイスト、アジアの匂いをまず気に入ってくれたのは彼らサーファーだった。
「11年前にお店を始めたときは、誰も長続きするなんて思っていなかったんですよ。私たちも絶対ダメだと思っていた。それが今でも続いているのは、きっとライバルがいないからね。種子島にはこういうタイプのお店は他にないから、旅行者だけじゃなくて地元の人も買いに来てくれるようになったんです」



 バレリーさんの隣に間借りしてアジア衣料の店を開いたリカさんも、島の外からやってきた移住者だ。5年前に旅行で種子島を訪れて以来すっかりここが気に入ってしまい、夫婦二人で移り住むことにした。お金を貯めるためにできる仕事は何でもした。夏は民宿で働き、冬は農家の手伝い。旦那さんは漁師や、置き薬の営業や、でんぷん工場の労働者などなど。
「島では仕事をえり好みしていては生きていけないの」とリカさんは言う。「何でもやりますって精神じゃないと暮らしていけないんです。でんぷん工場はたぶん島で一番給料がいい仕事なんだけど、昼も夜もない重労働で大変だったみたいね」
 種子島には移住者を温かく迎え入れる伝統があるそうだ。それは古くは鉄砲を伝えたポルトガル人を助けたところから始まっているという。
 最近も「田舎暮らし」がブームになって、都会暮らしに疲れた人たちが県外から次々に移住してきたのだが、なかなか定着には至っていない。実際の農業は「土いじり」とは違って苦労や失敗の連続だ。理想と現実のギャップに失望して、また都会に戻っていく人も多い。
「娯楽っていってもお酒を飲むことぐらいしかないから。東京みたいに刺激がありすぎるのも疲れるけど、刺激がなさ過ぎるというのもちょっとねぇ。集落の行事があると必ず『反省会』っていうのが開かれるんです。別に反省なんて誰もしないんだけど。そういう口実で集まってお酒を飲みたいだけなんです」

 種子島は南北に細長い島なので、半日で端から端まで行くことはできなかった。
 本日は島のおへその位置にある中種子町に泊まることにする。


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本日の走行距離:36.1km (総計:1364.0km)
本日の「5円タクシー」の収益:345円 (総計:23145円)

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by butterfly-life | 2010-04-22 22:08 | リキシャで日本一周
43日目:山は生きている(鹿児島県桜島)
 鹿屋市から鹿児島湾に沿って北上し、桜島を抜けて鹿児島市に至るというのが本日のルート。
 国道220号線で山をひとつ越えて垂水市に向かう。
 だらだら続く上り坂をリキシャを引いて登っていると、摘んだばかりの花を手にしたおばあさんに出会った。原田フジさん89歳。息子たちはみんな独立して町に住んでいるので、今は一人暮らしをしている。このあたりは家が六軒しかない過疎地域だが、ご近所さんからいろんなものをもらったり、こちらからあげたりする付き合いがあるから寂しくはない。
「ちょっと待ってなさいよ」
 そう言ってフジさんはひょこひょことした足取りで家に戻り、ビニール袋を抱えて戻ってきた。袋にはバナナ一房、「味噌たん切り飴」一袋、それから何かの薬が入っていた。
「これは痛いところに塗ればいいよ。私もな、腰が痛いときにはこれを塗っとるんだから。今日みたいな暖かい日はいいけどな、冷える日は関節が痛うなるんよ」
「でもこの薬を僕がもらったら困るんじゃないですか?」
「ええよ、ええよ。私はみっつも持っとるから」

 220号線をさらに登っていくと、おばさんたちが畑に芝を植えていた。ゴルフ場や公園などの芝生は、その場で育ったものではなくて、こうした「芝生の畑」で育ったものを移植しているのである。大隅半島は芝の産地として有名で、いくつもの会社が作った芝を全国に出荷しているのだそうだ。
 芝作りはちょっと変わっている。まず芝の元になる根の断片を地面にばらばらとまく。それからトラクターで地面を掘り返して芝と土と混ぜ、それを鉄のローラーで硬く押し固めるのである。すると芝が根を伸ばし、青い草が生えてくる。収穫は1年に2度。1平方メートルあたり300円ぐらいで売れるそうだ。そう言われても高いのか安いのかわからないけど。
「芝はどうやって伸びていくんですか?」
 と僕が訊ねると、ファンシーな日よけ帽を被ったおばさんが笑いながら言った。
「伸びたいときに伸びるんよ」
 放っておいても勝手に伸びるということか。


【畑に芝生をまくおばさん】


【トンボを使って芝畑の土をならしている】


【鹿屋港の漁協で働いていたおばさんたち。甘エビの頭を素早い手つきで取っていく。かき揚げにすると美味しいのだそうだ】

 芝畑のおばさんたちに別れを告げて、坂を一気に下ると海が見えてくる。波のない穏やかな海。鹿児島湾だ。
 空には雲ひとつなく、空気はからっと乾いている。本日は絶好のリキシャ日和・・・と言いたいところだが、それを邪魔するものがいた。火山灰である。
 桜島の火山が活発に噴火し始めたのは去年の10月頃から。この10年ほどは散発的にしか噴火が起こらない休止状態だったのだが、再び目覚めたのだ。
 今日も朝の10時頃に噴火が起こり、西からの風に乗った火山灰が垂水市周辺に飛散していた。「今日はまだマシな方よ」と地元の人が言うように、灰で視界が効かなくなるほどではなかったが、それでも細かい灰が目に入ってきて涙が止まらなくなるのは参った。
 ナビとして使っているiPhoneにも影響が出た。理由はよくわからないのだが、火山灰が飛んでいるときにはGPS機能が使えなくなってしまうのだ。火山灰が電波の受信を邪魔しているのだろうか。「ミノフスキー粒子、戦闘濃度に散布!」みたいなものか?(わからない人ごめんなさい)


【朝の噴火で灰をかぶった自動車】

 この火山灰によって打撃を受けているのが農業だ。手塩にかけて育てた農作物が灰を被って売り物にならなくなる。インゲンを育てている農家のおじさんは憤りを隠せない様子だ。
「灰が降った後に雨が降ると、作物に細かい傷が付きよる。そうするともう商品価値がなくなる。インゲンを育てるにもお金がかかっとるからな。トラクター、ビニールハウス、それに農薬。この薬も一本で7000円もするんよ。これを収穫までに何度も撒かんといかん。野菜の値段が上がっとるってニュースで言うてるけど、農家から見れば全然高くなんかないよ。みんなギリギリでやっとるんやから」
 おじさんはもともとサラリーマンをしていたのだが、5年前に親の土地を譲り受けて農業を始めた。しかし規模が小さいのでなかなか生産性は上がらず、収入は月に15万程度。これでは若い人が農家を敬遠するのも当然で、このあたりでは農業の担い手のほとんどが60歳以上だ。
「いっそのことドーンと大爆発してくれた方がええんよ」
「大爆発?」
「そうよ。桜島は一度大爆発すれば、そのあとはしばらくおとなしくなる。でも今みたいにチビチビと噴火しとるような場合は、この状態が何年も続くんよ。それが農家にとっては一番困る」
 これまでにも桜島はたびたび大噴火を起こしてきた。1985年にピークに達した大噴火では、噴石で窓ガラスが割れたり、火山灰で車が滑って交通事故が起きたりといった被害が相次いだが、それも1990年代に入ってからは収まり、長らく火山活動は休止状態に入っていた。
「今回の噴火がいつまで続くのか誰にもわからん。地震の予測と同じでなかなか当たらんのよ。あんた、桜島をその自転車でどこかへ引っ張っていってくれよ」
 おじさんは少々投げやり気味に言った。リキシャで引っ張るのは構いませんが、どこに持って行けばいいんでしょうか。




【垂水から桜島を望む】

 220号線をさらに北に進むと、いよいよ桜島に入る。もともと桜島はその名の通り「島」だったのだが、大正3年(1914年)の大噴火で流れ出した溶岩によって大隅半島と地続きになった。島の南東部は大正の大噴火で生まれた新しい土地なので人家は全くなく、龍の肌のようにゴツゴツとした溶岩が連なるばかり。溶岩の割れ目から松の木が伸びる特異な光景が続く。

 本日二度目の噴火が起きたのは、ちょうどリキシャが火口の正面にさしかかったときだった。山頂よりもやや下の火口からもくもくと噴煙が上がってくるのが見えたので、慌ててリキシャを止めた。まるで煙それ自体が生きて意志を持っているかのような不気味な動きだった。噴煙の広がりは予想以上に早く、吹き上げてからわずか5分で空の半分が煙で覆われてしまった。空は一気に暗くなり、光がオレンジ色を帯び始める。少し肌寒くなったようにも感じる。







 もっと噴け、噴き上がれ。
 不謹慎にも心の中でそう叫んでいた。農家のおじさんたちの苦労話を聞いた後だったから、この火山灰が農作物にどういうダメージを与えるかは知っていたのだが、火山が持つ圧倒的な力を目の前にした興奮はとどめようがなかったのだ。地球的規模のエネルギーの噴出。一瞬で辺りの景色を一変させてしまう力。
 この山は生きている。
 そう思った。
 昔の人もきっとそう感じたことだろう。

「雨と同じよ。誰にも止められん」
 堤防の先で毎日桜島を眺めている90歳のおじいさんは言った。
「火山さえなけりゃ、老後をのんびり過ごすのにはいいところなんやけど」
 灰がたくさん降る日もあれば、まったく降らない日もある。しかし火山は(少なくとも人間的スケールから見れば)ほぼ永遠に存在する。ならばそれと折り合いを付けながら、気長に付き合っていくしかないのかもしれない。



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本日の走行距離:54.4km (総計:1328.0km)
本日の「5円タクシー」の収益:655円 (総計:22800円)

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by butterfly-life | 2010-04-22 13:10 | リキシャで日本一周
42日目:星空を走る(鹿児島県鹿屋市)
 那覇から鹿児島県志布志に向かうフェリーは出発が2時間近く遅れたせいで、予定より大幅に遅れての到着になった。午後4時に港に降りる。からりと晴れ上がった空と少し肌寒い風。ねっとりとしていた沖縄の風とは感触が違っていた。

 志布志から30キロほど西にある鹿屋市に向かう。日没まであまり時間がないが、珍しくよく晴れた日を無駄にはしたくなかった。
 志布志の道は平坦でとても走りやすかった。久しぶりにスピード感のある移動だ。
 道路の脇に広がる田んぼにはすでに苗が植わっている。水の張った田んぼに夕日が反射して美しかった。

 途中コンビニに寄って、おにぎりとオレンジジュースで栄養補給していると、トラックの運転手から声を掛けられた。
「スタートしてからどれぐらい経つの?」
「1ヶ月半ぐらいですね」
「そ、そんなに? あと何ヶ月かかりそう?」
「3ヶ月以上はかかるでしょうね」
「はー、有給休暇をめいっぱい使うとるんやねぇ」
「ええ、まぁ・・・」
 写真家に有給休暇なんてものはないんです、と言おうかと思ったけど、説明するのが面倒なのでやめた。だいたい5ヶ月も有給休暇をくれる会社というのは存在するのだろうか?
 実際のところ、この旅は「有給休暇」という言葉の正反対に位置するもの、つまり「無給仕事」なのである。無給なんだったら仕事とは呼べないじゃないか、という意見もあるかもしれないが、僕にとっては間違いなく仕事なのだ。
 それじゃ仕事とは一体何なのか。というようなことを考え始めると長くなりそうなので、これはまた別の機会に書くことにしよう。

 6時半に日が沈んだ。ミッドナイトブルーに染まった西の空には、舐めかけのトローチみたいにほっそりとした月と、「宵の明星」金星とが並んで浮かんでいる。美しい光景だ。空気が澄んでいるので、ひとつまたひとつと頭上に星が現れる。夜は危ないのでなるべく走らないようにしているのだが、たまには星空の元でリキシャを走らせるのも悪くないなぁと思う。

 鹿屋市の警察署の前で、原付バイクに乗ったおじさんが話しかけてきた。頭に白いものが混じった40半ばぐらいのおじさんである。醤油メーカーの営業をしているそうだ。
「これで旅しているんだねぇ。すごいね」と感心しきりにうなずく。「俺はね、自転車で旅している人にはよく声を掛けるのよ。前も競輪選手みたいな体格の女の子二人組がここを通りかかってね、そのときには缶コーヒーを投げてあげたのよ。そうしたらぱっとキャッチしてさ。ありがとうございますって。いいよねぇ、ああいうコミュニケーションが俺は好きだな」
 おじさんは楽しげに言った。こういう親切な人がいるおかげで、自転車の旅の辛さも半減されるのだと思う。
「今は原付バイクに乗ってるんだけど、前に免停食らってたときには2年ぐらい自転車で通勤していたんだ。自転車は体にいいよ。8キロ痩せたもんなぁ・・」
 そう言い残すと、おじさんは原付にまたがってブーンと去っていった。途中の信号は赤だったのだが、彼は躊躇することなく左折した。
 おいおい、また免停になっちゃうんじゃないの。ここ警察署の真ん前だぜ!


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本日の走行距離:30.0km (総計:1273.5km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:22145円)

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by butterfly-life | 2010-04-20 07:48 | リキシャで日本一周
41日目:北上開始(粟国島→那覇→志布志)
 「沖縄から北海道まで、日本縦断の旅」
 こう銘打っておきながら、まだ1キロも北上しないまま40日が経った。諸般の事情から四国・徳島からスタートしたこの旅も、ようやく今日から本格的なスタートだ。
 今日は船を乗り継ぐ移動日である。まず粟国島から「フェリーあぐに」に乗って那覇に戻り、那覇から鹿児島・志布志港に向かうフェリー「飛龍21」に乗り換える。

 粟国島の港には昨日お世話になった染織家の小嶺さんが見送りに来てくれた。
「あなたのような人に会えて元気が沸いてきましたよ。ありがとう」
 僕らはがっちりと握手を交わした。
「このリキシャが日本のどこかを走っているんだなぁと思うと、なんだか楽しくなってくるね。がんばってください」
 本当に嬉しいはなむけの言葉だった。


【粟国島で粟を植えていたおじいさん】

 今日の沖縄地方は雨が降ったり止んだりの天気で、北風も強く、リキシャにとっては厳しいコンディションだった。せっかく沖縄に来たのに、スッキリと晴れた空を見たのはほんの数時間ほど。天候にはまったく恵まれなかった。
 いったんは雨が上がったのだが、フェリーが那覇・泊港に到着すると待ち構えていたかのようにざーっと雨が降り出した。やれやれ、こんな風に僕の行く先々で雨が降り出すというのを「雨男」というのだろうか。勘弁して欲しいなぁ。
 港の書店で時間を潰し、雨が止んだ頃合いを見計らって走り出したのだが、右後輪がパンクしているのに気づいた。まったくついていない。
 一応パンク修理の道具は持っていたのだが、それは何の役にも立たなかった。リキシャのタイヤはめちゃくちゃ硬くて、100円ショップで買ったプラスチック製の工具ではまったく歯が立たなかったのだ。仕方なく58号線沿いのサイクルショップで修理を頼んだのだが、そこのお兄さんもタイヤの硬さには相当参っていた。
「何ですかこれは?」
「リキシャっていうんですけどね・・・」
 リキシャは本体重量が80キロあり、そこに何人もの客を乗せて走るわけだから、タイヤにはとにかく耐久性が求められる。だからガチガチに硬いのだろう。最後にはお兄さんと店長さんの二人がかりでタイヤをホイールに押し込んでくれた。お疲れ様でした。

 パンク修理に予想以上に時間をとられたこともあって、フェリー乗り場のある那覇埠頭に到着したのは出発予定時間の30分前だった。慌ててチケット売り場に向かうが、窓口は閉まっている。あれれ。
「すいませーん。志布志に行きたいんですが」
「志布志? あぁ、飛龍21ならこっちの港じゃないよ。新港だよ」
「ここじゃない?」
 オーマイガッ! どうやら港の場所を間違えていたようだ。
「新港ってどこにあるんですか?」
「北の方だけどさぁ、ここから車でも10分はかかるから急いだ方がいいよ」
 車で10分? 時計は7時35分を指している。出発予定時刻まで25分しかない。間に合うのか?
 そのあとは全速力で夜の道を走った。もちろんオール立ち漕ぎである。強い向かい風に息が上がる。5キロほどの道のりを20分で走りきった。ぜぃぜぃ。7時55分、なんとか定刻の5分前に乗船窓口にたどり着いた。
「し、志布志に行きたいんですが、まだ乗れますか?」
「あ、大丈夫ですよー。今日は出港が遅れていますから」
 受付の女性はのんびりと言った。ふう、よかったー。何とかギリギリで間に合ったようだ。全身から汗がどっと噴き出す。志布志までの乗船券14200円と自転車代2770円を支払う。

 「飛龍21」は沖縄と東京を結ぶフェリーで、去年座礁事故を起こした「ありあけ」の後釜である。
 船は豪華だった。広いレストランがあり、バーがあり、売店がある。しかしいずれも閉まっている。それもそのはずで乗客はたった7人なのだ。最大収容人数の92名に対して7人。旅客は貨物のオマケみたいなものなのだろう。わざわざ長時間かけて(東京までは48時間かかる)船の旅を楽しもうなどという人は滅多にいないのだ。料金だって下手したら飛行機よりも高いしね。
 というわけで4人部屋を一人で独占することができた。各部屋にはバストイレが付いていて、テレビとソファまで備えてあった。客室に窓がないのは残念だが、これまでになく快適な船旅になりそうだった。

 貨物の積み込みが大幅に遅れたらしく、結局フェリーが港を出たのは1時間45分遅れの午後9時45分だった。なんだ、あんなに必死になってリキシャを漕ぐ必要はなかったんだ。ちょっとがっかりである。


【これが「飛龍21」の2等船室。二段ベッドなのを除けばホテル並みの快適さ】

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本日の走行距離:16.7km (総計:1243.5km)
本日の「5円タクシー」の収益:70円 (総計:22145円)

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by butterfly-life | 2010-04-19 23:27 | リキシャで日本一周