<   2010年 04月 ( 24 )   > この月の画像一覧
40日目:この世とあの世との境で(沖縄県粟国島)
 粟国島に渡ることにしたのは、かなり消極的な理由からだった。
 最初は渡名喜島に行くつもりだったのだが、寝坊して船に乗り損ねてしまったのだ。フェリーは一日に一往復しか出ていないから、次の便は翌朝になる。このまま丸一日を無駄に過ごすのも嫌なので、他に渡れそうな島はないかと探していると、粟国島行きのフェリーが1時間半後に出るとわかった。
 それじゃこれに乗ってしまおう。あっさりと決めた。自分でもずいぶんてーげー(適当)だと思うが、島巡りはこのぐらいの身軽さでちょうどいいのかもしれない。

 「フェリーあぐに」は内装もモダンで清潔な船だった。座席はリクライニングでき、新幹線に乗っているような気分。前方には大型液晶テレビも備えている。乗客は全部で20人ほど。乗車率は10%にも満たない。
 波は高く、船は大きく揺れた。ざっばーんと水しぶきをあげながら進む。航行時間は2時間と少し。本を読んでいると頭が痛くなってきたのでうとうとと眠っていると、すぐに到着時間になる。水平線の向こうから姿を現した粟国島は、東側は真っ平らで西側は断崖絶壁という独特のシルエットをしていた。

 粟国島はおそろしく静かだった。島全体が眠り込んでしまっているようだった。人口850人ほどだからそれも当然なのだけど、とにかく人通りがない。学校や役場が集まる「メインストリート」でも、車とすれ違うことはまれだった。島でただひとつの信号機が学校の前にあるのだが、これも実用的な意味より、子供たちに「信号機とは何か」を教えるために設置されたもののようだ。
 粟国島の集落は石垣と分厚い葉を持つ防風林で覆われている。瓦屋根の伝統家屋も残ってはいるが、多くの家はコンクリート製の無愛想なものに替わっている。むき出しのコンクリートとアルミサッシでできたコンクリート住宅は、壁に熱を蓄えるので夏は暑く、冬は底冷えするという。住みやすさという点では伝統家屋の方に軍配が上がるのだが、いかんせん台風に弱い。直撃を受けるとたちまち屋根瓦がはがされ、窓は破壊されてしまう。


【このような伝統家屋は少なくなっている】

 人には滅多に会わなかったが、ヤギはあちこちで見かけた。琉球では昔からヤギ汁を食べる習慣がある。あいにく今回僕はヤギ汁を食べる機会がなかったが、地元の人によれば「強いクセのあるワイルドな味」だそうだ。美味しいから食べるというよりは健康食、あるいは精力剤として食べているという。地元農家のおじさんは「自分で育てていると、ヤギにも情が移ってよう殺さんのよ」と言っていた。確かに真っ白い子ヤギはとてもかわいい。



 島の東部に広がる畑で、粟を植えているおじいさんに出会った。粟国島はその名前の通り昔から粟の栽培が盛んだ。石灰岩中心の地層は保水性に乏しく、粟などの雑穀やサトウキビぐらいしか育てられないのだ。おじいさんによれば、粟は4月に植えて5月から6月にかけて収穫するという。白米に混ぜて食べるとモチ米のような風味が出て美味しいのだそうだ。


【粟国島のおばぁ。97歳で耳も遠くなっているが、足取りはしっかりしていた】

 島の南東部には映画「ナビィの恋」のロケ地として使われた海岸がある。「ナビィの恋」は平良とみさん演じる島のおばぁの切ない恋を、美しい離島の情景と共に描いた作品だ。10年前にこの映画が公開された直後は観光客が次々にやってきて、島はちょっとした「ナビィ景気」に沸いたという。そのとき一人旅でこの島を訪れた女性が島の若者と結婚してそのまま住み着いた例もけっこうあると聞いた。人生を変える映画。いやぁ映画の影響力ってほんとうに侮れないものですね。
 ナビィブームが去ったあとの島を訪れるのは、大半がダイビング客である。沖合には美しい珊瑚礁と珍しい魚が見られるスポットが豊富にある。でも夏のハイシーズンがちょうど台風の時期と重なってしまうのが悩みの種だ。台風の直撃を受けたときなどは一週間近くフェリーが運休することもあり、人の行き来も物資の運搬も途絶えて、島は完全に「孤島化」する。ダイビングどころではなくなってしまうのだ。


【ジャガイモとタマネギとニンニクを収穫するおばさん】

 島には商店や農協の店がいくつかあり、日用品に事欠くことはない。唯一の娯楽施設はカラオケ屋で、これができたとき島民の多くは「すぐにつぶれるだろう」と醒めた目で見ていたのだが、意外にも島の社交場として繁盛しているという。
 そのほかに目立っていたのは「冠婚葬祭の簡素化を推進しましょう」という垂れ幕。冠婚葬祭の簡素化? どうしてそんなものを島民一丸で推進せねばならないのか。部外者には意味不明である。
 後で聞いてわかったのは、粟国島の葬式はとにかく盛大だということ。葬式当日に村人が一同に会して飲み食いするのはもちろんのこと、それから四十九日が終わるまで毎週法事が行われるという。そのたびに亡くなった家の人間は豆腐と豚肉と大根をお土産として参列者に配り、参列者は香典として1万円を渡す。それが7回続くから合計7万円。何人もの人が亡くなるような月には、各家庭にとって大変な出費になる。だから「冠婚葬祭の簡素化」が村の決議として採択されたという。今では香典は一律1000円と決められ、負担は大きく減ったそうだ。



 夕方4時を過ぎて学校から子供たちが帰ってくると、静かな島にもいくらか活気が出てくる。
「あれなんねー」「すごーい!」
 リキシャを見て驚く子供たちの声が聞こえてくる。
「のりたーい!」というので三人の小学生を乗せて走り出す。
「うわー、ぜいたくー」「きもちいいねー」「たのしー」
 島の子供たちは無邪気そのものだ。思ったこと、感じたことをそのまま口に出す。そうだろう、こういうのを贅沢っていうんだよ。漕いでいる僕も嬉しくなる。
「お母さんは東京の人で、お父さんは島の人なのー」
 と2年生の女の子が言う。もしかしたらこの子の母親も映画をきっかけに島に移住してきた「ナビィ妻」の一人なのかもしれない。
「へぇ、そうなの。お父さんは何している人?」
「サトウキビのひとー」
「ふーん、サトウキビの人かぁ」
 ちなみに小学1年生は1クラス10人で、2年生は1クラス8人だそうだ。小さな島のわりに子供の数はあまり減っていないようだった。



 夜は港で知り合った小嶺さんの家にお邪魔して、二人で泡盛を飲んだ。
 小嶺さんは草木染めで染色した絹織物を作っている職人である。もともと那覇で製糸会社を経営していたのだが、これからは自分の作りたいものだけを作ろうと決心し、会社を解散して先祖の土地である粟国島に戻ってきた。今では自宅の隣に工房を構え、蚕を育てるところから始め、製糸、染色、織りまで全てを一人でこなしている。染色や織りをする人はたくさんいるけれど、養蚕も手がける人はかなり珍しい。
「もともと日本は絹で栄えた国。400年の歴史があるんです。でも戦後は衰退する一方だった。安い輸入品には太刀打ちできなかったんです」
 大量生産の輸入品に押されて衰退していく沖縄の製糸業・染織業を目の当たりしてきた小嶺さんが、「100年後にもこの文化を残したい」と始めたのが養蚕だった。小嶺さんが育てている蚕は「粟国蚕」と呼ばれる品種で、約150種類ある日本在来の蚕のうちのひとつ。「粟国蚕」の名前の由来ははっきりとせず、粟国島と関わりがあるかどうかもわからない。しかし小嶺さんは同じ「粟国」の名前が付けられた蚕に特別な思いを抱き、この島で育てていくことに決めて、農業生物資源研究所から卵を分けてもらった。
 粟国蚕から紡がれた糸は黄色っぽくて、肌触りもごわごわとしている。品種改良される前のものだから、品質もあまり良くないし生産性も低いのだ。それがわかっていながらあえて育てているのは世界でも自分一人だけだと小嶺さんは笑う。
「養蚕が何になる、と言われることもあります。でも自分のやりたいことをやっているんだからそれでいいんです。一度は完全に消えてしまった製糸業を、細々とでもいいから残したい。大量生産をするつもりはないんです。僕のあとに続く人が一人でも二人でも出てきて、島の女性が子育てのかたわらで機を織るようになってくれるのが僕の夢です」


【手動の織機で作っているのは三味線の胴巻き(ティーガー)】

 生糸を染める作業は天気のいい日に外で行う。ドラム缶で天水を沸かし、染料となる植物を煮て、束ねた糸を浸す。染料に使うのは月桃、フクギ、ソテツ、あかばなー(ハイビスカス)、タマネギの皮などなど、すべてこの近くで調達できるものばかりだ。
 小嶺さんが仕事をするのは早朝6時からお昼すぎまで。夕方には青い海を見下ろせる場所に座って、のんびりと夕涼みする。天気が良ければ沖縄本島や渡名喜島がくっきりと見渡せる。
「たくさん儲けるためには人と争わなくちゃいけないでしょう。僕はそれがイヤなんです。島の人間は昔から競争しないで生きてきたんです。粟国は沖縄でも一番貧しい島。ろくな作物は育たないし、台風の直撃も受ける。でも飢えることはないんです。漁師だって必要以上に魚を捕ったりはしない。そういう島なんですよ」
 僕らは泡盛「久米仙」の水割りを飲み、小嶺さん手製のサラダを食べながら話をした。庭で採れたパパイヤの細切りにニンジンや香草を加えてごまドレッシングで和える。飾らない味、地元に根ざした味だ。
「月に6,7万の収入があれば島では生きられるんだ。本当ですよ。誰か一人だけが勝つような生き方じゃなくて、みんなが負けないような生き方があるはずなんです」


【古い機械を使って繭から糸を紡いでいく】

 気持ちよく酔いが回ってきたところで、今夜泊まる港近くの民宿に戻ることにした。緩やかな下り坂の道を二人並んで歩く。外は真っ暗だった。街灯もなく、空は分厚い雲で覆われているので、懐中電灯なしではとても歩けない。
「三井さん、月を意識したことってありますか?」と小嶺さんは言った。「都会に暮らしていると昼も夜もないでしょう。僕も長年那覇で暮らしていたら、月の満ち欠けなんか意識しないで生きてきたんですよ。ほら、向こうの方にぼんやりと見える明かり、あれは那覇の街明かりですよ」
 ずっと遠くの水平線に薄いオレンジ色の光がぼんやりとにじんでいた。那覇と粟国島は直線距離でおよそ60キロだから、街の明かりもここまで届くのである。
「ところが島に帰ってみると、夜は完全に闇の世界になる。ここでは月の満ち欠けや、風の動きがとても大切な意味を持ってくる。昔から島の人は旧暦を元にやることを決めるんです。今日は旧暦の3月1日だから、風の強い一日になるとかね。昔の人は知識はなかったけど、生きていくための知恵はあったんです」


【小嶺さんの家は60年前に建てられたものだ】

 暗闇に徐々に目が慣れてくると、ただ黒一色だった世界に様々なグラデーションが現れてきた。切り開かれたアスファルトの道は少し明るくて足下が見える。しかし道の脇の藪は相変わらず真っ暗で、何かが潜んでいるような不気味さをたたえている。
「暗闇は怖い。台風も怖い。だから祈るしかなかった。それが先祖崇拝に繋がったんだと思うんです。今日見てもらったお墓、あれはすごいものだったでしょう?」
 昼間、小嶺さんに案内してもらった墓地は確かにすごかった。切り立った岩壁をくり抜いて作った大きな横穴がこの島のお墓だった。「○○家の墓」といった墓標はなく、穴の入り口をいくつもの石で塞いでいるのみである。親族の誰かが死ぬと、遺体を杉の棺に入れて、穴の中に安置する。火葬はしない。自然に遺体が腐り、白骨化するのを待つのである。亡くなってから3年後に再び墓を開け、骨を水で洗ってから改めて骨壺に収める。300年前に掘られたという最初の墓穴は先祖代々の骨で一杯になったので、100年前にもうひとつの穴を掘ったという。新しい方の墓穴には今も3体の遺体が置かれていて、ゆっくりと骨に還っている。
 形式化され、無味無臭化が進んだ現代日本の葬式と違って、ここには濃密な「死の匂い」が漂っていた。死者がすぐそばにいる。手を伸ばせば届きそうなほど近くに。
 強い風が間断なく吹き付ける崖の上に立って、この島で生き、この島で死んでいった何千何万という人たちの骨の白さを思う。静かに手を合わせた。


【粟国島のお墓は洞窟のようだった】

「島の人は行事があるとき以外は滅多に墓には近づかないんですよ」と小嶺さんは言った。「お墓はこの世とあの世とを結ぶ場所だから、この世にいる人がうかうかと近づくと、まだこのあたりをさまよっている魂に取り憑かれてしまう。そう信じられているんです。夜の闇も同じです。昔は夜には決して子供を家の外に出さなかったんですよ。闇の中には、人ではないようなものが混じっているから」
 この世とあの世との境。人と人でないものの境。闇を征服した現代人はそんなものを意識せずに暮らせるようになった。不要なものだと切り捨てていった。

 この島にはまだ「境」が残っている。
 死者の魂は重みがあり、夜の闇は深い。


***********************************************

本日の走行距離:12.9km (総計:1226.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:22075円)

***********************************************
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-18 20:37 | リキシャで日本一周
39日目:ベロタクシーに会う(沖縄県那覇市)
 沖縄は予想以上に観光地化が進んでいた。海水浴シーズン前で、まだまだ旅行者は少ない時期なのだが、あちこちで観光客の姿を見かける。特に国際通りはすごかった。制服姿の修学旅行生や、若いカップル、外国人の団体旅行者などがひしめいている。京都でいえば新京極のような場所か。
 しかし国際通りを南に向けてずんずん歩いて行くと、ディープな地元ゾーンに入っていく。八百屋の店先に並んだフルーツのいろどりも、昭和の匂い漂うレトロな食堂も、おばあちゃんたちが小さなベンチに腰掛けてコーヒー牛乳を飲む姿も、どこを切り取っても「ザ・沖縄」だ。

 国際通りで「ベロタクシー」に出会った。
 ベロタクシーとはドイツ生まれの三輪自転車タクシーのこと。簡単に言えば「進化したリキシャ」である。ドライバーがペダルを漕いで進み、後ろに二人分の座席があるところはリキシャと同じだが、外見はずいぶん違う。
 まず車高が低い。通常の自転車よりも着座位置が低く、足を下ではなく前方に踏み込んで進む。たぶんこの方が疲れないのだろう。カラフルなボディーは樹脂製で軽そうに見えるのだが、総重量は140キロもあるという。その代わり、車体後部に備えた電池とモーターで「電動アシスト」が効く。もちろん変速機も付いている。だからリキシャのように坂道を押してやる必要はない。スマートでエコな乗り物なのだ。
 ちなみにベロタクシー1台のお値段はなんと100万円。軽自動車が買えちゃう値段にはびっくりした。しかし「リキシャは2万円で買えるんですよ」と言ったときの運転手・与那覇さんのリアクションは僕よりもずっと大きかった。
「そ、そんなに安いんですかぁ?」
「そうなんです。安物なんです」
 だからわずか1ヶ月で故障したりするわけだけど。


【ベロタクシーとリキシャが並び立つ】

「ベロタクシーの運転手になったのは2ヶ月前なんです」と与那覇さん。「最初の一週間は研修期間で、ベロタクシーの運転を教わりました。それからは国際通り近辺を流して客を拾うんです。お客さんのほとんどは観光客ですね」
 ベロタクシーの料金は500mまでの初乗りが350円で、以降100mごとに50円が追加される。通常のタクシーとさほど変わらない値段である。与那覇さんたち運転手の収入は歩合制で、売り上げの10%をベロタクシーを運営するNPO法人に納め、残りは自分のものになる。
「お天気に左右されますからね。売り上げがゼロという日もありますよ。一番稼いだ日でも1万円行くか行かないかですね」
 もちろんこれだけでは食べていけないので、運転手は他にもいくつかの仕事を掛け持ちしている。これから夏本番を迎えると割のいいバイトになるかもしれないが、稼げる期間はさほど長くはなさそうだ。



 ベロタクシーは那覇、京都、横浜など日本中の街で営業を始めている。
 のんびりと観光地を回るにはもってこいの乗り物だと思う。カラフルなボディーは沖縄の空によく似合っている。
 ちなみにベロタクシーを始めるのに営業許可はいらない。運転免許ももちろんない。だから僕がリキシャで同じことを始めたっていっこうに構わないわけだが、坂の多い那覇で本気の営業運転をするのは相当に厳しい。ベロタクシーの営業妨害もしたくはないしね。


***********************************************

本日の走行距離:15.0km (総計:1213.9km)
本日の「5円タクシー」の収益:5円 (総計:22075円)

***********************************************
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-17 20:42 | リキシャで日本一周
八重山民謡に魅せられて
 伊藤幸太さんは沖縄の八重山民謡に魅せられて、東京から移住してきた若者である。
 町田生まれの伊藤さんが八重山民謡に出会ったのは小学生の時。修学旅行で沖縄を訪れ、そのときに見たエイサー(お盆に踊られる伝統舞踊)に衝撃を受け、独学で三線を弾き始めたという。八重山民謡の大家である大工哲弘さんの演奏に惚れ込んで小6で手紙を送り、何年にも渡って文通を続けた。
「どうして八重山民謡だったのか、僕自身にもよくわからないんです。とにかく惚れ込んでしまった。どうしても自分で謡ってみたいと思ったんです」
 その熱意は一時的なものではなく、中学、高校へと進むにつれてよりいっそう強くなっていった。そして大学入学をきっかけに沖縄に移り住み、ついに憧れの大工さんに弟子入りして本格的に民謡を勉強することになる。
 とにかく師匠の演奏に少しでも近づきたい。その思いから8年間稽古を続けた結果、昨年八重山民謡の大会「全島とぅばらーま大会」で見事優勝を果たしたのだった。内地から来たまだ20代半ばの若者が地元の民謡大会で優勝するというのは、異例中の異例だ。



 伊藤さんの歌は伸びやかで力強い。ゆったりとした節回しの中にもメリハリがあり、聴く者をまだ見たことのない島の情景に誘ってくれる。海を渡る風の音が聞こえるようだ。
 狭い食堂の中で歌ってもらったので、ときおり車のエンジン音やおばちゃんが唐揚げを揚げる油の音が歌声に混じる。真剣に歌を聞く場としてはふさわしくないだろうが、生活音に混じった民謡もそれはそれで味わいがあった。
 八重山民謡には庶民の日常生活に根ざした歌が多い。たとえば「やまいらば」という曲には、山に入って薪を取る様子や、お米が数珠のようにたくさん実って喜ばしい様子が歌われている。これは「予祝」といって、未来の豊作を先に祝うことで、実際に豊作になることを願っているという。

 今はただ尊敬する師匠に少しでも近づきたいのだと伊藤さんは言う。自分はまだ歌詞に書かれている以上のものを聴き手に伝えられるレベルには到達できていない。道のりは険しい。でもいつか自分らしい歌、内地から来た人間にしか歌えないような八重山民謡を歌える日が来るかもしれない。
「僕はまだアイデンティティを作り上げている段階なんです。八重山の人から見えればアウトサイダーです。『やまとんちゅうには表現できないものがある』と言われることもあります。地元の人にしわからないリズムがあるのかもしれない。壁は感じます。でもなるべく自分では『壁』の存在を意識しないようにしているんです。いまさらどうやってもうちやんちゅうにはなれないでしょう。血は変えられない。自分はやまとんちゅうだから表現できないと決めてしまったら、そこで自分の成長も止まってしまうから」


【伊藤さんの三線はニシキヘビの皮が張られている。昔から三線にはタイやベトナムから輸入された蛇の皮が使われていた。琉球王国は東南アジアと日本を結ぶ貿易拠点だったのだ】


 伊藤さんは信用金庫に勤めるサラリーマンでもある。プロの民謡歌手として食べていける人間はほとんどいないのが現実で、伊藤さんも平日に勤務をこなしながら、休日や夜に演奏や稽古を行っている。
 彼の勤める支店は普天間基地のすぐそばにある。あの普天間基地だ。軍用ヘリコプターの騒音のすさまじさは、いつも肌で感じている。
「もちろん基地はなくなった方がいいと思いますよ。でも僕のように外から来た人間が、簡単に『賛成』『反対』なんて言える問題ではないんです。この街には仕事がないし、賃金も安い。もし基地がなくなったらさらに衰退するのは目に見えています」
 基地が雇用を生み、地元経済を潤しているのは事実だ。米軍に土地を貸し、その地代で食っている地主も多い。もし基地が移転することになれば、その土地の担保価値が下がり、お金が貸し出せなくなるので、信用金庫としても困ったことになる。
 長年米軍基地と共存してきた結果、基地に依存し、基地抜きでは成り立たない経済構造になってしまっているのだ。だから地元住民の意見も「基地移設賛成」でまとまっているわけではない。

 簡単に割り切ることのできない矛盾をはらんだ問題。それが沖縄の人から見た米軍基地だ。誰に聞いても歯切れの良い答えは返ってこない。あっちを立てればこっちが立たない。
 普天間基地移設問題で連立与党がいくつもの代案を出しながらいっこうに決着する様子がないのも、ある意味では当然の成り行きなのだと思う。


【伊藤さんの演奏を動画でお楽しみいただけます】
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-17 08:14 | リキシャで日本一周
38日目:リキシャが壊れた!(沖縄県沖縄市)
 ほとんどトラブルなしに走り続けてきたリキシャが突然のトラブルに襲われたのは、一週間ぶりにリキシャを漕ぎ出して10秒と経たないときだった。
 ペダルの様子が明らかに変だった。踏み込んだ力がヘナっと横に逃げていく感じ。慌ててリキシャを降りてチェックする。左右のペダルを結ぶ軸受けの部分が壊れているようだ。金属の板がひしゃげて、中身が飛び出しているのが見える。
 ありゃりゃ。これは重傷だと一目でわかった。応急処置ではどうにもならず、部品の交換が必要な故障だ。一番怖いのは修理屋で「スペアのパーツがない」と言われることである。その可能性は十分にあった。以前修理を頼んだ店で、「軸受け部分は日本の自転車とは規格が違うよ」と注意されたことがあったからだ。もしそれが本当なら、部品をバングラデシュから取り寄せなければいけないかもしれない。それには時間も費用もかかる。あぁ・・・

 いつまでも頭を抱えていても仕方がないので、善後策を講じることにした。不幸中の幸いだったのは、この町に住むコンさん夫婦がそばにいるときに故障が発生したことだった。もし土地勘のある彼らがいなければ、重いリキシャを押しながら修理してくれそうなところを探し回る羽目になっていただろう。
 コンさん夫婦のおかげで、近くにある「安慶田サイクル」という自転車屋が修理してくれそうだとわかったので、そこまでリキシャを押した。
「あぁ、軸受けの部分が痛んどるねぇ。ベアリングがダメになっとるなぁ・・・」
 汚れたつなぎを着たベテラン職人風のご主人が言った。
「・・・で、直りそうでしょうか?」
 突然の病を告げられた我が子を医者に連れて行くときのような気持ちで僕は言う。ご主人はしゃがみ込んでリキシャの様子をのぞき込む。
「・・・時間はかかるかもしれんけど、いい?」
「待つのは構いません」
「じゃあやってみるけどさ、一度ばらしてみて合う部品があるか見てみんことには何とも言えんね。とにかく時間をくださいよ」
 感触は悪くなかった。このおじさんなら何とかしてくれるかもしれないという希望がわいてきた。



 1時間ほどぶらぶらと近所を散歩してから戻ってくると、ご主人がリキシャの修理に取りかかっていた。軸を支えているベアリングが左右二つとも壊れているのだが、それを取り替えてやりさえすれば元通りになるという。ベアリングは通常の自転車用のものとは規格が違うのだが、専門店に行ってバイク用のベアリングを買ってきたから大丈夫だという。
「ほ、ほんとに直るんですね! ありがとうございます!」
 ご主人と握手したい気分だった。もちろん職人さんはいつでもクールだ。自分の仕事を淡々とこなしているというスタンス。しかし僕にはその背中が神々しく見えた。
「ボールベアリングは日本製品が世界一の品質だからさ、日本製を付けておけば1年や2年で壊れることはないわけさ」
「じゃあスペアのベアリングはいらないんですか?」
「いらんよ。沖縄から北海道までは壊れないさ」
 ちなみに1ヶ月ちょっとであっさりと壊れたベアリングは韓国製だった。てっきりリキシャというのは中国製の安物部品で作られているのだと思い込んでいたから、「KOREA」の文字が刻まれていたのは意外だった。
「ベアリングのさ、ボールを真円にするのが難しいわけさ。質が悪いものなら、ほんの少しだけどガタが出る。そこに力が加わると壊れてしまうわけさ」
 修理にかかった費用はたったの1000円だった。わざわざ車を出してベアリングを買いに行ってくれたのにこの値段である。ものすごく安い。
 ご主人はチェーンの手入れの仕方など、リキシャの整備についてのアドバイスをくれた。多くを語らないが、ひとつひとつの言葉が的確で重みがある。本物の職人だった。


【これが壊れたベアリング。たった1ヶ月でこんな主要部品が壊れるなんて理解に苦しむ】


 リキシャが復活したので沖縄市から那覇市に向けて漕ぎ始めたのだが、順風満帆とはいかなかった。強い向かい風にも悩まされたが、それ以上にアップ・ダウンの連続する道に悩まされた。沖縄の坂はどれも勾配がやたら急である。急に上って、また急に下る。その繰り返し。いつもリキシャを降りて歩くか、じわじわとブレーキをかけながら坂道を下っているかのいずれかで、ペダルを漕いでいる時間はほとんどないような状態だった。一番疲れるパターンだ。

 沖縄はリキシャ向きの土地ではない。それがはっきりとわかった一日だった。
 平らな土地はたいてい米軍基地になっていて、民家は小高い丘の上に集まっている。国道58号線・通称「ゴッパチ」は平坦で道幅が広くて走りやすいのだが、つまらなかった。広くて生活感のない道を走っていても、面白いシーンには決して出会えないからだ。かといってゴッパチ以外の道を走ろうとすると、急なアップダウンの連続で、息も絶え絶えになってしまう。
 沖縄では自転車に乗っている人がほとんどいないというのも頷けるのである。

***********************************************

本日の走行距離:27.2km (総計:1186.7km)
本日の「5円タクシー」の収益:65円 (総計:22140円)

***********************************************
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-16 22:17 | リキシャで日本一周
37日目:昭和が残る町(沖縄県コザ)
 コザの町は「沖縄度」が高かった。内地ではまず見られないような濃い世界がまだそこかしこに残っているのだ。
 定食屋「松屋食堂」も実に沖縄らしい場所だ。チープなコンクリート造りの平屋の家。入り口は狭く、ぱっと見には食堂だとは思えない。一見さんが気楽に入れるような雰囲気ではないのだが、一歩中に足を踏み入れると、やたら明るくてよく笑う丸っこいおばちゃんが客を迎えてくれる。テーブルがひとつとカウンター席が三つだけの小さな店を君子ねぇねぇが一人で切り盛りしている。



 僕はコンさん夫妻と一緒に昼食を食べようとこの食堂に入ったのだが、ちょうどねぇねぇは仕出し弁当作りに追われていて大忙しだった。この時期の沖縄では「清明(シーミー)祭」という法事が行われている。親戚一同がお墓の前に集まって、お弁当を広げてご先祖と一緒に飲み食いをするものらしい。ねぇねぇは汗だくになって10人分のお弁当を作っている。鶏の唐揚げ、揚げ豆腐、豚の角煮、いなり寿司など。豪華だ。これをお重に詰めて1時までにお墓まで運ばなくてはいけない。てんてこ舞いの忙しさだが、料理を作る間もおしゃべりをやめることはない。
「重曹っていうのが何にでも使えるって聞いたもんで、さっそく買ってきたわけさぁ」
「豆腐っていうのはすぐに悪くなるから、扇風機で冷やさんといけないわけさぁ」
 なんて「ねぇねぇの豆知識」を披露しながらせっせと料理を続けていた。弁当作りの合間にも僕らの昼食(豆腐チャンプルー、豚肉と野菜炒め、焼きソーメン、沖縄そば)を出してくれたのだが、これは3人分どころがゆうに5人分を超える量があって、とても食べきれなかったので残りは持ち帰りにしてもらった。


【明るくてかわいい君子ねぇねぇ】


 松屋食堂のすぐ近くにある雑貨屋「平良商店」もどこか懐かしくアジア的な店である。店の外に生鮮食料品が並び、中には駄菓子やパンや缶詰、カップラーメン、日用雑貨などが所狭しと並ぶ「何でも屋」だ。
 主の平良おじぃは85歳だが、毎日店番から仕入れまでをほぼ一人でこなしている。しかも朝の8時から夜の11時までずっと店頭に立つ。沖縄でもコンビニの台頭で昔ながらの何でも屋は次々と閉店に追い込まれているが、ここはおじぃ一人のがんばりで店を続けている。
「ここだったら車に乗らんでも歩いて来られるから便利なんよ。体が動かん人、目が見えん人には配達もするし、店にないものはすぐに仕入れる。ツケもきくよ。だからお客さんは減ってないよ」



 おじぃがここに店を構えたのは60年前。アメリカ占領時代に米軍から払い下げられたタバコや石鹸などを売ることから始めた。米兵からチップとしてもらったタバコを売りに来る人も多かった。みんな貧しくて生きていくのが精一杯だった。
 父親の仕事の関係で子供の頃大阪で過ごした平良おじぃが敗戦直後の沖縄に戻ったのは、ラジオで沖縄玉砕のニュースを聞いたからだった。沖縄には親を失って孤児になった子供がおおぜいいるという。もしかしたら自分の親戚もそのような境遇にあるのではないかと故郷に戻る決意をした。
「60年前はこの辺にはなんにもなかったんよ。家も少なくて、店も全然なかった。みんな変わったさぁ。変わっとらんのはこの店だけよ」
 立ち話をしているあいだも、ひっきりなしにお客がやってくる。駄菓子を買いに来た小学生、シャーベットシェイクを買いに来た高校生、ビールとタバコを買ったおじさん。足を引きずっているおばあさんは「ガッチャマンはない? ガッチャマン」とおじぃに訊ね、おじぃはちゃんと「チャッカマン」を棚の奥から引っ張り出してきた。店には昭和の匂いが濃密に漂っていた。


【平良おじぃが今でも使っているそろばん】


 市長選挙が近いということで、コザの街は選挙熱を帯びていた。あちこちに候補者の名前を書いたポスターや旗が並んでいる。中でも目を引いたのは「エス真吉」と「キャン満」である。エス? キャン? 日本人の名前とは思えないユニークさ。沖縄的だ。
 ちなみに「エス」は「江洲」、「キャン」は「喜屋武」と漢字で書くそうだ。エス氏の場合はスーパーマン風の「S」マークを付けた選挙カーを走らせ、キャン氏のキャッチフレーズは「Yes, I can」であった。お互いに自分の名前を利用するのに熱心なようだった。



 犬を連れたおばあさんが公園のベンチで眠りこけ、昼間から泡盛をあおったおじさんが充血した目でこちらを見る。そんなとろりとした南国の空気が流れる街を散歩していると、いきなりポルノ映画館が現れたのでびっくりした。住宅街に似つかわしくない成人映画館。うらぶれた外観ではあるが、まだちゃんと現役で上映を続けているようだ。当日・オールナイトともに1000円なり。
 ちなみに今日上映するのは「OL破れたエロ下着」と「狂った夜の営み」だそうだ。直球勝負のタイトルである。DVDやネットが普及した現代にも、こういう日活ロマンポルノ風映画を見るファンというのはちゃんと存在するんですね。ふむふむ。

 後で聞いたところによると、このあたりはベトナム戦争当時、米軍兵士相手の歓楽街として大いに栄えていたらしい。バーや売春宿が建ち並び、これから戦地へと赴く兵士たちがこの世への別れとばかりに有り金を全部はたいて遊び回っていたらしい。おそらくこのポルノ映画館もそのときに作られたものだろう。戦争が終わり、街の「戦争特需」もしぼみ、以降コザは長期的な衰退の道を歩むことになる。

 現在、コザを含む沖縄市の失業率は14%で、これは沖縄県の平均11%を超える高さである。特に20代30代の失業率は40%にもなるという。信じられないような数字だ。だからハローワークには職を求める人が列をなしている。お世話になったコンさんも求職中の身なのでハローワークに行くことがあるのだが、受付が40人待ち50人待ちという状態が当たり前なのだそうだ。
 仕事が少なく給料も安いために、若者たちはみんな内地に向かう。コンさんの友達ヒデ君の場合は愛知県の自動車関係の部品工場で契約社員として働いていた。沖縄では月給12万円ぐらいだが、愛知では25万から30万円ももらえた。しかしリーマンショック以降の急速な景気後退に伴って、ヒデ君も契約を打ち切られてしまった。いわゆる「派遣切り」である。沖縄にはこうした派遣切りにあって、やむなく実家に戻ってきた若者が多い。
「給料は良かったけど、その分使うからそれほどお金は貯まらんかったよ。でもやめるときに月給と退職金みたいなものが70万ほどもらえたから、それでしばらくはのんびり暮らせるさぁ。実家にいたら金使わんしね」
 ヒデ君のように内地で働いて、ある程度の金が貯まったところで地元に戻り、ギアをローに入れてのんびり暮らすという人は多いようだ。沖縄の温暖な気候や何ごとにおいても「てーげー」な空気は、人をレイジーな気分にさせるのかもしれない。だから若年失業率が4割なんて暴動が起きそうな状態にあっても、街には緊迫感も悲壮感も漂っていないのである。
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-15 18:00 | リキシャで日本一周
36日目:嘉手納基地のホームパーティー(沖縄県嘉手納町)
 娘の誕生を見届けてから沖縄に戻った。
 那覇空港は日が沈んだあとでもモワリと生温かく、南国の空気が漂っていた。
「今週は沖縄もずっと天気が悪かったからねぇ。青空が見えたのは今日ぐらいだったよ」
 車で空港まで迎えに来てくれたコンさんが言う。この一週間、コザ(沖縄市)に住むコンさんに一時的にリキシャを預かってもらっていたのだ。
 コンさんの奥さんケィシーさん(ちなみにどちらも日本人)が運転する軽自動車でコザに向かう。那覇の街には「興南高校、センバツ優勝おめでとう!」と書かれた横断幕がそこかしこに垂れ下がっていた。高校野球の優勝は沖縄県民にとっての大ニュースで、この一週間ずっとこの話題で盛り上がっていたそうだ。
 青森出身のコンさんと福岡出身のケィシーさんは4年前に沖縄に移り住んできた「ナイチャー(内地の人)」である。夫のコンさんは若い頃にアジア各地を放浪して回り、東京でサブカルチャー系のライターをしていたという経歴の持ち主。噴火が起こった後の三宅島に3年間住んでいたこともある。住民全員が避難した後の三宅島に保安要員として住み込んでいた。島を「海賊」から守るためだった。周辺の島の人々が船に乗って略奪行為を働いたことがあったらしい。給料は良かったけれど退屈な仕事だったという。小説の題材になりそうな仕事だ。


【海辺でたたずむコンさんとケィシーさん】

 夕食は嘉手納基地の中の米兵住宅で食べた。コンさん夫婦の友人のブライアンがホームパーティーに招待してくれたのだ。
 嘉手納基地は広大で、ひとつの独立した町である。軍人が6000人、軍属を含めると2万人が住んでいる。兵士たちと家族が住む家はビバリーヒルズ的な芝生の中に建てられている。
 ブライアンは空軍に入って16年目のベテランパイロットで、背が低いががっちりとしていて小熊のような体格。34歳という年齢のわりには白髪が目立つ。空中給油機のパイロットとしてイラクなどの戦地にも赴いたという。地位は聞かなかったが、10人の部下がいるというから部隊長クラスなのだろう。
「18の時に友達に誘われて、なんとなく軍人になったんだ。でも今ではこの生活が気に入っているよ。仕事は忙しいし、命の危険もあるし、妻にはいつも心配をかけているけど、給料はいいし(月1万ドルもらっている)、世界中を旅して回ることもできるからね」
 基地内では何不自由もない暮らしが保証されている。家賃はもちろんタダだし、光熱費も水道代もゼロ。広いリビングは奥さんのリシェルが買い集めたという東洋趣味の陶磁器で埋め尽くされている。ソファーの前に置かれた巨大なビクターのプラズマテレビにはCS放送のカートゥーンフィルムが映っている。ブライアンは日本のアニメも大好きで、子供の頃は「超時空要塞マクロス」の英語版「ロボテック」を見て育ったそうだ。「宇宙戦艦ヤマト」もお気に入り。ほぼ同じ年代なので、見ているアニメが重なる。ひょっとする彼もバルキリーに憧れて空軍に入ったのかもしれない。
「ここ数年、軍の予算は減らされる一方でね。軍人の数も大幅に減っている。前は8人でやっていたミッションも、3人でやらなくてはいけなくなった。忙しいよ。でもあと4年経ったら退役なんだ。そのあとは気ままに暮らすよ。妻と一緒にフィリピンに住むのもいいかな。レストランとかバーを開いてDJをしたりしながらのんびり暮らすんだ」
 彼はオバマ大統領が成立させた国民皆保険制度には強硬に反対している。平均的アメリカ人に比べるとかなりの高給取りであるブライアンにしてみれば、この制度によって自分たちが収めた税金がろくに働きもしない怠け者のために使われることが我慢ならないのだ。


【ブライアンと奥さんのリシェル】

 ブライアンの奥さんのリシェルはフィリピン人だ。夫より11歳年上で子供はなく、丸々と太った猫を4匹も飼っている。白猫1匹、茶色が2匹、黒猫1匹。野良猫を見ると可哀想になってつい拾ってきてしまう。リシェルはよく笑いよく食べよく飲む陽気なフィリピーノだが、最近は体調を崩して病院に通っている。原因は酒の飲み過ぎとタバコの吸いすぎ。特に夫がイラクに行っていた頃は、アルコールに逃避して依存症になっていた。
「医者には今すぐタバコをやめなさいって言われているの。呼吸が苦しくって、夜もほとんど眠れない日が続いたのよ。でもこの基地の医者はバカよ。あれは本物の医者じゃなくてニセ医者ね。病院に行くたびに検査のためだって言って注射器で血を抜くわけよ。このままじゃ私の血が全部なくなっちゃうんじゃないかと思うぐらい。薬だって日本のみたいに小さくなくて、ものすごく大きいの。アメリカンサイズなのよ。そうね、日本の医者の方が私には合っていると思うわ」

 ブライアン家で毎週開かれているホームパーティーで出てくる料理は、やはりバーベキュー。肉、また肉の高カロリーディナーである。これではいくらエクササイズしていても太るだろう。パーティーには嘉手納基地内に住む軍人とその家族が10人ほど集まり、大音量でディスコ音楽を流しながら庭で缶ビールを飲む。一瞬ここがどこなのかよくわからなくなる。もし目隠しされてここに連れてこられたら、間違いなくアメリカの郊外の住宅地だと思うだろう。実際、基地の中は日本であって日本ではないのだが。


【ニック夫妻】

「俺はね、911のテロが起きたときに軍隊に入ったんだよ」と言うのは奥さんと一緒にパーティーに参加していたニック。「もう9年前のことになるね。もともとはグラフィックデザイナーをやっていたんだ。アートに興味があったんだ。でも911が起こったときに、愛国心から志願して軍隊に入った。でも戦争は好きじゃない。だって人殺しじゃないか」
 ニックの祖父は第二次世界大戦中に沖縄上陸作戦に参加したという。だから沖縄戦の壮絶さはよく知っている。あれは血で血を洗う本物の戦争だった。それ以来、家族にとって「沖縄」という土地は一種の聖地になった。その沖縄に自分が赴任することになった。不思議な運命だとニックは言う。
 戦争嫌いのニックが志願して軍隊に入っているのは奇妙に思える。それは彼の奥さんが「動物を殺すのはかわいそう」だとベジタリアンになっているのと同じぐらい不思議だった。
 しかし彼が基地の中でそうした個人的な意見を自由に話しているのは意外だった。さすがは自己主張の国アメリカというべきか。軍隊の中にも矛盾や葛藤があり、それを表明することを躊躇しない。僕が基地の中で見たのは、ごく当たり前のアメリカ人が兵士として任務に臨んでいるという「ごく当たり前」の事実だった。
「退役したらフォトグラファーになりたいんだ」とニックは言う。「自然を撮るのが好きなんだよ。アラスカで野生のワシが獲物を捕らえる瞬間。それを撮ることができたら最高だな」
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-13 20:15 | リキシャで日本一周
生まれ来る子供たちのために
 リキシャの旅を一時中断して、東京に戻っていた。
 はじめての子供が生まれるからだ。

 驚いた人もいるかもしれない。これまでブログでもWEBでも、僕が結婚していたことや妻が妊娠していることについて一度も触れなかったから。
 別に隠すつもりはなかった。しかるべきタイミングが来ればオープンにしようと思っていたのだけど、それがずるずると先延ばしになっていたのだ。

 4月7日午後4時53分。
 2886グラムの女児誕生。
 妻は妊娠初期の頃はひどいつわりに苦しんでいたけれど、結果的には安産だった。あれよあれよという間に赤ん坊が姿を現した。徳之島のノロにもらったお守りの塩のおかげかもしれない。八百万の神々、ありがとう。



 産後すぐに別室に呼ばれて我が子を抱いた。
 我が子? 正直言って実感はあまりなかった。心の準備ができていなかった。父親というのはそんなものなのかもしれない。ただ見守ってオロオロすることしかできない。
 薄く開いた目からツヤツヤとした黒目が覗いている。まだこの目は見えないはずだけど、黒目は僕のいるほうに向けられている。この世界は生まれたばかりの彼女にどう映っているのだろう。この目はこれから何を見ていくのだろう。



 我が子を初めて胸に抱いた妻は、何よりも先に頭のてっぺんに鼻を付けてくんくんと匂いをかいだ。
「何も匂わないね」
 洗ったばかりだからだろう。彼女は視覚よりも聴覚よりも、まず嗅覚を使ってものを確かめる癖がある。慣れ親しんだ匂いだと安心し、知らない匂いだと警戒する。動物的なのだ。この子にもこれから様々な匂いが付いてくるだろう。そうやって「女」になっていく。

 産んでからわずか二日間で、妻はちゃんと母親の顔になっていた。女性の中にはちゃんとそういうスイッチが備わっているのだ。
「母親になる実感なんてまるでない」
 と生まれる直前、いや直後まで繰り返していた彼女も、実際にどうしようもなく庇護を求めて泣いたり足をばたつかせたりしている小さな存在がそばにいると、顔つきも所作も母親らしくなってくる。
「でもすごく不思議な感じ」と彼女は言う。「こうやっておっぱいを吸わせたりあやしたりしていても、この子は私たちのところで一時的に預かってお世話しているんだって気持ちがあるの。私たちの子供だけど、この子はもうちゃんと人間なんだよね」
 授かりものの命。
 本当にその通りだと思う。
 この小さい命は僕らのものであって、でも僕らだけのものではない。



 何かを求めるように全身で泣き叫んでいた赤ん坊の声が、今でも頭の奥でリピートしている。作り物みたいに小さな手や、そこに添えられた律儀な爪や、うっすらと開いたまぶたから覗く黒い瞳や、はじめて胸に抱いてみたときの意外な重さなんかが、海を隔てた沖縄に戻った今でもはっきりと感じられる。

 子供が生まれたことによって、僕の旅は変化するだろうか?
 たぶん基本的な旅のスタイルは変わらないだろう。行きたいところに行く。それを妻も望んでいる。たぶん子供も。

 でもリキシャのペダルを踏み込む気持ちは、今までとは少し違ったものになるかもしれない。
 生まれてきた我が子のために、そして生まれて来る子供たちのために、前に進むんだという思いが強くなっている気がする。

 とにかく、日本縦断の旅はまだスタートラインに立ったばかり。
 さぁ旅を再開しよう。
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-10 19:05 | リキシャで日本一周
35日目:身体のメンテナンス(沖縄県・北谷町)
 僕はこれまでマッサージや整体の類にはまったく縁のない人間だった。何十回もタイを訪れているにもかかわらずタイ式マッサージを受けたことは一度もないし、カンボジアやトルコで地元のマッサージ店に行ってみたのもあくまでも興味本位からで、すごく気持ち良いとか痛いところが治ったというような実感には乏しかった。岩盤浴とか、サウナとか、アーユルヴェーダといったものも試したこともないし、(こんなこと言ったら「おまえ日本人か?」って言われそうだけど)温泉にもあまり興味のない人間なのである。
 基本的に健康体なのだろう。肩はこらない方だし、これといった持病もない。数年前にインドネシアをバイクで旅していたときには一時的に腰痛になったが、それもしばらくすると自然に治ってしまった。

 そんな僕のような人間が新しい整体術である「HSTI骨格調整」を受けることになったのは、例によって偶然の成り行きからだった。このHSTIをインドで普及させている岡辺さんが僕の写真をとても気に入ってくれて、創始者である比嘉進さんに引き合わせてくれたのだ。
 比嘉さんはユニークな人だった。挨拶もそこそこに僕の背骨と肋骨を触り、
「あ、これは8番だね。最近お酒に弱くなったんじゃない?」と断言したのである。
 おっしゃるとおり、リキシャの旅を始めてからアルコールに弱くなっていた。今までワイン一本空けていたのが、半分も飲めないほどになっていた。毎日リキシャを漕ぎ続けることによる肉体的な疲労が肝臓のアルコール分解能力を落としているのだろうと思っていたのだが、比嘉さんによれば、僕の肋骨の上から8番目が歪んでいて、それが肝臓を圧迫しているのが酒に弱くなった直接の原因だという。
「三井さん、何か怪我をしたことはない? 骨折とか、捻挫とか」
「以前、右腕を骨折したことがあります。腕相撲をしていて折れちゃったんですよ」
「あ、それだね。間違いないよ」と比嘉さんは僕の右腕を触りながら言う。「右腕の骨が左腕よりも少し短くなってるね。骨格の歪みは体全体のバランスを崩すからね。この歪みがリキシャを漕ぐことによってひどくなっているんだな」


【お酒が大好きな比嘉さん。「乾杯のジム」というあだ名を持つ】

 骨格の歪みを調整するというのがHSTI理論の肝である。それもカイロプラクティックのような「骨バキバキ系」のハードな方法ではなく、施術中に眠ってしまうほどソフトなやり方で。
「ほとんどの人は骨は硬いものだって思ってるでしょう。でも的確なポイントをついてやれば、骨は伸びたり縮んだり曲がったりするものなんですよ」
 骨が曲がる? 骨が伸びる?
 簡単には信じられそうにない言葉だった。医学的な常識とはずいぶんかけ離れている。
 それでもこの施術を受けてみる気になった(まさに『まな板の上の鯉』の気分だ)のは、比嘉さんの明るさと人柄に引っ張られたからだった。
「僕は人の笑顔を見るのが何よりも幸せなんだよ。人が幸せになるのを見るのが大好き。だからリキシャで日本縦断なんて面白いことを考える人は応援したいんです。それがどれだけ大変なことかはこの太ももの筋肉の張りを見ればよくわかるから。健康体でゴールするために、体のメンテナンスをしてあげたいんです」

 もともと機械工学を学んだエンジニアだった比嘉さんがオリジナルの整体法を考案するきっかけは、自らを悩まし続けていた体の痛みだった。彼は6歳の頃に高いところから落下して頭蓋骨を強打し、それが原因で全身の痛みに苦しむことになった。カイロプラクティックで治そうと試みたことも何度かあったが、いっこうに状態は良くならなかった。それならばと独自の理論に基づいた整体法HSTIを14年前に作り上げた。自分の体を実験台にしての試行錯誤の結果だった。
「体の歪みや痛みがなくなると、表情も考え方も前向きになるんだね。心が輝いてくるんですよ」と比嘉さんは言う。
 なんとも不思議な魅力のある人である。ユーモアがあって頭の回転が速く、周りにいる人間が思わず笑顔になるような「陽」の力を持っている。二十歳そこそこの若者が次々と弟子入りを希望して集まってくるというのもうなずける。
 でも彼自身は自らの存在がカリスマになること、教祖のように崇められてしまうことを意図的に避けているようだ。パンフレットにもメディアにも自分の顔や名前を出していない。HSTIは神秘的な秘術ではなくて、誰にでも行うことができる合理的な施術法として日本のみならず世界にも普及させたいというのが比嘉さんの夢なのだ。


【ひとみ先生と伊藤君、そして骨格標本】

 翌日、北谷町にあるセンターで実際に骨格調整を受けた。まずセンター長であるひとみ先生が骨の状態を手で触って確認し、骨格療法士の伊藤君が施術を行う。伊藤君はこの骨格調整を勉強するために単身北海道から沖縄にやってきた若者である。比嘉さん曰く「わずか1年で普通の人の10年分のことができるようになった男」なのだそうだ。
 骨の歪みの状態を確認した後で、僕はベッドにうつぶせになり、体を左右に大きく揺すぶられた。こうすることで体の緊張状態をほぐして、骨が動きやすくなるという。
 骨格調整に使うのはシンプルな道具だ。ドアを押さえるときのつっかえに使うような三角形の木のブロックと、理科の実験に用いるような金属製のアームがついた整体器具。たったそれだけで「骨が動く」という。
 仰向けに寝た状態で、それらの器具を使って骨を押す。「押す」といってもその力は小さいのでまったく痛みはなく、とても気持ちがいい。体の芯の疲れがじんわりとほぐれていく感じ。部屋の中には心地よいバイオリン音楽が流れていて、すぐに眠くなってくる。生温かい液体の中にどっぷりと沈み込んでいるような心地よさ。母親の胎内に戻ったような感覚に近いだろうか。
 3カ所の骨格調整が終わるまで1時間半ほどの時間がかかった。僕の場合には右足のかかと、尾骨、そして肋骨に歪みがあったようだ。
「気分はどうですか? 顔色が良くなって白目がツヤツヤになったように見えるけど」
 ひとみ先生が笑顔で訊ねる。
 実際に気分はとてもよかった。この一ヶ月でたまっていた疲労がすっくりと抜けたような清々しさがあった。でもそれがリラックスした雰囲気の中で昼寝をしたからなのか、骨の歪みが取れたからなのかはわからなかった。
「気分はいいけど・・・でもよくわからないですね」
 僕は正直に言った。気分はいいけれど、何かが劇的に変わったわけではない。少なくとも僕には「○○が痛くて仕方がない」といった自覚症状がなく、だから施術前と施術後の違いがはっきりとわからないのだ。
「もしかしたら痛みに鈍いのかもしれないですね。くすぐったさとかもあまり感じない方なんですよ」
「リキシャを漕ぐのって大変なんでしょう? スポーツ選手なんかもそうだけど、激しい運動をしてアドレナリンが出ているときって、痛みを感じないような物質、一種の脳内麻薬が出ているんだって。そういう状態なのかもしれませんね」
 確かにリキシャを漕いでいるときにアドレナリンが出ているという感覚はある。「ランナーズ・ハイ」ならぬ「リキシャワラー・ハイ」になっているのだろう。急な坂道を乗り越えたときはハイテンションでアグレッシブになっているのがわかる。そういうときには苦しさや痛みはあまり感じていない。人格もいつもと少し違っているように思う。

 HSTI骨格調整の効果について、僕自身の体ではイエスともノーとも判断ができなかった。この施術を受けた人の多くが劇的な症状の改善を実感しているようだけど、僕にとっては「気分が良くなった」以上の目立った効果は感じられなかった。
 ひとつ言えるのは、自分の身体を気遣う他人がいて、何らかの手当てをしてくれる、それが身体に良い作用を及ぼすということだ。比嘉さんはじめHSTIの皆さんが僕の身体を気遣って力を尽くしてくれていることは、その実効性云々より前に「それ自体が嬉しい」。だから気分がすごくいい。病院と違って「また行きたくなる場所」なのである。

 リキシャはこれからもいろんな人の力を借りて前に進むことになります。
 応援や手助けや差し入れには、いつも感謝しています。本当にありがとう。
 これからも応援してくださいね。
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-08 22:24 | リキシャで日本一周
34日目:てーげーな生き方(沖縄県・沖縄市)
 名護市から国道58号線を通って沖縄本島を南下する。
 58号線はとても走りやすい道だ。道幅は広く、舗装状態は最高で、アップダウンもほとんどない。おまけに追い風が吹いている。リキシャは快調に進んでいく。
 これまででもっともスムーズに進むことができたが、同時にこれまででもっともつまらない道のりでもあった。あまりにもスムーズに流れる旅路では、人との出会いのチャンスが少なくなってしまうからだ。


【沖縄に残る昔ながらの雑貨屋は派手なリキシャに妙にマッチする】

 雨こそ降らなかったが、空はどんよりと曇っていた。昨日に引き続き灰色の沖縄。もちろんビーチで泳ぐ人の姿はない。かりゆしビーチではビキニ姿のモデルが笑顔でカメラの前に立っていた。何かの撮影なのだろう。せっかくの沖縄ロケなのにこの曇天。モデルさんも大変だ。

 恩納村に入ったところで、軽自動車に乗ったおばさんがひょいと窓から顔を出した。
「がんばってねぇ。何にもないけど、よかったら食べてちょうだい」
 そう言って手渡されたのは食パン一袋だった。しょ、食パンですか?
 きっと彼女は坂道をえっちらおっちら上っていくリキシャを見て「何か差し入れをしたい」と思ったのだろう。でも、手元には食パンしかなかった。
 気持ちはとてもありがたい。しかしトースターもなく、ジャムもバターもない状況で、食パン一袋をもらっても一体どうしたらいいのだろうか。正直言って困ってしまった。鳴門のおばあさんにもらった泥付き大根にも、徳之島のおじさんにもらった黒糖焼酎の一升瓶にも驚かされたが(とても一人では飲みきれないので、お世話になった人にあげた)、食パンはそれに匹敵するインパクトだった。



 リキシャはぐんぐんスピードに乗り、50キロをほとんど休みなしに走りきって、嘉手納の町にたどり着いた。嘉手納で僕を待っていたのは濱口さん。若い頃からサーフィンと旅に明け暮れ、今は嘉手納でサーフショップを経営している人である。和歌山の生まれだが、沖縄が気に入って19年前に移住した。
「やっぱり沖縄は暮らしやすいんですね。人が温かいしのんびりしているし。もちろんいい加減なところもいっぱいあるんですけどね。みんな時間にルーズだし、バスだって立て続けに5台来たりしてね」
 今でこそ濱口さんのような内地からの移住者も多くなったが、昔は「やまとんちゅう」に対する偏見や風当たりがずっと強かったという。特に戦争を知っている世代は簡単に心を許してはくれなかった。太平洋戦争末期の沖縄戦で日本軍から見殺しにされた琉球民族の恨み辛みは、50年やそこらでは消えないほど深いものなのだ。
 「サーファーは快楽主義者である」というのが濱口さんの持論だ。いい波に乗れたらハッピー。非生産的で、インモラルで、個人主義。何よりも「今」を大切にして、明日のこと、来年のことを思いわずらったりはしない。アリとキリギリスで言えば完全なキリギリス。
「でもそんなサーファーでも世の中には必要とされているとは思うんですよ。『この世に不必要なものはない』っていうのも僕の持論でね。サーファーみたいな人種を見た人が『俺はああなっちゃいけないな』って思うのもひとつの存在価値じゃないですか」


【サーフボードが並ぶ濱口さんの事務所にて】

 濱口さんは長年この地で波乗りをしてきた経験を生かして、いい波が来るスポットにサーファーを案内する仕事もしている。お客としてやってくるのは都会での仕事に疲れ切った人たち。朝早くから夜遅くまで働き続けるサラリーマンが、つかの間の休息を求めて沖縄の海を訪れる。
「彼らの話を聞いているとね、本当に立派だなぁと思うんですよ。毎日満員電車に揺られて、朝から晩まで仕事に追われて、その挙げ句に奥さんからは『家庭を顧みないあなたとは一緒のお墓に入りたくない』なんて言われて傷ついている。ものすごく頑張ってるし立派ですよ。そういう人たちから見ると、僕のような生き方はてーげー(いい加減)に映るでしょう。でも『てーげーでもいいんだ。こうやって生きている奴もいるんだ』って思うことができれば、彼らだってもう少し楽に生きられるようになるかもしれないでしょう」
 生産的社会、効率至上主義に対するアンチテーゼとしてのサーファー。気ままな自由人。クールだと思う。
 世の中が「てーげー」な人ばかりになったら困るけれど、みんなが「てーげーではない」社会というのもきっと息苦しくて住みにくいに違いない。

「三井さんがしていることもサーファー的ですよ」
 と濱口さんは言う。確かに旅をすることも、人の写真を撮ることも、世の役に立つ具体的な「モノ」を生み出しているわけではない。計画性はなく、いつも行き当たりばったりで、好きなように生きている。基本的にてーげーである。
 僕はサーフボードの代わりにリキシャに乗っている。そして僕にとっての「いい波」つまり「人との出会い」をキャッチするために毎日汗だくになってペダルを踏んでいる。


***********************************************

本日の走行距離:58.8km (総計:1171.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:5円 (総計:22075円)

***********************************************
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-07 09:35 | リキシャで日本一周
33日目:灰色の沖縄(沖縄県・名護市)
 今日は朝からずっと雨が降り続いていた。強風をともなった横殴りの雨が降り続いている。与論の美しい海もこの天気では台無しである。リキシャも今日は待機するしかない。
 午前中は部屋でパソコンに向かう。このところずっと走り続けてきたので、旅行記が追いついていなかったのだ。少ないときで2000字、多い日には5000字以上も書くというのはかなり疲れる作業だ。特に一日中リキシャを漕いで肉体的に疲労しているときには相当に辛い。でも何とか続けている。
 リアルタイムに「今起きていること」を書くというスタイルは、このリキシャの旅にふさわしいものだと思っている。そして、こうして自分を肉体的にも精神的にもギリギリまで持って行ってやれば、「何か」が見えてくるだろうという予感がある。


【与論島でサトウキビを切って苗を作るおじさん】

 宿のおじさんのご厚意により、チェックアウト時間を過ぎても部屋にいられることになった。鍵は宿を出るときにフロントに置いていってくれればいいよ、と。家庭的で気楽な宿である。
 1時過ぎに宿を出て、雨のなか港に向かう。沖縄行きのフェリーは2時過ぎに出港。2時間半の船旅の後に沖縄本島・本部港に到着。


【与論から沖縄に渡るフェリー。昨日は晴天だったが・・・】

 沖縄は灰色だった。細かい霧雨が降り、椰子の木を揺らす強い北風が休むことなく吹いている。天気が良ければマリンブルーに輝いているだろう海もくすんでいる。せっかくの沖縄。なのにこの天気である。
 でも空を恨んでも仕方がない。なんとか自然と折り合いを付けながら進むのがリキシャ旅なのだ。

 本部港からリキシャで南下を始める。とりあえず那覇まで行く予定だが、今日は名護市までしか進めそうにない。国道449号線は中央分離帯を持つ片側2車線の立派な道路だから走りやすい。交通量を考えると立派すぎるようにも思う。こんな高速道路みたいな道がこんな田舎に必要あるのかしら。

 名護市に入ると雨が強まってきたので、目に付いた建物の軒下で雨宿りをする。立派なコンクリート製の公共施設である。警備員のおじさん曰く、沖縄経済はこのような公共施設や道路の建設で回っているということだ。米軍基地を押しつけられている代わりに、沖縄開発事業の名目で大量の公共工事が国から発注されているのだ。今通ってきた449号線もそういったいささか分不相応な公共事業の結果なのだろう。

「でも基地が増えすぎたんは問題よ。もうこれ以上お金はいらんから、静けさと安全が欲しい。それが沖縄の人の本音よ」と警備員のおじさんは言う。
 公共事業で地元の建設業者が潤うのは確かだけど、それが完成すればおしまいである。狭い沖縄にどこまでも道路を延ばせるはずがない。
 地方の持続的な発展とはどうあるべきなのか。これは沖縄に限ったことではない。奄美諸島でも、四国の山村でも同じような問題を抱えている。
 もちろん結論はすぐには出ない。

***********************************************

本日の走行距離:18.6km (総計:1113.0km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:22070円)

***********************************************
[PR]
by butterfly-life | 2010-04-05 14:23 | リキシャで日本一周