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32日目:寅さんのいる島(鹿児島県・与論島)
 朝から気持ちよく晴れ上がり、気温がぐんぐんと上がる。日差しが痛い。アジアのそれである。
 今日は沖永良部島北部をぐるっと回ってからフェリーで与論島に渡る予定。急がない旅の一日だ。

 汗をかきながら坂道を上っていると、若い女の子二人がスポーツドリンクを差し入れてくれた。島の出身だが、高校を卒業してからずっと大阪で働いているという。大阪に住んで6年が経ち、言葉もすっかり大阪弁になったが、たまに島に戻ってくると島の良さを実感する。誰とでもすぐに仲良くなること、近所同士が助け合うことが当たり前だと思っていたが、都会はそうではなかった。
「大阪にはいろいろ遊ぶ場所はあるから、それはいいですね。島にはなんにもないですから。海で泳ぐこととお酒を飲むことぐらいしかないんとちゃうかなぁ」
 中学生の時に初めてデートした相手のことがすぐに近所中に知れ渡ったのも恥ずかしかった。みんなが顔見知りだというのはプライバシーがないということ。悪いこともできないが、人知れず愛をはぐくむことも難しい。


【沖永良部島のちょっとやんちゃな高校生】

 そういえば昨日島の南部を走っているときに、徳之島でも出会った男子高校生から「あ、また見た!」と声を掛けられた。どうやら同じ船に乗って沖永良部島に上陸していたらしい。彼の目的はガールハント。わざわざ別の島に彼女を見つけに来たらしい。それはご苦労なことです。
「で、見つかったの?」
「うん。ひとつしたの高一の子と昨日遊んだ」
 ふーん、すごいんだねぇ。島の人によれば彼のような「島越えナンパ」をする強者は珍しいようだが(付き合うようになっても、会うためには船に2時間揺られなくてはいけない)、島の中で付き合うとすぐさま周知の事実になるわけで、それが面倒だと思う気持ちもあるのかもしれない。


【これがフェリー乗り場の乗船券売り場】

 今日も風が強いので、フェリーの発着はサブ・ポートの伊延港からになった。伊延港はコンクリートの船付き場以外には何もなく、乗船券の販売も荷物コンテナの中の木机で行っていた。
 殺風景な港は大勢の人でごった返していた。3月終わりから4月にかけては異動のシーズンなので、人の行き来が活発なようだ。制服を着た学生が「○○先生、沖永良部島にようこそ!」と書かれた白い横断幕を持って港に並んでいる。新任の先生を港で迎えるのがこの島の習わしのようだ。歓迎のセレモニーの後に挨拶と校歌斉唱。それが4校同時並行に行われるからまことに賑やかである。





 フェリーは予定時刻よりも1時間半遅れの1時50分に出港。青い海を進む。フェリーに乗ると夜でも昼でもすぐに眠くなるのはなぜだろうか。心地よい揺れと騒音が眠りを誘うのか。しばしの昼寝の後に船は与論島に到着した。

 与論島は周囲23キロの小さな島である。美しい海と白い砂浜を求めて観光客も訪れる。坂のない「平坦な島」だと聞いていたのだが、実際には島の中央は丘になっていて、リキシャで走るのは意外に大変だった。
 観光の島ではあるけれど、ハイシーズンは夏の一時期だけなので、4月の島は閑散としている。農家のおじさんがサトウキビや稲を植えている。与論島も基本的には農業の島なのだ。


【子供たちと一緒に田植えをする家族】


 温暖な気候と美しい海に惹かれて、この地に移住してきた人は多い。犬を連れて散歩していたデザイナー氏もそんな一人だ。彼が家族を連れて東京から与論島に移ってきたのは10年前。「マクドナルドと武富士がない場所」を求めてやってきたそうだ。幸いなことにこの10年の間に外食チェーンやサラ金業者は進出してこなかった。一度宅配ピザチェーンが店を構えたことがあったが、半年も経たないうちに撤退した。人口6000人の島ではマーケットも限られているし、もともと島には外食する文化がないという。
 与論島独特の風習として知られているのが「与論献奉(よろんけんぽう)」と呼ばれる儀式である。これは客人をもてなすときに焼酎を回し飲みするもので、20度の焼酎をそのまま盃一杯分飲み干さなければいけない。運動部の新歓コンパもびっくりの無茶な飲み方である。
 デザイナー氏も最初に島にやってきた頃には島に溶け込もうと「与論献奉」にも付き合っていたが、これではとても体が持たないと、今では全て断っているそうだ。
「宴会に招かれると、普通は空きっ腹で行くじゃないですか。でも島の人はたらふく食べてから来るんだよね。献奉はひたすら飲むだけのもの。そりゃこっちの人は酒に強いけどねぇ、あんなの続けてたら死んじゃうよ。実際、肝硬変も多いっていうしね」

 放浪画家のセニョール富田さんも与論島に長期滞在している。もっとも彼の場合は、与論が特に気に入っているわけではなくて、数ヶ月あるいは数年おきに住む場所を変えないと生きていけない性分のようだ。
「動いてるのが好きなんだね。もう40年以上もこうやって暮らしてるよ。一番長く住んでいたのはスペインで14年いた。そのときは路上でアクセサリーなんかを売っていたんだよ」
 根っからの自由人である。一度もネクタイを締めたことはなく、革靴を履いたこともない。お金がなくなるとその地で働き、まとまった金が貯まると旅に出る。去年はバイクで日本中を旅していた。東北では人力車を引いて旅をしてるカップルと、竹馬で旅をしている夫婦に出会った。世の中、いろんな旅をしている人がいるもんだ。まぁ僕が言うことじゃないけど。
「与論はきれいな島だけど、僕はちょっときれいすぎるね。やっぱり観光地だからねぇ、生活感がなくて面白くない」
 彼はいま港の近くにアパートを借りて油絵を描いている。腐ったカボチャやカニの甲羅などの静物画。描いている対象も変わっている。それが終わったらまたどこか別の土地に移る。身軽な根無し草的暮らしだ。
「ずっと寅さんをやってるんだよ」
 セニョール富田さんはそう言って笑った。


【放浪の画家・富田さん】

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本日の走行距離:20.4km (総計:1094.4km)
本日の「5円タクシー」の収益:35円 (総計:22070円)

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by butterfly-life | 2010-04-04 16:16 | リキシャで日本一周
31日目:はたらきものの島(鹿児島県・沖永良部島)
 徳之島の亀徳港からフェリーに乗って沖永良部島に向かう。ちなみにフェリーでのリキシャの扱いは「自転車」である。原動機は付いていないし、法的にも自転車で間違いないのだけど、バイクよりもでかい図体ではあるので、自転車料金で運んでもらうことには若干気が引ける。

 今日も風が強く、沖永良部島でもメイン・ポートの和泊港ではなく、サブの伊延港に到着した。船を下りて走り出すと、すぐにパトカーが追いかけてきた。
「ちょっとちょっと、これは何かねぇ」
 制服姿の警察官が窓から顔を出して言った。のんびりした柔和な顔である。帽子を脱げばその辺のおっちゃんにしか見えない。きまじめな表情を崩さない都会の警官とは全然違う。
「これで日本を縦断しているんですよ」
「ほんとかねぇ。それはすごいねぇ」
 警官のおじさんは感心してうなずいた。どうやら単なる好奇心から話しかけてきただけのようだ。しばらく立ち話をする。この沖永良部島は鹿児島県に属してはいるけれど文化的には琉球圏に入っていること、三線の音色が違うこと、徳之島の人は気性が荒いところがあるが沖永良部の人は穏やかな気質だということなどを教えてもらった。
 これまで1ヶ月旅を続けてきたけれど、警察官と話をしたのはこれが初めてである。この島の警官はきっと暇なのだろう。みんなが顔見知りのような小さな島では、警察の介入が必要な問題がそうそう起きるとも思えない。
「凶悪事件っていうのは起きんけど、まぁ人と人だからもめ事は起こるわなぁ」
 と平和な島の平和なポリスは言う。酒がらみの事件はあるようだ。酒を飲んで暴れたり、泥酔して路上で寝ていたり、飲酒運転をしたり。
 ちなみに夕方にはまた別の警察官が話しかけてきた。やっぱり沖永良部の警官はすごく暇なようだ。


【サトウキビの収穫を行うハーベスト・マシーン】

 島の北側をリキシャで走っていると、原付バイクに乗ったおじさんに呼び止められた。写真を撮らせてもらっても構わないかというので、どうぞどうぞと答える。おじさんは「和泊町歴史民俗資料館」の館長をしているという。昔稲作で用いていた道具などの民俗的資料を展示しているそうだ。
 館長さんによれば、沖永良部島はユリの栽培で有名なのだそうだ。もともとユリはこの島に自生していたのだが、島民には利用価値のない野生の花として長いあいだ見向きもされていなかった。そのユリに目を付けたのはアイザック・バンティングというイギリス人商人だった。バンティングは珍しい植物を求めて世界各地を旅する「プラントハンター」で、特にイースターやクリスマスなどの祝い事には欠かせない花であるユリを探していた。彼が沖永良部島に上陸したのは1889年のこと。船が難破して偶然漂着した。
 島に流れ着いたバンティングは島民と協力して野生のユリの栽培し、球根の形で欧米へ輸出し始めた。自給自足的な生活を送っていた島民にとって初めての商品作物であるユリの栽培は大成功を収め、島はユリ景気に沸いたそうだ。「ビールで足を洗える」ほど儲けたという逸話も残っている。もちろん「ハンター」のバンティング氏も大儲けしたことだろう。命がけの航海に末にたどり着いた南の島で、黄金のユリを見つける。夢のある時代の夢のある話だ。


【ユリ畑でつぼみを手で摘み取る】

 沖永良部島では今でもユリの栽培が盛んである。ただし園芸大国オランダ産の球根の台頭などによってかつてのような輝きは失われている。今では球根栽培からビニールハウスを使った切り花の栽培に切り替える農家も多くなった。
 ユリ畑で農作業をしているおばさん曰く「球根はひとつ25円、切り花だとひと株100円」で売れるそうだ。球根の栽培には膨らんできたつぼみを手で摘み取る作業が欠かせない。花に栄養が行くと、そのぶん球根が痩せてしまうからだ。


【今年はじゃがいもがあまり大きくならんかったんよ、というおばあさん】

 沖永良部は「はたらきものの島」である。ユリ畑をはじめとして、サトウキビ畑、じゃがいも畑など、小さな島のそこかしこで働く人の姿を見る。特にお年寄りの姿が多い。80を超えてもまだまだ現役で働いている人もいる。家にいるのは本当の病人だけだという。

 そら豆の収穫をしているおじいさんは昨日満79歳になったばかりだと言った。さやが黒くなったそら豆はそのまま食べるわけにはいかないが、水に浸してから煮ると小豆の代わりにあんことしても使えるほど甘くなるという。そら豆畑は狭いけれど一人で収穫するには三日かかる。おじいさんは子供の頃に事故で右手を失い、数年前から右足が不自由になり、最近は左目が見えなくなってしまったからだ。畑に座り込んで左手一本で器用に収穫していく。
「わしはずっと左手だけで生きてきたけどな、不自由に思ったことは一度もない。むかし鉄工所で働いていたときも、わし以外のもんはみんな首切られたけども、わしは工場に残ることができたんよ。努力すればなんでもできるよ」
 彼は左手一本で何でも作る。収穫したそら豆を入れるための「テル」という竹かごを作ったのも自分だし、竹ぼうきも作っている。トラクターの免許だって持っている。
 とてもいい表情だった。その顔には「年輪」という言葉がふさわしい深いしわが刻み込まれていた。
 この顔を残したいと思った。強く願った。
 その願いが通じたのか、おじいさんはカメラの前で少し照れながら笑顔を向けてくれた。


【事故で右手を失ったおじさん】

 沖永良部島北部で出会った東さんも85歳の「はたらきもの」だった。耳が遠くて補聴器なしでは目の前の人の言葉も聞き取れないが、今でも畑に出て働いたり、牛の世話をしたりしている。ずっと農業をしていた東さんが畜産に切り替えたのは10年ほど前。1頭だけだった牛を60頭にまで増やした。
「戦時中は航空部隊に配属されて千葉県におったんよ。戦争が終わって島に帰ってくるのも大変でなぁ。鹿児島には何とかたどり着いたけど、そこから船が出ていない。船はあるけど燃料がなくて島に渡れない。基地の防空壕のなかで2ヶ月寝泊まりしたよ。闇船っていうのでやっと帰ることができてなぁ」
 東さんは牛にエサをやりながら、60年以上前の苦労話をした。食うや食わずだった戦中戦後を思えば、今は本当に幸せだと言う。
「ここは農業の島やから、みんな食べるためによー働くよ。働かんと生きていけんからな。口に使われとるようなもんよ」





 農家に定年はない。
 働くことの喜びにも年齢制限はない。
 80を超えても働ける場所があるというのは、やはり幸せなことだと思う。


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本日の走行距離:38.1km (総計:1074.0km)
本日の「5円タクシー」の収益:510円 (総計:22035円)

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by butterfly-life | 2010-04-03 08:23 | リキシャで日本一周
30日目:美しい島に基地はいらない(鹿児島県・徳之島)
 徳之島は今、普天間基地の移設候補地として名前が挙がったことで大きく揺れている。
 長寿と子宝に恵まれた(逆に言えばそれぐらいしか誇るもののない)小さな島に米軍基地がやってくるかもしれない。当然、多くの住民が反対の声を上げた。僕が島に到着する前日には、平土野で大規模な反対集会が行われ、マスコミにも大きく取り上げられた。


【護岸ブロックに囲まれた船着き場】

 米軍が使う滑走路は、今ある空港近くの土地を埋め立てて作る予定だという。その空港が眼下に見える小高い丘の上でサトウキビ畑の手入れをしている農家のおじさんがいた。
「こうやって雑草は早いうちに抜いとかんと、すぐに成長して種が散らばってしまう。ここの草は強いから、雑草だらけになってしまうんよ」
 おじさんはクワでまだ小さな雑草を根ごと掘り起こした。
「去年は水不足でサトウキビはダメやったなぁ。川も涸れてしもうて、キビが成長できんかったんよ。おととしは豊作やったけど。さて今年はどうなるか。難しいねぇ」
 おじさんは作業を一休みしてクワを置き、海の方に目をやる。透明な朝日を受けて波頭がきらきらと輝いている。美しい海だ。
「こんな静かな島に基地は合わん」とおじさんは言う。「徳之島には土地が余っていると言っとる人がいるみたいやけど、雑木林まで開墾してサトウキビ畑にしとるんよ。もっと土地が欲しいぐらいや。今は収穫したばかりやから空き地みたいに見えるかもしれんけど。空から見たらそう見えるんかなぁ」
 テレビ局の撮影だろう。さっきから空港周辺を旋回しているヘリコプターを見上げて、おじさんは深いため息をつく。
「滑走路は海を埋め立てて作ると言っとる。でも軍人が住む家はどうする。サトウキビ畑が潰されるに決まっとる。一度決まったらもう終わりよ。この島は基地の島になってしまうよ」


【サトウキビ畑の手入れをする村田さん】

 村田さんは中学を卒業してからすぐに島を出て、夜間高校に通いながら働いた。昔の農家にはきょうだい全員が高校に行けるだけのお金はなく、中学を出たら働くのが普通だった。神戸の鉄工所や大阪の中華料理屋で働いた。
「大阪を歩いとったら人に酔うんよ」
「人に酔う?」
「そう、目が回ってしまうんよ。島の人間は向こうからやって来る人の顔を見ながら歩くんよ。だから大阪でもつい人を見てしまうんやけど、尼崎や梅田にはたくさんの人がおるやろう。誰を見たらいいのかわからんようになる。そうすると気分が悪くなってくるんよ」
 東京でも大阪でもそうだけど、都会に生まれた人間はいちいち人の顔なんて見ずに、人と人との隙間を歩く術を自然に身に着けている。そのとき街行く人は「顔を持った人間」ではなくて「顔を持たない障害物」になる。でも島ではすれ違う人は誰でも「顔を持った人間」なのだ。
「もちろん何年かしたら、それにも慣れたよ。人の顔を見んでも歩けるようになった。でも15年前に島に帰ってきたら、その癖も戻ってなぁ。このあいだ久しぶりに用事で大阪に行ったら、また人に酔ってしもうたわ」
 村田さんは苦笑いする。都会人には苦もなくできることがなかなかできずに苦労した若い頃を思い出したのかもしれない。
「やまとんちゅう(本土の人)はよう働きよるなぁ。大阪の会社やったら二日も休んだら、三日目には『もう来んでもええよ』と言われる。しまんちゅう(島の人)はのんびりしとるよ。夏になったら誰も働かんよ。昼間は暑いから昼寝しとるよ。それでも暮らしていけるんやからなぁ。島に戻ってきたときも、しばらくは釣りばっかりしとったもんなぁ」
 村田さんは麦わら帽子を脱いでタオルで汗をぬぐい、また被りなおしてからクワを手にした。
「うちの親ももう年やからなぁ。静かに余生を送らせてやりたいのよ。基地みたいなもんができたら、島が島でなくなってしまう」


【島で出会ったおじいさん】

 村田さんのように米軍基地の移設に反対する声は、島民の大多数を占めている。当然である。この静かな島に基地は似合わない。それ以上の言葉はいらない。
 しかし、今のところあまり表立って意見を表明してはいないが、移設に賛成している島民も間違いなく存在する。賛成の理由は「経済の活性化」である。基地がやってくれば、その建設費や国からの補償費が島に落ち、一定の雇用も確保される。一種の公共事業である。それが小さな島の経済に与えるインパクトは大きい。
「あんたもフェリーに乗って島に来たんだろう? あのフェリーに積むコンテナを見ればよくわかるよ。徳之島に入ってくるコンテナは食料品から日用雑貨や機械なんかがぎっしり詰まってる。でも徳之島から積み出される荷物はほとんどない。空っぽじゃ。売るもんが何もない。それがこの島の現実よ」
 基地移設に賛成の立場を取るAさんもまた中学卒業後に都会へ出た一人だった。高度成長まっただ中の昭和40年代の東京には、中卒者にも求人がいくらでもあったのだ。一年会社勤めをした後、Aさんは競馬の騎手になる試験を受けた。体の小さい自分にはそれが向いていると思ったからだった。しかし試験に落ち、騎手になる道を断たれた後は、上野公園でホームレス生活を送るようになった。花見客が残していった弁当をあさる日々。どん底まで落ちて、食い逃げや恐喝まがいのことまでやった。
「警察のお世話にならんかったのは運が良かっただけよ。でも俺はゼロから始めたからな。何も怖いもんはないよ。去年も大腸がんになって手術したんやけど、なんも怖くないよ。人間は誰でもいつかは死ぬんだから」

 様々な職を転々としながら東京から三重に流れ着いたAさんは、故郷と縁を切るつもりで島に戻った。しかしそのときに島の農業にチャンスがあることを知る。特産であるビワの栽培を始め、流通業者を通さずに直接デパートに商品を卸し、それが成功した。他のビワ業者からはビワの市価を下げた奴として白い目で見られたが、そう言っていた人たちはみんなビワの栽培を諦めてしまった。
「農業は面白いなぁ。自分が手塩にかけて作ったものをお客さんが選んで買ってくれる。それが嬉しいんよ。島の農家は自分に甘い。作物の出来が悪いのをすぐに天候のせいにする。作ったものを評価するのは農家ではない。買ってくれる人、消費者よ」
 彼は島の農家のビジネスマインドの低さを嘆く。買い付けに訪れた都会の業者にいいように騙されだけで、消費者が何を求めているのかわかっていない。柑橘類のタンカンやビワなどの果物は、本当に美味しいものを作れば必ず「本物を欲しがる客」に高い値段で売れる。自分はそう信じてやってきた。
「サトウキビ栽培は盛んだけど、あれは補助金をもらうためにやってるんよ。サトウキビ1トンの市価は4000円。それを2万円で製糖業者に売っている。差し引きの1万6000円は国の税金よ。どう考えてもおかしいだろう。そういう生活保護を受けとるような農業は恥ずかしいと思わないといけない。島の人には危機感っちゅうもんがないのよ」

 ものごとは見る角度によってまったく違って見えるものだ。しまんちゅうの美点である「人の良さ」は裏を返せば「騙されやすさ」になるし、「のんびり」は「怠惰」に、「陽気」は「不真面目」になる。若い頃都会でもまれてきたAさんから見れば、徳之島の「しまんちゅうマインド」は「外の世界の厳しさを知らない島国根性」になる。
「島でただぼーっと過ごしてるのは人生を無駄にしていると思うよ。何か目的があればいいけど、何にも考えんと曜日も関係なく自由気ままに生活して、それで死ぬときに満足して死ねるんだろうか。このままでは徳之島はじわじわと衰退していくだけよ。だから基地が来るんだったら、来たらいいよ。いい刺激になるよ。仕事も生まれるし、お金も回るようになる。半分眠ったような島の人間も、目が覚めるんと違うか」


【平土野港に落ちる夕日】

 僕は(きっと自分自身がそうだからなのだと思うが)南国の気質、「しまんちゅうマインド」が好きである。革靴よりサンダル、スーツよりTシャツ、過労よりも昼寝を選ぶ人間である。「なんとかせねば」という危機感を持つよりも、「なんくるないさー」と考える人間である。
 それではダメだ、もっと経済を活性化させるべきだ、そのために米軍基地が来たらいい、というAさんの意見には傾聴すべき点もある。怠惰な島民よ目を覚ませ、とお尻をたたきたくなる人の気持ちもわからなくはない。確かに島の人はのんびりしすぎているところがある。

 でも、あえて個人的な意見を述べさせてもらうなら、「島がこのままでいて何が悪いのか」と思うのである。この国の中に、こんなふうにのんびりと暮らせる島があるということ、それ自体すばらしいことではないかと思う。街ゆく他人を「障害物」ではなく「顔を持った人」として見てしまう。そういう優しい気持ちを持った人が日本という国にもいる。そのことを誇りに思ってもいいのではないか。なにも日本人全員が冷徹なビジネスマインドを持ち、携帯電話片手に早足で歩き、高い生産性を誇る必要なんてないじゃないか。

 この美しい島に基地はいらない。
 それがリキシャで徳之島を一周した僕の結論だ。

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本日の走行距離:25.0km (総計:1035.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:21525円)

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by butterfly-life | 2010-04-02 12:59 | リキシャで日本一周
29日目:ノロに会う(鹿児島県徳之島)
 朝5時に起きて名瀬のフェリー乗り場に向かう。徳之島に向かうフェリーは5時50分の定刻通りに出港。海はとても静かだ。
 9時10分に徳之島の亀徳港に到着。徳之島は奄美諸島のなかでも大きな島なので、一日でぐるりと一周するのは難しい。今日はもうひとつ港がある平土野に向かうことにする。

 天気予報では朝から晴れが続くはずだったが、午前中はずっとはっきりしない天気だった。時々ぱらぱらと雨が落ちてくる。やはり島の天気は予測が付かないようだ。
 南部の海沿いを走っているときに、花粉を避けて沖縄までやってきたというおじさんに出会った。毎年、杉花粉の飛散がひどくなる2月から3月を沖縄で過ごしているという。「避暑」ならぬ「避花粉」。よほどひどい花粉症なのだろう。確かに徳之島では白いマスクをしている人は見かけない。奄美より南には杉の木はなく、だから花粉の飛散もないのだ。
 その代わり、と言ってはなんだけど、どういうわけか徳之島では原付バイクに乗っている若者がみんな黒いマフラーやタオルで顔の下半分を覆っていた。それにヘルメットを被ってサングラスをかけていると過激派のデモ隊のように見えなくもない。こんなスタイルは他の地域では見られない。徳之島オリジナルの流行なのだろうか?


【徳之島ではジャガイモの収穫が最盛期を迎えていた】

 徳之島もサトウキビの栽培が盛んで、奄美諸島全体のサトウキビ生産量の6割以上を徳之島産が占めているそうだ。そのほかにはジャガイモ、里芋、カボチャなどの生産が盛んで、今はジャガイモが収穫期を迎えていた。今年はジャガイモの値段が高く、農家は例年の二倍の収入を得たとのこと。しかしサトウキビは去年の雨不足がたたって生産量が大きく落ち込んだそうだ。

 サトウキビと並ぶ徳之島の名物といえば闘牛である。島の中には何カ所もの屋外闘牛場があって、正月や盆のシーズンには熱戦が繰り広げられるという。
 国道沿いの看板にも「闘牛用黒牛の夕方トレーニング中に注意」「アマミのクロウサギの夜間飛び出しに注意」と書いてあった。他ではまず見ることのない看板である。もし散歩中の闘牛と車が衝突したら、運転手は何百万円もの賠償金を支払わされることになるという。横綱クラスの牛はとても高価なのだ。
 闘牛はもちろん賭博の対象である。競馬や競艇と違って公営ギャンブルではないから厳密に言えば違法なのだが、警察も見て見ぬふりをしている。島民が賭けの対象にしているのは闘牛だけでなく、プロ野球、高校野球、相撲などなど。選挙の結果まで賭けの対象になるというからよほどギャンブルが好きなのだろう。
 ゲーム機賭博も半ば公然の秘密として営業を続けているそうだ。とある町で「喫茶○○・カレー専門店・18歳未満の入店を禁ずる」という外部の人間には意味不明な看板を掲げた店を見かけたのだが、どうやらそれがゲーム機賭博を行っている店らしい。
「誰かからのタレコミがないかぎり、警察は何も言わんよ」
 と言うのは自身も数年前までゲーム機賭博を営業していたというYさん。
「あれは儲かったな。1日に20万円も入ってきたこともある。でも中学生だった息子が闘牛に金を賭けているのを知ってな。それでゲーム機はやめた。賭博場をやってる親が息子に闘牛をやめろとは言えんやろう」
 どういうわけか南国の人は博打が好きである。フィリピン人もサイコロ賭博、トランプ、闘鶏などなど、いたるところで賭け事をやっていた。地理的にも気候的にも、そして「気質」の面でも、どんどん「アジア」に近づいているという気がする。


【丸い柵が闘牛場】

 徳之島南部の伊仙町にある「魚勝」という鮮魚店で、とれたてのお刺身をご馳走になった。白いエプロン姿がよく似合うオヤジさんに「ここで休んでいけよ」と声を掛けてもらったのだ。
 いただいたのはマグロの若魚である「シビ」。さっき漁師が釣ってきたものを直接仕入れて、すぐに氷水でしめておいたものだ。こうすると身が柔らかいまま半日は鮮度が保てるという。これは今までに食べたどんなお刺身よりも新鮮で、思わず「うまい!」と口に出したくなる味だった。
「そうやろう? これは他では絶対に味わえんからねぇ」




【シビをさばく魚勝のおやじさん】

 島でしか味わえない贅沢な刺身に舌鼓を打っていると、近所の子供たちがリキシャの周りに群がり始めた。
「すごいねぇ」「乗りたーい」
 そう言われると5円タクシーが出動せねばならない。たちまち順番待ちの列ができるほどの人気になった。
 それにしても小さな集落のわりにやたらと子供が多いのには驚かされる。それもそのはずで、ここ伊仙町は日本でもっとも出生率が高い町なのだそうだ。1人の女性が生涯で生む子どもの数を示す合計特殊出生率が2.42。全国平均を1以上も上回っている。今でも3人4人の子供を持つのが当たり前で、5人きょうだいも珍しくないのだそうだ。
 お母さんたちに話を聞くと、「産んでからがラク」という言葉が返ってきた。3世代同居が当たり前だし、そうでなくてもご近所で子供の面倒を見ようという雰囲気があるから、安心して子供を遊ばせておけるのだそうだ。
 確かに歩道の上に座り込んで積み木をしている女の子たちを見ると、子供が育ちやすそうな場所なんだなと実感する。こういう「どこでもお遊戯」は都会はもちろん田舎でもなかなか目にすることができなくなった。危ないし汚いから外で遊びなさんな、というのが親の意向で、子供たちもニンテンドーDSや携帯電話に夢中なのだ。
 徳之島の子供たちは外を駆け回っている。サトウキビ畑のなかを走り、海辺で波と戯れる。それが子供本来の姿なのだと素直に思う。


【歩道の上で遊ぶ子供たち】

 お昼ご飯と100枚もの5円玉(たくさんの「ご縁」がありますように)をいただいた「魚勝」さんにお礼を言ってから再びリキシャにまたがる。10分ほど走ると、「泉重千代翁・自宅→」という標識が見えてきた。泉重千代さんは昭和54年に当時の長寿世界一に認定され(のちにフランス人女性にその記録は破られた)、120歳まで生きた人である。僕も子供の頃にその名前をニュースで耳にした記憶がある。徳之島一の有名人だ。
 伊仙町は長寿の町としても知られていて、泉重千代さんだけではなく、他にも116歳まで生きた本郷かまとさんもここの出身。現在も町内には100歳以上のお年寄りが18人も住んでいるそうだ。長寿と子宝に共に恵まれた島なのである。
 温暖な気候。健康的な食生活。起伏が多い島での適度な運動。長寿の秘密はいろいろと考えられるが、最も重要なのはのんびりとしたストレスの少ない暮らしぶりではないかと思う。

「この島が気に入って、今月移住してきたばかりなんです」というのは香川県出身の水泳インストラクターの女性。「すごく住みやすい島ですよ。よそから来た人間でも温かく迎えてくれるし、気候も暖かいし。思い切って移ってきて良かった。ここから私の第二の人生が始まったって感じです」
 彼女のようにこの島を気に入って外部から移住してきた人も少なくないようだ。僕だってもし余生を過ごすとしたら(というのは気が早いが)、こういう島がいいと思う。


【徳之島と言えば闘牛です】

 しかし実際には島の人口は減り続けている。現在の徳之島の人口は2万7000人だが、30年前に比べると1万人近く減少しているという。高校を出た若者は必ず一度は島の外に出る。行き先は大阪や東京が多い。専門学校や大学に行く者、親戚のつてを頼って就職する者。その中で島に戻ってくるのは一部の人だけだという。島にはこれといった産業がなく、戻ってきても就職口が限られているからだ。
 島はとても静かで居心地がいい。でもそれが若者の目に「退屈」と映るだろうことは僕にもよくわかる。18の頃をこの島で過ごしていたら、きっと刺激を求めて「早く外に出たい」と思ったはずだから。

 徳之島は奄美大島と同様に起伏の多い島で、平坦な場所がほとんどなく、常に坂道を上ったり下ったりしていたので、意外に疲れる旅になった。
 長いだらだら坂を上り、それから平土野の町まで一気に下りきったところで、おばさんに呼び止められた。
「あんた、昨日の新聞に出とった人だろう?」
 その通りです。おととい取材を受けた南海日日新聞に出ておりました。
「そうじゃろう。新聞を見たときにな、『この人に会うことになる』と神様が言ったんよ」
「神様ですか?」
 唐突である。戸惑う僕を無視して、彼女は続ける。
「あんた何年生まれね」
「寅年です」
「名前は?」
「三井昌志」
 すると彼女はカバンから塩の入った小さな透明の袋を取り出して、ふーふーと塩に息を吹きかけながら小声で何ごとか唱え始めた。
「・・・におられます神様・・・お願いしまする・・・の旅の無事・・・・・を守りたまえ・・・」
 きれぎれにしか聞き取れなかったが、どうやら僕の旅の無事を祈ってくださっているようだ。その祝詞が終わると、彼女は塩をつまんでリキシャの前輪に投げ、もうひとつまみを後輪に投げた。
「はい、手を出して」
 言われるままに右手を差し出す。彼女はそこに塩を一盛り載せる。
「舐めなさい」
 はい。もちろん塩辛かい。
「残りは頭に振りかけなさい」
 ぱらぱら。頭から肩に塩がかかる。
「はい、これであんたの旅はここの神様が守ってくれるよ。良かったねぇ」
 彼女はにっこりと笑った。このおばさんの正体は山田道子さん。沖永良部島に住むノロ(祝女)である。ノロとは地域の祭祀を取りしきる神官のような役割の女性で、昔は琉球の王族にまつりごとの助言を与えていたそうだ。ノロは世襲制で、山田さんは7代目。お母さんもおばあさんもノロであった。今ではノロに政治的な発言力はないが、地域住民の病気の治療やお祓い、相談事に乗ったりしているという。
「徳之島は神様の住む島だからね。バリ島もそうよ。このあいだ夢にバリ島の神様が出てきよったよ。あんたがこの神の島に来たのも、きっと何かのご縁やね」
「そう、縁ですね」
 僕はうなずいた。リキシャに「ご縁タクシー」という名前を付けたのはただの思いつきだったけれど、その名前の通りリキシャは「ご縁」を繋ぐ道具となっている。だから山田さんの神様が僕に出会うことを予言したというのも、さして不思議な話だとは思わない。そういうものなのだ。
 山田さんは「何か困ったことがあったら、これを舐めなさい」と言って、息を吹きかけた塩の袋をくれた。舐めたらどうなるんですか、なんてことは聞かなかった。



 平土野の町は寂れていた。奄美大島からのフェリーも寄港する町なのだが、商店も開いているのか閉まっているのかよくわからないところが多く、ビジネスホテルの看板を掲げた建物は壊している途中だった。町にただひとつの宿泊施設は小さな民宿で、ここも休んでいるように見えたのだが、隣の魚屋さんに聞くと「あぁやってるのよ」と鍵を開けてくれた。たまに泊まり客が来ると営業する民宿のようだ。素泊まり3500円。4000円だと聞いていたので4000円を渡すと、あとで「すいません、あれは朝食込みの料金でした」と言って500円のお釣りを持ってきてくれた。正直な宿である。

 夕食は平土野の港で知り合った福本さんと一緒に食堂で食べた。福本さんはリキシャに乗った僕を見かけるなり、上着からライカM6を取り出して「ちょっと撮ってもいいかな?」と聞いてきたのだ。カメラの構え方がレンジファインダーを使い慣れた人のそれで、とてもさまになっていた。
 福本さんは家具店とコンビニを経営しながら、趣味で写真を撮り続けている。土門拳のリアリズム写真にあこがれて、徳之島の人々の暮らしぶりを記録してきた。
「店をやってるといろんな人が来るのよ。何年か前にも自転車で日本一周している80歳のおじいちゃんが来たし、このあいだは歩いて日本を旅している人が店に入ってきたんよ。紙に短歌を書いて『これを1000円で買ってくれないか』って言ってきてねぇ。それがまた下手くそなんよ。でも買ってあげたよ」
 福本さんが写真を撮るのは、写真の出来云々よりも、カメラを向けることで人とコミュニケーションが生まれるのが楽しいからだという。
 福本さんが20年以上前に撮った徳之島の人々の姿は、まさにアジアだった。みんなで網を引く漁師たち、共同の水場で裸になって水を浴びる男、白装束で儀式に臨むノロ。今ではもう見ることのできない光景がそこに残されていた。


【愛用のライカをいつも携帯している福本さん】

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本日の走行距離:39.8km (総計:1010.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:635円 (総計:21525円)

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by butterfly-life | 2010-04-01 08:11 | リキシャで日本一周