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69日目:しまなみ海道を行く(広島県因島)
 朝の8時半に木江港からフェリーに乗って大三島に向かう。わずか15分で宗方港に到着。ちなみに大三島は愛媛県今治市に属している。広島からほんの少しのあいだだけ四国に戻ることになったわけだ。

 フェリー乗り場の近くでひじきを干しているおばさんに出会った。ひじきというのは海から上げた直後は茶色なのだが、長い時間くつくつと煮ると例の真っ黒い色に変わるのだという。ほぉそうなんですか、と感心しながら作業の様子を見守る。旅をしていると「世の中には自分の知らないことがまだまだある」ということに気づかされる。だから旅は楽しい。



 宗方の集落では、畑の中でおばあさんと長話をした。買い物カートに腰を下ろしてのんびりと日向ぼっこをしているおばあさんが、「あんたもこっちへ来なさい」と手招きしたのだ。はいはい、うかがいましょう。
「私は人生の最初からつまずいとるんよ」とおばあさんは言う。「私が結婚させられたんは、数えで二十歳になったばっかりの頃じゃったわ。私はまだ結婚なんてする気はなかったから、『嫁なんていきゃーへん、いきゃーへん』ってなんべんも言ったんじゃが、両親が『ええ人がおる』言うて、無理に縁談を進めようとする。ずっと逃げ回っとったんじゃが、ある日実家から電報が届いての。『チチキトク スグカエレ』。こりゃ大変じゃ思て、すぐに家に帰ってふすまをガラッと開けたら、親戚がみな集まって大きな鯛をさばいとるんじゃ。こりゃ一体なんじゃろか思てたら、みなが『おまえの結婚式じゃ』言いよる。騙されたんじゃ!」
 おばあさんはいまいましそうに持っていた杖を振り上げて、畑の土くれ目がけて叩きつけた。杖は乾いた畑の中にぶすっと突き刺さった。もう60年も前の話なのに、よっぽど腹に据えかねているのだろう。
「当時は髪結いしてくれるところが隣の大崎上島にしかなかったけ、手漕ぎの船に乗って木江の髪結いまで連れて行かれたんじゃ。それもな、監視付きや。『こいつは目を離したら逃げる』って言われて、便所にまで見張りが付いてきよったわ。戦後の食糧難の時代やったからな、こげんむてんなことをしよったんよ。人を騙して結婚させるっちゅうは、人間やのうて犬か猫の扱いじゃわ」
 結婚してからも嫁ぎ先との折り合いが悪く、二度も逃亡を図ったがそのたびに引き戻された。そうこうしているうちに子供ができてしまった。
「あんたは恋愛結婚じゃろうが? ハッ! 幸せじゃのう。ほんまに幸せじゃ。私らん頃は時代が時代じゃったからしょうがなかったが、ほんまにむてんなことをしよるわ」
「でも子供を育てて、長生きもして、幸せな人生だったんじゃないですか?」
「そりゃのぉ、振り返ってみりゃ幸せじゃったかもしれん。でもなぁ、幸せじゃったと思わんとやっていかれへん」


【口はちょっと悪いが、笑顔は素敵なおばあちゃん】

 おばあさんの昔話はなかなか終わらなかった。次から次へと人生を彩るエピソードが飛び出してくるのだ。どれも面白いので、いつまでも聞いていたかったが、先に進まなければいけなかったので、適当なところで話を切り上げて再びリキシャにまたがった。しかしすぐにおばあさんが軽トラックに乗って追いかけてきた。
「これ、もっていきや」
 そう言っておばあさんは袋一杯のミカンを渡してくれた。
「ありがとうございます。これ、マニュアル車でしょう? よく運転できますねぇ」
 と感心してつい余計なひとことを言ってしまったのが間違いだった。我が意を得たりとばかりに、おばあさんのエンドレステープが再び作動してしまったのだ。し、しまった。
「ほうなんよ。私は20年前に脳梗塞をやっとるんよ。一時は体の右半分が動かんようになった。でもなぁ、行った病院が良かったんじゃなぁ。脳外科の優秀な先生にたまたま当たって、回復できたんよ」
 もちろん話はそこで終わらなかった。おばあさんは脳梗塞が起こった長い一日を事細かに説明すると、入院後の顛末から、入院中に世話になった孫の話を語り出し、そこから同室だった盲目のおばあさんの話、さらにはリハビリ中世話になった若者の思い出までノンストップで語り続けた。
「足が悪くなってから、口ばかり達者になって困る」
 とおばあさんは言う。ちゃんと自覚はしているようだが、それでも止められないものは止められないのだ。
「しかしあんたも変わりもんじゃのう。大学も出て会社勤めもしたくせに、今はこうして旅をしとるんか? ハッ! そのままサラリーマンしとったら、銭もちゃんともらえただろうにのぉ」
「でも会社勤めをしていたら、この島には来なかったし、僕らがこうやって話をすることもなかったですよ」
「ほうか・・・まぁほうかもしれんなぁ」
 おばあさんが少し考え込んだタイミングを見計らって、素早くリキシャにまたがった。チリンチリン。ベルを鳴らして手を挙げる。
「達者でなぁ。事故にだけは気ぃつけて」
「おばあさんもお元気で」



 大三島は緑したたる美しい島だった。特に南部の海岸線は急斜面のミカン畑と、目の覚めるような海とが鮮やかなコントラストをなしていて、いつまでも見飽きなかった。
 山を越えたところに宮浦港があり、小さなお好み焼き屋で昼食を食べてから大山祇神社に向かった。大山祇神社は大三島最大の観光名所で、国宝8件、国の重要文化財75件を有する由緒ある神社である。圧巻なのは天然記念物にも指定されているクスノキだ。樹齢2600年とも伝えられる古木である。境内を覆い尽くさんばかりに伸びた枝の下から空を見上げると、深い森の中にいるような何かに包まれている気持ちになる。
 そう言えばひじきを干していたおばさんからこのクスノキにまつわる伝説を聞かされていた。曰く「この木のまわりを息を止めながら三回まわることができたら、白ヘビが現れる」のだとか。願い事が叶うとか、恋が成就するといった現世利益的なものではなくて、「白ヘビ」というのがいい。おばさんは子供の頃この伝説を信じて何度もトライしてみたらしいが、幹が太くて一度も成功しなかったそうだ。



 大三島の東岸には隣の生口島(いくちじま)に渡る大きな橋が架かっている。ここからは橋伝いに本州まで渡ることができ、この島を含めた尾道から今治を結ぶルートは「しまなみ海道」と呼ばれている。
 多々羅大橋のたもとでは、昨日出会ったチャリダーの石川さんと再会した。また会うんじゃないかなぁという予感は見事に的中した。彼は呉から尾道まで本州を走り、そこからしまなみ海道を通って今治に向けて南下していた。昨日、原付で一人旅をしている女の子と知り合って、一緒に南下してきたそうだ。女子と一緒に旅できるチャリダーなんてまずいないから(そもそも自転車やバイクで旅している女の子は非常に少ない)、みんなから羨望のまなざしで見られるのは間違いない。うん、僕もちょっと羨ましい。


【生口島の造船所】

 生口島の南岸を走っているときに、白いヘルメットを被ったおじさんと知り合った。バイクに乗って水道メーターの検針に回っているところだという。
「この仕事は歩合制です。一軒回ると65円もらえるんです。僕の担当してるのは600軒ぐらいで、それを3,4日かけて回るわけです。水道の検針っちゅうのは2ヶ月にいっぺんやから、たいした収入にはならんけど、まぁ年金生活の足しにはなりますね」
 定年退職するまでは造船所に勤めていたそうだ。生口島や隣の因島には大きな造船所がいくつもあり、昔は大いに栄えていた。総重量18万トンの巨大タンカーを造っていたこともある。そう言われてもちょっと想像できないけど、とにかくバカでかい船なのだろう。
 造船所に危険はつきもので、昔は事故でよく人が死んだそうだ。安全性よりも作業の速さが求められていた時代だったのだ。ひとつのタンカーを造るのに二人は死んだというから凄まじい。
「今はそんなことはないですよ。事故が起きて労災が降りたら、困るのは会社ですから。危険な職場だと見なされると労災の掛け金が跳ね上がる。今は安全、安全とやかましく言っとるけど、昔は違ったんです。面倒くさくてヘルメットを被らんような奴もおったし。人の意識が変わるのには10年ぐらいの時間がかかるんと違いますか。みんなが車のシートベルトを締めるようになったんもそれぐらいかかったし、携帯電話で話しながらするんをやめるのも、あと10年はかかるでしょうな」



 生口島から橋を渡って因島へ。今日は尾道まで行くつもりだったが、時間的にも体力的にも無理そうなので、因島に泊まることにする。
 因島の中心街・土生(はぶ)には昭和レトロな商店街が残っていた。かつては日立造船の基地として栄えていた街だが、造船不況による人員整理で徐々に活気が失われている。それでもまだシャッター街化していないのは、「島」という特異な立地条件のおかげだろう。海沿いに建てられた造船所と、坂の上まで続く民家とで構成された街には、大型スーパーが進出できるような空き地に乏しいのだ。

 土生の商店街は親密だった。道は細く、車が入り込むことができないので、人々はのんびりと歩くことができる。お店とお客との距離も近い。僕のリキシャはたちまちおじさんおばさんたちに取り囲まれ、「それじゃカンパしてやろうかねぇ」の一声で「5円タクシー」への寄付金が1000円以上も集まった。感謝。


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本日の走行距離:50.1km (総計:2274.2km)
本日の「5円タクシー」の収益:1190円 (総計:35800円)

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by butterfly-life | 2010-05-18 06:20 | リキシャで日本一周
68日目:とびしま海道を行く(広島県大崎上島)
 呉市を出発して仁方港に向かう。ここから橋で結ばれた瀬戸内海の島々を通りながら東へと進むというのが今日のルートだ。
 仁方に行く途中で、チャリダー(自転車旅行者)に追い抜かれた。神奈川県出身の石川さん。タフなツーリング用自転車の前後左右に荷物を積んだ「日本一周チャリダー」である。10ヶ月前に神奈川を出発し、北海道まで行ってから南下し、4ヶ月間沖縄で越冬し、ただいまゴールに向けて北上中だそうだ。お互いの健闘を祈りつつ握手して別れた。ひょっとしたらまたどこかで会うことになるかもしれない。



 安芸灘大橋を渡って下蒲刈島に渡る。全長1175mもあるこの橋の上は有料道路だが、自転車は無料だった。
 橋の上からは海上に突き出すような場所に建てられたビルが見えた。築20年以上は経っていそうな古いマンションである。ほぼ360度海が見渡せるという絶好のロケーションながら、それを売りにしたおしゃれなリゾートマンションという風情ではない。壁面もコンクリートむき出しで、手すりも一部さび付いている。囚人が逃げ出さないように離島に建てられた刑務所のようにも見える。それにしてもこんなに海に接近した住宅というのも珍しい。海好きにはたまらない贅沢な環境だ。天気が荒れたら大変そうだけど。



 下蒲刈の港町は親しかった。最初に声を掛けてきたのは制服姿のおまわりさん。珍しい乗り物の登場に興味津々という様子で、開口一番「写真撮ってもええ?」と言ってきた。不審者の身元照合の意味合いがあるのかどうかはともかく、おまわりさんはリキシャの写真を何枚かデジカメに収めると、警察手帳の中から名刺を一枚取り出して僕に渡した。「広島県警 松山警部補」。警察官から名刺をもらうのは生まれて初めての経験だったのでちょっと嬉しかった。
「まぁこの島では凶悪犯罪というのは起こりませんよ。でも傷害事件なら起こることがあります。殴ったり蹴ったり、喧嘩ですな」
 松山警部補はつい先日NHKの番組に出演したらしい。「鶴瓶の家族に乾杯」という番組のロケにやってきた鶴瓶さんと小池栄子さんを島の各地に案内したのだそうだ。そのおかげで地元でにわか有名人になっているのは言うまでもない。



 警部補と別れてしばらく行くと、今度は漁協の組合長さんが声を掛けてきた。そこで立ち話をしていると、ミカン農家の親父さんがトラックでやってきて、「これもってけ」と大きな甘夏を三つもくれた。するとすぐそばのお好み焼きやのおかみさんが「兄ちゃん、これやるからお昼に食べぇ」とパック入りの焼きうどんを持たせてくれた。
 島は人と人との距離が近い。みんなが顔見知りで、お互いに声を掛け合いながら暮らしているから、妙な旅人が来たらその噂が瞬く間に広がるのだ。
 ちなみに焼きうどんは広島風(?)のソース味で卵入り。すごく美味しかった。コンビニやスーパーはなくても、お好み焼き屋ならどの集落にもあるというのが広島らしいところだ。



 本日二本目の橋「蒲刈大橋」を渡って上蒲刈島へ。漁業とミカン農業が盛んな島だ。急斜面の上の方までミカンの木が植えられているのが見える。
 港では年配の漁師さんが船の手入れをしていた。強化プラスチック製の一人乗りのボート。船名は「若吉丸」。これでタイやアジの一本釣りをしていたという。
「でも漁師は1ヶ月前で引退したんじゃ。もう30年も漁師をやっとったけど、わしも70やけぇ若い時みたいに体力がなくなってきよったからの」
 おじさんは若吉丸の船底に赤いペンキを塗る作業をしていた。これを塗らないと船底に牡蠣やアオサが付着し、船のスピードが鈍ってくるという。硬い牡蠣の貝殻は船底に傷をつける厄介者なのだそうだ。
「だから半年にいっぺんはこうして掃除をしてやらないかん。そりゃこの船はずっと乗ってきたから愛着はある。でも船はただ持っとるだけでも維持費がかかるけぇ、早よう売ってしまいたいんじゃ。けど、なかなか買う人もおらんでな。60万出して買いよったこの船が、6,7万でしか売れんちゅう。エンジンだってまだちゃんと動くんよ。最低でも10万ぐらいは出してもらわんと、この船にも気の毒じゃろうが」
 彼が漁師引退を決意したのは、ここ数年不漁が続いているからでもある。乱獲と環境の変化で、特に今年に入ってからはめっきり魚が減ってしまった。
「若吉丸って名前は、親父が乗っとった船からもらったんじゃ。親父も漁師だったけぇ」
 彼はペンキを手にしたまま、しばらく船を見つめる。
「あんた、その自転車には名前はあるんか?」
「いや、特には決めてないですね」
 リキシャに名前はない。リキシャはリキシャであり、そこに固有の名前を付けるという発想そのものが僕にはなかった。
「名前は大事じゃよ。考えたらええ」
「そうですね」
 船には名前がある。必ずある。そしてその名前は必ず船腹に目立つように書かれている。そういう乗り物は他にはない。
 この漁師のおじさんは本心では「若吉丸」を売りたくないんじゃないか。なんとなくそんな気がした。だから引退した後もこうやって船の手入れをしているのではないか。



 とびしま海道の各島では、三輪車に乗ったおばあさんとよくすれ違った。後ろに買い物かごを積んだ「ミニリキシャ」である。もちろん他の町でもお年寄り向け三輪車を見ることはあるのだが、瀬戸内の島々にはとりわけ多かった。島の中は交通量が少ないので、おばあさんでも安全に走れるからなのだろう。
 長年ミカン農家をしているおばあさんも三輪車に乗っている。でも外に出てくる年寄りは以前より減ったと嘆く。
「足が動かんようになったらダメじゃけ。家にずっとおるか、老人ホームに行くしかないじゃろう。私は88になったけど、まだ畑をやりよる。病気もしとらんし、足もちゃんと動く。ここはええ島じゃよ。いろんなところに旅行に行ったけどな、ここよりもええところはなかった。空気がおいしいし、海もきれいじゃし。鹿児島に行ったときも、海に浮かぶ島がきれいじゃって言っとったけど、ほなもんここで毎日見とるがな」
 確かに美しい海だ。南国の珊瑚礁の海のように明るくビビッドなブルーではないが、深みと透明感を兼ね備えた海だ。穏やかな水面と点在する小島の緑とが相まって、他にはない瀬戸内独特の景観を作りだしている。
「あと何ヶ月かしたら、ここらはミカンの花の匂いに包まれるよ。そりゃあええ匂いでなぁ、家ん中にいてもぷーんと匂ってくるんじゃ」



 上蒲刈島と豊島を結ぶ「豊島大橋」は2008年に完成した新しい吊り橋だ。この橋は海面からの高さが50mもあるので、橋の上からの眺めが特に素晴らしかった。空と雲と海、ぽつぽつと浮かぶ無人島が一望にできる。リキシャを立ち漕ぎすると目線が高い位置にくるので、視界を遮るものがなく、まるで空中をふわふわと進んでいるような浮遊感が味わえた。瀬戸内を空中散歩する贅沢。

 豊島の漁港では「はえ縄漁」の準備をしている漁師に出会った。
 はえ縄漁というのは1本の幹縄に多数の枝縄(はえ縄)をつけ、枝縄の先につけた釣り針で獲物を釣り上げる漁法である。この海ではアナゴ漁が盛んなのだそうだ。出漁は週に一度、潮の流れが速いときには魚がかからないので、それ以上頻繁に出ることはない。夕方の5時にはえ縄の仕掛けを設置して、午後10時頃から縄を引き始める。一晩の水揚げは100キロから150キロほど。アナゴはキロあたり1000円ほどで取引されるという。
「アナゴは親指ぐらいの太さのが一番うまいんじゃ。太すぎると味が落ちる。新鮮なんは刺身にもしよるよ」
 今日のように漁に出ない日は、はえ縄の手入れをする。岩などに引っかかって傷付いた縄を一本一本丁寧に直していく。ずいぶん根気と手間のいる仕事である。漁師というのは豪快な男の仕事というイメージもあるが、実際には準備にかかる時間の方が長かったりする。縄を直したり、網を繕ったり、船底を掃除したり。漁師には漁以外にやることがいろいろとあるようだ。


【はえ縄の修繕には足の裏を使う。手だけを使うよりもはるかに効率が良いのだそうだ】


 夕方の漁港には井戸端会議にいそしむおばさんや、民家の一角で将棋を指すおじさん、買い物カートを押して歩くおばあさんや、犬を連れて散歩するおじいさんなど、多くの人が集まっていた。天気が良くて穏やかな一日の終わりをこうしてみんなで分かち合っているのだ。
 僕が東京からリキシャを持ってきたと知ると、
「あんた江戸から来たんか?」と言うおじいさんもいた。
「そうです。江戸です」と僕は答えた。っていつの時代だよ。
「はぁ長生きはしてみるもんじゃなぁ。こんなもんが豊島にやってくるとは」
 ええ、もう二度とリキシャがこの島にやってくることはないと思います。たぶん。



 豊島からまたまた橋を渡り、大崎下島へ。大長の港まで行き、ここからフェリーで大崎上島に渡る。この二島のあいだにも橋を架ける計画はあるのだが、まだ着工の目処すら立っていないところを見ると、実現はずいぶん先のことになりそうだ。

 15分の船旅の後に明石港に到着。本日はこの大崎上島の民宿に泊まることにする。ファミリーペンション魚実。目の前に瀬戸内の海と島々が広がる眺めの良い宿だ。しかしオフシーズンの平日で誰も泊まり客がいないらしく、インターフォンを押しても何の反応もなかった。一応ガイドマップに載っていた携帯番号に電話してみると、宿のご主人が出て、「15分で戻りますけ、待っといてくれますか」と言った。
 玄関横のバーベキュースペースでもらった甘夏を食べながら待っていると、ご主人が車で到着。開口一番「何ですかこりゃ?」とリキシャを見て驚きの声を上げた。リキシャという乗り物なんですよ、これは。
 今日は誰も予約客がいないので食事の準備はできないが、素泊まりならいいよ、とご主人は言う。1泊4200円。もちろんそれで構わないのだが、食料の調達はどこですればいいのだろうか。
「買い出しに行くんやったら、この車を使うたらええよ」
 ご主人はそう言って運転してきたワンボックスカーの鍵を渡してくれた。おー、何とアバウトな。
「スーパーはここから山ひとつ越えたところまで行かんとないですから。私は今から部屋の準備や風呂の支度をせにゃいかんから。免許は持っとるんでしょう?」
「はぁ、一応は」
 と言ってみたものの、最近はまったく運転をしていない半ペーパードライバーの私なのであった。しかもワンボックスカーの運転は初めて。おいおい、そんなんで大丈夫なのか、と自問するも、とにかく腹が減っているので行かないわけにはいかない。
 結果的には何とかスーパーまで辿り着き、夕食と翌日の朝食を調達することはできた。でも、二台の車がすれ違えないような細い道や、くねくねと曲がった山道の連続におっかなびっくりのドライブだった。リキシャの運転とはまた違った部分の神経をすり減らしてしまった。こういう道では絶対に軽自動車の方がいいと思う。
 ぐったりと疲れて宿に戻ってくると、ご主人が「シカの肉食べる?」と言って木炭のように真っ黒な棒を持ってきた。山で捕れたシカ肉の燻製だという。見た目はあんまりだったが、包丁でスライスして食べてみると、意外にうまかった。燻製してあるので野獣の臭みが消え、ビーフジャーキーみたいな味になっていた。

 ご主人によれば、大崎上島の木江はその昔「潮待ち」の港として栄えていたという。「潮待ち」とは潮の流れを利用して航行する船が、潮流の向きが変わるタイミングを待つこと。船員たちはこの「潮待ち」の間に港町に繰り出して遊んだのだそうだ。木江港には船員のための売春宿が何軒も建ち並び、二階や三階の窓から女たちが顔を覗かせて客引きをしていたという。戦後の赤線廃止令によってこうした売春宿は消え、現代のディーゼル船には「潮待ち」の必要もなくなったので港町は急速に寂れていったが、今でも古い家屋には当時の面影を残すものがある。


【往事の面影を残す木江港の古い建物】


「この島には橋がないから不便でしょう。でも私はこのままでええと思ってるんです。旅行者は非日常を求めて島にやってくるんです。不便だけど、静かで、海がきれいな場所。橋がないからこそ、この島の魅力が消えずに残っているんですよ」
 本土と橋で繋がった島は、急速に「本土化」していくのだそうだ。大型スーパーや、24時間営業のコンビニや、けばけばしいパチンコ屋が出店してくるわけだ。確かに買い物にも遊びにも便利になるが、それは結局のところ「島にしかないもの」を失うことに繋がる。

 これからのツーリズムを考えるとき、「不便」というのが重要なキーワードになるだろう。これだけ便利さが蔓延した社会において、「あえて不便を体験する」というのが価値を持つのではないか。ファームステイや体験農業、エコツーリズムなどもその流れの中に位置づけられる。
 便利すぎる生活は快楽ではない。そのことに多くの人が気づき始めている。


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本日の走行距離:49.2km (総計:2224.1km)
本日の「5円タクシー」の収益:5円 (総計:34610円)

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by butterfly-life | 2010-05-15 22:39 | リキシャで日本一周
67日目:ぶっきらぼうな人(広島県呉市)
 本日は広島市から瀬戸内海沿いを南下して呉市に向かう。
 瀬戸内海沿いの道はどこもそうだけど、海の際まで山並みがせり出しているので、交通量のわりに道幅が狭くてリキシャで進むのは大変だ。特に広島から呉にかけてはマツダの工場や化学プラントや物流センターなどが立ち並んでいるために、大型トラックの往来も多かった。

 牡蠣のシーズンは冬に終わっているが、一部の水産加工場ではまだ機械が動いていた。人の手で殻を取り外して実を取り出し、殻だけがベルトコンベアーでごとごとと外へと運ばれていく。一定量の殻がたまるとトラックで運び出される仕組みだ。へぇ、牡蠣というのはこうやって加工されているのですね。


【牡蠣工場のベルトコンベアー】

 呉市の港で酔っぱらったおじさん二人組と話をした。若い方のおじさんは昼間からかなり飲んでいて、ときどき舌がうまく回らなくなるほど酔っていた。まだ日が高いというのにこの状態。おじさんはタクシー運転手をしているらしく、夜勤明けの日はこうして昼間から酒を飲んでパチンコ屋に行くのが日課だという。なかなかのやさぐれ具合だ。
「今日はな、パチンコ屋が閉まっとったけぇ、ここに来よったんじゃ。ほやけど、その『5円タクシー』なぁ、ちょっと安すぎやせんかの?」
 タクシー運転手のおじさんには、『5円』という激安プライスが気になって仕方がないようだ。これはただのネーミングであって、お金儲けをしているんじゃないんですよ、と説明してもなかなか納得してもらえない。
「やけどな、変な客に『これで岡山まで行ってくれよ』って言われたら、トラブルになるじゃろうが」
「そんな客はいませんって」
「ほんまか?」
「ほんまですって」
「わしはな、心配しとるだけなんじゃ。今の世の中ヘンじゃからのぉ。交差点で赤信号なのに渡ろうとするアホな自転車がおる。そういうのと接触しても、『ぶつかってきた車の方が悪い』っちゅうことを平気で言うのがおるんじゃ」
 はい、以後気をつけます。となぜか僕がその自転車になりかわって謝る羽目になってしまった。



 おじさんはどうやら心配性らしく、
「これ盗まれんのか?」(誰もリキシャなんて盗みませんよ。盗んでもすぐにばれるじゃないですか)とか、
「5円タクシーは許可を取っとるのか?」(軽車両は無許可で営業しても構わないんです)とか、
「食べ物はどうしよるん?」(その辺で適当に食堂を見つけていますよ)などと次々に質問してくるのだった。
「パンクせんのか?」
 というのは、実はこの二ヶ月間で最も多く受けた質問である。なぜみんなリキシャのタイヤのことを気にするのか不思議である。
 前にも書いたように、この2ヶ月あまりのあいだリキシャがパンクしたのは1度だけ。2000キロ以上の距離を走り続けてきたわりには少ない方だと思う。タイヤ自体がとても硬くできている(だから修理には苦労した)ということもあるけれど、普通の自転車に比べてもリキシャのタイヤがとりわけ過酷な条件で使われているかというと、実はそんなことはないのである。

 計算してみよう。普通のママチャリの重量は15キロ程度。これに70キロの人間が乗るとして、総重量が85キロ。この重量を二本のタイヤで支えるわけだから、一本のタイヤには42.5キロの荷重がかかることになる。
 続いてリキシャの場合。本体重量100キロに70キロの人間が乗って、総重量が170キロ。この重量を三本のタイヤで支えるから、一本のタイヤにかかる荷重は56.7キロ。
 ね? あんまり変わらないでしょう? もちろんリキシャは後ろに二、三人のお客を乗せることを想定して作られているから、これよりももっと厳しい条件でもパンクしないようにできている。だからまぁ皆さんの心配は杞憂なのですよ。ハッハッハ・・・なんて笑っていると、いきなりパンクしたりするんだよなぁ。くわばらくわばら。

 タクシー運転手のおじさんは別れ際に「これカンパじゃ。取っとけよ」と1000円札を渡してくれた。太っ腹である。口調はぶっきらぼうで、見た目もかなりパンチの効いたおじさんだったが、話してみると意外に親切な人なのである。
 根っから人の良さそうな九州人とは違って、山口県や広島県にはおじさんのような「ぶっきらぼうだけど実はいい人」が多いように思う。最初は取っつきにくいのだが、打ち解けると気さくなおじさんおばさんの素顔が出てくるのだ。

 呉市は造船の街だった。巨大なドックと建造中の貨物船、海上自衛隊の基地、戦艦大和記念館。なんだか勇ましい街である。
 商店街は昭和の香りが漂っていた。街並み自体は古いのだが、活気がないわけではなさそうだ。他の地方都市のように駅前商店街の空洞化はまだそれほど進んではいないようで、場末感の漂う飲み屋や食堂が数十年前と変わらぬ様子で営業を続けている。商店街の角に立つラーメン屋「来々軒」を見たときには、昭和30年代にタイムスリップしたような錯覚を覚えてしまった。


【見事な「来々軒」っぷりにいたく感動してしまった】


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本日の走行距離:37.3km (総計:2174.9km)
本日の「5円タクシー」の収益:1025円 (総計:34605円)

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by butterfly-life | 2010-05-13 22:08 | リキシャで日本一周
65日目:原爆ドームを前にして(広島県広島市)
 岩国市の海岸線は化学系のプラントで埋め尽くされていた。日本製紙、三井化学、三菱レーヨンなどなど。銀色のタンクと高い煙突が続く工業地帯だ。
 昔、三菱レーヨンで働いていたというおじさんが話しかけてきた。釣り人が着ていそうなジャケットに派手なキャップを被っている。しかし足取りは重たい。最近、脳梗塞で倒れたばかりで、後遺症が残っているのだという。
「もう3回目やからなぁ、脳梗塞やったのは。飲み屋を3軒はしごして、4軒目で倒れたらしい。気が付いたときにはもう病院のベッドの上やった。4日間意識が戻らんかったけど、まぁ何とか回復したけ、良かったけどな。もし健康じゃったら、わしもこなして旅がしたかったな・・・」

 リキシャを漕いでいると「若いときしかできないことだから頑張りなさい」と言われることがよくある。確かに旅は体が資本だと思う。40になっても50になってももちろん旅はできるが、こういうギリギリまで肉体を酷使する旅は難しくなってくる。自分が「まだ若い」と思っていられるうちでないとできない。

 大竹市から宮島までの海岸線は牡蠣の養殖が盛んだった。あちこちに牡蠣の加工工場があり、「生かき売ります」という看板を掲げた産直所があった。しかし残念なことに牡蠣のシーズンは冬なので、5月になると新鮮な牡蠣はほとんど出回っていないということだった。「焼きかき食べ放題」なんて魅力的だったんだけどなぁ。


【牡蠣漁の後片付けをする漁師たち】

 世界遺産・宮島の厳島神社をパスして、一路広島市を目指す。昨日の錦帯橋のようにふらっと寄れたら行ってみようかと思っていたのだが、宮島への連絡船乗り場周辺の「ザ・観光地」的な外観に圧倒されて、行く気を無くしてしまったのだ。地方の有名観光地はどこもそうだけど、センスの悪そうな土産物屋や、相場よりも相当高そうな郷土料理屋や、ソフトクリーム屋が軒の連ねる町並みが、僕はどうしても好きになれないのだ。

 からっと晴れ上がった広島の街は美しかった。平和大通りの街路樹は目に痛いぐらいまぶしく、橋の上から眺める天満川沿いの町並みも整然としてきれいだった。街の主要道路はどれも幅が広く、交通量もほどほどなので走りやすい。全体的にゆったりと作られた街だ。

 このような美しい街並みが徹底的な破壊と地獄絵図の上に築かれたという皮肉。それを感じさせるのが原爆ドームだ。テレビでは何十回、何百回と見ているが、実物を見るのは初めてだった。意外に小さいというのが第一印象。周囲を取り囲むビル群に見下ろされているような格好だ。それでも壁が崩れ鉄骨がむき出しになったドームには、過酷な歴史を感じさせる威厳と、周囲を圧倒する静謐さがあった。



 奇跡的に倒壊を免れたこの建物をそのまま保存するか否かで、当時議論があったらしい。悲惨な記憶を思い出させる建物を残すべきではないという意見もあったようだが、結果的に保存されることになって本当に良かったと思う。一瞬にして14万人の命を奪った悲惨な記憶、人類の犯した過ちを後世に伝えるために、原爆ドームという存在が果たす役割は大きい。

 原爆ドームの前で、修学旅行生たちから写真を撮ってくれと頼まれた。写ルンですを手渡され、ドームの前で整列して記念撮影。シャッターを切るぐらいおやすいご用なのだが、原爆ドームを背にした高校生たちが笑顔でピースサインを作るのには呆れてしまった。「ピース」とはもちろん平和の意味だから、「平和記念公園」にふさわしいポーズと言えなくはない。でも彼女たちがそういう意味で「ピース」しているとは到底思えない。ただなんとなく観光バスで連れて来られて、どうやら有名な観光地らしいからとりあえずピースをして写真に収まっておこう。そういう考えの浅さが透けて見えるのである。



 原爆関係の資料と写真が展示してある「平和記念資料館」でも、修学旅行生たちの騒ぎっぷりはひどかった。
「これ、ヤバくねぇ」「うわ、気持ちわりぃ」
 彼らの口から出てくるのは、そういう「借り物」の言葉ばかり。目の前の資料から65年前に現実に起こった悲劇を想像しようという姿勢はかけらも見られない。隣のドイツ人は明らかに迷惑そうな顔でキャーキャー騒ぎまくる高校生たちをぎっと睨みつけていた。同じ日本人として恥ずかしかった。

 修学旅行先に広島を選んだ先生たちは、「こういう猿みたいにわーわー騒ぐ高校生たちだって、原爆ドームに連れて行けば何かを感じとってくれるのではないか」というポジティブな展望を抱いておられるのかもしれないが、彼らの言動を見る限り、それは無理な望みだと思う。一人一人の高校生に被爆地の現実を受け止める感受性がないとは思わないが、ああいう風に団体行動している限り、彼らは「ヤバくねぇ」「すごくねぇ」という言葉しか口にできない。みんなの前では決して「マジ」にはならずに、「バカ」を演じるようにマインドセットされてしまっているのだ。
 だからもし資料館を見学させるのであれば、高校生たちをバラして、個人単位で資料に向かい合わせるしかない。そうすれば彼らだって自分の言葉で(あるいは言葉にならない言葉で)、目の前の現実に対峙しようとするだろう。



 パキスタンやバングラデシュなどで地元の人と話しているときに、
「ヒロシマ、ナガサキは今どうなっているんだ?」
 と聞かれることがよくある。イスラム圏でヒロシマ&ナガサキの知名度は極めて高いのは、原爆投下の事実が反米の旗印にもなっているからだ。「アメリカというのは一発の爆弾で10万人以上の市民を虐殺したひどい国なのだ」と教わってきたのだ。
 だから「広島も長崎も、今はとても美しい街ですよ」と答えると彼らは若干うろたえることになる。「放射能汚染で人も住めなくなっている街」というイメージを持っている人も少なくないのだ。チェルノブイリ事故とごっちゃになっている部分もあるのだと思う。

 広島の街は美しい。日本でももっとも美しい街のひとつだと思う。
 しかしその美しさが原爆の悲惨な記憶を打ち消すことにはならない。むしろ整然としすぎた新しい街並みを通して、1945年8月6日に一瞬にして過去と分断された広島の悲惨を垣間見るような気がするのである。

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本日の走行距離:47.2km (総計:2137.6km)
本日の「5円タクシー」の収益:1070円 (総計:33585円)

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by butterfly-life | 2010-05-12 20:43 | リキシャで日本一周
64日目:だから動く(山口県岩国市)
 旅の前半は雨がよく降ったので、リキシャ漕ぎをお休みする日が多かった。
 旅人にとって「動きたくても動けない」というのは一番辛い状態だ。ゴールに1ミリたりとも近づいていないうえに、宿代だってかさんでしまうのだから。
 そういうわけで「晴れていれば動く」というのが旅の基本方針になっているのだが、このところの晴天続きでオーバーワーク気味になっているようだ。朝目が覚めたときも頭が重く、体全体がだるい。前日の疲れが抜けていない。窓の外は快晴で、いかにもリキシャ日和なのだが、すぐにぱっと外に飛び出していけるような気分ではない。二度寝をして、10時のチェックアウト時間ぎりぎりになって、ようやく荷物をまとめるような有様だ。あれほど待望していた青空が、ちょっと恨めしく思えてしまう。あぁ、また晴れなのかよ・・・。

 長旅には必ず波がある。すべてがうまく行くようなノリノリの時期もあれば、どんよりと停滞が続く時期もある。今はそう、あまり良くない時期だと思う。
 それでもリキシャを漕ぐ。天気は快晴。つまりは天が「進め」と言っているのだ。
 停滞した旅を動かすのは、結局のところ移動しかない。それが長年の旅の経験から得た結論だ。だから動く。

 徳山を出発してすぐに、男の子たちに止められた。赤いトレーナーを着た男の子二人が歩道に立ち、揃って右手を挙げていたのである。そう、タクシーを止める要領で。
「乗せてもらえますか? タクシーって書いてあったものだから」
 二人の父親らしき人がニコニコと笑いながら言った。どうやら車で走っているときにリキシャを見かけて、子供たちを乗せようと先回りして待っていたらしい。もちろん構いませんよ。お子さんを乗せて1キロほどリキシャを走らせることになった。

 リキシャに「5円タクシー」と名付けたのはできるだけ多くの人にリキシャに乗ってもらうためだったが、この名前のインパクトに釣られて、観光用に営業している人力車だと勘違いする人もけっこう多い。まぁそれも無理はないのだけど。ネーミングというのは難しいものですね。

 本日は山を越えて岩国市へと向かう。山陽新幹線と平行に走る国道2号線を行く。
 玖珂という町から伸びる欽明路道路は、長い上り坂が続くハードな山道だった。坂を登りきったところに長いトンネルがあって、後ろから追い抜いてくるトラックに冷や汗をかきながら走った。
 気温は25度まで上がり、日差しは強い。よく「あんたタイ人か?」と真顔で尋ねられるようになったのは、リキシャの南国的デザインのせいばかりではない。

 ときどき「何でこんなに必死になってリキシャを漕がないといけないのか」と思うことがある。自分のやっていることが馬鹿馬鹿しく思えるときもある。でも「はたらきもの」を撮るためには、やっぱり自分が汗をかいて「はたらきもの」になんなきゃいけないんだな。そう思って漕いでいる。そう思い込まないとやってられないんだ。

 午後4時に岩国市に到着。
 有名な錦帯橋がそばにあるという看板を見かけたので立ち寄ってみる。5連のアーチからなる木造の橋である。調和の取れた曲線が周囲の景色に映えている。見事だ。





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本日の走行距離:49.6km (総計:2090.4km)
本日の「5円タクシー」の収益:200円 (総計:32515円)

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by butterfly-life | 2010-05-11 20:23 | リキシャで日本一周
63日目:回天の島(山口県大津島)
 防府市を出発して国道2号線を走り、徳山へ向かう。
 徳山の港から大津島に行くフェリーが出ている。この島に行ってみようと思い立ったのは、例によって今朝のことだった。
 鹿児島、沖縄では数多くの離島を訪れた。それぞれに個性があって「離島は面白い」という確信を得たのだけど、島巡りばかりやり過ぎて「離島疲れ」に陥っていたところもあった。だから九州を北上していたときは脇目もふらずひたすらリキシャを走らせてきたわけだが、そろそろまた島に行ってみたいなと思うようになったのである。そんなときにちょうど大津島があったわけだ。

 フェリーに乗っている時間は45分ほど。フェリーはまず刈尾という集落に寄り、そのあと馬島という集落に向かう。空は気持ちよく晴れ上がっていて、海も素晴らしく青い。
 船を下りてすぐに「回天記念館」に向かう。「回天」とは太平洋戦争末期に新兵器として開発された人間魚雷のこと。兵士一人が乗り込み、相手の軍艦に突撃する特攻兵器だ。大津島はこの「回天」の訓練基地があった島なのである。

 満開のツツジを眺めながら細い坂道を登っていくと、丘の上に建つ記念館が見えてくる。入り口の横には回天の実物大模型が置かれている。直径1メートル、全長15メートル。「魚雷」というからにはもっと小さなものを想像していたのだが、実物の印象はミニ潜水艦である。


【記念会の前に置かれた回天の実物大模型】

 回天記念館に展示されているのは、隊員の遺品や遺書や遺影など。休日を除けば訪れる人もまばらなようで、僕が入館したときは他に誰も見学者はいなかった。しんと静まりかえった館内で、65年前の遺品と向かい合う。
 回天特別攻撃隊に志願した兵士は1375人にも及んだ。大多数は20歳前後の予備学生、予科練習生だった。回天はその存在自体が軍事機密だったから、募集に応じた若者たちもどういう性質の兵器なのかはまったく知らなかったという。「敵軍から家族を守りたい」という純粋な気持ち、「自分が戦局を変えてやるのだ」というプライドが、彼らを正体のわからない軍事作戦に志願させる動機になった。

 集まった志願兵たちはこの島の基地で操縦訓練を受けた。しかし「魚雷を操縦する」というのは過去に誰もやったことがなかったので、もちろん操縦法は確立されておらず、自分たちで試行錯誤しながら技術を磨かなければいけなかった。
「出撃命令を受けた夜は食べ物が美味しく感じられました」と生き残った隊員は語っている。「これで自分も楽に死ねるのだと思うと、死の恐怖がなくなり、とても平穏な気持ちになったのです」
 1944年11月8日に初陣を飾った回天による特攻作戦は、開始当初は一定の戦果を上げることができたものの、次第に敵軍の警戒が厳しくなり、作戦の変更を余儀なくされた。終戦まで回天による戦没者は搭乗員と整備員などを合わせて145名にのぼった。


【大津島にある回天の訓練基地跡】

 展示品の中には、26歳で戦死した回天隊員が出撃直前に書いた妻宛ての手紙があった。
<昭和十九年十月、既ニ死ヲ決ス。思イノコスコトモナシ。遺品ヲ整理シ、最愛ノ妻ニ送ル。まりゑヨ、強ク生キヨ。今後ノ一生ハ、汝ノ意志ノママナリ。他ニトツグモヨシ、独身デクラスモヨシ。
 タダ汝ハ、私ノ永久ノ妻ナリ。二世ヲチギリシ妻ナリ。コノ世ニオイテタトエ他人ノ妻タルノ名ヲ仮セラレヨウトモ、余ノ妻タルニカワリハナイ。極楽ニテ待ッテイル。
 子ノナキハ、クレグレモ残念ナリ。楠氏ニ小楠公アリ。我ニ小佐藤ナキハ、クレグレモ残念ナリ。一子ヲモライ受ケ、余ノ遺志ヲツガシムルモヨシ。マタ他ニトツギ、一子ヲアゲテ余ノ志ヲツガシムルモ良シ。タダ他ノ男ノモテアソビトナル勿レ。
 モシ遺品ガジャマニナルコトアレバ、山形ニ送レ。ソレマデハ、遺品ヲマモリ生キラレヨ。>

 痛切な手紙だった。様々な感情がこみ上げてきて、しばらくその場を離れることができなかった。
 国家を前にした個人の無力さや、死を覚悟した者の痛々しくも澄み切った心持ちや、自分の命を捨てて自爆攻撃を試みる敵を前にした米兵の恐怖が、この手紙の行間からありありと立ち上がってきた。
 極楽ニテ待ッテイル。


【魚雷運搬用のトンネル】

 現在、市の教育委員会が管理している回天記念館は、展示をこのように結んでいる。
<太平洋戦争後、世界は平和への道を歩み始めた。しかし、世界には今もなお、たくさんの問題が残されている。祖国や愛する者たちを思い、懸命に生きた若者たち。その若者たちが自らの命をかけて私達に贈ろうとした「平和」。今を生きる私たちは、地球上に起きる様々な問題について一人ひとりが考えて行動するとともに、平和への努力を続けてゆかなければならない>
 パネルの前で首をひねってしまった。この文章を書いた人がいったい何を言いたいのかわからなかったのだ。ひとつひとつの文は至極まっとうなのだが、その繋がりが不自然なのだ。

 回天特攻隊員は命がけで家族や故郷や国を守ろうとした。その気持ちの純粋さには僕も強く心を揺さぶられた。遺書を読んだ後には、胸に熱いものがこみ上げてきた。しかし彼らの行動は、今の日本の平和の礎とはなっていない。隊員たちの強い志は、米軍の圧倒的な物量の前にくじかれ、日本は惨めな敗北を喫し、その後に米国主導の平和と復興が訪れた。僕らは歴史的事実としてそのことを知っている。
 兵士一人一人の生き様の潔さと切なさ、それがもたらした結果の惨めさ。そこには大きな断層が横たわっている。特攻隊員たちの死は、今の日本の平和と繁栄に結びついてはいない。そのことに僕はある種の違和感と居心地の悪さを感じる。けれどもその違和感は、違和感のままに受け止めていくほか無いものだ。安易な落としどころはない。僕にできることは、20歳そこそこで死んでいった若者たちの姿を違和感ごと記憶することだ。記憶し続けることだ。



 回天記念館を後にして、リキシャで大津島を回った。大津島は南北10キロ足らずの小さな島なので、リキシャで回るのにさほど時間はかからない。
 猫と老人の多い島。それが第一印象だった。堤防、船の上、庭先、屋根の上などなど、いたるところに猫が寝そべっていた。人をまったく怖がらないのは、島民が猫を邪険にしていないからなのだろう。見たところちゃんとした飼い猫ではなくて半野良化した猫のようだが、島民から残飯をもらえるのか、あるいは自分で餌を見つけてくるのか、ともかく猫たちは飢えることもなく、のんびりと猫ライフを満喫しているように見えた。



 島の高齢化はもう止めようがないレベルまで進んでいる。港で出会った市の職員によれば、この島では65歳以上の人口がなんと7割にも達しているという。老人の島と言ってもいい。これといった産業もなく、雇用もないから、若い人はみんな勤め口を求めて島の外に出て行ってしまう。馬島の港でランドセルを背負った小学生に出会ったのだが、島の小学校に一年生と二年生はおらず、三年生は彼女一人という状態だった。子育てをする世代がごっそり島から抜けてしまっているのだ。
「この集落も次々と人がおらんようになってしまったなぁ」
 竹ぼうきを持って道の掃除をしていたおじいさんが言う。彼自身も81歳と高齢だが、まだ元気な方だという。
「この島はばあさんばっかりなってしもうた。夫婦はだいたいが男の方が先に死ぬじゃろう。残されたばあさんたちも次々に死んでいく。うちの隣も誰も住んでないし、その隣も同じじゃ」
 大津島では雨戸を下ろしたままの無人の家をよく見かける。屋根瓦が抜け落ち、壁がはがれ、廃墟と化している家屋もあった。最後の家人が亡くなった後、そのまま放置されているのだろう。
「年寄りの歯が抜けるみたいにな、次から次に人がおらんようになっていく」



 その昔、島の人口が1000人を超えていた時代もあったというが、今では400人ほどに減っている。主な産業は漁業と石材の切り出しだったが、どちらも今ではすっかり衰退している。現役の漁師はもう数えるほどしかいないし、石材会社も廃業して15年になる。島で採れる御影石はかつて大阪城の石垣にも使われていたほど有名だったようだが、採算が合わなくなってしまったのだ。道ばたには、切り出したものの出荷されることなく置き去りにされた巨大な白い石の柱が、まるでストーンヘンジのようにそのまま残されていた。


【島で唯一の小学三年生。下級生はいない】

 島のおばあさんは気さくで親切だった。
「自転車を漕ぐんは体力がいるじゃろうから、菓子でも分けてやろうかね」
 そう言って、まんじゅう、どら焼き、カステラ、オロナミンCなどをビニール袋に入れて渡してくれた。なかなか渋いチョイスだ。どうもありがとうございます。
「住むにはええところよ」とおばあさんは言った。「島には犯罪もないし、交通事故もない。『住めば都』って言葉があるじゃろう。まぁあれじゃのぉ、ここは都みたいなもんじゃないけどな」

 午後6時5分発の最終フェリーに乗って、大津島を後にした。
 青い海に浮かぶ緑の島。美しいが哀しい気持ちにもさせられる島だった。


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本日の走行距離:43.4km (総計:2040.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:32315円)

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by butterfly-life | 2010-05-10 21:59 | リキシャで日本一周
62日目:潮騒が聞こえるパン屋(山口県防府市)
 宇部市から瀬戸内海沿いを通って防府市まで行くのが今日の予定。40キロほどの道だし、山越えでもないから楽ちんだ。そう思っていたのだが、その期待は見事に裏切られてしまった。
 天気予報は夜から雨になると言っていたのだが、朝からぱらぱらと雨が落ちてきたのだ。さらに予想外の強い向かい風に行く手を阻まれる。
 雨と風には弱いんですよぉ、勘弁してくださいよぉ、とぶちぶち文句を言いながらペダルを漕ぐが、もちろんそのような愚痴が聞き届けられるはずもなく、午後からさらに風と雨が強まっていった。
 特に大変だったのが周防大橋。全長1080mの海上に架かる橋の上では、突風と言ってもいいほどの強風が吹き荒れ、その風圧をまともに受けたリキシャを前に進めるのに全身ありったけの力を総動員しなければいけなかった。隔てるもののない場所では、風は何倍にも強くなるのですね。ひとつ勉強になりました。

 白土海水浴場から細い道を東に進んだところに、ひょっこりとパン屋さんが現れた。天然酵母パン「みなみ風」という看板が見える。へぇ、こんな不便な場所にパン屋があるんだなぁと思いながら通り過ぎようとすると、ちょうど店から出てきたおばさま三人組に捕まった。
「あなた昨日、下関の辺を走っていたでしょう?」
 ひとりのおばさまがリキシャを車で追い抜いたらしい。
「これで日本縦断? それは大変ねぇ。じゃ、今買ったばかりのパンをあげるわね。お昼に食べてちょうだい」
「それじゃ私も」
「私もひとつ」
 たちまちベーグル2つとよもぎあんパン1つが集まってしまった。なんだか托鉢をしている僧侶みたいだった。
 それからおばさんたちに連れられて、パン工房「みなみ風」にお邪魔することになった。「みなみ風」はこじんまりとした店舗の隣に美しい庭が広がる、雰囲気の良いパン屋だ。美しい藤棚の下で買ったばかりのパンを食べながらティータイムを楽しめるという趣向だ。



 ご主人と奥さんがこのお店を始めたのは1年前のこと。もともとご主人は東京でサラリーマンをしていたのだが、都会でのストレスフルな生活に別れを告げるべく早期退職を決意。奥さんの実家でもあるこの地にパン屋を開くことにしたという。
「店がやっと軌道に乗ったのは今年の春ぐらいからですよ。何しろこのロケーションでしょう。場所を知っている人でも道に迷うぐらいで、通りかかった人が立ち寄ることはまずないんです。口コミの広がりを待つしかなかったんです」
 ちょうどお昼時ということもあって、店にはお客さんが次々にやってきた。三人の子供を連れたお母さん、マイバッグを腕に下げた女性、知り合いらしい近所のおじさん。雨の日なのにとても繁盛している様子だ。さっそく僕もベーグルを食べてみたが、膨張剤を使っていないので小麦の味がとても濃くて、食べ応えがあった。
「天然酵母のパン作りはとにかく手間暇がかかるんです」とご主人が言う。「毎日4時半に起きて仕込みを始めないと間に合いません。そうですね、サラリーマン時代も忙しかったけど、今も決してのんびりとはできません。でも体を動かしているから、夜はぐっすり眠れるんです。昔は夜中に目が覚めて、明日やらなくちゃいけないことを思い出してしまって、そのまま寝付けないこともあったんだけど、今はそういうことはありません」

 この店では小麦粉をはじめとする素材も質の良いものを使っているから、利幅は少ないという。サラリーマン時代と比べると時給は何分の一でしょうねと、ご主人は笑う。それでも誰かに喜んでもらえるものを作るのは楽しい。夫婦二人が食べていけるだけの売り上げさえあれば、これ以上規模を大きくする必要もない。
「学校帰りの子供たちがパンを買っていくこともあるんです」と奥さんが言う。「どこで食べるのって聞くと、海岸で食べるんだよって言うんです。いいですよね、海でパンを食べるなんて。ここは生活するのにはいいところですよ。野菜なんて旬のものしか食べないし、魚市場に行けば新鮮な魚が手に入るし」

 海の音を聞きながら、庭でお茶をいただいた。潮の香りが風に運ばれてくる。カランカランという外国製の風鈴の音がする。穏やかな海辺の午後が楽しめるパン屋。
 都会では味わえないものに囲まれて、二人の「第二の人生」は幸先の良いスタートを切ったようだ。


【お庭で楽しむティータイム。奥さんから庭先で摘んだばかりのサクランボをいただいた。小粒だが美味!】

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本日の走行距離:48.8km (総計:1997.4km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:32315円)

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by butterfly-life | 2010-05-09 21:29 | リキシャで日本一周
61日目:リキシャ海底を走る(山口県宇部市)
 八幡の町から門司港を目指す。
 スペースシャトルの実物大模型が目を引くスペースワールドの横を走る。今日はGW最終日のこどもの日とあって、大変な人出だった。もちろん同時期の東京ディズニーランドとは比べるまでもないが、それでもたいしたものである。
 スペースワールドは新日鉄が八幡製鉄所の遊休地利用のために作った遊園地だ。絶叫系マシンの種類が豊富で、開園当時は盛況だったが、テーマパークブームが過ぎると入場者数が減り、2005年には新日鉄が経営権をリゾート運営会社に譲渡したそうだ。長崎のハウステンボスも経営難が続いているし、宮崎シーガイアも中核施設が閉鎖に追い込まれた。九州のテーマパークはどこも苦しそうだ。

 小倉に向かう国道を走っているときに、バングラデシュ人の夫婦と出会った。九州工業大学で研究員をしているアティクルさんと、同じく九工大の修士課程で学ぶ奥さん。二人はたまたま車で国道を走っているときにリキシャを見かけて慌てて引き返してきたという。
「もう、びっくりしましたよ」
 と興奮気味に言う。そりゃそうだろう。まさかこんなところでリキシャに会えるなんてね。
 アティクルさんはダッカ大学でコンピューターサイエンスを教える先生で、今は画像処理を学ぶために九工大に籍を置いている。育ちの良いインテリなのだ。この日も白い麻のジャケットに白い帽子という夏のリゾートホテルが似合うようないでたち。バングラではなかなかお目にかかれないスタイルだ。
「モダンなリキシャですねぇ」
 僕のリキシャをあちこち(それこそ舐めるように)点検していた奥さんが言う。リキシャに取り付けられたメーターとナビ代わりのiPhoneに対する感想だ。もちろん本場バングラデシュにこのようなハイテク装置は取り付けられていない。
 でも「モダンなリキシャ」って形容矛盾ですね。なにしろリキシャってのは前近代の象徴みたいな乗り物なんだから。



 門司港を抜けて関門トンネルの入り口まで行く。
 ここでリキシャを待っていたのは、写真家の井生さんとインテリアデザイナーのカドヤさん。門司に住んでいるお二人がお昼ご飯に誘ってくれたのだ。三人で近くの魚市場の跡地みたいなところに行って、「海の幸バイキング」を食べる。ここは刺身や焼き魚や天ぷらなどが食べ放題というお店で、休日の昼時ということもあって家族連れで大盛況だった。
 カドヤさんは自称「日本一周キャッチ人」で、これまでにも日本縦断や日本一周をしている旅人に何度か会ったことがあるという。日本を縦断するにあたって誰もがまず確実に通るのが門司なので、出会う確率が高いのだそうだ。ゆくゆくはそういう旅人に安い寝床を提供するゲストハウスを開きたいという。
 井生さんはロシア語通訳者であり、南インドの伝統音楽を専門に撮っている写真家でもある。ロシアと南インド。ずいぶん変わった取り合わせだと思う。ツンドラとカレー。永久凍土とココナッツ。今は一年の大半をインドで過ごしているのだが、ビザが切れたので一時的に日本に帰国しているのだそうだ。世の中にはいろんなことを生業にしている人がいるものだ(って僕が言うのも何だけど)。

 海の幸でお腹を満たした後、いよいよ関門トンネルをくぐる。
 関門海峡を通って九州から本州に渡るルートは三つある。「関門橋」を通る方法と、「関門海峡フェリー」に乗る方法と、「関門トンネル」を通る方法である。このうち関門橋は高速道路なのでリキシャは走れないし、フェリーは今までにも何度も乗ったから今回はパス。で、関門トンネルを選んだわけだ。

 関門トンネルは「車道」と「人道」に分かれている。「車道」は自動車やバイクが、「人道」は歩行者と自転車と50cc以下の原付が通ることになっているので、リキシャはこの「人道」を行くことになる。まず地上からエレベーターに乗って地下50mまで潜ってから、全長は780mのトンネルを行く。ちなみにトンネル内で自転車を漕ぐことは禁止されているので、押し歩きで通行することになる。



 半分ほど進んだところに、福岡県と山口県の県境がある。白線をまたいでこちらが九州、向こうが本州。リキシャに白線をまたがせて、写真をパチリ。世界には数百万台のリキシャがあるが、海の底を走ったのはこのリキシャだけだろう。
 トンネルから出るときも同じ要領でエレベーターで地上に登る。外に出たところに自転車用の料金箱が設置されている。20円(歩行者は無料)。ひどく安いし、うっかり見落としてそのまま通過しても誰も文句を言いそうにない。でも正直者(?)のリキシャ引きは財布から20円を取り出して箱に入れる。チャリン。
 するとどこからともなくおじいさんが現れて言った。
「あんたが入れたのは金の小銭か? それとも銀の小銭か?」
「いいえ、私が入れたのは銅貨です」
 はい、冗談です。
 実際に現れたのは、関門トンネルの守衛のおじさんだった。エレベーターから出てきたリキシャを見て、なんだこれはと守衛室を飛び出てきたのである。
「こんなものは見たことがありません。きれいなもんですなぁ」とおじさんは言う。「そうですか。これで日本縦断を。いよいよ本州に上陸というわけですな。そうですか、そうですか」
 おじさんはこのトンネルができて51年目だということや、老朽化が進んでいるので去年改修工事を行った(そのときは歩行者は代行バスを利用した)こと。改修工事はまだ半分しか終わっていないので、今年もまた工事をすることなどを教えてくれた。そうですか、そうですか。

 というわけで、旅に出てちょうど二ヶ月。
 ついにリキシャは本州上陸を果たした。


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本日の走行距離:70.7km (総計:1948.6km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:32315円)

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by butterfly-life | 2010-05-08 23:37 | リキシャで日本一周
60日目:旅の無事をお祈りしています(福岡県北九州市)
 3泊もお世話になった山口さんのお宅を後にして、北九州市を目指す。
 本日も晴天なり。ニュースではゴールデンウィーク期間中すべての日で晴れたら史上初の快挙だと言っていたが、確かにここ数日の晴れっぷりは見事だ。3月、4月は曇天続きだったから、お天道様がその借りを返してくれているのだろう。

 晴れてくれるのは嬉しいが、暑さも相当なもの。昨日も28度まで気温が上がったが、今日もそれに匹敵する暑さになった。リキシャを漕いでいると止めどなく汗が流れてくるので、肘のところに汗が蒸発してできた塩の結晶が浮いてくるほどだ。もちろん水分補給は欠かせない。僕のお気に入りはコンビニで買える500mlパック入りのオレンジジュースだ。105円と安いうえにクエン酸とビタミンCで筋肉の疲労回復にもなる。

 福岡県内の国道はどこも交通量が多くて、リキシャが交通の流れを妨げないように路肩ギリギリを走るのに苦労した。路肩には砂利や脱落したボルトやガラスの破片などが散乱していることがあって、うっかり踏んづけてしまうとパンクにも繋がりかねない。
 国道ではすれ違いざまに「がんばってぇー」と手を振ってくれる人もいた。はーいがんばりまーす、と手を振り返す。なんだか選挙運動中の候補者みたいだ。
 実際に「選挙に出たらいいのに。当選すると思いますよ」と言われたこともある。はぁ選挙ですか。僕は政治の世界に興味がないので出馬するつもりはございませんが、リキシャで選挙区を回るというのは悪くないアイデアだと思う。選挙カーやのぼりを立てた自転車よりもはるかに人目を引くし、何より候補者自ら「汗をかいている」というビジュアルが選挙民に与えるインパクトは大きい。ただ、足を鍛えなきゃならないけどね。
 この日もちょうど「幸福実現党」の宣伝カーが反対車線を通りかかって、車に乗っていた3人の白手袋のおばさんが笑顔で僕に手を振ってくれた。政策はともかく、幸福実現党の資金力には本当に驚かされる。日本全国津々浦々、あのポスターを見ないところはないものね。

 八幡ではウズベキスタン人のサイフィさんに出会った。北九州市立大学で環境マネージメントを学んでいる留学生だ。来日してまだ1年だが、彼の日本語は上手だった。発音がとてもきれいですねと褒めると、「とんでもございません」と謙遜する。その丁寧さも日本人以上に日本的だ。
 サイフィさんはウズベキスタンの首都タシケントの大学ですでに日本語を学んでいたそうだ。シルクロードの要衝都市サマルカンドは日本人旅行者にも人気が高い観光地なので、日本語ガイドの養成には力を入れているそうだ。彼も観光ガイドの仕事をしていたことがある。なるほど、だから言葉が丁寧なのか。


【サイフィさんとは橋の上で出会った。背後の結婚式場(教会?)のせいでここが日本だとは思えない】

「日本の環境技術はとても進んでいます。ゴミの分別も細かいですし、リサイクル技術もすばらしい。その中でも北九州市は環境モデル都市に選ばれているんです。だからここに留学しました」
 工業都市である北九州市はその発展と共に公害問題も深刻化し、高度成長期には空は煤煙で汚され、海は排水で「死の海」と化してしまった。しかしそこから住民と行政と企業の努力の結果、急速に環境浄化が進んだという経緯がある。北九州市の成功例をウズベキスタンにも役立てたいというのがサイフィさんの目標だ。立派だと思う。
 サイフィさんは別れ際に僕の手を握って言った。
「あなたの旅の無事をお祈りしています」
 あくまでも丁寧な人なのであった。

 本日は八幡の街に泊まる。鉄パイプと煙突でできた重化学工業地帯。勇ましい都市である。
 夕食はバイク旅行者の雪本さんと一緒にファミレスで食べた。雪本さんはゴールデンウィークの休みを利用して、大阪から四国、九州を回る旅をしてきた人である。
「三井さんに会うのが、この旅の目的だったんです」
 とまっすぐな目で言うので、なんだか照れてしまった。数日前、彼から「大阪からバイクに乗って会いに行きます」というメールを受け取ったときは、どこまで本気なのかしらと思っていたのだが、どうやら本当にリキシャに会うために数百キロを走ってきたらしい。僕が女の子だったら、ちょっとぐらっときちゃうね。
 バイク旅行の初日は淡路島から徳島、愛媛を通って八幡浜からフェリーで臼杵に渡った。二日目は九州最南端の佐多岬まで行き、三日目に桜島から高千穂に、そして本日四日目には熊本を通って北九州にやってきた。リキシャがほぼ2ヶ月かけて旅したルートを、バイクだとわずか四日で回れてしまうのである。文明の利器はすごい。それにしても1日300キロから500キロ走るというのは、相当大変なことではないかと思う。僕がアジアをバイクで旅しているときは、100キロから150キロぐらいしか移動していなかった。



 雪本さんは10代の頃から日本中をバイクで旅している。基本、野宿。道の駅やキャンプ場などでテントを張って寝袋で眠る。
「九州は暖かいだろうと軽装備で来たのが失敗でした。朝晩は相当に冷え込むんで、夜中の3時ぐらいに寒くて目が覚めてしまうんです。昨日は古新聞もらって寝袋に詰めて眠りました。それで少しはマシになったけど、疲れなんて全然取れませんよ」
 サラリーマンをしている雪本さんにホテル代が出せないわけではない。それでも野宿を続けるのは、ライダー独特の仲間意識があるからだという。
「野宿しているライダー同士ってすぐに仲良くなれるんです。バイクって雨に降られたら悲惨だし、こけたら死んじゃうような危ない乗り物でしょう。そういうバイクに乗っている者同士、どこか共感するところがあるんです」
 ゴールデンウィーク中は道の駅も大混雑で、駐車場すべてが「車中泊」の車で埋まっていたところもあったという。ホテル代を浮かすために家族で車中泊をしている人も多いようだ。
「やっぱり思いは叶うんですね」と雪本さんはまっすぐな目で言う。「どうしても三井さんと話がしたかったんです。何を話すってこともないんですけど、ああいう写真を撮れる人って実際にどんな人物なのか知りたかったんです」
 で、実際にどんな人物でしたか、とは怖くて聞けなかった。幻滅しましたよー、なんて言われたら嫌じゃないですか。
 意外に小心者なのですよ、私は。


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本日の走行距離:66.2km (総計:1877.9km)
本日の「5円タクシー」の収益:5020円 (総計:32315円)

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by butterfly-life | 2010-05-07 22:50 | リキシャで日本一周
59日目:博多どんたく(福岡県福岡市)
 ひょんなことから「博多どんたく」に参加することになった。
 福岡市で泊めていただくことになった山口さんから、「リキシャを『国際どんたく隊』の一員としてパレードに参加させましょう」という提案があったのだ。「国際どんたく隊」とは福岡市内に住む世界各地からの留学生で構成されていて、インドなどからも参加者が来るので、リキシャが走れば良いアピールになるのではないかという。

 暑い盛りの午後1時に冷泉公園に集合。どんたくパレードには全部で440の団体が参加するそうで、揃いのユニフォームやハッピ姿のグループが続々と集まってくる。
 どんたくは元々「博多松囃子」という地元の祭りに端を発しているが、市民参加型の自由な祭りとして年々規模が拡大し、今では2日間で200万人もの人が集まるほどの超巨大イベントに成長している。当然のことながら、期間中には福岡市内のホテルはすべて埋まり、交通機関は大混雑になる。


【タイのパレードは美人揃いで気合いが入っていた】

 どんたくパレードは基本的に「なんでもあり」な感じだ。松囃子の伝統を受け継ぐ演舞もあれば、警察のマーチングバンドや高校のバトン部、子供ダンス教室の踊り、企業の広告を兼ねたキャラクターの行進、「花自動車」と呼ばれる派手な装飾を施した車などなど。はっきりした方向性、統一感がないのがパレードの特徴である。はっきり言ってゆるい。だからまぁリキシャが突然参加したって違和感なく受け入れてもらえそうではある。



 僕が参加した「国際どんたく隊」は200人からなるグループで、主に中国、台湾、韓国からの留学生を中心に組織されている。各国の民族衣装を着た留学生たちがお互いに写真を撮り合っていた。中でも台湾のグループはやたらノリが良くて元気だった。ルルさんという女の子が「リキシャに乗せてほしい」と言うので、どうぞどうぞと乗せてあげると、彼女はモーターショーのコンパニオンよろしくポーズを取るのだった。すかさずデジカメを取り出してパシャパシャと撮り始める留学生たち。全方位に笑顔を向けるルルさん。なかなか面白い光景だった。


【コンパニオンばりの笑顔のルルさん】

 午後2時から博多のメインストリートを行進した。リキシャの後ろにインドネシアやマレーシアの子供たちを乗せてゆっくりと走った。人で埋め尽くされた沿道の中を手を振りながら進むのはなかなかの気分だ。優勝したわけでもないのに優勝パレードをしているようで、テンションが上がった。
「どんたくって参加してみてはじめて面白いって感じる祭りなんですよ」と山口さん。「僕も最初は何が面白いのかよくわからなかったんですけど、一度パレードをやったらもう病みつきになってね」
 山口さんはインド哲学の専門家なので、インドであつらえた民族服を着ての参加。奥さんも派手なサリーを着て歩く。完全な日本人の山口さんが「インド」と書かれたプラカードを持って歩くのはちょっとした詐欺ではないかと思うのだが、インド服を着たひげ面の山口さんは遠目にはインド人にしか見えないので、これはこれでいいのだろう。


【インド人と並んでもあまり違和感のない山口さん】


【唐津市をアピールするゆるキャラの「唐ワンくん」と記念撮影。着ぐるみは暑いのか、あまり元気がなかった】


【パレード以外にも町中に小さな演舞台がいくつもある。これは建設会社・松本組の会場で踊りを披露するおばさん。「のら猫三度笠」だそうだ。にゃん】


 そんな風にしてどんたくパレードは慌ただしく終わり、山口さんの家に戻って祝杯(?)を挙げた。
 山口さんは大学でインド哲学を教えていた研究者で、サンスクリット語でインドの古典文献を読むのが専門だ。この道に入ったのは成り行きだったという。人があまりやっていない分野の研究をしたいと、受験のときになんとなくインド哲学を選んだのが今に繋がっている。
「僕の人生は基本的に決めうちなんですよ。イン哲もそうだし、23歳で結婚を決めたときもそうだった。『これだ』と思ったら、後のことは考えずにやることにしているんです」
 お父さんが長崎で被爆し、病弱だったので家はいつも貧しかったことや、高校の図書館で司書をしていた奥さんとのロマンチックな(?)出会いなど、お酒を飲みながらいろいろな話を聞かせてもらった。
 こうして、お祭りの夜は楽しく更けていった。


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本日の走行距離:19.4km (総計:1811.7km)
本日の「5円タクシー」の収益:115円 (総計:27295円)

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by butterfly-life | 2010-05-07 00:10 | リキシャで日本一周