<   2010年 08月 ( 19 )   > この月の画像一覧
写真展三日目
 写真展三日目は土曜日だったのでとても盛況だった。
 今日はさまざまな年齢層の女性が足を運んでくださった。下は0歳から上は80代まで。実に幅広い。



 午前中には個性的な格好の女の子が来てくれた。白いレース付きワンピースにピンクの傘を持ち、金色の髪の毛にバラをあしらった髪飾りを付けていた。「ネオロマンティック」というスタイルなのだそうだ。ほー。初めて知りましたよ。
「町を歩いていたらよく写真を撮られるんです」
 と彼女は言う。それはそうだろう。僕だって思わず写真に撮りたくなった。
 彼女はネパールやインドによく旅行するそうだが、まさかこの格好でインドには行っていないよね?




 小学6年生のはるなちゃんは、10日ほど前にこんなメールをくれた。

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学校の夏休みの宿題で「リキシャガール」という本を読みました。
読んだ後、バングラデシュはどんな国だろうと興味をもって、インターネットで調べてみました。
検索してみたら「リキシャで日本一周」というのを見つけて、三井さんの文章や写真を見ました。
リキシャで走るなんて体力が必要だと思うので、大変だと思いますが、頑張って下さい。

私は本ではバングラデシュのことを読みましたが、どんなところなのかよく分かりませんでした。
ホームページの写真を見ると、思っていたより過酷な状況があって、大変なんだなということが分かり、
助けてあげたくなりました。それと同時に、写真のバングラデシュの人たちは笑顔がいっぱいで、
心が優しいんだなとも思いました。

お願いがあります。
これから夏休みの自由研究としてバングラデシュのことについて学校の先生に出すレポートを
書こうと思っていますが、そのレポートの中で、国の様子や服装についての資料として、
ホームページにある写真を使いたいと思っています。使っても良いですか?
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 もちろんOKですよ、と返事を送った。このブログがバングラデシュという国を知るきっかけになったのは嬉しい。
 そして今日、はるなちゃんはお母さんと一緒に写真展に来てくれた。レポートはもう書き上げたそうだ。素晴らしい。
 小学生がインターネットを使って夏休みの自由研究を書くなんて、僕らの子供の頃には考えられないことだった。
 今や情報は誰に対しても開かれている。小学生に対しても、お年寄りに対しても。クリックひとつで世界中のあらゆる情報にアクセスすることができる。しかも無料で。
 その中の何を信じ、何を取り、何を捨てるのか。これからの時代はそれが問われるのだと思う。

 午後には雪本さんのお母さんがやってきた。雪本さんはこのブログでも二度にわたって紹介している若いライダーである。リキシャに会うという目的のために、わざわざ大阪から福岡に、そして北海道までバイクを飛ばしてやってきたというつわものだ。
 雪本さんのお母さんも、京都から車で6時間かけて新宿にやってきたという。パワフルですね。この母にしてこの子あり、である。
「軟弱だった子が、あんな無茶な旅をするなんて」とお母さんは言う。「あの子がそこまでして会いたかったっていう三井さんに、私も会いに来たんですよ」
 お母さん、軟弱だって思っていた子供も、いつの間にか成長するものなんです。たぶん彼にとって「旅」が自分の殻を破るきっかけになったのでしょう。旅は人を鍛えるから。

 水泳雑誌の編集をしているという女性は、目に涙を浮かべながら感想を話してくれた。写真を見て涙が出てきたのは初めてだという。
 こういう反応に直接触れたとき、写真展を開いてよかったなぁと心から思える。
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by butterfly-life | 2010-08-29 21:15 | リキシャで日本一周
写真展二日目
 写真展二日目の朝に現れた男性は、いきなり「足を触ってもいいですか?」と言って、僕のふくらはぎをもみもみしてきた。もちろん痴漢ではない。女性だったら大問題だが、幸いにして僕は男である。
「これがリキシャを4ヶ月漕いできた足ですか」
 その方は感心したように言うのだった。確かにこの4ヶ月で、僕のふくらはぎは太くなった。筋繊維が発達し、子持ちシシャモのようにふくれている。触りたくなるのもわからなくもないけど・・・ちょっとびっくりしますよね。

 「見世物学会評議委員」という奇妙な肩書きを持つ栗原さんが現れたのは夕方。
 見世物学会とは衰退の危機にある見世物小屋やオートバイサーカスなどを研究し、保護していきましょうという団体らしい。
 栗原さんが僕の写真に興味持ったきっかけは、インドの移動式遊園地の動画を見たからだった。そこに写っているオートバイサーカス(円筒状の壁をバイクがぐるぐると回るという見世物)に感激したのだという。実はこの円筒型オートバイサーカスは日本では絶滅の危機に瀕しており、唯一青森に残っているだけだという。
 インドの移動式遊園地を見たとき、「なんてアジア的な空間なのだろう」と思った記憶がある。チープで、支離滅裂で、懐かしい。耳をつんざく大音量の中、エンドレスにだらだらと続く祝祭。回り続けるバイクと、踊り続けるヘビ女。
 栗原さんはインド未体験だが、ぜひ自分の目で移動遊園地を見てみたいという。

 写真展終了後は千駄ヶ谷で行われていたU-streamの放送に参加。ネットを使ったリアルタイムのテレビ放送だ。メディアクリエーターの佐々木博さんに誘われて、まったく事情がわからないままのこのこ出かけていって、そのまま30分ぐらい生放送でお話しした。(生放送は28日午後も12時間ぶっ続けで続くそうです)

 佐々木さんは常にネットメディアの先端にいる人で、張り巡らせたアンテナの感度は高く、そのアイデアはいつも刺激的で面白い。電子出版の先にあるもの、未来のカメラについて、ソーシャルメディアとクリエーターとの幸せな共存について。そんな興味深い話を聞かせていただいた。




【放送はこんな感じで行われていました。マイクを持つのが佐々木さん】
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by butterfly-life | 2010-08-28 08:44 | リキシャで日本一周
写真展初日の様子
 なにしろ直前までリキシャを引いて旅をしていたので、写真展の準備は大慌てだった。でも何とか前日の搬入までには間に合ってほっと胸をなで下ろす。夏休みの宿題の山に追われる8月末の小学生の心境でしたよ。

 写真展初日は平日の昼間にもかかわらず、多くの方に来ていただいた。。
 ルーマニアでマッサージ師をやっている男性(首都ブカレストの治安もずいぶん良くなったのだとか)、バングラデシュを自転車で旅してきたという大学生の男の子、大阪から汗をかきながらやってきた方などなど。

 今回の展示では、アジアで撮った「はたらきもの」と、今年リキシャの旅で出会った日本の「はたらきもの」とを並べて展示しているのだが、日本の写真に対する皆さんの反応がとても良かった。
「写真のお年寄りたち、みんないい表情していますねぇ。この人たちの遺影になるんじゃないかしら」
 とおっしゃるのは若い娘さんを連れて来てくださった女性。
「遺影ですか?」
「ええ。変な話だけど、この年になると、自分の遺影をどうしようかって考えることがあるんです。やっぱり輝いているときの顔でお葬式を迎えたいじゃないですか。結婚式の写真を遺影に使おうかって言ったら、娘に『お願いママ、それだけはやめて』って言われちゃったんですけど」
 あまりに若い遺影は変だけど、人生の最期を最高の笑顔で締めくくりたいと願う人は多いのかもしれない。




【展示の様子。シックなギャラリーです】

 平日の昼間は、ギャラリーを「回遊」して回っているらしいおじさんの姿が目立った。首にカメラを提げ、リュックを背負い、カメラマンベストを着ている。特徴は急ぎ足。足早に入ってきて、2,3分で出ていく。まるで宅配便業者のように忙しそうだ。
 きっと彼らにとって僕の写真はあまり興味を引かれる種類のものではなかったのだろう。しかし、それならなぜわざわざギャラリーにまで足を運ぶのだろうという疑問が残る。おそらく彼らはフォトギャラリー周りを日課としていて、それを散歩ルートに組み込んでいるのだと思う。だからどんな展示であっても、まったく興味がなくても、とにかく会場まで足を運んで一通り見る。作品を見るのが目的ではなく、ギャラリーに通い続けるのが目的なのである。回れば回るほど功徳を積めると信じている仏教徒の巡礼のように。

 6時になってギャラリーを閉めてから、六本木の東京ミッドタウンで開かれている「PACIFIC PEDAL LIFE DESIGN」という展覧会に向かった(8月27日まで)。ここに僕の写真とリキシャの旅の様子が展示されているからだ。
 会場には世界中から様々な自転車が集められていた。フランス軍の落下傘部隊が使ったという自転車、給料の三倍もしたという戦前の高級婦人自転車、今でも高松の行商人「いただきさん」が乗っているというサイドカー付きの自転車、中野浩一が世界大会で優勝したときに乗っていた自転車の実物、そして我らがバングラデシュ製リキシャ。どれも個性的で味のある自転車ばかりだ。

 自転車には可能性がある。それはおそらくスピードと効率化をひたすら求め続けて来た20世紀の価値観とは違った、人と社会に対して「開かれた」乗り物としての可能性が。
 5ヶ月間リキシャというヘンテコな自転車に乗って旅を続けながら、僕はそう感じている。


【新旧様々な自転車が展示されたスペース】


【高松の行商人「いただきさん」が乗っているというサイドカー付きの自転車】


【自分の写真がこれほど巨大に引き伸ばされるのは初めての体験。ほぼ等身大ですね】
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by butterfly-life | 2010-08-27 11:02 | リキシャで日本一周
119日目:炭鉱の記憶(北海道滝川市→岩見沢市)
 朝8時に滝川の伊藤さんのお宅を出発して、札幌を目指す。伊藤さんにはすっかりお世話になった。出発するときには奥さん手作りのおにぎりまで持たせてもらった。本当にありがとうございました。

 札幌から滝川へと北上してきたときには国道275号線を走ったので、今回南下するときはそれとは違う道12号線を進むことにする。12号線は日本一長い直線道路を持っている。その距離29.2km。飛行場の滑走路のようにどこまでも続く直線である。

 美唄市で出会った小林さんは、僕がツイッターで「美唄なう」とつぶやいたのを見て、慌ててバイクに乗って追いかけてきてくれた。2年前に成田空港の本屋で僕の写真集を見かけて以来、熱心にホームページを読んでくれているそうだ。こんなところで自分の読者に会えるというのは驚きだし、素直に嬉しい。


【いかついバイクにまたがった小林さん】

 27歳の小林さんは専業農家で、お父さんと一緒に30町(ちょう)の田んぼを使って米作りをしている。1町=1ヘクタール=1万平方メートル=100m×100mなので、その30倍の30町というのは広大な土地である。しかし北海道では20町を超える農地を持つ農家は珍しくなく、それぐらい大規模にやらないと収入が黒字にはならないのだそうだ。
「うちはひいおじいちゃんが開拓民としてやってきてから、ずっと農家をしています。その頃は農業機械も何もなかったから、東南アジアのようにほとんど手作業ですよ。大変だったと思います。それに比べれば今の農家は本当に楽になりましたよ」
「農業をやる上で一番大変なのはなんですか?」
「やっぱり自然と折り合いを付けることですね。いつも豊作とは限らないし、豊作になりすぎても米の価格が下がって困ります。今年は夏場が暑かったんで、米の出来はとてもいいんです。でも北海道にしては珍しいほど高温多湿だったから、イモチ病が発生しています。駆除するために農薬を撒いているんですが、病気にやられている農家もあります」
 米作農家の冬は何もすることがなくて暇なのだそうだ。除雪作業の出稼ぎをする人もいるし、毎日パチンコ通いする人もいる。小林さんの場合は暖かい東南アジアを旅しているそうだ。
 北海道の人は南国に対する憧れが強いようで、僕がアジアで出会った旅人の中にも北海道出身の人が多かった。雪に閉ざされた日の短い冬。できることなら赤道にほど近い国でのんびり過ごしたいと考えるのは自然の成り行きだと思う。

 三笠市で出会った前田さんは9ヘクタールあまりの土地でタマネギを作っていた。国の減反政策の下、25年前に米作りをやめて、タマネギと麦の栽培に転換した。今日は収穫前の「根切り」を行っている。土から掘り起こしたタマネギの根を機械で切断して成長を止め、葉っぱを枯らせてタマネギの表面に茶色のタマネギ色を付けているのだそうだ。
「今年はあんまり出来がよくないね。日照も不足していたし、夏に雨が降りすぎたのもよくなかった。それでもうちは25年も前からタマネギに切り替えてたから、こういう変な気候でもそれなりに収穫はあがるのよ。もっとひどい農家もあるからな」
 前田さんは根切りしたタマネギを持ち上げて乾き具合を確かめた。収穫するにはまだ少し早いようだ。
「タマネギ農家にとって一番大事なのは土作りさ。土をほくほくにしておかなきゃいけない。そのために土の中に暗渠ってパイプを入れて水はけをよくしたり、化学肥料だけでなく有機も入れて土を軟らかくしたりする。そうしないと連作障害っていうのが起きる。タマネギが地中に張った根が土を硬くすると、次の年に植えたタマネギがうまく成長しないんだ」


【タマネギの根切りをする機械はサンダーバードを彷彿とさせるデザインだ】

 このあたりでも農家の戸数は年々減り続けている。前田さんの長男は農業を継ぐ決意をしたが、そういった例はむしろ少数派だ。現時点で農業の主な担い手は団塊の世代だが、あと10年もすればみんなリタイヤしていくことになる。そうなったとき誰が農地を引き継ぐのかが大きな問題だ。
「外から労働力を受け入れるしかないと思うよ。そうだね、今北海道でも中国やアジアからの農業実習生がたくさん働いている。彼らに定住してもらって、ずっとここで働けるようにするしか人手不足を補う方法はないと思う」
「どうして日本の若者は農家をやりたがらないんでしょう」
「まぁ生半可な気持ちでできる仕事でないのは確かだな。近頃の農業ブームで軽い気持ちではじめても、だいたいは失敗する。でもそんなに厳しい仕事かっていうと、そうでもないんだよ」
「農家に向いているのは、どんな人でしょうか?」
「そうだなぁ。やっぱり根気強くないといけない。自然が相手だからいろんなことがある。不作の年でもずっと落ち込んでいたらダメだな。まぁなんとかなるさ、と楽天的に考えられないといけない。社交性も必要だな。農業っていうのは一人でやるもんじゃないから、集落の人と仲良くできないといけない。どんな仕事でも同じだろうけど、人間一人で生きているわけじゃないからな」
 若い世代の人口が減り続け、しかも農業を継ぎたがらないという現実がある以上、前田さんの言うように外国人労働力に頼るしかないのかもしれない。それがいいのか悪いのかという議論は別にして、「待ったなし」の状況になっているのは確かなのだ。


【広大なタマネギ畑と前田さん】


 天気予報通り午後からは雨模様になった。札幌から40キロ離れた岩見沢に入ったところで雨が本降りになり、南風も強まってきたので、これ以上の移動は諦めて岩見沢に泊まることにした。

 岩見沢はかつて空知地方の炭鉱からとれる石炭を輸送する交通の要衝として栄えていた。しかし1960年代以降、相次ぐ炭鉱の閉鎖によって町は急速に衰退し、人口も減り続けている。札幌から40キロほどの距離にあるためにベッドタウンともなっているようだが、駅前の商店街はさびれ方は激しかった。
 そんな岩見沢の商店街の一角に「炭鉱の記憶推進事業団」というNPO法人が事務所を構えていた。写真展が開かれているというのでふらっと中に入ってみると、スタッフの前田さんがとても親切に応対してくれた。「炭鉱の記憶推進事業団」は空知地方の石炭産業が残した鉱山跡や工場、廃線となった路線などを「産業遺産」として見直し、観光資源や地域活性化の場として蘇らせようと活動している団体なのだそうだ。
 かつて日本の近代化を支えてた炭鉱も、エネルギー需要が石油に移ったことと、外国産石炭との競争に勝てなくなったことによって、相次いで閉山された。「キツい」「汚い」「危険」の典型的3K職場だった炭鉱は、急速に経済発展を遂げる日本にとってあまり思い出したくない過去の記憶になり、元炭鉱夫たちも「炭鉱は暗い」という負のイメージを嫌って、自らが積極的に炭鉱について語ることを避けていたという。


【NPO法人「炭鉱の記憶推進事業団」の前田さん】

 実は僕の母方の祖父もここ空知地方の炭鉱で働いていたことがある。母は小学生6年から中学2年までの3年間を岩見沢から15キロほど東にある唐松町で過ごしたそうだ。
 その祖父も炭鉱について多くを語らなかった。概して自分の過去について口の重い人だったが、あるいは祖父にも炭鉱に対する世間のネガティブなイメージをどこかで意識していたのかもしれない。


【「炭鉱の記憶推進事業団」に置かれていた古いストーブ】

 当時の炭鉱夫たちは真っ黒に汚れた顔とドロドロのランニングシャツ姿で写真に収まっている。決してきれいな職場ではない。崩落や爆発の危険とも隣り合わせだ。しかしそのぶん実入りはよかった。テレビの普及もどこよりも早く、新作映画の封切りは札幌よりも早かったそうだ。
 日本製の電化製品や自動車が世界を席巻し、新幹線が開通し、万博が開幕する。そういう高度成長期の日本の「表の顔」に対して、炭鉱という存在は「裏の顔」であり、影であり、汚れ役であった。
「元炭鉱夫たちの証言も集めているんです」と前田さんは言う。「いま記録として残しておかないと、本当に忘れ去られてしまうから」
 僕も祖父の口から炭鉱について聞いてみたかった。そこにはどのような人々が働いていて、どのような日常があったのか。でも祖父が亡くなって20年以上が経った今となっては、それは不可能だ。


【古いレジスター。まだ現役で使えるそうだ】


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本日の走行距離:49.5km (総計:4890.3km)
本日の「5円タクシー」の収益:115円 (総計:64215円)

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by butterfly-life | 2010-08-23 14:56 | リキシャで日本一周
118日目:タップ取ろう(北海道留萌市→滝川市)
 留萌市から233号線を通って滝川市に向かう。
 お盆の土曜日だからなのか、道路はお墓参りに向かう車で混み合っていて、ところどころで渋滞までしていた。国道沿いにある墓地にも一族が集まって手を合わせている姿を目にした。日本の夏である。

 今日は多くの人から差し入れをいただいた。
 缶コーヒー、おにぎり、ホタテ貝、トマト、スイカ、トウモロコシ。(缶コーヒー以外は)どれも地元北海道の味である。スイカもトマトもよく熟していて甘かった。
 滝川の町は肉の焼ける匂いに包まれていた。お盆の北海道では親戚一同が集まって、屋外(家のガレージが多い)でバーベキューをするのが習わしになっているようだ。人家が密集している都会では絶対にできない北の大地ならではの楽しみである。


【北海道らしい看板。唐突に「店」と言われても困ってしまうが、まぁ店なのだろう】

 滝川市内を走っているときに、買い物用の三輪自転車に乗っているおじさんから声を掛けられた。
「おい、ちょっと待てよ。それでこの坂を上れるか? 心臓破りだぞ」とおじさんは言う。
 確かにそこはちょっとした上りではあったが、ほんの2,30メートル続くだけなので、「心臓破り」というのはちょっとオーバーである。
「後ろから押してやろうか?」
「いや、大丈夫ですよ。これぐらいなら一人で上れますから」
 いつものように右手でサドルを引っ張ってさっさと坂道を上る。おじさんはそれを後ろから興味深そうに見守っている。
「ちょっと待てよ。この自転車はすごいな、おい。今日はお盆だよな。これも何かのご縁だな」
 ちょっと待てよ、が口癖のおじさんは今しがた親戚の家でお盆の法事を終えて帰宅する途中なのだそうだ。ワンカップを一杯だけ飲んだということだったが、一杯にしては息が酒くさかった。もうすっかり出来上がっているようにも見えた。
「おい、ちょっと待てよ。にぃちゃん時間あるか? ちょっとうちに寄ってかないか」
「いいですよ。別に急いでないですから」
 おじさんの家は「心臓破り」の坂のすぐ横にあった。大工や運送業や林業や建設作業員などを「何でも屋」的にこなすのが仕事らしく、家の隣のガレージの中には作業服や大工道具などが乱雑に積み上げられていた。
「この上がな、俺の別荘なんだ」
「別荘?」
「ま、金持ちの別荘とはわけが違うけどな。隠れ家みたいなもんだよ。見るか?」
 おじさんは返事を待たずにハシゴのような急な階段を上っていったので、僕もそのあとを追った。



 屋根裏にもガレージと同様にいろんなものがとりとめもなく置かれていたが、「別荘」と呼ぶだけのことはあって、一人でも居心地よく過ごせるように工夫してあった。部屋の真ん中には二畳分の畳が敷かれていて、その周りを年代物のレコードプレイヤーやほこりを被った古い本や色あせたポスターなどが囲んでいる。ちょっと怪しげな古道具屋に迷い込んだような雰囲気だ。
「にぃちゃん、これなんだかわかるか?」
 おじさんは額に入れられた古い白黒写真を指さした。写っているのは馬に乗った昭和天皇だった。顔がまだ若いから、戦前か戦時中に撮られたものだろう。
「昭和天皇ですね」
「そうだ。俺の叔父さんはな、戦争に行って満州で死んだんだ。天皇陛下万歳って言ってな、死んでいったんだよ。そこにあるのが全国の戦死者名簿だ。俺は毎日あの本と写真に向かって手を合わせているんだ」
 昭和天皇の写真の下には広辞苑のように分厚い本が置かれていた。これが太平洋戦争での戦死者の名前を記した名簿なのだろう。本のぶ厚さがそのままおびただしい犠牲者の数を想起させる。
「なぁにぃちゃん。あの戦争で死んでいった兵隊は、犬死にだったと思うか?」
 おじさんの声のトーンが変わった。その手にはいつの間にか竹刀が握りしめられている。
「もしにぃちゃんが『犬死にだった』と言ったら、ここから叩き出さなきゃならん」
 そう言っておじさんは竹刀を振り上げた。いくぶん芝居がかってはいるが目は真剣である。
「そ、そんなことは思わないですよ」と僕は慌てて言った。
「そうか。それならいいんだ」
 おじさんは竹刀を下ろして、元の柔和な表情に戻った。やれやれ。驚かさないでくださいよ。
「学徒出陣で学生たちがみんな戦争に行った時代さ。何十万、何百万もの人が志半ばで死んだんだ。それをさ、無駄死にだったなんて言うのは、俺は絶対に許せないんだ」
 おじさんはあの戦争を全面的に肯定しているわけではない。ただ自分の叔父さんが戦争で無意味に死んでいったとは思いたくないのだ。

 おじさんは屋根裏に転がっているものをひとつひとつ手にとって、「これいらねぇか?」と僕にくれようとした。もちろん友好の印なのだが、正直言って今の僕には役に立ちそうにないものばかりだった。たとえばメロンとウリを掛け合わせた果物。今はまだ硬いので一週間ぐらい待ってくれという。続いて取り出したのは着古したジャンパーとトレーナー。これもこの時期には必要のないものだ。
「北海道はすぐに冬になるからな。ひとつ持ってけって」
「いや、冬が来る前には本州に渡りますから」
「それじゃこの靴はどうだ? サイズは26だから合うかな?」
「靴は今あるので十分です」
「この茶碗は?」
「いや、自炊はしていないですから」
「じゃフンドシはどうだ?」
「フンドシ!」

 永遠に続きそうな「これいらない?」攻撃を何とかかわして、そろそろおいとましますと腰を上げたときに、おじさんが妙なことを言い出した。
「それじゃ、タップ取ろうや」
「タップ取る?」
「ありゃ? にぃちゃんカメラマンなのにタップ知らねぇの? そりゃダメだべなぁ」
 ダメって言われても知らないものは知らない。タップ? どこの業界用語なのだろうか。
「だからさぁ、住所とか電話とか連絡先を交換することさ。それをタップ取るって言うんだ。北海道弁じゃないよ。全国で通じるんだから」
「へぇ、それは初めて知りましたよ」
「まぁ若い連中にはほとんど通じないね。俺ぐらいの年代なら、わかってくれる人もいる。わからない人もいる。通じる人には通じる」
 タップ。謎の言葉である。職場でも通じないんだったら、業界用語でもないのだろうか。
「タップっていうのはな、簡単なようでいて、意外に難しいんだ。携帯の番号を交換する。これはタップとは言わねぇんだわ。そういう軽いのはタップではない」
「じゃあどういうのがタップなんですか?」
「今のこういうのだわ。俺はお前を信頼して住所を書くから、お前も俺を信頼して住所を書いてくれ。そういうやつだわ。一方的ではダメなんだ。信頼が大切なんだ」
「じゃあタップ取りましょう」
 あとで写真を送ると約束して、僕らは住所を交換し合った。タップ成立である。
「今のは重い方のタップさ。だってあの『心臓破りの坂』上ってくるの重かったっしょ」
 おじさんは口を大きく開けて「フハハハァ」と豪快に笑った。
「俺はさ、さっきあのリキシャってのを坂で見かけたとき、絶対タップ取るぞって思ったんだわ。その気持ちににぃさんも応えてくれたっしょ。それがね、本物のタップなんだわ」
 タップとは一体何なのか。それは最後までわからなかったけど、おじさんが「本物のタップだ」と断言するのだから、たぶん僕らはタップを取れたのだろう。

 滝川では10日前にも泊めてもらった伊藤さんのお宅に再びお邪魔した。伊藤さんと共に近くに住む両親の家に行って、お寿司とビールをご馳走になった。
 伊藤さんのお父さんは先祖が開拓した土地で長年農業を営んでいた。生まれ育った幌加という山奥の集落には、最盛期400戸もの家があったのだが、近年急速に過疎化が進み、今では集落全体で4戸が残るのみになってしまった。お父さん自身も数年前に比較的便利な新十津川に移ってきたばかりだ。
「父は昔小作農をやっていたんだ。でも自分の土地を持たない農民は悲惨だから、頑張って山へ出稼ぎに行って金を貯めて、5町の土地を買ったんだ。大変なことだったと思うよ。でもそうやって苦労して大きくした幌加があと10年で誰も住まない集落になってしまう。それはやっぱり寂しいことだね。祭りや行事なんかももうなくなってしまうからね」


【農業一筋だった伊藤さんのお父さん】

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本日の走行距離:67.5km (総計:4840.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:10円 (総計:64100円)

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by butterfly-life | 2010-08-22 17:13 | リキシャで日本一周
117日目:誰のものでもない土地(北海道羽幌町→留萌市)
 羽幌町は天塩町と同じように寂れた町である。以前は漁業と炭鉱の町として栄えていた。明治20年代からニシン漁が始まり、昭和14年には炭鉱が操業を開始した。しかしニシンが枯渇し、炭鉱も閉山になると、町は衰退の一途を辿る。鉄道が廃線になり、駅前通の賑わいも消えた。昭和44年には3万2千人いた人口も、今では8千人にまで減ってしまった。過疎化が進む道北の典型例と言っていいかもしれない。

 その羽幌町をリキシャでとろとろと走っていると、腰の曲がったおばあさんに話しかけられた。買い物カートなしでは歩けない様子だったが、口調はとてもしっかりしていて声も大きい。
「私はね、昔タイピストをしておったのよ。中国の河南省彰徳っちゅうところの石炭会社でタイピストをしていたの」
 金子おばあちゃんは宮崎県に生まれた。勉強がよくできたので女学校へ行きたいと懇願したのだが、両親はそれを聞き入れなかった。だからタイピストの学校へ通った。手に職をつけて早く自立したかったのだ。3ヶ月でタイピストの学校を出ると、すぐに石炭会社に採用されて中国に渡った。昭和16年のことである。
「中国での生活は楽しかったわよ。小学校の校長先生の月給が40円くらいのとき、私は100円ももらっていたからね。ほんとに待遇がよかったのよ。でも日本が戦争に負けたでしょう。それで故郷に引き揚げてきたの。それから石狩出身の旦那と結婚したんで、北海道に来たわけ」
 羽幌町にほど近い初山別に落ち着いた夫婦は時計屋を始めた。当時はニシン漁が盛んだったので町には活気があり、仕事もたくさんあった。
「でも旦那が酒を飲んだのよ。飲んだくれなの。天気がいい日でも、昼間から焼酎が入った一升瓶を下げて町をぶらぶら歩きよったの。そんな人が時計の修理なんてできるわけがないでしょう。せっかく始めた時計屋も閉めてしまったの」
「じゃあ誰が家族を養っていたんですか?」
「私が働きに出たのよ。男たちに混じってスコップ握りしめて、道路を作っていたの。現場監督には『下手な男を使うより、お母さん使った方がいい』なんて言われたわ。朝からずっとスコップが手を離れないんだぁ。大変な仕事よ。でも子供が4人もいたから、食べさせなきゃいけなかったの」
 旦那さんは酒の飲み過ぎがたたって60前に肝臓ガンで亡くなり、おばあちゃんはいま下宿屋をしている娘の手伝いをして暮らしている。
「人間の一生ってね、ほんとにわからないもんだわぁ」と金子おばあちゃんは顔を皺だらけにして笑った。「宮崎みたいな暑いところに生まれて、こんなに寒いところで人生終えるんだものねぇ。もう私は90近いから、こっちよりもあっちの方が近い身分だがね」
「あっちっていうのは、あの世のことですか?」
「あはは、まぁそういうことだねぇ。いろいろあったけど、まぁ幸せだったんじゃないかねぇ。旦那のお酒はね、あれだけは失敗だったけどさぁ」



 北海道には金子おばあちゃんのように他の土地から移住してきた人が多い。北海道で生まれ育った人も、父母、祖父母の代まで遡れば、他県から移ってきた開拓民に行き当たる。だから先祖代々の土地を守り継ぐという意識が薄い。仕事があればそこに住み着き、仕事が無くなれば引き払って他に行く。そうしなければ生き残れないような厳しい環境なのだ。
 道北の町がどこもことごとく衰退し、驚くほどの勢いで人口を減らしているのも、ある意味では当然の成り行きなのだろう。もともと誰のものでもなかった土地が、再び誰のものでもない土地に還ろうとしているのだ。



「ここにはもともと私たちの家があったんだけど、今はきれいさっぱり何もないでしょう」
 お盆のお墓参りのついでに実家の跡地に立ち寄ったというおばさんが言った。確かにそこは雑草の生い茂る草原だった。かつて家があった痕跡などどこにもなかった。
「昔はウニだとか昆布だとかがよく採れたけど、今はねぇ。このあたりも住む人がどんどん減っていて、みんな旭川とか札幌とかに移ってるんよ。本当に寂しくなったわね」





 今日も海沿いの道オロロンラインを南下する。この道を走るのにもいいかげん飽きてきたのだが、他に選択肢がないのだ。
 朝から強い向かい風が吹き付けてくるタフな一日だった。海岸を飛んでいるカモメが翼を広げたままの体勢でじっと空中に静止できるぐらい強い風である。風速はときに10mを超える。
 このあたりがもともと風の強い地域なのは、海岸線に並んだ風力発電用の風車の数を見るだけでもわかる。この自然エネルギーを生かさない手はない。今日はぶんぶんと調子よく回っている。
 海沿いに建つ民家はどれも高さ3メートル以上もある高い板塀で囲ってある。「冬がこい」というのだそうだ。浜から吹き付ける雪混じりの強風をまともに受けると家が壊れてしまうので、この塀で風を防いでいるのだ。


【「冬がこい」に囲まれた家】

 強い向かい風にくじけそうになりながらも、なんとか粘りの走りを続け、5時過ぎには留萌(るもい)の町に到着した。大きな港と造船所のある町である。留萌もかつてはニシン漁で栄えていて、今でもカズノコの生産が日本一なのだそうだ。全国で消費されるカズノコの約6割が作られているというからすごい。しかし原料となるニシンの卵は、ほとんどがカナダやアメリカから輸入されたものだという。
 町の規模のわりにスナックや飲み屋の数がやたら多いのも留萌の特徴である。近くに自衛隊の駐屯地があるので隊員がよく飲みに来ているという話もある。すごかったのは「阿修羅」という名前のスナック。インパクトはあるが、いったい誰が付けたんだろうね。


【漁港のおばちゃんにとれたばかりのホタテ貝をご馳走になった】

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本日の走行距離:54.6km (総計:4773.3km)
本日の「5円タクシー」の収益:1000円 (総計:64090円)

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by butterfly-life | 2010-08-17 21:12 | リキシャで日本一周
116日目:雨の初山別(北海道天塩町→羽幌町)
 日本海を横断中の台風4号の影響で、朝から大荒れの天気だった。バケツをひっくり返したような土砂降りが1時間ほど続き、たちまち旅館の前の道路が水浸しになってしまった。昨日に続いて今日もリキシャでは走れないかなぁと思いながら部屋でぼんやりしていると、10時過ぎに雨が小降りになってきた。
 よし、これなら行けそうだ。急いで荷物をまとめて出発する。家族経営の旅館のいいところは時間の融通が利くことだ。少々チェックアウトが遅くなっても文句を言われることはない。おかみさんが「雨が止むまで好きなだけいたらいいよ」と言ってくれる。

 天塩町から海沿いのオロロンラインを南に下る。例のごとく人家のほとんどない道だ。
 遠別(おんべつ)という町に着いた頃に再び雨が降り始めた。本降りになってきたので、慌てて雨宿りできる場所を探した。ちょうど旅館の屋根付き駐車場が目に入ったので、そこで雨をしのがせてもらうことにする。出発の判断は間違いだったのかもしれないと少し後悔するが、今さらしょげていても仕方がない。出発した以上は前に進まなくてはいけない。
 雨が止むのを待つあいだ、近所のコンビニでゆでトウモロコシを買ってきて腹ごしらえをする。夏の北海道にはコンビニにもゆでトウキビが並ぶ。道民の日常食なのである。



 1時間ほど雨宿りをしたあと再び出発したが、雨は完全には上がらず、降ったり止んだりを何度も繰り返した。疲れる天気だ。
 初山別(しょさんべつ)という町で雨宿りをしているときに、小学生の男の子たちが集まってきた。この雨の中、リキシャに乗りたいという。いいですよ、わかりましたよ、どうぞお乗りなさい。子供たちを乗せて近所をぐるっと一回りする。彼らは雨に濡れても平気なようだ。よしよし、強い子だ。
「これで日本一周ってマジすごくねぇ? ヤバイよね」
 と年長の子が言う。参ったなぁ、北海道の子供もこの手の言葉遣いをするのか。
 この町には小学校がひとつと中学校がひとつある。高校へ行くためには隣町の羽幌までバスに乗る。昔は初山別にも高校があったらしいが、人口の減少に伴ってずいぶん前に廃校になった。小学校の全校生徒は50人ぐらいだそうだ。
「今日はどこまで行くんですか?」
「羽幌まで」
「えー、20キロ以上あるっしょ」
「全然大丈夫だよ」
「足の筋肉ヤバくねぇ?」
「ヤバくはないよ」
 実際、足の筋肉はまったく問題なかった。むしろ問題なのは雨の方だった。初山別を出てからも雨は止まず、レインコートを頭から被って走り続けた。大型トラックが跳ね上げる水しぶきで、服もリキシャもずぶ濡れである。

 羽幌町に到着したのは6時半だった。
 羽幌町の道の駅では、コテコテの関西弁を話すおばちゃんに出会った。家は京都にあるのだが、今は旦那さんと二人で車中泊をしながらのんびりと北海道を旅しているという。
「僕も京都生まれなんですよ」
「あら、ほんまかいな!」
 おばちゃんは僕の背中をバチーンと叩いた。いてて。
「ごめんな。きつぅ叩きすぎたな」
 とおばちゃんは苦笑いした。少々酒を飲み過ぎているのか、手加減がわからなかったらしい。
「あたらしらはな、この車で3年ぐらい旅をしとるんよ」
「3年もずっとですか?」
「2ヶ月ぐらいしたら家に戻って、また2ヶ月したら旅に出るっていうのを繰り返してる。九州も3回行ったし、日本全国だいたい回ったよ。これが若い頃からの夢やったんよ。お父ちゃんが定年になって、一緒に旅に出よかって言うてくれたから実現できたのよ」
 北海道にはライダーも多いが、このご夫婦のようにキャンピングカーやワンボックスカーに泊まりながら旅を続ける旅行者も多い。何しろ時間はあるから、マイペースの旅である。
「今がほんまに幸せ。好きなことをして生きてるんやからなぁ。あんたも幸せな人間やない? こないして旅が続けられるんやから」
「そうですね。そうかもしれないですね」


【本当に幸せそうなご夫婦だった】

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本日の走行距離:66.4km (総計:4718.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:600円 (総計:63090円)

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by butterfly-life | 2010-08-17 07:30 | リキシャで日本一周
115日目:天塩町の歴史
 今日は朝から雨が降っていたので、リキシャはお休みすることにした。
 お休みといっても何もすることがないのが北海道の片田舎の辛いところである。スーパーと酒屋はあるものの、時間をつぶせそうな場所がまったく見たらないのだ。

 仕方がないので(という言い方もなんだが)、宿の目の前にある「天塩川歴史資料館」に入ってみることにした。赤煉瓦造りの旧庁舎を使った郷土資料館で、外観はなかなか立派である。受付にはおばさんが一人暇そうに座っており、入場料200円を払って中に入る。来館名簿を見ると、今日は5人の来館者があったようだ。これを多いと見るか少ないと見るかは微妙なところではあるが。

 天塩町は北海道の他の地域と同じようにもともとアイヌが暮らす土地だった。彼らテセウアイヌは遠くアムールから樺太に及ぶ交流の中で独自の文化を築いていた。江戸時代に入ると松前藩がアイヌとの交易を開始する。そのころから天塩町(当時はテセウと呼ばれていた)は豊富な水産資源と木材運搬の拠点として発展し始め、明治以降の本格的な開拓と入植に繋がっていく。
 天塩町の発展を支えたのはニシンや鮭などの漁業と、天塩川を利用した水運業だった。まだ内陸部の道路が未整備だった時代、小樽から海路で運ばれる日用品は天塩港を経由して天塩川を遡り、内陸の町へと運ばれたのだ。また流域の森林から切り出された木材は、筏に組んで川を下り、天塩港に待機している積取船で本州や小樽に運ばれた。


【材木を運搬するのに使われた馬ぞり】

 繁栄のピークは1920年頃に訪れる。海岸通りには大小様々な商店が建ち並び、船乗りたちのための歓楽街や遊郭が生まれた。大正元年(1912年)には飲食店だけで38軒もあったという記録が残っている。
 しかし交通手段が水路から道路へと切り替わったことや水産資源の枯渇が重なり、町は緩やかな衰退期に入る。戦後の開拓ブームで一時的に人口は増えたものの、1960年頃を境にして再び人口が減り始め、ピーク時に1万人いた住民も今では4000人ほどに落ち込んでいる。


【開拓民が使っていた農機具】

 かつて何十隻もの船が出入りし、人夫たちのかけ声で賑やかだったという港に往事に面影はない。だだっ広い芝生の公園とコンクリートで護岸された小さな漁港があるだけだ。
 海岸通りにも活気が無く、「売り物件」の貼り紙が目立つ。港の真ん前に立つ民家も売りに出されていて、建物付きの土地285坪が200万円だった。その気になれば200万円でオーシャンビューの家に住めるわけだが、買い手を見つけるのは容易ではなさそうだった。
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by butterfly-life | 2010-08-16 08:26 | リキシャで日本一周
114日目:寿司を持った天使(北海道稚内市→天塩町)
 ひたすら北上を続けてきた旅が終わり、今日からは南を目指して進むことになる。まずは稚内から106号線を下って天塩町まで行く。距離はおよそ70キロ。一日80キロから100キロを漕いできたこの一週間のことを考えれば別になんてことのない距離で、夕方4時頃にはあっさり着いちゃうなぁと思いながらスタートしたのだが、それが大甘な考えだったことをあとで思い知らされることになる。

 向かい風が吹いていたのだ。
 東北でも北海道でも、この季節は毎日南からの風が吹いている。これまではその風に押されるかたちですいすいと進んできたのだが、今日からは向かい風に変わったのである。今までの「借り」を返えせとあくどい取り立て屋に迫られているようなもの。
「ひぇー、お天道様。どうかご勘弁を。もちっと風をゆるめてくださいまし」
「そうはいかねぇな。これまでさんざん追い風の恩恵を受けといて、このまま逃げられるとでも思っていたのかい? 借りは倍にして返してもらう。それが南風の流儀なんだぜ」
「そこを何とか、お助けを・・・」
 冗談はさておき、海沿いの道106号線の向かい風は本当に厄介だった。道は真っ平らなのだが、とにかくペダルが重い。いつもの立ち漕ぎスタイルでぐいっとペダルを踏み込んでも、時速8キロから9キロしか出ない。風がなければ14,5キロで進めるところだから、4割のパワー減を余儀なくされているのである。あぁしんど。


【稚内では道路標識にロシア語表記が入る。稚内や根室はロシアとの貿易が盛んで、ロシア人もよくやってくるという】

 106号線は北海道の中でも風景がよい道として知られていて、ライダーやチャリダーが好んで通る道である。右手には日本海が、左手には緑の草原が広がり、その間を寸分の狂いもない一直線の道が続いている。バイクやオープンカーで走るには最高だ。100キロを超える猛スピードで突っ走るライダーもいる(でもここには覆面パトカーがよく出没するらしい)。
 そんな中で僕だけが向かい風に喘ぎながらノロノロと走っているのは、なんだかむなしかった。どうして俺はこんなことをしているんだ、という気持ちになってくる。いつもなら嬉しいはずの一直線の道も、今日は憎々しかった。どれだけ進んでもまったく景色が変わらないから、次の目標が持てないのだ。
 町はおろか民家もなく、看板も標識もない。自販機すら一台もない。そういうあまりにも北海道的な道を走っていると、時間と距離の感覚がずれてくる。自分がどれだけ走ったのか、目的地まであと何時間かかるのかが頭の中で計算できなくなってくる。


【あくまでもまっすぐな106号線】

 午後になって腹が減ってきたのだが、なにしろ食堂もコンビニもなにひとつない道だからどうしようもなかった。どこかでもらったキャンディーを舐めて空腹を癒しながらペダルを漕ぎ続けるしかない。
「ここにオレンジジュースのパックと大福を持った天使が現れないかなぁ」
 なんてばかばかしい空想に浸りながら進んでいると、なんと本当に現れたのである。差し入れを手にした天使が。浜頓別町に住むヨウコさんであった。彼女は二日前にもスポーツドリンクやトウモロコシを差し入れに持ってきてくださったのだが、今日も仕事が休みだったのでわざわざ車を飛ばして追いかけてきてくれたのだ。お寿司、カニ、アクエリアス、栄養ドリンク。あぁ素晴らしい。腹ペコの人間には何だってうまいものだが、この北海道の海の幸をふんだんに使ったお寿司は特においしかった。
 いやー、天使というのは本当にいるんですね。ちなみにヨウコさんは北海道のコンビニチェーン「セイコーマート」にお勤めである。北海道にいるあいだはなるべくセイコーマートを利用しようと心に誓う三井であった。



 稚内から天塩町に至るまで60キロあまりの道中で、集落らしい集落はたったひとつで、それが抜海だった。抜海は小さな漁師町で、僕が通りかかったときには漁師のおじさんたちが漁に使うイカリの補修と点検をしていた。9月1日からサケ漁が解禁になるのだが、今からその準備をしているとのこと。
「このイカリは定置網を海底に固定させるためのもんでよ、だからこんなに大きいのさ。サケの他にはナマコとかカレイとかが採れる。でも最近はよぉ、アザラシが増えちまって困ってるんだ。冬になると何百頭ってアザラシがこの辺の岩場に集まってきて、せっかく捕まえた魚を食っちまうんだ。網ごと食い破るんだよ。あぁ害獣だわな。でも天然記念物だから殺すわけにもいかねぇ。ほら東京あたりでアザラシがかわいいって人気者になったりするっしょ。俺たちから見ればあんなの全然かわいくねぇんだけどよ」
 抜海の住人は100人いるかいないかぐらいで、商店もないので買い物は稚内まで車を飛ばして済ませる。
「不便っていえば不便だけどよ。慣れてしまえばどうってこともないさ。昔はもっと栄えてたけど、今はすっかり寂しくなっちまったね」





 その寂れた集落を離れると、風景はさらに寂しさを増す。黒っぽい砂浜には流木やゴミが散乱し、草むらには昔使われていたらしい廃船が朽ち果てた姿をさらしている。見渡す限り人影はない。まるで「地球最後の日」みたいな光景だった。





 天塩町に着いたのは7時前のこと。夕方になってようやく風が収まってきたので、なんとか暗くなる前に着くことができた。
 天塩町の古い旅館で僕を待っていたのは、大阪に住む雪本さん。彼は以前リキシャを追いかけて大阪から福岡までバイクを飛ばしてきたつわもので、今回も有休を取ってはるばる北海道までバイクでやってきたのである。
「上司に『どうしても北海道に行きたいんです。もし休みが取れないんだったら会社を辞めます』って啖呵を切って、有休届を叩きつけてきたんです」
「で、上司はなんて言ったの?」
「お土産買ってきてね、だって」
 素敵な上司である。カニを買ってあげましょう、カニを。

 雪本さんは敦賀からフェリーに19時間揺られて小樽に上陸し、夜にもかかわらずそのままバイクを走らせて岩見沢まで行き、そこで力尽きて公園で野宿したものの、夜中に突然雨が降ってきたので仕方なく滑り台の上にテントを張って眠ったという。滑り台の下ではなく「上」にテントを張るというがどういう状況なのかいまいちわからないのだが、手近に雨がしのげそうな場所がそこにしかなかったらしい。そこで夜を明かして早朝6時にバイクにまたがり、宗谷岬まで行ってから天塩町にやって来たというわけだ。恐ろしく過密なスケジュールである。一見したところ真面目な好青年なのだが、一度やると決めたら他のことが目に入らなくなるタイプでもあるようだ。



 天塩町は寂れた田舎町だったが、お盆という時期もあってか泊まり客は多く、旅館には空き部屋がひとつしかないということだったので、僕らは同室に泊まることになった。
 典型的な古旅館だった。二階にある僕らの部屋は明らかに床が傾いていたし、風が吹くと窓枠がカタカタと神経質な音立てて揺れた。隣の客のいびきやおならがはっきり聞こえるほど壁が薄いのも難だった。でも一泊2800円という値段は魅力的だし、おばあちゃんは親切だったし、インターネットも使えるので、居心地は悪くなかった。
「あんたはあのピアノみたいなのを持ってるんだろう?」とおばあちゃんが言った。
「は? ピアノ?」
「ほら、こうしてカチャカチャするやつ」
「あぁ、パソコンのことですね。持ってますよ。だからインターネットを使いたいんです」
 いまどきパソコンのことを「ピアノみたいなの」と呼ぶ人はなかなかいない。そういうところで無線LANが使えることも驚きだが。

 夜は雪本さんと二人で酒を飲んだ。遅ればせながら宗谷岬到達の祝杯を挙げた。
 明日は雨が予想されているので、久しぶりに明日のことを気にすることなく深酒をした。


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本日の走行距離:70.7km (総計:4652.3km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:62490円)

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by butterfly-life | 2010-08-14 06:22 | リキシャで日本一周
113日目:リキシャで日本一周(北海道猿払町→稚内)
 日本最北端・宗谷岬まで30キロ。いよいよ今日、日本縦断が完了する。
 しかしその30キロは意外に遠かった。朝から雨に見舞われたのだ。北海道に上陸して以来、本当によく雨に降られている。スカッと晴れ渡ることがなく、ジメジメとした蒸し暑い日が続いている。

 9時過ぎになってようやく雨が止んだので、リキシャにまたがった。それでも数十分おきにざっと雨が降り出すようなはっきりしない天気が続く。
 やがて国道40号線は丘陵地帯に入った。このアップダウンがきつかった。上っては下り、また上っては下る。まったく旅の女神様は意地が悪い。簡単には目的地に到達させてもらえないようだ。


【アップダウンの続く道】

 岬まで残り8キロほどのところで、ようやく平坦な道になった。今日のオホーツク海は波は穏やかだがどんよりとした灰色に染まっている。砂浜に打ち上げられた流木が恐竜の化石のような不思議な造形を作っている。波消しブロックの上には白いカモメがきちんと整列して止まっている。もちろん泳ぐ人の姿はないし、サーファーもいない。漁船もいない。ただただ灰色の海が続くばかりだ。

 宗谷岬が近づくと、ホタテ貝の加工工場が目立つようになった。このあたりの海はホタテ養殖が盛んなのだ。工場で働くエプロンにゴム長靴スタイルの若者たちが、走り抜けるリキシャに向かって「がんばってくださーい」と大きく手を振ってくれた。ありがとう。
 バイクに乗ったライダーたちも、自転車の若者も、ワンボックスカーで旅行している一家も手を振ってくれた。日本最北端というポイントを目指す者同士の連帯感のようなものを感じた。ここが日本の端っこなのだ。これ以上北へは行けない。ノースエンド。

 午後1時13分。ついに宗谷岬に到着した。岬の先には「日本最北端の地」という石碑が誇らしげにそびえていた。石碑の周りは記念写真を撮る人で溢れかえっていて、順番待ちの列ができるほどだった。もちろん僕もリキシャと共に石碑の前で記念写真を撮った。普段は記念写真なんて全然撮らないのだが、やはりこれだけはやっておかなければいけない。
 それが終わると、石碑の裏側にある「本当の最北端」に座って一息ついた。遮るもののない、どこまでも続く海だ。天気の良い日にはわずか40数キロ先の樺太がはっきり見えるらしいが、今日は曇っていたので叶わなかった。



 ようやくここまで来た。
 出発から113日目、4450キロを走り抜いて、リキシャを最北の地に連れてくることができた。
 達成感は十分にあった。高揚感もあった。岬の手前2キロぐらいから、頭の中にロッキーのテーマが鳴り響いていた。
 それでもまだ「これで終わりだ」という気持ちにはならなかった。もっと進めるはずだ。いや進むべきだ。からだがそう訴えていた。

 旅を再開してから2週間。北関東から東北、北海道へ北上を続けるあいだ、毎日80キロという超ハイペースでリキシャを漕ぎ続けてきたのは、自分の限界がどこにあるのかを知るためだった。そして限界ぎりぎりまで自分を追い込んでもなお、自分の中に余力が残っていると感じた。体力はもちろん、気力にもまだ「余り」があった。

 まだ行ける。まだ進むことができる。
 昨日一日で100キロを漕ぎ、ヘロヘロになりながらも、ちゃんと翌日にはこうしてここに立っている。
 ここが旅のゴールではない。まだ先がある。

 よし、日本一周をしよう。
 ゴールはリキシャの旅を始めた地である徳島県だ。そこまで行けば、この旅を終えられるだろう。日本地図にひとつの環を描くことができるだろう。
 腹は決まった。
 もうひと踏ん張り、やってやろうじゃないか。


【宗谷岬から臨むオホーツク海。ここが日本の果て】

 宗谷岬付近では僕と同じように日本縦断を達成した人や、これからそれに挑もうという人たちに出会った。ついさっき自転車で日本縦断を成し遂げたばかりだという若者は、鹿児島からここまでわずか23日で走りきったという。平均すると一日に120キロ。休みなく走ればわずか3週間とちょっとで行けてしまう距離なのだ。自転車というのは速いんですね。

 64歳の中根さんは、宗谷岬から九州最南端・佐多岬までの自転車旅を今日からスタートさせたという。仕事を定年退職して、長年温めてきた計画をようやく実行することにしたのだ。34日間で走破する予定だ。
「そりゃ不安はいっぱいですよ。何しろこういう旅は初めてですから。家族にも『若い人に交じって60過ぎのおじさんが何をばかなことを』と言われたりもしたんですが、これは今しかできないことですから」
 今しかできないことをする。その気持ちの大切さは20代でも60代でも変わらない。迷っているならやった方がいい。



 宗谷の漁港では、自転車で旅行中のアメリカ人に出会った。アリゾナ州とペンシルベニア州出身の二人組。網走から自転車で宗谷岬までやってきたそうだ。なかなかの健脚である。北海道の光景はどことなくペンシルベニア州に似ているという。
「さっきあなたが坂道を上っているのを見たわ。すごく大変そうだったけど」
「ええ、ものすごく大変でしたよ」と僕は笑った。「重さが100キロもあるし、ギアだってひとつだから」
「あなたは日本人なのよね?」
「そうですよ」
「日本人って真面目で、時間に正確な人たちだと思っていたけど」
「中にはこういうクレイジーなのもいるんです」



 宗谷岬を出発してから238号線を稚内に向けて走る。
 このあたりは海岸線まで山がせり出しているので平地が少なく、漁船が停泊する小さな港町がぽつぽつとあるだけである。タコやホタテや昆布などが採れるそうだ。
 海岸で昆布を並べている夫婦がいた。昆布は採ったその日に天日で乾かすものなのだが、今日は雨がちなのでうまく乾かなかったようだ。その場合には倉庫に作った乾燥機で乾かすそうだ。
「今年はさっぱりだなぁ」と漁師の鈴木さんが言う。「昆布も天候に左右されるから。タコはようとれとるけど、昆布はダメだなぁ」





 漁師のおやじさんは昨日とれたばかりの昆布の束を持たせてくれた。
「持ってけ持ってけ。土産にせい」
 と言って半ば強引に渡されてしまったのだ。
「いや、でも僕は長旅をしているから昆布をもらってもですね・・・」
「だったら小さくちぎって噛んだらええ。塩分とミネラルの補給になる」
「それはそうですけど・・・」
 北海道最北部で採れる昆布は「利尻昆布」として地域ブランドになっている。料亭などで使われる高級食材である。売ればいくらになるのかは知らないが、そんなことお構いなしに「持ってけ」と言ってしまう漁師さんのおおらかさに感心した。
 それにしても、どうしたらいいんでしょうね、この昆布は。


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本日の走行距離:60.3km (総計:4581.6km)
本日の「5円タクシー」の収益:155円 (総計:62490円)

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by butterfly-life | 2010-08-13 08:34 | リキシャで日本一周