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ベトナムの宝くじ売り
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 のんびりとカフェでくつろいでいるときに必ず近寄ってくるのが、宝くじ売りのおばさんである。ベトナム(特に南部)では宝くじの人気が非常に高く、町には宝くじを売り歩く販売員が文字通り溢れているのだ。

 道路標識の前でバイクを止めて地図を広げているときにも、夕立が降ってきたので軒下で雨宿りをしているときにも、気がつくと傍らに宝くじの束を持ったおばさんが立っていて、「買わないか?」と言ってくるのだ。僕の一挙手一投足が宝くじ売りたちによって監視されているんじゃないか、という気がするほどだった。

 特にひどいのがフェリーの上だった。メコンデルタ地方では大小様々な川が道路を分断しているので、先に進むためにはフェリーで対岸に渡る必要があるのだが、そのフェリーの上にも大勢の宝くじ売りがいたのである。例えば乗客が50人ぐらいしかいないローカル船のデッキに宝くじ売りが5人もいるというのは、どう考えても異常である。いくらベトナム人が宝くじ好きだといっても、そんなにしょっちゅう買えるはずがない。明らかに供給過剰なのである。


[フェリーに乗って川を渡る。]

 また、この5人の売り子たちは商売敵なので、5人それぞれが乗客全員に対して営業をかけないと気が済まないというのも困りものだった。一人の売り子が「買わない?」と言ってきて、それに対して「いらない」と首を振っても、そのすぐあとに別の売り子が「買わない?」と言ってくるのだ。「さっき『いらない』って言ったじゃないか!」と声を荒げても無駄である。これでは川の流れをゆっくりと眺めている暇もなかった。

 売り子はおばさんだけではなかった。小さな子供の手を引いた中年男や、片足を引きずった裸足の少年、ボロボロの服を身にまとった老婆など、見るからに貧しそうな人々も宝くじ片手に町を歩いていた。彼らが何を言っているのか理解できなかったが、そのぼそぼそとした口調と暗い表情から、自分が置かれている不幸な境遇を訴えているということは伝わってきた。その姿は隣国カンボジアにいる物乞いによく似ていた。

 ベトナムでは物乞いはほとんど見かけなかったが、その代わりに宝くじ売りが大量にいる。主催者がはじめからそれを意図していたのかは不明だが、ベトナムの宝くじは貧しい人々の働き口を増やす結果になっている。元手もいらないし、完全な歩合制(売り上げの2割が自分のものになる)だから、誰もがすぐに始められる。その手軽さが売り子の「供給過剰」を生んでいるのだろう。


[市場で売られていたアヒル。]

 一度だけ、ベトナムで宝くじを買ったことがある。ヴィンロンという町のカフェでカフェダーを飲んでいるときに、そばを通りかかったおばさんから買ったのである。

 宝くじ売りのマイさんはとても流暢に英語を話した。さっきも書いたように、宝くじ販売というのは社会的弱者のためのセーフティーネットのような役割を担っているから、売り子の中に高い教育を受けた人はほとんどいない。ベトナム語の読み書きすら怪しいような人もいる。だからこそ、彼女がほぼ完璧なアメリカンイングリッシュを話したのにはびっくりしてしまった。

「あたしはアメリカ人と結婚したんだよ」とマイさんは言った。ややかすれ気味のハスキーな声だ。「あたしが17の頃だから、もう35年も前になるね。ああ、ベトナム戦争まっ盛りの頃さ。当時はアメリカの兵隊が南ベトナムにたくさん駐留していたから、私のような女もたくさんいたんだよ。結婚生活は2年続いて、息子も生まれた。でも、彼がアメリカに帰っちまって、それっきりさ。手紙すら一度も来たことがない。生きているのか、死んでいるのかも知らない。ま、今となったらどっちだっていいことだけどね。戦争が終わった直後に、一人息子が死んでしまってからは、あたしはずっと一人で生きてきたんだ。ああ、簡単なことじゃなかったさ。いろんな商売をやったよ。人には言えないようなこともね。そんなこんなで、老け込んじまったのさ」

 彼女はそこまで話すと胸のポケットから煙草を取り出して、プラスチックのライターで火を付けた。パジャマ風の服から伸びる腕は南国の日差しを浴びて黒く日焼けしていたが、すげ笠の影になった顔は若々しかった。目がくりっとして愛嬌のある顔立ちである。きっと17歳の頃には近所の噂になるような美人だったに違いない。その片鱗は今でもしっかりと残っていた。

「とても52歳だとは思えないな。ずっと若く見えますよ」
 と僕は言った。それはお世辞でも何でもなく、正直な感想だった。40代半ばか、それ以下に見えた。
「ありがとう。あんたみたいな若い人に言ってもらえると嬉しいよ」
 マイさんちょっとだけ口の端を持ち上げて笑った。そして煙草の煙をふーっと吹き出した。その皮肉っぽい笑い方に、彼女が背負ってきた人生の重みが表れているような気がした。



「アメリカに帰ってしまった旦那さんのことを、思い出すことはありますか?」
 聞いてもよいものかと迷っていた質問を、僕は思い切って口にした。このタイミングなら許されるような気がしたのだ。
「いや、今はないね」マイさんはきっぱりと首を振った。「もう昔の話だよ。30年なんてさ、大昔だよ。今じゃ戦争のことを知らない若者もたくさんいるんだからね。彼がもしここを訪ねてきても、お互いのことがわからないんじゃないかな。あたしもおばあちゃんになっちゃったからね」
 彼女はそう言うと、また口の端を持ち上げて笑った。

 僕がマイさんから宝くじを買ったのは、彼女の境遇に同情したからではなかった。もちろん当選を期待していたわけでもない。ただ、この出会いをかたちにして残しておきたいと思ったのだ。いつものようにカメラを向けることもできたが、それよりも宝くじを買うことの方が相応しいような気がしたのだ。

 宝くじは1枚5000ドン(38円)だった。宝くじにはカラフルなスポーツカーの絵が印刷されていた。「当選したら夢のマイカーがあなたのものに」という意味なのだろう。
「明日の朝にこのカフェに来れば、アタリかハズレかを教えてあげるよ」
「明日はもうこの町にはいないんですよ。今からバイクに乗って南に向かうつもりなんです」
「そうかい。それは残念だねぇ。もし当たったら、1億ドン(75万円)なのにねぇ」
「1枚じゃ当たらないですよ」と僕は笑った。「これは記念に買ったんです。当たっても当たらなくてもいいんです」

 僕は宝くじを二つ折りにして財布にしまうと、店の前に置いていたバイクにまたがってエンジンをかけた。
「ベトナム人の運転はクレイジーだから気を付けなよ」とマイさんは言った。
「それはよく知っていますよ。ありがとう」
 結局、その宝くじが当たったのかどうかはわからない。当選番号は新聞にも発表されるらしいのだが、確かめなかったのだ。まぁクジ運は良くない方だから、当たっていたとは思えないけれど。




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by butterfly-life | 2011-09-30 12:14 | 東南アジア旅行記
ベトナム名物「ハンモックカフェ」の気楽な実態に迫る
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 ハンモックカフェはひたすら気楽な場所である。
 コーヒー一杯注文すれば、あとは何時間居ても構わない。柱に吊されたハンモックに横になってシエスタ気分を味わうのもいいし、テーブルを囲んで賭けトランプに興じてもいい。日本の喫茶店で長居をしていると、ウェイトレスが頻繁に水を注ぎに来たりして、暗に「追加オーダーはないの?」というプレッシャーをかけられたりするものだが、ハンモックカフェではそういうことは一切ない。完全に放っておいてくれるのだ。

 店の柱にいくつものハンモックを吊り下げたメコンデルタ地方だけに見られるカフェのことを、僕は勝手に「ハンモックカフェ」と呼んでいた。正式名称は知らない。たぶんただの「カフェ」だと思われる。


[南国独特の気怠さに包まれているハンモックカフェ。誰も動かない。]

 ハンモック自体は小柄なベトナム人に合わせて作られているので、比較的大柄な僕には少々窮屈である。でも足を思いっきり投げ出して、吹き抜けていく穏やかな風に身を任せているときの心地よさは、何ものにも代えがたい。母親の胎内にいるような、とろんとしたまどろみの中に吸い込まれていく。僕はそれほど寝付きがいい方ではないのだが、ハンモックに横になると1分も経たないうちにストンと意識が落ちていくのだった。


[ハンモックはどこでも吊り下げられている。市場の物売りたちも、人が来なくなったらハンモックで寝てしまう。]

 初めて訪れる土地の、初めて入るカフェ。それなのに、どうしてここまで緊張の糸を緩めてしまえるのか。それが自分でも不思議だった。どうやらハンモックカフェには徹底的に人をルーズにしてしまう魔力があるらしい。

 ハンモックカフェ唯一の欠点は、あまりにも居心地がいいので、次の移動が億劫になってしまうことである。30分だけ昼寝をしようと入ったのに、それが1時間に延び、2時間に延びてしまうのだ。アニメの『一休さん』のように、「慌てない慌てない。一休み一休み」というセリフをつい口にしたくなってしまう。

 ハンモックカフェに入ったときには必ず「カフェダー」を注文した。カフェダーとはベトナム語でアイスコーヒーのこと。ベトナム北部ではホットコーヒーの方がポピュラーなのだが、年中暑い南部ではアイスコーヒーに人気が集中している。

 カフェダーを注文すると、氷をいっぱいに入れた大きなグラスと、コーヒーを溜めるための小さなグラスが一緒に運ばれてくる。小さなグラスの上には、挽いた豆を入れた金属製のコーヒーフィルターがかぶせてあって、そこから濃いコーヒーの滴がポタポタと落ちてくる。待つこと数分。コーヒーの滴が全て小グラスの中に溜まると、それを氷の入った大グラスに注いでかき混ぜる。コーヒーの原液は非常に濃く、砂糖も大量に入っていて甘いので、グラスの中の氷をざくざくと溶かして味を薄めながら飲む。氷の量が圧倒的に多いので、最初はコーヒー味のかき氷を飲んでいるような感覚に近いかもしれない。


[カフェダーを頼むと出てくる三点セット]

 カフェダーには温かい緑茶を入れたミニポットも必ず一緒に付いてくるのだが、この扱いが謎だった。僕が観察したところ、アイスコーヒーを飲み終わったあとに緑茶を注いで飲む「コーヒー→緑茶」派が主流を占めているようだったが、コーヒーを飲み終わらないうちに緑茶を注いでしまう「コーヒー+緑茶」派も少なくなかった。後者が邪道なのかどうかはよくわからない。いずれにしても、同じグラスで飲むのだから、ふたつの味が混ざってしまうのは避けられない。緑茶っぽいコーヒーか、コーヒーっぽい緑茶のどちらかにはなってしまうのだ。


[カフェダーの上から緑茶を注ぐと、緑茶風味のアイスコーヒーが出来上がる。]

 僕は「コーヒー+緑茶」派だった。あまりにも暑くて喉が渇いていたので、濃いコーヒーがゆっくりと氷を溶かすのを待っていられなかったのだ。「コーヒーにお茶を混ぜるなんて味オンチのすることだ」と言う人もいるだろう。僕も最初はそう思っていた。でも試しにやってみると、これが意外にイケるのだ。旅の後半になってくると、ただのコーヒーよりも緑茶風味が付いたコーヒーの方を美味しいと感じるようにさえなった。

 カフェダー以外にも、ベトナムでは実に様々なところで氷が使われている。コーヒーやサトウキビジュースなどの飲み物に氷を入れるのはもちろんのこと、甘味屋で出されるプリンの上にも砕いた氷がのせてあったし、食堂で出てくる「化学おしぼり」の袋にもなぜか氷が添えられていた。ひんやりとしたおしぼりで顔を拭いてひとときの涼を取ってください、という意味のサービスなのだろう。しかし氷入りのビールだけは勘弁してほしかった。ビールはコーヒーみたいにあらかじめ濃く作っておくことができないから、やたら水っぽくなって飲めたものではなかったのだ。

 農村には電気冷蔵庫というものがまだあまり普及していないから、食料品を保存するのも氷の役目である。ベトナム戦争終結直後に、ベトナム政府は「今後5年以内に、全ての家庭にテレビと冷蔵庫を行き渡らせる」という目標を掲げたというのだが、それは30年経った今でも達成されていない。テレビは安い製品が出回るようになったおかげで大半の家庭に普及したのだが、冷蔵庫の普及率は相変わらず低いままである。その日食べる食料は市場で新鮮なものを買えばいいし、冷たい飲み物は氷を入れて作ればいいと考えている庶民には冷蔵庫なんて必要ないのだ。もっとも、いま仮にベトナムの全家庭に電気冷蔵庫が普及したら、たちまち電力事情がひっ迫するのは間違いないところだが。


[氷作りの現場。あまり衛生的には見えなかった。]

 旅行者にとって、ベトナムの氷は「危険物」のひとつである。生水を飲んでお腹を壊す危険性はミネラルウォーターを買うことで回避できるが、ありとあらゆる場面で使われている氷を避け続けることは、ほぼ不可能だからだ。ベトナムの氷には衛生的な水から作った氷と、生水から作った氷の二種類があるらしいが、砕いてグラスに入れられた後からそれを見分けるのは難しい。外国人観光客が多く訪れるようなカフェであればたぶん問題ないだろうが、地元の食堂で出てくる氷はかなりデンジャラスだ。短期旅行者なら避けるのが無難だろう。

 僕が実際に目にした製氷工場も衛生的とは言い難かった。氷は長さ1メートルほどの細長い羊羹型の筒の中で作られているのだが、原料となる水が一体どこから引かれてきたものなのかよくわからなかった。出来上がった氷の扱いも雑で、地べたにそのまま置いていた。これなら雑菌が入り込む余地はいくらでもありそうだった。

 製氷工場で作られた氷は船で運ばれていた。メコンデルタ地方の家屋の多くは運河のそばに建てられているので、船で運搬するのがもっとも便利なのである。運送コストだって安いに違いない。

 不思議なのは、工場で作られた氷を船まで担いで運ぶ「氷運び人」の存在だった。運搬船が停泊している運河と製氷工場のあいだには、一本の国道が走っている。バスやトラックやバイクなどが頻繁に往来する交通量の多い道だ。つまり「氷運び人」たちは重い氷を肩に担いだまま、バスやバイクを避けて国道を横切るというかなりアクロバチックなことをしなければいけないのだ。しかも彼らはそれを一日に何十回、何百回と繰り返すのである。


[製氷工場から運河まで氷を運ぶ職人たち。交通量の多い道路もなんのその。]

 どうしてこんなにも面倒で危険な作業を、何人もの男が続けなければいけないのか、僕にはさっぱりわからなかった。氷を移動させるレールか何かを、道路の上に作れば問題は解決するんじゃないだろうか?
 そんな疑問をベトナムに長年住んでいる日本人にぶつけてみると、「そんな仕組みを作ったら、『氷運び人』の仕事がなくなって、失業しちゃうじゃないですか」と言われた。確かにその通りである。きっと「氷運び人」の賃金はレールを作るコストよりもずっと安いのだろう。




[このレールの先に氷運搬船が待っている。]

 とまぁ、その存在自体が不思議な「氷運び人」ではあったが、仕事ぶりは実に見事だった。レールの上を滑ってくる氷を肩でキャッチするときの無駄のない動きや、国道を走るバイクの列を巧みに避けるときの軽やかな身のこなしなどは、一種の職人芸の域に達していた。しかしそれはそれとして、「この技術を何か別のことに生かせないのか?」と考えてしまうのは、僕だけではないと思う。


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by butterfly-life | 2011-09-28 14:33 | 東南アジア旅行記
ベトナムのちょいワル酒好き漁師たち
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 ベトナムの漁師たちはとにかく酒が好きだった。まだ午前中だというのに、輪になって酒盛りを始めている男たちも珍しくなかった。

 漁師の朝は早い。日の出前に出漁して、日が高くならないうちに浜に戻ってくる。それで本日の仕事はお終い。あとはゆっくりと酒を飲みながら、長い午後を過ごすのである。僕も相当に気楽な身分だけど、彼らだって負けてはいない。ベトナムの男性はあまり熱心に働かないことで有名だが、その中でも漁村の男たちの怠けっぷりは群を抜いているように見えた。

 ベトナム中部にあるプオックハイという漁村にも、昼間から酒宴に興じる漁師たちが大勢いた。漁師たちはいくつかのグループに分かれて酒を酌み交わしていた。二十歳前の新人グループは比較的おとなしく飲んでいたが、彼らよりも年上で長髪と入れ墨が特徴の「ちょいワル」グループは大声で盛り上がっていた。所帯持ちの中年グループは将棋を指しつつじっくりと飲んでいる。


[ベトナムの将棋(?)]

「おい、兄ちゃん、一緒に飲もうや!」
 浜辺をぶらぶら歩いていた僕を酒宴に誘ってくれたのは「ちょいワル」たちだった。みんなすでに酔っぱらっているらしく、ろくに英語も話せないくせに、「ハロー!」などと言いながら、僕を輪の中に引っ張り込んだのである。


[若者のグループが酒の席に誘ってくれた。]

 ひと通り自己紹介が終わると、さっそくリーダー格の茶髪の若者が酒を振る舞ってくれた。ジオウという名前の米焼酎である。ジオウはアルコール度数が40度近くもある強い酒なのだが、氷を入れたりジュースで薄めるようなことはせずに、ストレートで飲む。小さなグラスに注いだものを一気にあおるのである。

 ジオウを飲み下すと、カーッと熱い感覚が喉を通って胃の粘膜にまで達するのがはっきりとわかる。味なんてあってないようなもの。もちろん酔いはすぐに回ってくる。漁師たちの気性と同じようにかなり荒っぽい酒なのだ。
「ねぇ、あんたたちさ、仕事はやらなくていいの?」
 僕はジオウを飲み干すと、ちょいワル漁師たちにそう訊ねてみた。気楽に酒を飲む男たちを尻目に、女たちは実に忙しそうに働いていたからだ。水揚げされた太刀魚を籠に入れて運ぶ女、包丁で魚を開いて干物を作る女、小魚から魚醤「ヌックマム」を作る女。みんな真面目に働いている。


[漁村の女たちは働き者だ。]



「いいんだって。海に出て魚を獲るのが俺たちの仕事。ああいうのは女たちの仕事」
 リーダー格の茶髪は身振りを交えながらそんなことを言った。なるほど、一応筋は通っている。男は荒波に揉まれ、女は港を守る。俺たちはもう十分に働いたから、あとは女たちに任せればいい、というわけだ。


[魚の干物を作るのも女たちの仕事。]

 ベトナムは社会主義国ということもあって女性の社会進出がめざましく、他の東南アジア諸国に比べても女性の立場が強いように感じられる。しかしそのベトナムにあっても漁村だけは事情が違っていた。「海の主役は男」という伝統的な価値観がまだまだ強く残っているのである。


[漁網を繕う女たち。]

 しかしそうは言ってもめっぽう気が強いベトナム女性のこと。家に帰った飲んだくれ亭主に対して「ちょっとあんた、飲んでばかりいないで働きなさいよ!」なんて怒鳴りつけているんじゃないかと想像するわけだけど。

 昼間からジオウを飲む男を見かけたのは、漁村だけではなかった。北部山岳地帯に住む農民の中にも、町の市場で働く男の中にも、「一杯引っかけないと仕事が始まらないよ」と言わんばかりに朝からグイグイとジオウを飲む連中がいたのである。仕事の前からこんなに強い酒を飲んでまともに働けるんだろうかと疑問に思うのだが、本人たちはいたって平然としていた。

 もっとも、そんな半アル中みたいな男たちのことをとやかく言う資格は、僕にもなかった。ベトナムを旅しているあいだ、酒を飲まなかった日は数えるほどしかなかったのである。さすがに昼間から飲みはしなかったけれど、夕食はいつもジオウを飲みながら食べ、酔っぱらったままベッドに倒れ込み、そのまま眠りに落ちるという毎日だったのだ。朝から晩まで走り続けて疲れた体が、強いアルコールを切実に求めていたのである。

 ジオウは一般の流通ルートに乗らない地酒なので、酒屋で買い求めるのではなく、食堂で直接注文する。食堂の奥には使い回しのペットボトルに入れられたジオウが何本か並べてあって、そのうちの一本を持ってきてくれるのだ。500ml入りで値段は70円ぐらい。とにかく安い酒である。

 いつものように食堂でジオウを頼んだのに、なぜか出してもらえなかったことが一度だけあった。国道1号線沿いの町ヴァンニンでの出来事だった。
「ジオウはないよ」
 と店のオヤジは言った。僕は言葉を失った。まさか。ベトナムの食堂にジオウがないだなんて。それはフレンチレストランで「当店にはワインがございません」と言われるのと同じぐらいあり得ないことだった。

「どうして?」と僕は言った。
「ジオウはあるんだよ」と店のオヤジは言った。「でもあんたには飲ませられない。あんたはバイクに乗っているからな」
 オヤジは僕が店の前に止めているバイクを指さした。
 なるほど。それで納得した。彼は「バイクに乗っている人間がジオウを飲めば、飲酒運転になるからダメだ」と諫めているのである。
「確かにあんたの言う通りだ。俺が悪かった」
 僕は素直に謝った。彼の言い分が完全に正しかったからだ。
「わかりゃいいんだよ」とオヤジは頷いた。


[海辺の食堂で食べたイカのコム。これは絶品だった。]

 ベトナムでは「飲酒運転が罪だ」という意識は薄いし、警察が取り締まりを行っているという話も聞いたことがない。だから昼間から酒を飲んで赤い顔をしたおじさんが、ごく当たり前にバイクに乗ってその辺を走っているのである。きっとこのオヤジさんは、そういう現状に対して強い不満を持っているのだろう。酔っぱらい運転での事故の例をたくさん知っているのかもしれない。だからこそ、自分の店の売り上げを度外視して「酒は出せない」と言ったのである。

 仕方がない。今日は酒抜きの夕食にしよう。そう思った矢先、オヤジは思わぬことを口走った。
「ビールだったらあるよ」
「ビ、ビールだって?」僕は目を丸くした。「ビールなら飲んでもいいっていうのかい?」
「ジオウはダメだ。あれは強すぎる。寝る前に飲む酒だ。でもビールならいい。あれは酒じゃない」
 よくわからない理屈だった。無論ビールだって立派な酒である。アルコール分は薄いが、量を飲めばジオウと同じように酔っぱらうし、飲酒運転にもなる。これは日本でもベトナムでも同じである。

「なぁ、あんたジオウはやめて、ビールにしておきなって。うちにはいろんな種類が揃ってるからさ」
 オヤジは耳元で囁いた。
「・・・なんだ、そういうことだったのかよ」
 僕は全身の力が抜けていくのを感じた。このオヤジは「飲酒運転はいけない」という正論を主張する立派なベトナム人などではなくて、ただ単にビールを飲ませたかっただけだったのだ。きっと「安いジオウよりも値段の高いビールを飲ませた方が売り上げアップになる」という計算が働いたのだろう。

「いいよ。今日はジオウもビールも飲まないから」
「まぁそんなこと言うなよ。サイゴンビールはグッドだぜ。333(バー・バー・バー)ビールも悪くない」
 オヤジは盛んに国産ビールを勧めてきたが、結局僕は何も飲まずに夕食を済ませた。残念ながら(ある意味では当然かもしれないが)、この店の出す料理は高くてまずいうえに量も少なかった。まったく。


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by butterfly-life | 2011-09-26 14:42 | 東南アジア旅行記
ベトナムの一寸法師船と足漕ぎボート
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 一瞬たりとも気の抜けない危険な道・国道1号線を走ることにいい加減うんざりしてくると、小さな漁村に立ち寄って気分転換を図った。

 ベトナムの漁村はとても穏やかな気持ちになれる場所だった。白い砂浜と青い海。椰子の並木が続く海辺の道。魚の干物を並べた棚と、木陰で昼寝する猫。昼下がりの漁村をぶらぶらと歩いていると、初めて見るはずなのにどこか懐かしさを感じるような風景に出会えるのである。 



 ベトナムの町――特に内陸部の田舎町――を歩いていると、社会主義国ならではのよそよそしさを感じることがあった。町の規模に比べて道幅がやたら広く、きっちりと区画整理がされていて、どこか堅苦しいのである。アジアでありながらアジアっぽさが希薄なのだ。

 しかし、沿岸部の漁村はそんな堅苦しさとは無縁だった。細い路地が迷路のように複雑に入り組み、開け放たれた窓から家族の話し声や食事の匂いなどが溢れ出している。人々は軒下に座ってトランプに興じたり、世間話をしたりしながら、気怠い午後をやり過ごしている。そこに漂う濃密な生活の匂いは、まぎれもなくアジアそのものだった。


[竹籠舟を操って沖と浜辺を往復する。]

 ベトナムの漁村でひときわ目を引くのが「竹籠舟」である。これは竹を編んで作った直径2メートルほどのお椀型の舟で、絵本の世界からそのまま飛び出してきたかのようなポップでかわいらしい乗り物だ。これが人を乗せてぷかぷかと波間に漂っているのを見ると、「おぉリアル一寸法師!」と叫びたくなった。

 ちなみにこの竹籠舟の表面には防水のためにコールタールが塗ってあるので、見た目ほどヤワではない。高い波が来ても簡単には転覆しないようにできているのだ。シンプルだけど、ちゃんと実用に耐える乗り物なのである。漁師たちはこの竹籠舟を、主に沖合に停泊している漁船と浜辺との往復に使っていた。遠浅の砂浜では、浜辺の近くに漁船を泊めておくことができないからだ。




[小さな男の子も竹籠舟に乗っていた。]

 漁師たちを乗せた竹籠舟は早朝に沖合に向かい、昼頃になると浜辺に戻ってくる。「獲物」を満載して戻ってくる舟もあれば、空振りに終わった舟もある。水揚げされた魚は浜辺で待つ女たちによって競り落とされ、市場まで運ばれていく。少しでも安い値段で買おうとする女と、少しでも高い値段で売りたい女との、熱いバトルが繰り広げられるのはこのときだ。表情は真剣そのもの。ときにはつかみ合いの喧嘩が始まることさえある。ベトナム女性の気の強さを改めて実感する瞬間だ。このバトルに男は参戦しない。もし男がこの中に入っても、女たちの迫力に圧倒されて終わることだろう。


[浜で魚を売り買いするのは女たちだ。]


 ラギという港町には竹籠舟はなかったが、その代わりに「足漕ぎボート」が港を行き交っていた。普通の手漕ぎ式ボートのオールを足の裏で握り、自転車を漕ぐような要領でクルクルと回転させながら進むのである。ふざけているわけでも横着をしているわけではなく、このあたりの人はみんなこのやり方でボートを漕いでいるのだ。手よりも足の方が楽なのだろうか。


[このような漕ぎ方がラギのスタンダードだった。]

 ラギの港の船着き場では、この足漕ぎボートがまるで駅前のタクシー乗り場のように何十隻も集まって客を待っていた。これは面白い絵だなと思ってすかさずカメラを向けると、まだ十代の若い女の子が「あたしを撮んなよ!」と弾んだ声を掛けてきた。すげ笠の似合うなかなかの美人だった。

 彼女の笑顔を見た瞬間、僕の頭にあるアイデアが閃いた。この子のボートに乗せてもらえれば、多くの船が行き交う港の活気をそのまま写真に写せるのではないかと思ったのだ。

 唯一の問題は、僕が運賃の相場を全く知らないということだった。これまでの旅の中で、ベトナムの物価水準はだいたい把握していたのだが、ボート一隻をチャーターするのに一体いくら必要なのか、見当がつかなかったのだ。

 案の定、僕が女の子を相手に値段の交渉を始めると、近くにいたおばちゃんが機先を制するように、「5万ドン!」と声を張り上げた。5万ドン(380円)というのはいくら何でも高すぎる。僕は「それじゃ話にならないよ」と首を振った。さらに「そんなに高いんなら、別に乗らなくたっていいんだぜ」と船着き場を後にするような素振りも付け加えた。

 言葉が通じない場での交渉では、多少オーバーアクト気味でもいいから、まずこちらの意志をはっきりと伝えることが重要だ。安かったら乗るけれど、高かったら乗らない。足元を見るような真似はしないでくれよ。そうやって交渉の主導権を握るわけだ。
「じゃあ3万ドンだね」
 と交渉役のおばさんは言った。声のトーンは若干落ちていた。
「それでも高いねぇ」
 僕は渋い顔をして腕を組む。でも感触は悪くない。
「なら2万ドン! これで最後だね」
 おばさんは指を二本立てて、左右に振った。意外にあっさり下がるものだと思った。向こうだって外国人相手に値段の交渉するのは初めてなのだろう。もう少し粘れば1万5000ぐらいまでは下がりそうだ。そんな風にも思ったが、結局2万ドンで手を打つことにした。特別な注文を出しているのだから、いくらかボーナスを弾むぐらいがちょうどいいだろうと思ったのだ。

 足漕ぎボートでの港巡りの旅は予想以上に面白かった。狭い港の中を多くの船が忙しなく行き交う様子は、首都ハノイのラッシュアワーにも似た活気があり、それを眺めているだけでも十分に楽しかったのだ。


[18歳のチャンのボートに乗った。]

 漕ぎ手はチャンという名前の18歳の女の子だった。彼女は上体を少し斜めに反らせた格好でオールを足で踏みつけながら、ゆっくりとボートを進めた。漁船の立てる大きな波を巧みに避け、左右から迫ってくる他のボートと一定の距離を保ちながら慎重にボートを操る姿は、道を知り尽くしたベテラン運転手のようだった。おそらく学校を卒業してからずっとこうして働いているのだろう。

 僕がカメラを向けると、チャンは被っていたすげ笠でさっと顔を隠してしまった。さっきは「あたしを撮んなよ!」なんて威勢のいいことを言っていたのだが、それは仲間がいる前ではしゃいでみせただけだったのだろう。こうして二人きりで向かい合うと、急に照れ臭くなってしまったようだ。

 それでも、しばらく向かい合って時を過ごすうちに彼女の頑なさも少しずつ緩んでいき、短い旅の終わりにははにかんだ顔を向けてくれるようになった。海の向こうに沈みゆく夕陽が、チャンの笑顔を印象的に浮かび上がらせていた。



 ひとつだけ残念だったのは彼女と話らしい話ができなかったことだ。聞きたいことはたくさんあったのに、言葉の壁のせいで、ほとんど何も聞き出せなかったのだ。せっかく二人きりで公園のボートに乗ったのに、手も握れなくてがっかりと肩を落とす高校生のような気分だった。

「あんた、この子に抱きついたんじゃないだろうね?」
 30分ほどの短い船旅を終えて、僕らが船着き場に戻ってくると、料金交渉を買って出たおばさんがひやかし気味に言った。彼女が喋る言葉はわからないが、身振りと表情から言いたいことは何となく伝わってきた。
「僕は抱きつきたかったんだけどね、彼女が『ノー』って言ったんだよ」
 僕が残念そうに言うと、周囲は笑い声に包まれた。ただ一人チャンだけが、「なんてこと言うの!」という顔で僕を睨んでいた。


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by butterfly-life | 2011-09-24 11:40 | 東南アジア旅行記
ベトナムの美白ブームと昔ながらの塩田
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 青い空を見上げたい。
 思う存分、日の光を浴びたい。
 僕はひたすらそれだけを願いながら、国道1号線を南下していた。

 この2週間近く、僕はずっと春先のベトナム北部特有の憂鬱な天気に悩まされていた。毎日どんよりとした曇り空を見上げてはため息をつき、いつ降り出すかわからない雨の心配をしながら旅を続けることにとことんうんざりしていたのだ。南に下れば天候が回復することはわかっていた。問題はいつ青空が現れるかだった。



 国道1号線はベトナムの大都市を結ぶ「大動脈」である。首都ハノイも、古都フエも、リゾート地ニャチャンも、最大都市ホーチミン市も、全てこの国道1号線で結ばれているのだ。しかし国道1号線をバイクで走るのは決して簡単ではなかった。疲労度だけで言えば、あの悲惨な泥んこ道208号線よりも上だったかもしれない。もちろん舗装状態は良いし、アップダウンやカーブも少ないから、本来なら楽々走れるはずなのだが、交通量が半端ではなかったのだ。

 ばい煙をまき散らしながらノロノロと走るトラック。それを追い抜こうとクラクションを鳴らす高速バス。ブヒブヒと泣きわめく豚を荷台にくくりつけて運ぶバイク。下校途中の学生たちの自転車の列。そんな多種多様な乗り物を巧みに避けながら、一定のスピードを保って走り続けるのは、非常に神経を使う仕事だった。

 一番厄介なのはわき道から不意に飛び出してくる無鉄砲なバイクである。彼らは後方確認を全くせず、スピードも緩めないまま、いきなり目の前に現れるのである。「衝突を回避するのは後方車の役割だ」と決めてかかっているのだ。この無茶な運転には何度もヒヤリとさせられた。あと数センチでぶつかるというところまで接近されて、慌ててブレーキをかけて難を逃れたということも、一度や二度ではなかった。

 彼らがなぜ自分の大切な命を見知らぬ他人の手に委ねてしまえるのかが、僕にはどうしても理解できなかった。運転マナーの良い日本でなら、こういう自己中心的な運転をしていても回りが迷惑するだけで済むかもしれない。でもベトナムは違う。後方車がよそ見をしているかもしれないし、携帯電話をいじっているかもしれない。二台並んで走るバイク同士でぺちゃくちゃとお喋りをしているかもしれない(実際こういう奴らがたくさんいるのだ)。ちゃんと避けてくれる保証なんてどこにもないのである。それでも衝突して死ぬのは、飛び出した自分なのだ。こういう手合いを見ると、「自分の命ぐらい自分で守れよ!」と怒鳴りつけたくなってしまう。

 待ち焦がれていた青空が現れたのは、予想していたよりもずっと早かった。ハノイから300キロ南に下ったところにあるヴィンという町で雲が切れたのだ。
「これでもう曇り空とはお別れだ!」
 一気にテンションが上がったが、興奮は長続きしなかった。青空がもたらした気温上昇があまりにも急激だったのだ。僕は防寒のために着ていたウィンドブレーカーを脱ぎ、長袖のシャツも脱いでTシャツ一枚になった。それでもまだ暑かった。


[ベトナム南部の日差しは強烈だった。砂浜では女たちは頭にすげ笠を被り、子供が日傘を差していた。]

 ヴィンからさらに100キロほど南下したところにあるキアインという町では、体温を上回る暑さになった。おそらく40度を超えていただろう。強い日差しが容赦なく肌を焼き、乾いた熱風が体から水分を奪っていく。僕は何度もサトウキビジュースを売るスタンドに寄って、水分を補いながら進んだ。わずか数日前まで、北部の山の中で寒さに震えていたのが嘘のようだった。

 これじゃ「北風と太陽」そのものじゃないか!
 確かに僕は心から日の光を求めていた。でも、ここまでの暑さは求めていなかった。どうしてこうも極端なんだ? 君には中間ってものがないのかい?
 僕は照りつける太陽に向かってそう訴えたかった。




 バイク旅行者にとってベトナム中南部の強い日差しはとても厄介だったが、その恩恵を受けているものもあった。それが塩田である。ビーチリゾートとして有名なニャチャン周辺をはじめ、中部から南部にかけての海岸線には大規模な塩田が並んでいた。強烈な日差しと、海からの風と、乾燥した空気。塩作りに必要な条件が全て揃っているのだ。



 ベトナムの塩は人の手と太陽の光に頼った昔ながらのやり方で作られている。海水を10メートル四方ほどの大きさに区切られた塩田に引き入れて、照りつける太陽の熱で水分を蒸発させていくと、やがて塩分だけが白い結晶となって地面に残る。それを木のスコップのような道具でかき集めるのである。


[塩水を塩田の中に引き入れている少女。]

 こうして作られた塩は、ミネラル分を多く含んだ良質の天然塩として有名で、日本にも輸出されているという。手間暇をかけて作られた塩は、工業的に作った塩よりも美味しいのだ。

 僕はいくつもの塩田を訪れ、そこで働く人々の写真を撮ったが、その中でも特に印象的だったのは「塩を叩く」姿だった。彼らは学校の校庭を平らにならすときに使う「トンボ」に似た道具を持ち、それで塩田の土をペタペタと叩いていた。その作業によってどんな効果がもたらされるのか、僕にはもうひとつよくわからなかったのだが、どの人も真剣な面持ちで取り組んでいたから、塩作りには欠かせない工程なのだろう。


[トンボのような道具を使って塩田を叩く。]

 結晶化した塩をザルにかき集め、それを天秤棒で担いで運ぶのは女たちの仕事だった。女たちは頭上からの直射日光と足元の塩からの反射光の両方に晒されるので(ちょうど快晴のスキー場にいるみたいな状態だ)、肌を全く露出させない完全防備スタイルで仕事に臨んでいた。頭にはすげ笠を被り、顔には大きなマスクを着け、両手にはゴム手袋をはめている。外に出ているのはふたつの目だけ。その姿は戒律の厳しいイスラム教徒の女性のようでもあった。


[女たちは完全防備で仕事をしていた。]


[集めた塩が山のように積み上げられていく。]

 ベトナム人女性の日焼けに対する危機感はかなり高い。ベトナムでも日本と同じように「美白ブーム」に湧いていて、特に若い女性は屋外で素肌を晒すのをとても恐れていた。たとえ屋内であっても、昼間はずっと帽子を被ったまま過ごすという女性もいるほどだった。
 そんなわけで、外で働くベトナム女性の「素顔」を写真に撮るのは、(イスラム女性並みとは言わないまでも)なかなか難しかったのである。






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by butterfly-life | 2011-09-22 13:40 | 東南アジア旅行記
少女時代に頭の毛を全て抜いてしまう。ベトナム北部の少数民族の風習
■ 東南アジア旅行記(16) 毛のない民族の美の基準 バックナンバーはこちら ■

 ベトナム北部では様々な少数民族に出会ったが、その中でもっとも印象深かったのが、カオバン省にあるティントゥックという町の近くに住む女たちだった。彼女たちはもんぺのように裾のすぼまったズボンを履き、腰にエプロンのような布を巻き、頭にタオルを被って農作業を行っていた。


[頭にタオルを巻いた少数民族の女の子。]

 さっきも書いたように少数民族の写真を撮るのはなかなか難しいのだが、彼女たちは比較的オープンな性格らしく、僕がカメラを向けるとニコニコと笑ってくれた。久しぶりにいい笑顔に出会えたな。そう思いながら何回かシャッターを切ったのだが、その笑顔に何となく違和感があった。屈託のない笑顔なのに、何だか少し怖いのだ。

 違和感の原因は眉毛にあった。彼女たちには眉毛が一本も生えていなかったのだ。まるで昔のヤンキーのように眉の部分がツルツルなのである。それだけではなかった。頭の毛も全く生えていなかったのである。頭にタオルを被っているのであまり目立たないのだが、隙間から覗く頭皮はやはりツルツルだったのである。

 最初はお坊さんのようにカミソリか何かで剃っているのだろうと思ったが、そういうわけでもなさそうだった。髪の毛を剃ったあとに見られるはずの黒い点々(毛根の断面)が、彼女たちにはなかったのだ。
 もしかしたら「剃っている」のではなくて「抜いている」のではないか。そう思って彼女たちの頭皮を見直してみると、やはり細い毛が数本ちょろちょろと生えているのが見えた。それは髪の毛があらかた抜け落ちた老人のようにか細い毛だった。


[毛のない女たちは畑を耕し、牛の糞を混ぜた堆肥をまいて、種蒔きに備えていた。]

 つまりこういうことだ。この民族の女たちは幼い頃から眉毛や頭髪を一本一本抜き続けてきた。そのせいで毛根が死んでしまったので何も生えなくなった。そう考えるのが自然だった。
 あとで聞いたところによると、やはりベトナム北部には毛髪を抜く習慣を持つ民族がいるらしい。なんでも「昔、村の女が髪の毛が入ったスープを誤って飲んでしまい、それが原因で死んでしまった。それ以来、その村では女が髪の毛を伸ばすことがタブーになった」という言い伝えがあるのだそうだ。


[少女の頃からすでに毛を抜き始めている。]

 僕が出会った女たちが、この言い伝えを知っているのかどうかはわからない。おそらく何世代も前から始まったタブーだろうから、今となっては彼女たち自身も毛を抜く理由は知らないのかもしれない。

 文化というのはそういうものだ。もともと何かの理由で始まったものが、世代を経るにつれて理由そのものは忘れ去られ、その形式やタブー意識だけが受け継がれていく。おそらく今の彼女たちには、毛を抜くことが「おしゃれ」だという意識の方が強いのではないかと思う。毛がないことが美しく、毛があることが醜い。それがこの民族の「美の基準」なのだ。


[少数民族の中にはお歯黒をしている人もいる。]

 その「美の基準」がヘンであるとは誰にも言えない。彼女たちが「ヘン」であるとすれば、僕らだって同じように「ヘン」なのだ。例えばわき毛である。一般的に、おしゃれを意識する日本人女性のほとんどが、わき毛を剃るか脱毛処理している。吊革につかまっている20代の女の子のわきの下がフサフサだったら、たいていの人はぎょっとするはずだ。しかしそれは肉体的な必然性があってやっていることではない。ただ何となく「女のわきはツルツルなもの」という意識が共有されているだけに過ぎない。実際、世界にはわき毛を剃らない女性がたくさんいる。

 反対に、「髪は女の命」なんて言葉もあるくらい、日本人女性にとって毛髪は自分の美しさを引き立てる重要な要素である。編んだり、縮れ毛にしたり、刈り上げたり、長く伸ばしたり、違う色に染めたり、様々に工夫を凝らしている。でもそのヘアスタイルだって、そのときの流行によって大きく変わりうるものである。流行に決まった方向性があるわけではない。今の時点で、50年後の日本で流行っている髪型を予測できる人なんているだろうか?


[鮮やかな民族衣装を着て畑を耕す女。]

 「美の基準」というのは実に気紛れでローカルなもの。それを毛のない女たちは教えてくれている。女らしさも男らしさも、美しさも醜さも、育ってきた文化によって違うのである。

 その一方で、本来バラバラだった「美の基準」が急速に均質化されているのも事実である。移動手段とメディアの発達によって異なる文化に触れる機会が増えるにつれて、自分たちのあいだだけで通用していた「美の基準」が、他者の目にもさらされるようになったのである。


[キンバ族の男性は独特の民族衣装を着ている。]

 このようにしてふたつの異なる「美の基準」がぶつかり合ったとき、通常はより力を持っている方の基準が新しいスタンダードとして採用されることになる。欧米人の誰かが勝手に始めた「ミス・ユニバース」が、あたかも世界中の女性美のスタンダードであるかのように受け取られている現状を見れば、それがよくわかる。反対に「毛なし文化」が全ベトナムに、あるいは全世界に広がることはまずあり得ない。それは彼女たちが圧倒的な少数派だからだ。


[民族衣装のエプロンが干してあった。]

 今まで自給自足的に暮らしていた山岳少数民族の人々も、町で他の民族と交易をするようになったり、電気が通ってテレビを見るようになることで、他者の「美の基準」を知るようになるだろう。それによって彼女たちは民族衣装を脱ぎ、ベトナム風の、あるいは欧米風のファッションに着替えるかもしれない。サパなどベトナム北西部の町では、すでにそのような変化が起こり始めているという。



 この流れは誰にも止めることができないし、無理に止めるべきものでもないのだと思う。問題は変化の速さだ。少数民族の伝統や文化は、誰かが守ろうとしない限り、あっという間に失われてしまう。わずか一世代で。あるいは数年で。そして失われてから初めて、失ったものの大きさに驚き、後悔する。

 世界中でそのような歴史が何度となく繰り返されてきた。伝統を「後進性」だと捉え、画一化を「進歩的」だと言って。
 毛のない女たちにはそのような後悔をしてもらいたくない。できることならこの独自の文化を守り継いでいって欲しい。しかしそんな風に言えるのは、所詮僕が外部から来た旅人だからなのではないかという気もするのである。


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by butterfly-life | 2011-09-20 11:03 | 東南アジア旅行記
ベトナム北部の少数民族の暮らし
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 どうして彼らはこんなに厳しい土地で暮らさなければいけないのだろうか?
 ベトナム最北部をバイクで走り抜けながら、何度そう思ったことだろうか。石ころだらけの痩せた土地にクワを突き立てて耕し、猫の額ほどの小さな畑にトウモロコシや雑穀を植えて生活の糧を得る。そんな辺境の人々の質素な暮らしぶりは、肥沃な水田の広がるベトナム南部とは全く違っていた。


[目も眩むような急斜面を耕す女たち。]

 人々は驚くほどの急斜面で農作業を行っていた。角度にすれば45度から50度ぐらいはあるだろうか。スキーの経験者ならわかると思うけれど、50度の斜面というのは上から見下ろすとほぼ垂直に見える。しかも足場は柔らかく不安定なので、足を滑らせる危険とも常に隣り合わせなのだ。まさに命懸けの農耕だった。

 なぜなんだろう。この貧しい土地にそこまでこだわる理由は何なのだろう。
「ここが俺たちの生まれた土地だからさ」
 僕の素朴な疑問に対して、ある男はこんな風に答えた。この土地で生まれたのだから、この土地で暮らすのだ。他へ移るなんて考えられないし、考えたこともない。

 同じような言葉を、別の場所でも聞いたことがあった。4000メートルを超える高地で暮らすチベット族も、灼熱と乾燥のサハラ砂漠で暮らすベルベル人も、厳しい冬に耐えながら暮らすアフガニスタン北部の人々も、やはり「ここに生まれたから、ここに生きている」と言ったのだった。誇り高く、胸を張って。


[「猫の額」と呼ぶのが相応しいような小さな土地を、牛を使って耕していた。]



 どんなに厳しい土地であれ、そこに適応して生きていく。それは人間の持つ生命力の本質なのかもしれない。「ただ生きている」ということの強さと逞しさ。僕はそのことに強く打たれた。

 僕がベトナム最北部を訪れたのは今回が初めてだったが、目にする光景には不思議な懐かしさがあった。
 谷底まで続く段々畑。斜面にしがみつくようにして建つ家々。乾燥したトウモロコシをついばむ鶏や、首の鈴を鳴らしながら歩いている水牛。それらは、僕が以前ネパールの山村を旅したときに目にしたものとそっくりだったのである。


[子供が小さなきょうだいの面倒を見ている。]

 まだ五、六の女の子が幼いきょうだいを抱いている姿も、ネパールでよく見かけたものだった。現在、ベトナム政府は中国の「一人っ子政策」に習った「二人っ子政策」を強力に推進している。その甲斐あって、都市部はもちろんのこと、農村地域でも子供の数は二、三人が普通なのだが、北部の辺境地域だけは様子が違っていたのだ。六、七人の子供を持つ夫婦もいまだに多く、親や祖父母だけではとても面倒を見られないので、子供たちにも赤ん坊の面倒を見させているのである。


[山から切り出した薪を運んでいる女の子。燃料の確保も大きな問題だ。]

 あたりに漂う匂いもネパールとよく似ていた。家畜の糞が混ざった畑から立ちのぼる濃密な匂いや、人々の衣服に染み付いた汗の匂いや、家の中に漂う湿っぽい土壁の匂い。決して良い香りとは言えないものばかりだけど、それぞれの匂いには目をつぶっていても人々の暮らしぶりが浮かび上がってくるような、くっきりとした輪郭があった。

 ネパールとベトナム北部とでは距離も離れているし、文化も宗教も違う。にもかかわらず人々から発する匂いがとてもよく似ているというのは新鮮な驚きだった。
 斜面を耕し、雑穀を植え、雨を待ちながら暮らす。そのような山岳民としての共通性が、彼らの匂いの中に表れているのだ。


[牛を追って歩く女の子たち]


 メオバックという町の近くで、週に一度開かれるという朝市を訪ねた。少数民族の暮らす山村では、このような定期市がいくつか開かれているのだが、その中でも大規模な市のそばをたまたま通りかかったのである。


[アイスキャンディーを手にしたアオザイザオ族のおばさん。]

 市場には付近の村々から大勢の人が集まっていた。売り手も買い手も大半は女たちであり、しかもどの人も独自の民族衣装を身にまとっていたから、とても華やかな雰囲気だった。中でも緑色の派手な服を着たモン族や、巨大な帽子を頭に載せたアオザイザオ族は印象的だった。

 市場では様々なものが売り買いされていた。肉や野菜などの食料品や日用雑貨はもちろんのこと、畑を耕す際に使うクワを並べて売る人や、縦笛の実演販売をする人、小型のミシンを持ち込んで靴を直している人なんかもいた。その中でも特に人気が高かったのがアイスキャンディー屋だった。前にも書いたように、3月のベトナム北部はかなり冷え込んでいて、アイスキャンディーが欲しくなる季節ではないのだが、子供だけでなくおばさんたちも嬉しそうに棒付きアイスを買い求めていた。電気の通っていない村からやって来た人にとってアイスキャンディーとは「ここでしか食べられない特別なもの」であり、「ハレの日の象徴」なのだろう。


[アオザイザオ族のおばさんが売っていたのは手漉きの紙だった。]

 市場で写真を撮るのは簡単ではなかった。人々が写真に対してあからさまな拒絶を示すことはないのだが、カメラを持った外国人など最初から存在しないかのように無視されてしまうのである。
 どの国でも山岳少数民族というのはシャイだし、よそ者に対する警戒心がひときわ強いものである。逆に言えば、外の世界に対する閉鎖性と警戒心を持ち続けてきた者だけが、少数民族としての独自性を保てるのである。外のものを何でも受け入れるような人々なら、とっくに民族衣装を脱ぎ、マジョリティーのベトナム人と同化しているはずなのだ。


[酒とタバコが何よりも好き。]

 どのように振る舞えば自然な表情を向けてくれるだろうか。悩みながら市場を歩き続けた。言葉は通じないし、通訳もガイドもいない。そんな状況の中で僕を助けてくれたのはお酒だった。市場の一角には、自家製の焼酎を量り売りしている場所があったのだが、そこで売り子のおばさんたちと一緒に酒を飲むうちに、周りの人々の僕に対する視線が変わってきたのである。

 市場に集まっている少数民族は、それぞれに違う服装をし、違う言葉を話している。しかし酒と煙草が何よりも好きだという点では誰もが一致していた。この二つがないと生きていけないんじゃないかと思うぐらいだ。だから煙草を売る店と、酒を売る店の前はいつも大勢の人で賑わっていた。僕に対する視線が変わったのも、「あのよそ者も俺たち同じように酒好きなんだな」という安堵感が広がったからではないかと思う。


[米焼酎の味を比べる女性。売る方も買う方も真剣である。]

 少数民族の人々にとって、市場に集うこと自体が一種のお祭りなのだろう。生活に必要なものを手に入れるだけでなく、離れた集落に住む人同士が共に酒を酌み交わし、情報を交換し合うということも大切な目的のようだった。


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by butterfly-life | 2011-09-16 13:03 | 東南アジア旅行記
ベトナムの山道でバイクが崖の下に落ちていったときに考えたこと
■ 東南アジア旅行記(14) こんなところで死んでたまるか バックナンバーはこちら ■

 クアンバからイェンミンまでは九十九折りの山道だった。僕が乗っていたバイクは4段変速ギアなのだが、セカンドに入れないと進まないほどのきつい上り坂の連続だった。それは一歩間違えれば谷底へ真っ逆さまという恐怖の道でもあった。ごく一部にはガードレールが敷設されていたが、その他の部分は「落ちたい人は遠慮なくどうぞ」という状態だったのだ。


[ベトナム最北部ハザン省の山道は、このような急カーブの連続だった。]

 突然後輪がパンクしたのは、イェンミンの手前20キロのところだった。長旅をしていれば何度かパンクすることはあるし、すぐに修理屋が見つかれば何の問題もないのだが、今回はパンクした場所が悪かった。集落もほとんどない山奥だったのである。

 結局、パンクしたままの状態でイェンミンまで走り続ける羽目になった。もちろんスピードは上げられず、20キロの距離を1時間半もかけてノロノロと進み、ようやくイェンミンの町外れにある修理屋までたどり着いて、タイヤチューブを交換してもらった。パンクだけならパッチを貼れば直ったのだが、空気なしで20キロも走り続けたためにチューブ自体がダメになっていたのだ。それでも修理代金はたった3万ドン(230円)という安さだった。

 そんなこんなで、イェンミンの町に辿り着いたときにはもう日が暮れ始めていた。今日はこれ以上進めそうもないので、この町で宿を探すことにした。
 イェンミンは小さな町だったが宿は二軒あった。そのうちの一軒に入ってみると、部屋はあるという。値段も手頃だったし、ここに決めようと思ったのだが、フロントの女の子が妙なことを言い始めた。「パーミッションはありますか?」と聞いてきたのだ。パーミッション?

 ベトナムの宿では、宿泊者はまずフロントにパスポートを預けることになっている。ベトナム人の場合はIDカードでOK。これは無賃宿泊を防止するための決まりらしい。しかしこの宿ではパスポートとは別にパーミッション(許可証)が必要だという。そんなものを要求されたのは初めてのことだったし、そもそも許可証とはいったい何なのかもよくわからなかった。

「あなたはパーミッションを持っていないんですか?」
 彼女の表情が急に険しくなった。どうやら僕はまずいことを言ってしまったらしい。
「ノー。持っていません」と僕は肩をすくめた。
「それなら、泊めるわけにはいきません」
 彼女はきっぱりと言った。「どうして?」と訊ねても、彼女は「パーミッションがなければダメ」の一点張りだった。

 どうにも腑に落ちなかったが、これ以上粘っても無駄だろうと諦めて、もう一軒の宿に向かうことにした。しかしそこでも対応は同じだった。許可証の有無を訊ねられ、持っていないことがわかると、ここには泊められないと言う。その後はもっとひどかった。「許可証のない人間に構っている暇などない」とばかりに、フロントにいた男はさっさと奥に引っ込んでしまい、それ以降どれだけ呼んでも誰も表に出てこなくなってしまったのだ。まるで疫病神のような扱いだった。

 許可証を持っていない外国人はこの町に泊まることができない。どうやらそれがこの町を支配する鉄の掟のようだった。ハザン省はつい最近まで外国人の立ち入りを制限していたという話は知っていた。中国とベトナムは以前から緊張関係にあり、その国境地帯には外国人を入れたくないという政府の思惑があったのだろう。許可証というのはその時代の産物だと思われる。


[山間の集落は昔ながらの暮らしを送っている。]

 それにしても妙なのは警察の対応だ。実はこのイェンミンの町に来る前に、僕は二度も警官に止められていたのだ。一度目は省都ハザンを出るときで、二度目はクアンバの町だった。どちらも僕を外国人だとは思わずに止めてしまったらしく、ベトナム語が通じないとわかると怪訝な顔をされたのだが、僕がポケットからパスポートを取り出して渡すと、ろく調べもしないうちに「もう行っていいよ」と軽く手を振っただけで通してくれたのだった。

 もしこの地域に入るのに入域許可証が必要なら、検問の時にチェックするべきだろう。警察が入域を許可しているのに、宿がダメだというのはどう考えても理不尽な話だった。おそらく入域許可証の存在は、今では有名無実のものになっているのだろう。警察はもう許可証の有無を問題にはしない。あってもなくてもどちらでもいい。しかし宿の方は、万が一当局と揉めることになっては大変だと律儀に許可証制度を守り続けている。そんなところではないだろうか。

 とにかくこの町には泊まれないことになったのだから、他の町に移動するしかなかった。ただでさえ危険の多い山道を夜間に走るなんてことはできれば避けたかったのだが、そうも言っていられない状況に追い込まれてしまったのだ。

 僕は地図を広げて、宿がありそうな町をチェックした。今まで走ってきた国道4Cをそのまま先に進めば、40キロ先にドンヴァンという町がある。あるいは、来た道を50km戻ってクアンバで宿を探すこともできる。
 考えられる選択肢はこのふたつだったが、僕はクアンバに戻る方を選んだ。この先のドンヴァンはベトナム最北の町であり、ここよりもさらに辺境なので、再び許可証が問題になる可能性が高かったからだ。


[石ころだらけの土地を耕す少数民族の男。]

 疲れはピークに達していた。
 朝からずっと寒さに震えながらバイクを運転し続けていたし、ようやく休めると思った町で宿泊を拒否されてしまったから、もうヘトヘトだった。クアンバまで戻れば必ず宿に泊めてもらえるという保証もなかったし、いつまた雨が降り出すかという心配もあった。

 そんな中、集中力を切らさずに夜道を運転し続けるのは至難の業だった。ベトナムの田舎道には街灯なんてものはなく、限られた範囲を照らすヘッドライトだけを頼りに走らなければいけないから、昼間の何倍もの注意力が必要なのだ。

 こういうときは絶対に焦らないことだ。速度も抑え気味にして、慎重に走る。急がば回れの精神だ。僕は自分にそう言い聞かせながら走っていた。しかしそれは少しでも早くクアンバに着きたいという焦りの裏返しでもあった。

 ヘッドライトの細い光の中に突然なにかが現れたのは、緩やかな左カーブを曲がっている途中だった。30センチほどもある大きな石だった。やはり集中力が散漫になっていたのだろう。石の存在に気付いたときには、すでにバイクは石まで数メートルの距離に接近していた。

 やばい、落石だ!
 僕は慌ててハンドルを右に切った。しかし避けた場所が悪かった。そこは舗装が剥がれて地面が露出し、しかも雨水でぬかるんでいた場所だったのだ。しまったと思ったが、もう遅かった。ブレーキをかけたものの、ぬかるみにはまったタイヤはすでにコントロールを失っていた。バイクは横滑りしながら、路肩の方へと流されていった。

 一瞬の出来事だった。僕はバイクごと路肩の外に飛び出した。そして深い闇の中を落下していった。
 よく大きな事故を起こした人が、「今までの人生がフラッシュバックした」と言うことがあるが、この時の僕もそれに近い状態だった。時間にすればコンマ何秒という短い間に、これまで目にしてきた様々な光景が一気に蘇ってきたのだ。まさに走馬燈状態。目の前は真っ暗なのに、僕に「見えている」のはとてもカラフルな映像だった。

 俺はこのまま死んでしまうのか・・・。
 そう思ったことを記憶している。この下が深い崖だったら当然無傷では済まないだろう。一応ヘルメットを被ってはいるが、そんなものは役に立たない。でも不思議と怖くはなかった。いずれにしても重力には逆らえないのだ。落ち始めたら、最後まで落ちるしかない。もう僕にはどうすることもできない。ここで死ぬのか。それも仕方ないか。

 ドスンという衝撃と共に、体が前方に投げ出された。受け身を取ったのか、取らなかったのか。僕は地面の上をゴロゴロと転がり、そして止まった。

 助かった。
 そう思った。道路の下は崖ではなかった。そこは田植え前の田んぼだった。柔らかい土がちょうどクッションになっていたおかげで、僕は助かったのだった。
 怪我もなかった。右腕と両足の膝にかすり傷がある程度で、それもたいしたことはなかった。骨も折れてはいない。あれだけのスピードで落ちていったというのに、痛みがほとんどないというのも不思議だった。


[一歩間違えば数十メートル下へ真っ逆さま。そんな場所がいくらでもあった。]

 とにかく助かったのだ。ふーっと深くため息を吐くと、急にバイクのことが心配になってきた。僕はなんとか無事だったが、バイクが無傷というわけにはいかないだろう。もしかしたらここで旅を終えることになるかもしれない。でも周りは真っ暗なので、確認のしようがなかった。

 そこにやってきたのが、近くの集落に住む人々だった。ただならぬ物音を聞きつけて、「何ごとだ?」と懐中電灯を持って集まってきたのだ。まるで演劇の舞台みたいに何本ものライトが一斉に僕を照らした。僕は「この通り大丈夫です」と言いながら、彼らに向かって手を振った。墜落したUFOから出てきた宇宙人はこんな気持ちになるんだろうか、とふと思った。

 親切な村の若者4人が田んぼにめり込んだバイクを道路に引っ張り上げるのを手伝ってくれた。それから懐中電灯を借りてバイクの点検をした。驚いたことにあれだけの衝撃を受けたのにもかかわらず、バイクは致命的なダメージを免れていた。前輪のブレーキが壊れたり、ヘッドライトのカバーが割れたりはしていたが、エンジンにもフレームにも問題はなかった。キーを回してスターターを押すと、何ごともなかったようにドゥルルルとエンジンが動き始めた。信頼性の高いホンダを借りたのは正解だった。

「まぁ無事で良かったなぁ」
「あんた気ぃつけなさいよ」
 言葉の意味はさっぱりわからなかったが、そんなことを言ってくれているのだろう。僕は親切な村人にお礼を言って、再びクアンバを目指して走り始めた。


[ハザン省の道は九十九折りの連続だった。]

 本当の恐怖が襲ってきたのは、再出発からしばらく経ってからだった。冷静になった頭で振り返ってみると、自分がいかに幸運だったのかがわかってきたのだ。路肩の下が田んぼなどではなく、深い崖になっている場所はいたるところにあった。むしろ柔らかい田んぼになっている所の方がずっと少なかった。たまたまあんな場所に落ちたから怪我もしないで済んだが、そうならなかった可能性も十分にあったのだ。

 僕は落下しているあいだに感じた「死んでも仕方ない」という諦めにも似た感情を思い出して、背筋の辺りがぞわぞわっと寒くなった。自分がそんな風に考えていたことが恐ろしくなったのだ。
「こんなところで死んでたまるか!」
 僕は恐怖を振り払うように、声に出して叫んだ。
 誰の耳にも届かない言葉が、闇の中に吸い込まれていった。


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by butterfly-life | 2011-09-14 12:16 | 東南アジア旅行記
ベトナム裏街道・ホーチミンルートを行く
■ 東南アジア旅行記(08) ホーチミン・ルートを行く バックナンバーはこちら ■

 ホーチミン市でバイクを借りると、さっそくその日から北に向かって走り始めた。目的地は1900キロ彼方にある首都ハノイである。
 ホーチミン市・ハノイ間を陸路で移動する場合には、海岸線に近い国道1号線に沿ったルートを通るのが一般的だ。フエ、ダナン、ホイアン、ニャチャンといった都市や観光名所は、全て国道1号線沿いに集中しているからだ。

 しかし僕はこの国道1号線ではなく、「ホーチミン・ルート」と呼ばれるラオス国境近くの辺境を走る幹線道路を北上することにした。ベトナムを一周することになった以上、同じ道を往復してもつまらないので、往路には国道1号線以外の道を進もうと決めたからだ。



 このホーチミン・ルートはベトナム戦争当時、南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)が作った秘密の補給路が原形になっている。アメリカ軍の偵察機に見つからないようにわざわざ森の中を切り開いて作ったルートだけに、相当に辺鄙なところばかりを通る道である。

 当時、工事は困難を極めたという。兵士たちは峻険な山をスコップで削り、深いジャングルをナタ一本で切り開き、増水した川に木組みの橋を架けながら、地道に道を作っていった。爆撃や作業中の事故によって多くの命が失われたが、彼らは決して諦めなかった。

 今のホーチミン・ルートには、そのような過酷な歴史の面影は残っていない。水牛の背にまたがって田んぼを横切る子供たちや、すげ笠を被ってお茶の葉を摘む女たち。そんな当たり前の笑顔に出会える平和な道になっている。


[ホーチミン・ルートはアップダウンの多い山道だった。]

 一日の走行距離は250キロほどで、これは僕にとってかなりのハイペースだった。のんびりと周囲の景色を眺めながらバイクを走らせ、何か面白いものを見つけたら止まって写真を撮るというのがいつもの旅のスタイルなのだが、それを貫くにはベトナムはあまりにも長すぎたのである。走っても走っても、なかなか先が見えてこないのだ。

 一日の大半をバイクに座って過ごす僕にとって最大の悩みがお尻の痛みだった。幸いにして痔にはならなかったが、最後までヒリヒリとしたお尻の痛みを耐えながら旅を続けることになった。英語にはネタを足で稼ぐという意味の「レッグワーク」という言葉があるけれど、その表現を借りるなら、この旅はネタを尻で稼ぐ「ヒップワーク」であった。

 お尻の痛みはあったけれど、ホーチミン・ルートをバイクで走ること自体はとても楽しかった。路面の状態は予想以上に良かったし、交通量も少ないのでホーチミン市のように感覚を研ぎ澄ませてバイクの流れを読みながら走る必要もなかったからだ。大きくうねる山道を、自分が走りたいように自由に走ることができた。爽やかな風と一体になって、急な坂道を駆け上ったり下ったり。ジェットコースターのような爽快感を味わえる道だった。

 ホーチミン・ルート沿いの景色はいわゆる「ベトナムらしい風景」とはずいぶんかけ離れていた。茶色く濁った大河も、緑が一面に広がる肥沃な田んぼもなく、赤茶けた土と深い森が大地を覆い尽くしていたのだ。ベトナム中部の高原地帯にはコーヒー農園とサトウキビ畑が多かった。「クーサン」と呼ばれるキャッサバ畑も目立っていた。キャッサバは根から良質のデンプンがとれ、家畜の飼料にもなる。乾燥に強く、痩せた土地でも育つので、政府が積極的に増産に乗り出しているという。


[キャッサバの皮を剥いていた女たち。最近では、キャッサバからとれるデンプンからバイオ燃料を作る試みも始まっている。]

 コントゥムという町の近くでは、天然ゴムの木から樹液を採集している人々がいた。彼らは特殊な刃先のカマを使って、木の幹に螺旋状の切り込みを入れていた。こうして幹に傷をつけておくと、じわじわと白い樹液が染み出してくる。それを集めたものがゴムの原料になる。

「ここに住んでいるのは主に少数民族の人たちなんです」
 流暢な英語で説明してくれたのは、作業を指導しているクウェンという名前の若い女性だった。華奢なフレームの眼鏡をかけた頭の回転の速そうな女の子だ。クウェン曰く、少数民族の人々はもともと焼き畑農業で自給自足的な生活を送っていたのだが、ゴム農園やキャッサバ畑で働いて現金収入を得る道を選ぶ人も増えているのだそうだ。


[天然ゴムの農園で働く人々。]

 24歳のクウェンはホーチミン市の農業大学を出てすぐにこの地に赴任してきた。今はルームメイトと二人で部屋を借りて暮らしている。家族と会えないのは寂しいが、なるべく彼女の方からは電話を掛けないようにしている。声を聞いたら余計寂しくなるからだ。
「私の家族はみんなバラバラに住んでいるんです」とクウェンは言う。「お父さんはホーチミン市近郊で魚の養殖をしているし、お母さんはニャチャンの実家で魚を売っています。弟はフランスに留学しているし、妹はフエの大学に通っています。だから家族が揃うのは、年に一度のテト(旧正月)の時だけなんです」

 クウェンが一番心配しているのは母親だった。以前から病気がちだったのだが、最近は特に体調が良くないという。本来なら自分がそばにいて看病するべきなのだが、今は仕事があるのでここを離れられない。
「私はこの仕事が好きです。貧しい少数民族の人を豊かできるから、やりがいを感じています。でも夜一人でお母さんのことを考えていると、自然と涙が出てきてしまうんです」




 ホーチミンのような風貌の老人を轢きそうになったのは、ラオス国境にほど近いクアンナム省の山道を走っているときのこと。彼は白く長いヒゲをあごに蓄え、深緑色のニット帽を被っていた。かなり高齢なのだろう。腰は90度近く曲がっていたのだが、足取りはなぜか軽やかだった。老人はスタスタと早足で道路に飛び出してくると、いきなり僕のバイクを通せんぼするように両手を広げた。

「ちょっと、ちょっと! 危ないじゃないですか!」
 慌てて急ブレーキをかけてなんとか事なきを得た僕は、ヘルメットのバイザーを上げて文句を言った。しかし老人は意に介す気配もなく、ニコニコと笑いながら僕の背後に回り込むと、バイクの後部座席にひょいとまたがってしまった。どうやら彼はヒッチハイクをするために僕のバイクを止めたらしい。なんとも強引な人である。

「おじいちゃん、どこまで行きたいの?」
 一応英語で訊ねてはみたものの、もちろん老人には伝わらなかった。ただニコニコと首を振るばかりである。この人だって、まさか外国人が運転するバイクを止めることになるとは思っていなかったのだろう。
「まったく、しょうがないなぁ・・・」
 こうして僕は行き先もよくわからないまま、老人を乗っけてバイクをスタートさせた。

 実はこのあたりではヒッチハイクは珍しいことではない。公共バスも一応は走っているのだが、人口密度の低い地域なので使い勝手は悪いし、かといって自転車で走れるほど平坦ではないので、住民は必然的にバイクに頼らざるを得ないのである。自分のバイクを持っていない人は、他人のバイクに便乗するしかないのだ。



 この人もベトナム戦争を戦ったのだろうか。この道の建設にも関わったのだろうか。背後でのんびりと煙草を吹かせている老人に聞きたいことはたくさんあったのだが、言葉が通じないので諦めるしかなかった。

 20分ほど走り続けたところで、老人は僕の肩をポンポンと叩いた。「降ろしてくれ」という合図なのだろう。僕がバイクを止めると、彼はよっこらしょと座席から降り、歯のほとんど抜け落ちた皺だらけの口で、「カムオン(ありがとう)」と言った。去っていく足取りはやはり軽快だった。

 それ以後もヒッチハイクに応じたことは何度かあったのだが、いずれも「お一人様限定」で二人以上は乗せなかった。一度、おじさん一人を乗せようとしたら、後から芋づる式に奥さんと子供も乗り込んできて、「ちょっと待ってくれよー」と頭を抱えてしまったことがあったからだ。重量オーバーで走るのに慣れたベトナム人にとっては、4人乗りなんて朝飯前なのかもしれないが、素人の僕にはとても真似できない芸当だったのである。




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by butterfly-life | 2011-09-12 12:38 | 東南アジア旅行記
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by butterfly-life | 2011-09-09 12:44 | インド一周旅行記