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フィリピン最大の輸出品は「花嫁」?
■ 東南アジア旅行記(51) フィリピン最大の輸出品とは? バックナンバーはこちら ■

 フィリピンでは普通のおばさんが英語を話すことが珍しくないが、片言の日本語を話せる人も意外に多かった。そのほとんどが以前にホステスやダンサーとして日本に渡り、何年か働いたあと故郷に戻ってきた女性たちだった。

 プエルト・プリンセサの町をぶらぶらと歩いているときに知り合ったジュンさんは、日本に行ったこともないのに片言の日本語を話せる珍しい人だった。
「私、マニラでポン引きしてたね」とジュンさんは言った。
「ポン引き?」
「そう、ポン引きね。日本のお客さん、みんなお金持ち。いい人ばかりね。私、話すね。『いい女知ってる。ヤスイヨ! 一晩50ドルね。高くないね。ヤスイヨ!』。私、女の子紹介する。私、その人からチップもらう。とってもいい仕事ね。日本人、みんないい人。でも、スケベね。アハハ。若い子、好きね。『16歳(シックスティーン)はいないのか?』って聞く。自分は60歳(シックスティ)なのに。アハハ」



 マニラは性風俗の街として世界的に知られている。僕が泊まったエルミタ地区にもバーやナイトクラブが軒を連ねていて、夜の路上にはジュンさんのようなポン引きがたむろしていた。彼らの仕事は売春の斡旋だけでなく、安宿の紹介や麻薬やバイアグラの販売など。要するに裏社会の「何でも屋」だった。

 ジュンさんは5年前にポン引き稼業から足を洗ってこの町に戻ってきた。警察に捕まることもしょっちゅうあったし、バブル期に比べると日本人の上客はめっきり少なくなってしまったからだ。今は漁師をしている。ポン引きをやめて、網を引くことにしたのである。それを「華麗な転身」と言うべきなのかはわからないが。

「今はマグロのシーズンが始まるのを待っているんだよ」
 ジュンさんは英語に切り替えて言った。片言の日本語が使えるのは、ポン引き時代の話をするときに限られているようだった。
「今は暇だけど、3月から8月がものすごく忙しいんだ。三日間ずっと海に出たまま漁を続ける。船の倉庫がマグロで一杯になったら港に戻ってくる。マグロは1kgが200ペソ(480円)で売れる。ポン引きほどじゃないけど、いい仕事だよ」



 以前はやくざな仕事で食いつないでいたジュンさんだが、三人の子供たちにはそのような道を歩いてもらいたくないという。
「やっぱり教育が一番大切だよ。フィリピンの貧しい子供たちは高い教育を受けられないから、金を稼ぐためにホステスになったり、ストリップダンサーになったり、売春婦になったりする。そんな風に自分を安売りするのは良くない。私はマニラでダメになっていく若い女の子をたくさん見てきたから、よくわかるんだ」

 ポン引きを生業にしていたわりに、ジュンさんの意見はすごくまともだった。夜の街に群がる男たちが醸し出す独特の胡散臭さも感じなかった。彼がポン引きを辞めた本当の理由は、最後までその商売に馴染むことができなかったからではないかという気がした。
「フィリピン最大の輸出品は何だか知ってるかい? バナナ? ノー。女の子だよ。ダンサー、ホステス、ハウス・メイド、それからワイフ。みんな外国へ輸出している」
「ワイフ? ワイフを輸出しているんですか?」
「そうだよ。この国には外国人の男にフィリピン人の妻を紹介する専門の業者があるんだ。新聞広告にもよく出ているよ。日本にもたくさん行っているんじゃないかな」

 フィリピンが出稼ぎ大国だということは、よく知られた事実である。欧米やアラブの産油国や香港などに大量のメイドや看護婦を送り込んでいる。そうした出稼ぎ労働者達の送金がフィリピン経済を支えているのだ。しかしメイドとして働くのと外国人と結婚して家庭を作るのとでは、ずいぶん意味合いが違う。
「たいした違いはないさ」とジュンさんは言った。「メイドにしてもホステスにしてもワイフにしても、みんなサービス業じゃないか。相手にサービスをしてお金を稼ぐ。その点ではみんな同じだよ」


[町中で飼われている豚が、物欲しそうに顔を覗かせていた。]

 プエルト・プリンセサの住宅街で出会ったギリヤさんは、娘と妹がどちらも「花嫁斡旋」によって外国人と結婚したことが自慢だった。妹はイギリス人と、娘はフランス人と結婚したという。彼女が見せてくれたスナップ写真には、美しい海岸と広々とした一軒家、それに庭の芝生の上で微笑む孫娘が写っていた。絵に描いたような幸せな家庭だった。

 ギリヤさん一家は「花嫁斡旋」の成功例である。娘と妹が外国人と結婚して、毎月少なくない額のお金が送られてくるようになったので、ギリヤさんの生活にもゆとりが生まれたという。外国人との結婚は本人だけでなく親戚一同にも大きなメリットをもたらすものなのだ。



「外国人と結婚するフィリピン女性の目的のひとつがお金であることは、私も認めるわ」とギリヤさんは言った。「だけどフィリピン女性はヨーロッパ人の女性と違って夫に尽くすし、辛抱強いし、誠実なのよ。娘の夫はそういうところが気に入って結婚したんだと思う」

 ギリヤさんの娘の性格は写真だけではわからなかったが、人目を引く美人であるのは確かだった。ウェーブのかかった艶やかな黒髪と、目鼻立ちの整った顔。スタイルもいい。彼女に比べると、15歳年上の夫の印象は「地味」の一言だった。

「もちろん性格だけじゃなく、若くて美しいことも結婚の条件のひとつね」
 彼女は頷いた。若さと美貌によって異国での豊かな生活を手に入れたことを素直に認めた上で、結婚生活を楽しんでいるのであれば、それに対して他人がとやかく言う筋合いはないのだろう。考えてみれば日本の結婚事情だって、わずか数十年前にはこれと似たようなものだったのだから。

 昔は日本でもごく一部の例外を除いて恋愛と結婚が結びつくことはなく、良縁とは結局のところ「品定め」と「打算」に基づいていた。生まれが貧しくて器量のよい女性が良家のお坊ちゃんに「見初められる」ことで、貧しさから抜け出すという「生まれ変わり婚」はいつの時代にも普遍的にあったもので、フィリピンの「花嫁斡旋」はそれがグローバル化しただけなのだ。需要があるところに供給が集まる。競争原理に基づく資本主義社会であれば、美しい花嫁がお金持ちの国に集まってくるのも当然の成り行きなのだろう。

 ・・・とまぁ頭では理解できたものの、感覚的には「でもなんか違うんだよなぁ」という釈然としない思いが消えることはなかった。「結婚は出稼ぎ労働のひとつである」というのは抜き差しならないリアルな現実かもしれないが、「彼女はそれで幸せになれるのか?」という疑問がずっと頭を離れなかったのだ。

 たぶん僕は「恋愛に基づく結婚」という物語(あるいは幻想)にとらわれているのだろう。あるいは「日本という国はそのようなロマンチック・ラブの物語を生きられるほど豊かで平等な社会である」という言い方もできるのかもしれない。



「あなたも日本人なんでしょう? お金持っているんでしょう? だったらこの町にいる一番の美人と結婚できるわよ。なんだったら私が紹介してあげてもいいわ」
 なかなか結論が出ない問いに頭を悩ませている僕に向かって、ギリヤさんはあっけらかんと言い放った。半分は冗談なのだろうが、半分は本気でもあるようだった。

「そういうつもりじゃないんです。結婚相手ぐらい自分で見つけますよ」
 僕はその申し出を急いで断ると、ベンチから立ち上がった。これ以上ここにいたら、本当に年頃の娘を連れてきそうな勢いだった。
「フィリピン女性は辛抱強くて誠実よ。これは本当だから」
 ギリヤさんは僕の背中に向かって、そう繰り返した。

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by butterfly-life | 2011-10-31 11:51 | 東南アジア旅行記
フィリピンはハロハロの国
■ 東南アジア旅行記(50) ハロハロの国 バックナンバーはこちら ■

 例によって旅の予定を決めないまま飛行機に乗った。バリ島からマニラに向かう飛行機に乗り、その機内でフィリピンのガイドブックをぱらぱらとめくりながら行き先を決めたのである。毎度のことではあるが、あまりの無計画ぶりに自分でも驚いてしまう。



 フィリピンは7000を超える島を持つ島嶼国家だが、その中でもかなりマイナーなパラワン島から旅を始めることにした。たいした理由があったわけではない。東西に細長くのびた島のかたちに何となく惹かれるものを感じただけだった。

 パラワン島最大の町プエルト・プリンセサは大きな湾に面した漁業の町だった。「最大の町」といっても賑わっているのはメインストリート沿いの一区画だけで、それ以外はただの田舎町という風情。高層ビル群が建ち並び、昼夜を問わず賑やかな首都マニラから見れば、まったくの辺境である。

 プエルト・プリンセサの中でも特に面白かったのは、海の上に作られた町だった。土地を持たない人々が海底に丸太を何本か突き立てて、その上に粗末な小屋を建てて勝手に住み着いているのだった。


[海の上にせり出した町と小さな漁船。]

 家と家の間は木の板を貼り合わせた渡り廊下で結ばれていた。無秩序に規模を拡大したらしく、渡り廊下は迷路のように複雑に入り組んでいた。
 ごちゃごちゃとしていて生活感に溢れている町並みを歩くのは楽しかった。ひとつ角を曲がれば「バナナQ」と呼ばれる串刺しの焼きバナナを売る店があったり、車座になってビンゴゲームを楽しむおばさんたちがいたりするのだ。


[路地裏でバナナを「大学芋」風に料理している少女。味もまさに大学芋だった。]


[ビンゴゲームを楽しむおばさんたち。フィリピン人は賭け事が大好きだ。]

 町を歩くのに疲れると、「ハロハロ」というフィリピン風かき氷を売る屋台で一休みした。ハロハロとは「混ぜる」という意味で、このかき氷にも色とりどりのゼリーや細かく切ったバナナや米菓子などがたくさん混ざっていた。氷と具材とコンデンスミルク。この三つをスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜて食べるのが、ハロハロの正式な食べ方なのだ。


[これがフィリピン名物ハロハロ]

 「フィリピンはハロハロの国」という言い方がある。食べ物にしても文化にしても、他の国の良いものをどんどん取り入れてぐるぐるとかき混ぜるのがフィリピン流、ということらしい。「柔軟性がある」と言えるのかもしれないし、「節操がない」という言い方もできるだろう。

 その「ハロハロ精神」は庶民の遊びの中にも見ることができた。4人の男たちが囲んでいたのはインドやスリランカなどでお馴染みのボードゲーム「キャロン」だった。オセロみたいなプラスチックの平べったい玉をおはじきのように指で弾き、ボードの四隅にある穴に玉を落として得点を競うものである。

 しかし男たちが行っていたのは普通のキャロンよりもはるかに複雑なゲームだった。彼らはキャロンの平べったい玉をわざわざビリヤードのキューを使って弾きながら、さらにトランプの要素まで組み込んでいたのである。どうやらトランプの手札によって「どの玉を落とすか」という戦略が決まるらしい。トランプはトランプで、キャロンはキャロンで、ビリヤードはビリヤードでやればいいのではとも思うのだが、「三ついっぺんにやった方が楽しいじゃないか」というのが男たちの言い分なのである。


[「キャロン+ビリヤード+トランプ」。最後までルールがよくわからなかった。]

 人々のライフスタイルにも「ハロハロ精神」を見て取ることができた。海上の町に住む人の大半は漁業に携わっているのだが、その収入だけでは心許ないらしく、多くの家で豚や鶏が飼われていたのだ。「半農半漁」という言葉があるけれど、この場合は「半畜半漁」とでも言ったらいいのだろうか。鶏や豚は残飯を与えておけば勝手に育つし、牛や羊みたいに草地を求めて散歩させる必要もないから、町中で飼うにはぴったりなのだろう。そんなわけでフィリピンの路地裏にはいつも大きな体を持て余し気味に寝そべる豚の姿があった。


[フィリピンの町には豚を飼う家が多い。]

 ハロハロの食べ方のイロハを僕に教えてくれたのはエリザベスさんだった。ごく普通の中年のおばさんなのだが、とても流暢な英語を話した。フィリピンはアジアでもっとも英語が通用する国だとは聞いていたが、それは嘘ではないようだった。


[家と家とを結ぶ渡り廊下で寝そべる犬。]

 エリザベスさんの家も海の上にあった。廃材を組み上げた土台の上に建てられた小さなトタン屋根の家だ。
「ご覧の通りプアーな家よ」
 インスタントコーヒーを運んできたエリザベスさんが笑いながら言った。
「日本にはこんな家はないんじゃない?」
「ええ、確かにありませんね」
 僕は頷いた。そもそも海の上に勝手に家を建てて住み着いていること自体、日本では考えられないことだ。

 しかしエリザベスさんはあばら屋のような外見から想像されるほど貧しい生活を送っているわけではなかった。家の中には大きなソファと2ドアの冷蔵庫が置かれ、テレビとカラオケセットもあった。カーテンで仕切られただけだが、一応個室もある。
「夫は公務員なんだけど、給料は高くないのよ。でもテレビだけはどうしても欲しかったの。だってもし家にテレビがなかったら、子供たちはよその家の窓からテレビを眺めることになるでしょう? そういう可哀想なことをさせたくなかったのよ」

 中国製や台湾製の安い製品が出回るようになったので、フィリピンの貧しい家庭にもテレビは普及しているのだが、まだ家にテレビがない子供たちもたくさんいた。彼らは人気ドラマなどが放送される時間になると、隣近所の家の窓際に立って、部屋の中のテレビ画面を食い入るように見つめているのだった。それは「貧富の差」という言葉をはっきりと示す光景でもあった。



「パラワン島の島民の多くは、この2,30年の間に他の島から移住してきた人たちなの」
 とエリザベスさんは言った。特に多いのがビザヤ諸島のボホール島からの移住者だという。
「ボホール島は台風の通り道なの。ひどいときには1年に20個も台風が襲ってくる。そのたびに家は壊れるし、せっかく育てた作物はダメになってしまう。本当に大変だったわ。夏になると毎日台風のことばかり考えて暮らしていた。だから私たち一家はパラワン島に越してきたの。ええ、この島は台風のコースから外れているのよ」

 パラワン島の主な産業は農業と漁業である。良い漁場に恵まれている漁業は好調で、この島の漁獲量がフィリピン全体の65%を占めているほど。近海ではアジやエビやイカなどが、沖合に出ればマグロが獲れる。


[パラワン島の漁村にはこのような小さなボートが無数にある。]

 漁師たちの悩みの種は、収入が季節によって大きく変動することである。マグロ漁がピークを迎える4月から6月は漁師の懐も大いに潤うのだが、季節が秋から冬になり、船が出せない日が続くと、収入も激減してしまうのだ。その時期は夏に蓄えたお金で乗り切らなくてはいけないのだが、ギャンブルや酒などの遊びにつぎ込んだりした「キリギリス型」の漁師は、町の金融業者から借金をすることになるという。

「私も昔は雑貨屋をやっていたの」とエリザベスさんは言った。「でもこの町の人はお金がなくても買い物をするのよね。漁のシーズンが来て金が入ったときにまとめて払うからって言うんだけど、そのツケを踏み倒す人もたくさんいるのよ。いいかげん払ってくださいよって言っても全然聞かないの。これじゃとても店なんてやっていけないから、5年ぐらい前に畳んじゃったのよ」

 確かにこの町には「NO CREDIT!」と書かれた紙を貼っている店が多かった。日本語に訳せば「ツケお断り!」といったところだろうか。借金やツケ払いが当たり前になっているので、それを踏み倒すことにもさほど罪の意識を感じないのかもしれない。


[プエルトプリンセサの海沿いには、貧しい家が並んでいた。]

 エリザベスさんたち「海の上の住民」は法律的には不法居住者である。海岸線は政府所有の土地であり、そこに勝手に住むのは違法行為なのだ。だから立ち退きを求めて政府の役人がやってくることもある。それでも海上居住者の数は減るどころか、近年ますます増えているという。

「そりゃ違法かもしれないけど、他に行くところがないんだからどうしようもないじゃない」
 エリザベスさんはあくまでもクールに言った。フィリピンは貧富の差の激しい国だ。地主階級が富を独占する一方で、多くの庶民は貧困ラインぎりぎりの生活を送っている。その象徴が彼女のような不法居住者なのだが、この町の暮らしから透けて見えるのは、ただ貧困にあえいでいるだけでなく、その中でもしたたかに生きる庶民のたくましさだった。

「役人は『こんな町で火事が起こったら大変じゃないか』って言うの。それは正しいわね。実際、13年前にこの町は火事に襲われて、ほとんどの家が燃えてしまったのよ。あとに残ったのは丸太の土台だけ。それでもすぐに私たちは同じ場所に町を作った。違法だろうがなんだろうが、ここは『私たちの家』であり『私たちの町』なのよ」
「それじゃ、これからもずっとこの町に住み続けるつもりですか?」
「いいえ。出て行けるものなら、いつでもこの町を出て行くつもりよ」彼女はきっぱりと言った。「私の夢はね、海の上じゃなくて陸の上にマイホームを持つことなの。大きくなくたっていいの。普通の家でいいのよ」


[「海の上の町」の路地裏。]

 エリザベスさんは砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを一口飲むと、窓の外に目をやった。海の上に建ってはいるが、そこから海を見ることはできなかった。隣の家との隙間があまりにも狭すぎるからだ。
「私の自慢はね、3人の子供たちをみんな大学へ通わせたことなの。フィリピンではなかなか難しいのよ。家具や着るものや食費も切り詰めて、子供たちを学校へ行かせたの。そうすることが子供たちの将来のためになると思ったからよ。それももう終わり。みんな卒業してしまったわ。あとはのんびりと暮らすのよ」

 エリザベスさんとの他愛もないお喋りは、僕にとって新鮮な経験だった。アジアの他の国では英語を自由に操れるのは高い教育を受けたエリート層か、旅行者を相手にしているホテルの従業員か、若い学生に限られていたので、彼女のような普通のおばさんと世間話をする機会はほとんどなかったからだ。

 フィリピンの奥さんも日本の奥さんたちと同じように、子供の教育問題に悩み、マイホームを建てる夢を持って暮らしている。そんな当たり前の事実に、改めて気付かされたのだ。

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by butterfly-life | 2011-10-27 15:17 | 東南アジア旅行記
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by butterfly-life | 2011-10-25 13:47 | 東南アジア旅行記
赤道直下の天然トイレ
■ 東南アジア旅行記(48) 赤道直下の天然トイレ バックナンバーはこちら ■

 赤道を越えたのは、午後2時を少し過ぎた頃だったと思う。「と思う」と書かなければいけないのは、どこが赤道なのかよくわからなかったからだ。赤道を示す看板やモニュメントがないかと注意深く観察しながらバイクを走らせていたのだが、それらしきものはどこにもなかったのである。

 もし道路の上に赤いラインでも引いてあったら、右足を北半球に左足を南半球に置いてベタな記念写真でも撮ってやろうと考えていたのだが、それも叶わぬ夢となってしまった。赤道がどこを通っているかなんて、地元の人にはどうでもいいことなのだろう。国境線や州境などと違って、それを越えたからといって具体的に何かが変わるわけではないのだ。

 南半球に入って最初に訪れた町がサッサだった。海岸線に沿って広がる漁師町で、長い砂浜に小さな漁船がいくつも並び、椰子の木陰で男たちが漁網を編む姿があった。


[干し魚を作るおじさん。]

 サッサの町で知り合ったのがジョニスさんだった。彼は若い頃に外国人相手のガイドの仕事をしていたらしく、インドネシア人には珍しく流暢な英語を話した。僕はいい機会だと思って、次の目的地パダンまでの道のりを訊ねることにした。地図によれば、海岸線に沿った道を100キロあまり南下すればパダンに着くはずなのだが、肝心の道路がどこにも見当たらなかったのだ。


[漁網を補修する男。朝のひと仕事が終わると、漁村はのんびりとした空気に包まれる。]

「海沿いをバイクで走るつもりだって? そりゃ無理だよ」とジョニスさんは断言した。
「どうしてですか?」
「海岸線には道と呼べるようなものはない。4WDなら砂浜を走ることもできるが、バイクじゃとても無理だよ」
「でもこの地図には州道が通っていることになっているんですけどね」
 ジョニスさんは僕が持っていた地図を覗き込むと、笑い声を上げた。
「この地図、間違ってるね。こんな道はどこにも存在しないよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。なんなら今から見に行くかい?」

 確かにこの地図には細かい間違いがたくさんあった。町の名前が間違っていたり、あるはずの町が抜け落ちていたり。その程度のミスであればまだ許せるのだが、今回のようにありもしない道路が堂々と描かれているというのは、いくら何でもひどすぎる。ロードマップとして致命的ではないか。僕がそう憤慨すると、ジョニスさんは「まぁそう言いなさんな」と肩を叩いた。
「この地図はインドネシアで買ったんだろう? だったら仕方ないさ。インドネシア人は誰も地図なんて使わないからな。道に迷ったら人に聞けばいいと思っているんだ。でも地図が間違っていたからこそ、君はこの町に来れたんじゃないか。サッサはいいところだ。ゆっくりしていけばいい。泊まるところ? 心配はいらないさ。俺の家に泊まればいい」
 そんなわけで、僕はこの赤道直下の町サッサで一夜を明かすことになったのである。不正確な地図と親切な男のおかげだった。


[網を運ぶ漁師たち]

 夕食はジョニスさんの家でご馳走になった。小魚をカリカリになるまで油で揚げたものと、野菜の入ったスープとご飯。シンプルな献立だった。ちなみにジョニスさんは唐辛子を栽培する農家なので、さぞかし辛い味付けなのだろうと半分怯えながら口に運んだのだが、意外にあっさりしていておいしかった。

 夕食を食べ終えると、ジョニスさんと連れ立って町を散歩した。夜の町は昼間よりもずっと賑わっていた。赤道直下に住む人は暑い昼間を避けて夜行性になるようだ。
 僕らは雑貨屋に集まっているおじさんたちと世間話をしたり、テレビの歌謡ショーを眺めているおばさんたちと一緒にお茶を飲んだりした。誰もが顔見知りの小さな漁師町にふらりとやってきた異邦人は、行く先々で質問攻めにあった。最も多かったのは「あんたはどうしてこの町に来たのか?」という質問で、これには「地図が間違っていたからだ」と答えるしかなかった。ジョニスさんが僕の英語をインドネシア語に訳して伝えると、「なんだそういうことだったのか」と笑いが起こった。

「こうやってみんなと一緒に夜を過ごすのが、何よりの楽しみなんだよ」とジョニスさんは言う。「話題? たいしたことじゃないさ。今日の出来事や、他愛もない冗談とかだね」
 今ご近所の話題の中心は、一週間後に迫ったジョニスさんの妹の結婚式のこと。彼の実家はその準備に大忙しだった。この町に住むミナンカバウ族は母系社会の伝統を維持していることで知られている。ここでは一族の実権は父親ではなくて母親の方にあり、だから結婚式も新婦の実家で挙げることになっているのだそうだ。



 珍しく星がきれいな夜だった。雨季のスマトラ島では夜になると分厚い雲が空を覆い、空にぴったりと蓋をしてしまうことが多いのだが、この日はいつになく雲が少なかったのだ。空の中心に位置しているのはオリオン座だった。こんなに高い位置にオリオン座があることに驚いたのだが、日本とは緯度が違うのだからそれも当然なのだろう。
「サザンクロス(南十字星)はどれですか?」と僕はジョニスさんに訊ねた。
「サザンクロス? さぁ知らないなぁ」と彼は言った。「俺は星については詳しくないんだ。星っていうのはとても遠くにあるんだろう? インドネシアと日本では見える星が違うのかい? それは知らなかったなぁ・・・」
 赤道直下の空には日本では見ることもできない星もたくさんあるのだろうが、ジョニスさんも僕も天文にあまり詳しくないので、結局はわからずじまいだった。


[沖合に船を出す漁師たち。]

 翌朝は夜明けと共に目を覚ました。さっそく浜辺に向かったが、すでに何隻もの漁船が沖に向けて出発した後だった。地引き網を引っ張る漁師たちの姿もあった。漁師町の朝は早い。夜明け直後がもっとも忙しい時間帯なのだ。


[力を合わせて地引き網を引っ張る。]



 僕は砂浜を歩き回りながら、働く男たちの姿を写真に収めた。波はとても穏やかで、潮の匂いを含んだ風もすがすがしかったが、波打ち際に動物の糞らしきものがいくつか転がっているのが気になった。

 最初は家畜の糞なのだろうと思っていた。しかし牛の糞にしては小さすぎるし、山羊の糞にしては大きすぎる。色といい形といい大きさといい、どうも僕らが普段「見慣れたモノ」であるような気がしてきた。

 この糞の正体が明らかになったのは、お尻を剥き出しにしてしゃがんでいる男の姿を目にしたときだった。しかもそんなあられもない格好の男が立て続けに三人も並んでいたのである。間違いない。波打ち際に転がっていたのは漁師たちのウンコだったのである。

 漁師たちは海を眺めながら悠々と用を足していた。煙草を吸っている人もいたし、隣の男と世間話をしている人もいた。もちろん下半身は丸見えなのだが、それをあえて隠そうとする人はいなかった。この格好が恥ずかしいという意識はないのだろう。

 カニが砂浜に掘った縦穴に自分のウンコを落とすという、実に器用な真似をする男もいた。遊び心なのかは何なのか目的はよくわからないのだが、巣穴で眠っているカニからすれば迷惑この上ない話である。もし僕がカニだったら男のお尻めがけてハサミを突き立ててやるんだけど。


[牛がとぼとぼと歩く砂浜の上で、一人の男が用を足していた。]

 用を足し終わった男たちはそのまま海の中にちゃぷちゃぷと入り、左手でお尻を洗った。トイレットペーパーもいらないし、塩水で洗うのだからお尻だって清潔である。波打ち際に置き去りにされたウンコも、やがて波によって海に運ばれていく。まさに「天然の水洗トイレ」だ。

 砂浜に置き去りにされたウンコは打ち寄せる波によって海に運ばれ、プランクトンによって分解され、食物連鎖を経て魚を育てる。漁師たちはその魚を捕まえて食べ、それが再びウンコとなって海に運ばれる。砂浜の天然トイレはこのような大きな循環の中にあった。それは日本人が慣れ親しんでいるシステマチックな清潔さとは正反対のものだった。この町ではウンコは処理されるべき「汚物」ではなく、人の体から出て自然に還っていくごく当たり前のものとして存在していた。

 ジョニスさんによれば、この町で家の中にトイレがあるのは全体の1割ほどで、住民の9割は外で用を足しているという。目の前にいつでも使える天然トイレがあるのに、どうしてわざわざ家の中に狭苦しいトイレを作らなければいけないのか。そう考えている人が多いのだろう。

 もちろん人前で堂々とお尻を出すのは男性だけで、女性たちは近くの茂みに隠れてこっそりと用を足している。なんだか不公平な気がするが、ここでは昔からずっとそうなのだという。

 確かに、波打ち際で煙草を吹かしながらのんびりと用を足している男たちは、一切のストレスから解放されたような表情をしていた。ひょっとしたら天然トイレには露天風呂と同じようにリラックスさせる効果があるのかもしれない。




[サッサの住人たちは明るい。]

 サッサの住人たちが陽気で開けっぴろな性格なのも、ひょっとしたら「天然トイレ」のせいなのかもしれない。この町ではどの家の扉も開け放たれ、自由に出入りすることができた。人々はプライバシーの確保にはあまり関心がないようだった。浜辺でお尻まで丸出しにしているのだから、他に隠すものなど無いのだろう。



 そのような町で、人々は海の恵みに寄り添って生きていた。漁師たちは涼しい朝のうちに仕事を終えてしまうと、あとは家の中で昼寝をしたりカードゲームをしたりしてのんびりと過ごす。余分な獲物を捕らえるために無理をして船を出す人はいない。大漁の日もあれば不漁が続くときもあるが、自然とはそういうものだとどこかで達観しているのだった。

 決して豊かとは言えないが、十分に満ち足りている。サッサにあるのはそんな暮らしだった。

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by butterfly-life | 2011-10-24 11:57 | 東南アジア旅行記
敗戦後もインドネシアにとどまった日本兵の話
■ 東南アジア旅行記(47) 私の祖父は日本兵 バックナンバーはこちら ■

 スマトラ島随一の都市メダンもジャランジャランの楽しい場所だった。路地は迷路のように複雑に入り組み、様々な音や匂いで溢れていた。ある窓からはカラオケ音楽が流れてきたし、別の窓からは夫婦喧嘩の声が聞こえてきた。アイスクリーム売りが鳴らす涼しげな鈴の音が聞こえたかと思うと、耳をつんざくような「アザーン」の声が大音量で響いてきたりもした。



 そんな風にメダンの下町をあてもなく散歩していたときに、ユリコさんと出会った。
「ニホンジンデスカ?」
 背後からいきなり日本語で呼びかけられたので驚いて振り返ると、軒下のソファに僕と同い年ぐらいの女性が座っていた。
「そうです。日本人ですよ」
 僕が日本語で答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。そして英語に切り替えて、「私のおじいさんは日本人なんです」と言った。そう言われてみると、一般的なインドネシア人よりも色白で、日本人に近い顔立ちのようにも見える。
「私の名前はユリコといいます。おじいさんが付けてくれた名前なんです」

 ユリコさんの祖父であるキタオカさんは、太平洋戦争当時にメダンに進駐していた日本軍の兵士だった。1945年8月に日本が戦争に負けると、兵士たちの大半は故郷へ引き上げていったのだが、キタオカさんたち一部の兵士はインドネシアに留まることを選んだという。

 その後キタオカさんはインドネシア軍の兵士となり、オランダ軍との独立戦争を戦い、イスラムに改宗してインドネシア人の女性と結婚し、子供が生まれ、インドネシアの市民権を得た。結局、1993年に75歳で亡くなるまで、キタオカさんは一度も日本に帰らなかったという。

「今から考えると、父は日本に残してきたものがなかったからインドネシアに留まることを選んだんだろうな」とキタオカさんの息子であるノリハッサンさんは言った。「これは父の戦友から伝え聞いた話だけど、父は日本がアメリカに負けたことをとても恥じていたそうだ。軍人として誇りが大きく傷つけられたんだろう。東京が焼け野原になり、広島と長崎に原子爆弾が落とされたと聞いて、日本の未来に絶望してもいたらしい。もちろん実際には、日本は世界が驚くような早さで復興したわけだが、その頃には父と日本とを結びつけるものはほとんど何も残っていなかったようだ。日本の故郷にいる家族とも連絡が取れなくなってしまったらしい」



 ノリハッサンさんは日本語がほとんど話せないので、僕らの会話は英語で行われた。キタオカさんは家族の前でさえ全く日本語を使わなかったのだ。日本という国を捨て、インドネシア人になりきろうとしたのだろう。もっともノリハッサンさん自身は、子供の頃に日本語を教わらなかったことを後悔しているようだったが。
「父が日本語を口にしたのは、昔の戦友と話すときだけだったよ。とても楽しそうに話している姿をよく覚えている。その戦友たちももうこの世にはいない。戦争直後メダンには百人以上の元日本兵が住んでいたんだが、今でも生きているのは三人だけになってしまったんだ」

 僕の祖父も南方戦線で戦った一人だった。ボルネオ島の密林の中で絶望的な行軍をさせられ、病や飢えによって仲間が次々と倒れる中、九死に一生を得て、日本に帰ってきた。その祖父も数年前に亡くなったので、僕のまわりには戦争の話を聞ける人が誰もいなくなってしまった。

 しかしだからこそ、アジアを旅しているときに思いがけないかたちで太平洋戦争の傷跡やその記憶の断片と出会うことは、僕にとってとても貴重な経験だった。日本人の側からではなく、アジアの側から戦争を見つめること。そこで何が起こったのかを知り、それを記憶し続けること。そうすることによって、遠い過去の出来事でしかなかった戦争が、今の自分に繋がるものの一部として確かなかたちを取り始めたのだ。


[どぎつい色に塗られたカラーひよこ。一匹1000ルピア(13円)で売られていた。]

 僕はノリハッサンさんとユリコさんが住む家に招かれて、夕食をご馳走になった。鶏肉のカレーとご飯、デザートには新鮮なパパイヤが付いた。カレーはインドネシア料理の常として舌が痺れるほどスパイシーなもので、食べていると額に汗が滲んでくるほどだったが、それに慣れてしまえばとても美味しかった。

 ノリハッサンさんの家は広々としていて居心地が良かった。ユリコさんは銀行に勤めるOLで、ノリハッサンさんはメダンの日本総領事館に勤めている。インドネシアでも中流階級に属している一家らしく、生活にもゆとりがあった。

「うちの裏口は24時間開けっ放しになっているんです」とユリコさんは言った。「知り合いであれば、いつ誰が来ても歓迎する。それがインドネシア流のもてなし方なんです。もちろんあなたも同じですよ。いつでもお越し下さい」
 それは単なるうわべだけの挨拶ではなかった。この家の勝手口は本当に開け放たれていて、僕らが夕食を食べている間にも、近所の人がふらっと立ち寄って雑談をしていったり、子供たちがお菓子をねだりにやって来たりした。大学で日本語を習っているという女の子が、日本人の来訪を聞きつけて遊びに来たりもした。

 ガイドブックには「メダンはインドネシアで最も危険な町であり、近年凶悪犯罪が増加しているので注意が必要だ」などと書いてあるのだが、下町を歩く限り、そのような危険な兆候はまったく感じなかった。メダンはインドネシアでも有数の大都会だが、人々の間の緩やかな連帯感のようなものは失われていなかった。



 夕食を食べ終わると、ユリコさんはステレオラックの中からお気に入りの音楽テープを選んで聴かせてくれた。その中には日本人の歌声も混じっていた。彼女のお気に入りは五輪真弓の「心の友」。これは1980年代にインドネシアで大流行した歌だという。インドネシア人なら誰もが口ずさめるほどヒットしたらしいのだが、僕にはまったく聞き覚えのない曲だった。日本人に馴染みの薄い歌が、なぜインドネシアで大流行したのかは大いなる謎だったが、ユリコさんもその辺の事情はよく知らないという。「ココロノトモ」という言葉が何を意味しているのかさえ誰も知らないというのだ。



 それはともかく、「心の友」は哀愁のこもったいい歌だった。緩やかなメロディーラインと優しい歌声。それが熱帯で暮らす人々の心を打ったのだろう。
 キタオカさんも生前この歌を聴く機会があったという。そのとき彼は何を思ったのだろうか。

「ところで、あなたはなぜこんな下町を一人で歩いていたの?」ユリコさんがふと思い出したように僕に訊ねた。「この界隈を旅行者が歩いているなんて滅多にないことなのよ」
「ただのジャランジャランですよ」
 僕がいつものように答えると、親子は声を上げて笑った。知らない町をジャランジャランか。そりゃいいねぇ。

 ジャランジャラン――目的も持たずにぶらぶらと歩き回ること。それによって僕は様々な人に出会い、シャッターを切り、町の空気を肌で感じてきた。
 見知らぬ遠い島でしかなかったスマトラ島が、徐々に身近な存在として感じられるようになってきたのも、ジャランジャランのおかげだったのである。




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by butterfly-life | 2011-10-21 12:53 | 東南アジア旅行記
インドネシアをジャランジャランする
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 一日でもっとも暑くなるお昼過ぎの時間帯は、どの町でも出歩く人の姿はまばらになった。赤道直下のスマトラ島では真昼の日差しは強烈で、ただ歩いているだけでもとめどなく汗が噴き出してくるので、外に出ようという気にならないのだろう。大人も子供も家の中や軒下にいて、昼寝やお喋りをしたりしてのんびりと過ごしていた。

 そんな倦怠ムードの町を歩いていて、とりわけ目に付いたのがごろごろと寝転がっている太ったおばさんの姿だった。誰もが妊娠中なのかそうではないのかよくわからないようなウェストを持ち、マタニティードレスなのかそうではないのかよくわからないようなゆったりとしたワンピースを着ていた。言い方は悪いが「おばけのQ太郎」そっくりだった。化粧っ気はほとんど無く、とにかく陽気で、口を大きく開けて豪快に笑う。そういうおばさんたちが浜辺に打ち上げられ鯨みたいな格好で、すり切れたソファに体を横たえていたのである。



 そんな鯨おばさんの前を通り過ぎようとすると、よく「マウ・ク・マナ?(どこ行くの?)」と声を掛けられた。こんな時間に町をうろついている人も珍しいし、外国人が歩いてることも珍しいのだろう。
 そんなとき僕は、
「ジャランジャラン」
 と答えることにしていた。「ジャラン」とはインドネシア語で「道」を意味するのだが、それをふたつ重ねた「ジャランジャラン」は「散歩」の意味になる。これは簡単で覚えやすい上に、とても使い勝手のいい言葉だった。



 インドネシアには「ベチャ」と呼ばれる三輪タクシーがたくさん走っているのだが、そのベチャの運転手から「どこへ行くんだい?」「乗っていけよ」と声を掛けられたときにも、「ジャランジャラン」と答えておけば、それ以上はしつこく言い寄ってこなかった。

 これといった目的もなく、ただぶらぶらと散歩しているだけなんだ――そのような自分の状況を「ジャランジャラン」という短いひとことで代弁できるというのは、何とも爽快だった。他の国にも「ジャランジャラン」のような言葉があれば、旅をするのがずいぶん楽になるのになぁと思った。


 「ジャランジャラン」がもっとも楽しかったのがシボルガだった。シボルガは海に向かって開けた港町で、町の背後に急斜面の山が迫っているので平地が少なく、人口密度は高かった。

 狭い土地に多くの人が集まった場合、日本だと町は空に向かって高層化していくわけだが、シボルガでは町は海に向かって広がっていた。といっても、埋め立て地を造成しているわけではない。住民が海の上に勝手に高床の家を建てて、そこに住み着いているのである。


[海の上に広がるシボルガの町並み。]

 家の造りは極めてシンプルだった。海の底に丸太を何本か突き立てて、その上にトタン屋根の小屋を組み上げているだけ。海や川の上に高床の家屋を建てる例は、インドネシアの他の地域でもよく見られるが、シボルガの場合はその規模が桁外れだった。海岸から50m以上も離れた海上にまで水上の町が広がっているのである。家の数は数百、いや千を超えているだろうか。それは遠浅で波の穏やかなシボルガ湾だからこそ見られる光景だった。


[穴だらけの渡り廊下を子供が駆け回る。]

 家と家の間は板張りの渡り廊下で結ばれているので、足元が不安定なことを除けば、普通の町を歩くのと変わらない。しかし町が無秩序に拡大してきただけに、渡り廊下は複雑に曲がりくねり、いたるところで行き止まりになっていた。右に進んでは戻り、左に進んでは引き返すということを繰り返さなければ先へ進めないのだ。まるで水上に作られた巨大な迷路をさまよっているみたいだった。

 歩行者の行く手を阻むものは、行き止まりだけではなかった。どの家にも軒先から洗濯物が吊されていて、それを避けながらでないと進めないのだ。女物のショーツやブラジャーなども色とりどりの万国旗みたいにあっけらかんと並んでいた。この町には下着泥棒なんていないのだろう。その気になればいくらでも盗めるのだから。このような開けっぴろげな環境においては、フェティシズムなんて全然お呼びじゃないのだ。

 海上に建てられた家はどれも狭く、少しでも風通しを良くするために扉や窓は全て開け放たれているので、中を覗き見る気がなくても、人々の生活の様子が手に取るようにわかった。ハンモックの中で寝息を立てる赤ん坊、小魚とご飯だけの簡単な昼食を食べている家族、その昼食のおこぼれにあずかる猫、テレビゲームに夢中になっている若者、コーヒーを飲みながらチェスに興じるおじさん、アコースティックギターを抱えて甘いラブソングを歌う漁師、そしてもちろん浜辺に打ち上げられた鯨のように寝そべるおばさんたち。


[生活感溢れる町並み。]

 シボルガの人々は人懐っこくて陽気だった。おばさんがお茶をご馳走してくれたり、子供たちと一緒に渡り廊下の隙間から釣り糸を垂らしたりもした。僕が日本人だとわかると、「オシン!」とか「アジノモト!」と声を掛けてくる人もいた。ドラマ「おしん」も調味料「味の素」も、インドネシア人の誰もが知っているほどポピュラーなものであり、それが日本発だということも広く知られているようだった。

 シボルガはまた、ゴミの多い町でもあった。ビニール袋、ペットボトル、ガラスの破片、バナナの皮や野菜屑、その他わけのわからない色とりどりのゴミが、道という道にうずたかく積まれていたのだ。どこへ行ってもプラスチックの燃えたあとのような臭いが鼻をついた。町の中にゴミ溜めがあるというよりは、ゴミ溜めの中に町があると言った方がいいぐらいのひどい状態だった。


[おびただしい量のゴミ。]

 なぜこのように大量のゴミが処理されないまま放置されているのか、その理由はよくわからなかった。おそらくゴミ清掃を行う役所がこの地区を見放しているのだろう。海辺に勝手に家を建てて住み着くのは違法なことだし、住民の大半は貧しくて税金など納めていないので、行政サービスが滞っているのだ。


[ゴミの中から使えそうなものを拾い集める子供たち。]

 しかし仮にそうだとしても、住民自身の手で町をきれいにすることは可能なはずだ。このゴミは彼ら自身が出したものなのだから、なんとかできないはずはないのだ。
 もっと不思議なのは、そんな汚い町に住みながら、人々はあくまでも陽気であり、子供たちの表情は生き生きとしていることだった。ゴミだらけの環境が子供の成長にとって良いはずはない。しかしだからといって子供たちが陰気な顔をしているわけではない。むしろ他の町よりも元気が良かったのだ。

 例えばこの町でもっとも人気のある遊びは凧揚げなのだが、それはゴミを材料にして子供たちが作ったものだった。凧本体を作るために必要な棒きれや大きめのビニール袋はゴミの山の中にいくらでもあるし、それに漁師が使い古した釣り糸を結びつければ凧は大空を舞うことができる。見かけは少々不格好だが、この凧は実によく揚がった。地上のゴミ溜めの中から息を吹き返した魚が、雲ひとつない空をすいすいと泳ぐ姿はなんとも痛快だった。

 海の中に捨てられている発泡スチロールの塊も、アイデア豊かな子供たちの手にかかれば、たちまち三人乗りのボートに変身する。発泡スチロールボートにまたがった子供たちは、木の板をオール代わりにして勇ましく漕ぎ出していく。浜辺に突き刺さるようにして立つ廃船の横をすり抜け、家と家を結ぶ渡り廊下の橋脚をくぐり抜けて、町の外に広がる海へと進む姿は「ちびっ子パイレーツ」といった雰囲気。ゴミに囲まれながらも、そのゴミで遊ぶ術を次々とあみだしていくシボルガの子供たちは、実にしたたかでたくましかった。


[発泡スチロールボートで漕ぎ出す。]



 この町には貧しさや豊かさや美しさや醜さが混じり合っていた。それは同じコインの裏と表のようなものだった。どちらか一方を取りだして「シボルガは○○だ」と言うことはできないのだ。ゴミの山も、悪臭も、屈託のない笑顔も、親密な町の雰囲気も、すべてが渾然一体となって存在していた。

 シボルガをジャランジャランするというのは、この町の混沌をそのままのかたちで受け入れることに他ならなかった。


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by butterfly-life | 2011-10-17 11:28 | 東南アジア旅行記
山岳民族バタック族の結婚式
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 「一ヶ月以内にスマトラ島の端から端まで行く」という大まかな予定はあったものの、一日にどれだけ進むかはその日の気分次第だった。気に入った場所があればバイクを止めて歩き回り、海を眺めたり写真を撮ったりしながら、ゆっくりと進んだ。

 田植えをしている人たちがいればバイクを止めて田んぼの中に入ったし、漁村があれば浜辺を歩き、波打ち際で足を洗った。「微速前進」という言葉がぴったりの旅だった。





 パダンという町に向かっていたときには、椰子の実を売り歩いている男とすれ違った。椰子の実はインドネシアではごくありふれたもので、喉が渇いたときに水の代わりに飲まれている。つまりこの男は水売りのような商売をしていたのだ。

 ユニークなのは、売り物の椰子の実の上に一匹のサルが座っていたことだった。しかもマスコット的なかわいらしい小ザルではなく、人の子供ほどの体格を持つ大人のサルである。おそらくジャングルで捕まえたのを育てているのだろう。サルの落ち着き払った物腰からは、人に飼われはじめてから既に長い月日が経っていることがうかがえた。



 不思議なのは、サルが商売の役に立っているようには見えないところだった。サルが椰子の実をナタで叩き割ってくれるほど有能なわけではないし、そうかといって子供たちが歓声を上げて集まってくるほど珍しい存在ではない。手付かずの自然が多く残るスマトラ島では、サルはわりにありふれた動物なので客寄せにはならないのだ。それではなぜ椰子の実の上にサルがいるのか。それがさっぱりわからない。

 試しに椰子の実をひとつ買ってみたのだが、サルは何もせず、ただ椰子の実の上に座り込んで、あたりをキョロキョロと眺めているだけだった。
(後で聞いたところによると、このサルは椰子の木に登って実を取ってくるように訓練された有能なサルらしい。それが本当なら、妙に態度がデカかったのも頷ける。サルあっての椰子の実だったわけだ)


[スマトラ島ではサルは珍しい動物ではない。]


 自分の意志によって止まるのではなく、誰かによって「止められる」ことも何度かあった。その代表格が警察の検問だった。二、三人の警官が道路の真ん中に立っていて、行き交う車やバイクを片っ端から止め、免許証や積み荷をチェックしているのだ。そんなことをしても渋滞が起こらないほど、スマトラ島の道は交通量が少ないのである。

 警官に止められると、僕はパスポートとバイクの登録証を出して自分が日本人であることを説明する。英語はまず通じないので、インドネシア語である。
「私はメダンから来て、○○へ向かいます。インドネシアには○日います。このバイクはメダンで買いました」
 僕の即席インドネシア語で説明できるのはここまでで、それ以上複雑なことを聞かれると、首を捻るしかない。しかしほとんどの場合は、「あー、日本人なの? これがパスポートね。オーケー、行ってもいいよ」ということになる。

 一度だけ「免許証を見せろ」と言われたことがあった。そのときは持っていた国際運転免許証を渡して事なきを得たのだが、実はこの国際運転免許証はとっくに有効期限が過ぎたものだったのである。さらに言えば、インドネシアは国際運転免許の条約に加盟していないので、国際運転免許証というもの自体この国では何の法的根拠もないただの紙切れにすぎなかったのだ。つまり僕は約一ヶ月間無免許運転を続けていたわけだが、それを厳密にチェックするような警官は一人もいなかったのである。


[「俺を撮れよ」と言ってポーズをとる警察官。陽気な男だった。]

 武器や麻薬を運んでいないかを調べるとかで、荷物の中身をあらためられたこともあったのだが、そのときも僕のバッグの中にカメラが入っているのを見つけた警官が、「これで俺を撮ってくれよ」なんて言い出したことで、もう荷物検査の件はなかったことになってしまったのだった。

 インドネシアの警官はアジア的おおらかさを持っていた。良く言えば融通が利く、悪く言えばルーズな存在だった。僕が何事もなく旅を続けられたのは、彼らのルーズさのお陰でもあった。


 パッカットという町の近くで出くわしたのは、山岳民族バタック族の結婚式だった。
 バタック族はキリスト教徒なので、式は教会で挙げ、参加者には豚肉が振る舞われる。大鍋で豚肉をグツグツと煮る光景は、豚を食べないムスリムが大半を占めるこの国ではかなり珍しい。二日間で200キロもの豚肉が消費されるという。


[生姜と共に豚肉を煮込む。スマトラ島の料理はやたら辛いことで有名だが、これはかなりマイルドな味付けだった。]

 花嫁は化粧映えのする大作りな顔の美人だった。それに対して新郎の方は若干頼りなさそうだった。きっと普段はTシャツしか着ない農民なのだろう。スーツなんて着慣れないものを着て、緊張した面持ちで歩く新郎の姿はちょっとほほえましかった。

 新郎新婦はまずお互いの家を行き来して内輪だけの儀式を行い、それから20分ほど歩いたところにある教会に向かった。
 教会は200人の村人全員を収容してもまだ余裕があるほど広かった。電子オルガンで賛美歌が演奏されると、緑のドレスを着たおばさんコーラス隊がそれに合わせて唱う。この村の人々の宗教に対する真摯さが伝わってくるような心のこもったハーモニーだった。










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by butterfly-life | 2011-10-14 13:32 | 東南アジア旅行記
インドネシア・スマトラ島をバイクで横断する旅へ
■ 東南アジア旅行記(38) 「ここではない場所」に向かって バックナンバーはこちら ■

 メダンで中古バイクを手に入れた僕は、さっそくスマトラ島西部アチェ州に向けて出発した。

 予定は特に決めなかった。とにかく走れるところまで走って、日が落ちる前に適当な宿を見つけて泊まる。基本的には毎日がその繰り返しだった。天候や道路のコンディションが良ければ一日に300キロ以上進めることもあったが、雨にたたられて100キロも進めない日もあった。しかしいずれにしても自分が常に「ここではない場所」に向かっているという現在進行形の感覚は、バイク旅行でしか味わえない特別なものだった。



 宿探しにはいつも苦労した。州都などの大きな町に行けば、安宿から中級宿まで選択肢も豊富にあるし、宿にあぶれる心配はまずないのだが、山奥にある小さな町に行ってしまえば宿が一、二軒しかないようなところも多かったのだ。

 そこそこ清潔で、窓があって、夜に本が読める程度の明るい電球がついていて、便所の臭いがこもらない部屋、というのが僕のささやかな――本当にささやかな――希望だったのだが、それが全て満たされることはほとんどなかった。それどころか、たいていの場合僕の希望とは正反対の(つまり汚くて、窓がなくて、暗くて、便所の臭いがする)宿を選ばざるを得なかったのである。


[スマトラ島の典型的な安宿の一室。通常、バイクは駐輪場やフロントロビーで保管してもらうのだが、この宿では自分の部屋で一緒に泊まるように言われた。盗まれたら一大事というのはわかるのだが、どう考えても奇妙な光景ではあった。]

 しかし観光地でもないローカルな町を旅する限り、それは仕方のないことだった。たとえそれがどんなに硬くても寝るためのベッドがあり、たとえそれがどんなに薄汚れていても体を洗うための水場がある。スマトラ島の田舎町では、そのことに感謝しなければいけないのだ。

 メダンを出発して二日目、僕はイディという小さな町で宿を探すことにした。まず市場の近くでたむろしている「ベチャ」(バイクにサイドカーを付けた簡易タクシー)の運転手たちに「この町に宿はある?」と訊ねてみた。ベチャ乗りならこの町の事情に詳しいだろうと思ったのだ。


[ベチャの運転手たちは市場の近くにたむろしていることが多い。]

 この町には宿がひとつしかないらしく、ベチャ乗りたちは一斉に同じ方角を指した。しかし、どこまで行ってもそれらしき建物が見当たらない。「ホテル」や「ウィスマ」や「ロスメン」(どれも宿を表すインドネシア語)という看板が見当たらないのである。

 変だなぁと思いながらウロウロしていると、近所のおじさんが「あんたどこ行くの?」と聞いてきた。
「このあたりに宿があるって聞いたんですけど・・・」
 僕がそう答えると、おじさんは「それだったらここだ」と目の前の建物を指さした。それは何の変哲もないただの民家だった。とりたてて大きくもないし、宿を表す看板もない。しかしおじさんは確信を持って「ここだ」と言い張るのである。



 地元の人がそう言うのなら、ここが宿屋なのだろう。そう思ってドアをノックしてみた。しかし反応がない。仕方なくドアを開けて「パルミシー(すみませーん)」と呼びかけてみた。居間のテレビはつけっぱなしになっていたが、人の気配はなかった。僕はもう一度声を出した。
「パルミシー! 誰かいませんかー?」
 するとようやく奥の部屋から、太ったおばさんがぬっと顔を出した。派手な色のノースリーブのワンピースからは、棍棒のような腕と丸太のような足がつきだしている。昼寝から起きたばかりなのだろう、眠そうな顔で頭をぼりぼりと掻きながらのしのしと歩いてきた。

「あの・・・ここってロスメンですか?」
「ロスメン・・・そう、ロスメンだよ」
「ここに寝られるんですよね?」
 僕は身振りを交えて訊ねた。頭を横に倒して、右手を添える。世界共通のボディーランゲージである。
「ああ。あんた一人?」
 おばさんは怪訝そうな顔の前に、指を一本立てた。僕は頷いた。一人だったら泊めてもらえないのだろうかとも思ったが、そういうことではなかった。ついて来なさいと言うと、おばさんはすたすたと先に行ってしまった。僕は慌てて玄関でサンダルを脱ぎ、おばさんの後を追った。

 居間を抜けると、洗濯物がたくさん干された小さな中庭があり、その奥に泊まり客用の部屋があった。おそらく僕のような客がやってくると、家の中の余っている部屋を解放して使わせているのだろう。文字通りの「民宿」である。

 部屋には小さなベッドがふたつと机と扇風機があった。一応必要最小限のものは揃っている。掃除も行き届いている。悪くない。おばさんに宿代を訊ねると、四万ルピア(五百円)ということだった。高くもないし安くもない、リーズナブルな価格である。



「ダリ・マナ?(どこから来たの?)」
 僕から受け取ったお金を数え終えると、おばさんが訊ねた。そして冬眠明けのクマのような大きなあくびをした。
「サヤ・オラン・ジパン(私は日本人です)」
 と僕は答えた。この辺の自己紹介文は一日に何度もやり取りするので、すぐに覚えてしまった。私は日本人で、メダンからバイクに乗って来ました。

「ジパン! あんた日本から来たの?」
 眠そうな目をしていたおばさんの表情が、そのひとことで一変した。こんな辺鄙な町の安宿に日本人が泊まりに来るなんて、まずあり得ないことなのだろう。
「あんた、ほんとに日本人なのかい? だってさ、日本人は肌が白くて、背が低いじゃないか。でも、あんたはそうじゃない。どうしてだい?」

 おばさんは英語が全くわからないので、身振りなどから推測するしかなかったのだが、彼女が言わんとしていたのは、このようなことだったと思う。肌の白さはともかく、なぜか多くのインドネシア人が「日本人は背が低い」と思い込んでいるのは不思議だった。平均身長で比べるなら、インドネシア人の方が日本人よりも低いはずなのだ。あるいは、第二次大戦中にこの地にやってきた日本軍の兵士はみんな背が低かったのだろうか。

 僕が日本人の平均よりもいくらか背が高い理由を説明するのは難しかったが(そんなの日本語でも説明できないが)、肌の白さを証明するのは簡単だった。Tシャツの袖をまくり上げればいいのである。
「これが元々の肌の色なんです。ね、白いでしょう? インドネシアの強い太陽で、腕や顔が焼けて黒くなったんですよ」


[陽気で太っていて声が大きいのが、典型的なインドネシアのおばさんだ。]

 この時はまだインドネシアに来て三日目だったから、正確には僕の日焼けの半分以上はその前に旅していたカンボジアの太陽のせいである。しかしそんな細かいことをいちいち説明する必要はないだろう。とにかく、それでおばさんの疑念は晴れたようだった。

 おばさんは名前をアニといった。そして、この看板のない宿にも一応「ロスメン・アダム」という名前が付いていることがわかった。アニさんは最初は極端に無愛想だったが、僕が遠方からやって来た旅行者だと知ると、興奮した口調でいろんなことを話し始めた。もちろん僕にはほとんど理解できなかったが、そんなことは気にしない。いたってマイペースなのである。僕が何とかわかったのは、13歳になる娘の名前がカリスマだということだけだった。

 僕はアニおばさんが入れてくれたコーヒーを飲みながら、彼女の話に適当な相づちを打ち続けた。インドネシアのコーヒーは砂糖がたっぷり入っていて甘ったるいのだが、疲れた体にはそれくらいがちょうど良かった。サニさんの話はいつ果てるともなく続いた。おばさんという人種がお喋り好きなのは世界共通なんだなぁとしみじみ思った。

 やがて相づちを打つのにも疲れてくると、僕は頬杖をついて目を閉じた。意味不明な外国語にじっと耳を傾けていると、人は睡魔に襲われるようだった。


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by butterfly-life | 2011-10-12 18:14 | 東南アジア旅行記
カンボジアの素朴なローカルグルメ
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 カンボジアは旅人に優しい国だ。
 気候も温暖だし、人々の性格も気さくで陽気。ベトナム人のようにお金にシビアではないし、タイ人のように観光客との「壁」を感じることも少ない。肩の力を抜いて、リラックスした気分で旅ができる国なのだ。

 カンボジアの旅は自然とスローペースなものになった。しゃかりきになって前進を続ける旅ではなく、小腹が空くと小さな屋台に入って麺をすすったり、喉が渇くとサトウキビジュースを飲んだり、景気づけにスラー・ソー(米焼酎)を一杯くいっと飲んだりしながら、時間をかけてのんびりと進んだ。


[カンボジアで特に美味しかったのがこのおかゆ。小エビのダシがきいている。]

 プノンペンから北西に100キロほど行ったところにあるコンポンチュナンの町では、よく酒を飲んだ。
 夕涼みの中をぶらぶらと散歩していると、車座になって酒を飲んでいる男たちが「あんたも飲みなよ!」と誘ってくれたのだ。一日の仕事を終えたばかりなのか、ただ単に仕事がなくて暇なだけなのかはよくわからないが、もうすでにかなり酔っぱらっている様子だった。


[車座になって酒を飲む男たち。]

 男たちが飲んでいるのは砂糖椰子の樹液を発酵させたタックトナウトチューというお酒。強い酸味と微かな甘みを持つヤシ酒で、アルコール分はビールより少し薄いぐらいだから、かなり大量に飲まないと酔わないのだが、5リットルで3000リエル(90円)とまぁとにかく安いので、これをみんなでがぶがぶ飲んで盛り上がっているのだった。


[ヘビは市場でも売られている。]

 酒のつまみはトンレサップ湖でとれた小魚の揚げ物や「焼きヘビ」である。ヘビはカンボジアではかなりポピュラーな食材で、ぶつ切りにしたものを串刺しにしてタレを塗り、焼き鳥のように炭火であぶって食べる。味も焼き鳥に似ているが、肉質はややかためで、少し生臭い。

 虫もつまみになる。田んぼでとれる「コンテーロン」という昆虫をフライパンでさっと炒めて、羽根をむしって食べるのである。その形と大きさ、黒光りしたところなんかはゴキブリによく似ていて、口に入れるのには若干の抵抗感があったのだが、思い切って食べてみると意外にうまかった。水棲の昆虫らしくエビに似たうま味が口に広がるのだ。変なクセもなくて食べやすいので、2匹、3匹と続け食べたくなるほどだった。やめられない止まらない、コンテーロン。


[コンテーロンは見た目が「あいつ」に似ている。]

 続いて出てきたのは犬肉だった。しかも皿に載っているのは犬の頭そのものだったので、さすがに絶句してしまった。
「俺が飼っていた犬なんだ」
 とおじさんが自慢げに言った。もともと食用に飼われていたのか、あるいは用済みになった番犬を料理したのかはわからない。おじさんは「犬の顔の部分を食べると目が良くなるんだ」と強調した。しかしそんなもの食べなくたって、カンボジア人はみんな目がいいと思うんだけど。


[皿の上には犬の頭が…]

 ヤシ酒を飲み、ヘビや昆虫や犬肉を食べて盛り上がってくると、次に始まるのがカラオケである。男たちが順番に自慢の歌を披露するわけだ。カンボジア人もカラオケが大好きである。家財道具なんてほとんど何もないのに、立派なカラオケセットだけは備えているという家も多い。電気が来ていない村でも心配ご無用。カンボジアの田舎には自家発電機を使ってカーバッテリーを充電してくれる「バッテリー屋」があって、それでテレビやカラオケセットなどを動かすことができるのである。


[家財道具はほとんどなくても、カラオケセットだけは充実している。]


[バッテリー屋の前に並べられたカーバッテリー。ちなみに充電一回の料金は1300リエル(40円)。一般家庭なら電池一個で3日から7日ぐらいは持つそうだ。]

 カンボジアの前国王であるシハヌークもカラオケ好きで有名らしい。カンボジアの国営テレビ局では、シハヌーク前国王が開くカラオケ大会の模様を毎回生中継しているそうだ。80歳を過ぎた前国王が自らマイクを握り、フランス語や英語の歌を何曲も立て続けに熱唱するという。各国の要人たちもその場に招待され、歌に合わせて優雅にダンスを踊る。なんと夜の8時から朝の3時まで歌い続けたこともあるそうだ。長渕剛も顔負けのマラソンライブである。おそらく参加者の誰もが心の中で「いい加減にしてくれよ」とぼやいていたことだろう。

 コンポンチュナン周辺の村は、乾季と雨季ではまったく様子が違うという。雨季になるとトンレサップ湖の水かさが一気に増し、水位が上昇するので畑や道路が水没してしまうのだ。だからどの家も非常に長い「足」を持ち、見上げるほどの高さに床があった。


[雨季になると水没するので、どの家も高床式になっている。]


[湖に浮かぶ「浮き家」にもちゃんとテレビ用のアンテナが立っている。もちろん電線は来ていないので、バッテリーが電源になっている。]

 僕がお酒をご馳走になったバオさんの家も地上3メートルほどの高床式だったので、急な階段をのぼらなければいけなかった。酔っぱらって滑り落ちることはないのかと訊ねたら、「そんなことはないよ」と一笑に付されてしまった。

「4月から10月の雨季のあいだは結構忙しいんだ」とバオさんは言う。「田植えをしたり、田んぼの雑草を取ったり、船で魚をとったりする」
「それじゃ、11月から3月のあいだは何をしているんですか?」
「ハハハ。そりゃリラックスだよ。特にやることもないからね。今日みたいに昼間から酒を飲んで、カラオケを歌っている」

 一年の半分だけ働いて、あとの半分はのんびりと酒を飲み、歌をうたいながら暮らす。理想的な人生だ。
 もちろん「一人あたりGDP」だとか「可処分所得」といった経済指標を基準にしたら、彼らの暮らしは「貧しい」と分類されるに違いない。しかし温暖な気候と豊富な水に恵まれたこの土地では、別にあくせく働かなくても十分に食べていけるし、残りの時間を「リラックス」して過ごすことができるのだ。それを「貧しい」と決めつける方が間違っていると思う。


[コンポンチュナンの畑で収穫された野菜を運ぶ子供たち。]


[池の魚を捕らえようと網を打う。]

 あまり言葉も通じない男たちと一緒に酒を飲み、ヘビや犬の肉を食べ、カンボジア特有の粘っこいリズムのポップソングを聞くともなく聞いていると、すーっと肩の力が抜けてぼんやりとした気分になった。あたかも僕のために用意された空間にすっぽりとはまり込んでしまったようで居心地が良かった。


[少し高価だがビールもよく飲まれている。]

 窓の外に目をやると、トンレサップ湖の向こうに夕日が沈んでいくのが見えた。
 今日もこうして日が暮れて、明日もまた同じように日が昇るんだな。
 なぜかそんな当たり前のことを、ふと思ったりした。




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by butterfly-life | 2011-10-11 11:31 | 東南アジア旅行記
なぜポルポトは虐殺を行ったのか?
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 首都プノンペンの線路沿いには、土地を持たない人々が勝手に家を建てて住み着いている。他に住むところのない貧しい人々が廃材を使ってあばら屋を建て、一種のスラム街を形成しているのだ。



 線路といっても、実際にこの上を列車が走ることはほとんどない。住人によれば1日に3,4回ほどだという。僕はこの「貴重な」列車が走るところを見たのだが、何も牽引していない1両編成の機関車が歩くのと同じぐらいのスピードでゆっくりと通過していっただけだった。これなら線路に座っておしゃべりをしていても、さほど危険ではないだろう。実際、線路をまたぐようにして机を並べている食堂もあったりする。警笛が聞こえてから椅子や机を片付けても、十分に間に合うのだ。


[1日に3,4回しかお目にかかれない「貴重な」列車。]

 カンボジアの鉄道網はフランス植民地時代に一度整備されたものの、1970年代から続いた内戦によって大きく荒廃し、それ以来旅客の輸送は中止されたままになっている。国内交通の主役はバスまたは船なので、あえて鉄道を復活させる必要もないのだ。それでも完全な廃線とはせずに細々と運行を続けているのは、いざというときのための輸送路を確保しておくためだという。将来的には荒廃した路線を修復して、旅客の輸送を再開する計画もあるらしい。


[線路の上に洗濯物が堂々と干されていた。]


[線路をまたぐ格好で営業する食堂。歩行者天国の線路版といったところか。]

 線路沿いのスラム街に住む人々はとても気さくだった。こんなところを外国人がふらふらと歩いているのは珍しいのか、昼間から楽しそうに酒を飲んでいる兄ちゃんたちが「一緒に飲もうや」と声を掛けてきたので、ご相伴にあずかることにした。
「これ、いい酒なんだ」
 悪役プロレスラーみたいなごつい体をした若者レーが、透明の酒瓶を指さした。
「うぇ!」
 それを見た瞬間、僕は思わず声を上げた。酒瓶の底には大きな蜘蛛が何匹も沈んでいたのである。真っ黒い毛で覆われたタランチュラ的な蜘蛛だった。
「蜘蛛はここに効くんだ」とレーは自分の股間を指して笑った。「俺、蜘蛛食べる。何匹も食べる。だから強い。こっちもあっちも強い。だからあんたも食べてみろって」


[蜘蛛のおかげ(?)で強くなったレー。]

 しかしいくら「あっちの方」が強くなるといっても、さすがに蜘蛛は食べられなかった。これは無理だ。罰ゲームでも無理だ。しかし蜘蛛のエキスが出ているという蜘蛛酒は何とか飲むことができた。サソリ酒、ハブ酒と同じように「キクー」って感じはあったけど、味自体は普通の焼酎とさほど変わらなかった。これで「あっち」が強くなったのかは不明だが。


[カンボジアの市場には蜘蛛や虫を揚げたものが売られている。おつまみとして普通に食べられているようだ。うーむ。]

 線路沿いのスラム街で薬屋を営んでいるイットさんは、コミュニティーのリーダーをしている人物だった。彼によれば、このスラム街の住人たちはカンボジア政府から立ち退きを迫られているという。線路から20m以内にある家屋を全て撤去し、そこに新しい道路を造る計画が進行中なのだ。
「もちろん住民は計画に反対している。もう何十年もここに住んでいるんだからね。違法かもしれないが、ここは私たちの町なんだ」


[65歳のイットさん]

 現在65歳のイットさんは若い頃に大学で勉強したインテリだけあって、しっかりとした英語を話した。線路脇にある自宅では、若者に薬学を教える私塾も開いている。イットさんは終始にこやかな笑みを絶やさない温厚な人だったが、話題がポルポト時代に及ぶと、にわかに表情が曇り、眉間に深い皺が寄った。

「ポルポト時代について誰かに話したことはほとんどないんだ。息子にも甥っ子にも何も話さなかった。怖かったんだ。ポルポトは1975年に全権を掌握して虐殺を始め、1979年にプノンペンから追い出された。でもそれですぐに平和が戻ったわけではなかった。そのあとも内戦状態がずっと続いた。ポルポト率いるクメール・ルージュがいつかまた復活するんじゃないかとみんな怯えていた。この国で生き延びるためには、政治について余計なことを口にしてはいけなかったんだよ」

 彼はしばらく黙り込んで目の前の線路を見つめた。滅多に列車が走ることのない忘れられた線路の上を、野良犬がゆっくりと横切っていく。
「でも今なら話してもいいだろうね。もうポルポトは死んだんだから。私は大学で勉強して、プノンペンで薬屋を開いた。しかしカンボジアを支配したポルポトは、私のような商売人や教師や医者などを敵視した。みんな住んでいた場所を追われ、収容所に入れられるか、農村で強制労働をさせられることになった。慣れない農作業はとても辛かった。その辛さを言葉で表すのは難しいな。食べ物もわずかしかなくて、おおぜいの仲間が病気や栄養不足で死んでいった。反抗的な態度を取ると、すぐに兵士に撃ち殺された。逃げたくても逃げ場所がなかったんだ。隣国への国境は全て閉鎖されていて、監視の目が光っていたからだ。逃げたものは必ず捕らえられて殺された。国がひとつの刑務所のようだった。あの4年間、カンボジアは真っ黒い雲に覆われていた。みんな今日生きることで精一杯で、明日がどうなるかなんて考えられなかったんだ」

 イットさんの話を聞きながら、僕は「キリングフィールド」と呼ばれるポルポト時代に大量虐殺が行われた刑場跡を訪れたときのことを思い出した。そこにはおびただしい数の頭蓋骨が並んでいた。ポルポト派の兵士たちにほとんど理由もなく連行され、拷問を受け、殺された後に穴に埋められた人々の骨だった。



「銃で殺された人はほとんどいませんでした」とキリングフィールドのガイドは言った。「無駄な弾を使わないために他の方法で殺されたのです。ときには椰子の木も凶器になりました。砂糖椰子の枝にはのこぎりの歯のようなギザギザがついているのですが、これを使って首を切ったのです。とてもゆっくりと切るので、死ぬまでには長い時間がかかったそうです。子供たちを殺すときはこの大木を使いました。兵士が子供の両足を持って、頭を木の幹に打ち付けたのです」
 その木の根元には大小様々な白骨が散らばっていた。白骨は沈黙の中で何かを訴えていた。私たちは確かにここで殺されたのだと。彼らの魂はまだ癒されてはいない。そう感じた。


[散乱する人骨]

「どうしてポルポトはあのような虐殺を行ったのでしょうか?」
 僕はイットさんに訊ねた。
「それは私にもわからない。誰にもわからないんだ。ポルポトは特に知識を持つ者を弾圧した。しかし皮肉なことにポルポト自身はパリに留学したことのあるインテリだったんだ。彼はあるとき狂気にとらわれてしまった。そして暴走を始めた。その本当の理由は誰にもわからないんだ」
 イットさんは「わからない」という言葉を発するたびに首を大きく振った。

「クメール・ルージュは最初1万人ほどしかいなかったんだが、あっという間に勢力を拡大した。まるで伝染病のように。新しく加わったのはまだ十代前半の子供たちだった。ポルポトはイノセントな彼らを洗脳して、忠実な手下にした。彼らは『腐ったリンゴは箱ごと捨てなくてはならない』と言って、反抗する者を容赦なく殺した。知識層を敵視したのは人々から考えることを奪うためだったのかもしれない。しかしそれによってカンボジアの経済や文化は回復不能なダメージを受けることになったんだ」

 カンボジア人は温厚でのんびりしていて、「お人好し」という言葉がぴったりと来る人々である。そのカンボジア人の中からどうしてポルポトのような狂気が生まれ、100万とも200万とも言われる人々が殺されることになったのか、僕にはどうしてもわからなかった。「カンボジア人も普段はにこやかだが、激情に駆られると衝動的な行動を取ることもある」と言う人がいたが、たとえそれが本当だとしても、そのような感情の振れ幅は特別珍しいことではないように思う。「殺してやりたい」と思うほど強い憎しみを持つ瞬間は誰にでも訪れる。



 おそらく問われるべきなのは「なぜポルポトが生まれたのか」ではなく、「なぜポルポトの暴走を止められなかったのか」なのだろう。狂気を持った人間はいつの時代にも、どの国にもいる。中世ヨーロッパの魔女狩りや、アステカ文明を滅ぼしたスペイン人などの例を挙げるまでもなく、人間の中には身震いするばかりの残虐性が潜んでいる。その残虐性が一方的に暴走するのを誰も止められなかったことが、カンボジアを惨劇に導いたのだ。

 本物の狂気をはらんだ人間に対してはっきりと「ノー」と言うことができず、恐れと尻込みと同調によって一人の男の妄想が国全体を支配することを許してしまった。問題の本質はそこにあると思う。

 ひとつ気がかりなのは、カンボジアの若者がポルポト時代についてあまりよく知らないということだった。カンボジアの公立学校では内戦や虐殺についてほとんど何も教えてこなかったという。キリングフィールドなどの史跡を訪れるのも大半が外国人だった。国の人口の三分の一が失われてしまった悲劇からまだ30年しか経っていないのに、すでに記憶の風化が起こり始めているのだ。

 隣国ベトナムでもおびただしい数の犠牲者を出した戦争が起きたが、その後の語られ方はカンボジアとは大きく違っている。ベトナム人にとってベトナム戦争とは、アメリカという侵略者に対してねばり強く戦い勝利を収めたという誇るべき物語なのだ。

 だが、カンボジアで起きた内戦と虐殺はカンボジア人自身の手で作り出した悪夢であり、しかも事態の解決のために外国の力に頼らざるを得なかったのである。いまだに虐殺の動機は不明で、何が目的だったのかもはっきりとしない。後に残されたのは、白骨の山と知識と文化の喪失というあまりにも惨めな結果だけだった。

 カンボジア人がポルポト時代を忘れたいという気持ちはよくわかる。事実を直視してそれを語り継ぐのは、激しい痛みを伴うことだから。しかしたとえそうであっても、次の世代に向けて語らなければいけないこともあるのではないか。忘れてはならないこともあるのではないか。

「そうかもしれないな」とイットさんは頷いた。「私はこの30年、辛い記憶をただ黙って忘れようとしてきた。私にはそうすることしかできなかった。でも私が死んだら、あの時代に死んでいった人たちの苦しみを伝える者は誰もいなくなってしまう。話してみるよ。私に残された時間は少ないけど」

 イットさんは別れ際に「オークン(ありがとう)」と言ってくれた。もちろん僕も「オークン」と返した。
 彼の顔にはいつもの穏やかな微笑みが戻っていた。


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by butterfly-life | 2011-10-07 09:46 | 東南アジア旅行記