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雨が降れば暇人が儲かる?
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 東ティモールの道路はかなりひどいものだった。首都ディリから伸びる何本かの幹線道路はまだまともだが、それ以外の道、特に中部から南部にかけての山道は、路肩が崩れていたり、土砂崩れで道路そのものが流されていたりしていた。主要道路はインドネシア占領時代に整備されたのだが、その後の騒乱と経済的困窮の中でメンテナンスが滞っているのだ。


[長雨で土砂崩れを起こした道路。]


[洪水で流されてしまった橋。]

 道路の状態は最悪だが、通る車の量も少ないので、交通事故はあまり起こっていないようだった。ベトナムやインドネシアのように一家に必ず一台のバイクがあり、いたるところで衝突事故が起こっているという状態とは全然違う。

 東ティモール人が安全運転なのも、事故が少ない原因のひとつかもしれない。アジアには「ハンドルを握ると性格が豹変する」人間も多いのだが、東ティモール人の場合は前に遅い車が走っていても、無理な追い越しをかけることもなく、のんびりと後ろについていくだけなのだ。ディリ市内を流しているタクシーも時速2、30キロほどでとろとろと走っている。これが高騰するガソリンの消費量を押さえるためなのか、「狭いティモールそんなに急いでどこへ行く」的な思想の表れなのかはよくわからなかった。


[東ティモールのローカルバス。]

 のんびりとした東ティモールの交通事情を反映しているのが犬たちである。どういうわけか東ティモールの犬は道のど真ん中で堂々と昼寝をしているやつが多いのだ。バイクが近づいてもピクリとも反応しない。「俺はここで寝てるんだからお前が避けろ」と言わんばかりの横着な態度なのである。



 まぁ滅多に車なんて通らないところだから、ほかほかと暖かいアスファルトの上に寝そべりたくなる気持ちもわからなくはないけど、カーブを曲がったところにいきなり「お昼寝犬」が現れて、慌ててハンドルを切って何とか避ける、ということを何度も繰り返していると、「んなことしてたら、いつか轢き殺されるぞ!」と怒鳴りつけてやりたくなった。

 東ティモールの中でも特にひどい状態だったのが、ティモール海に面したビケケ県の道だった。ここは1999年に起こった騒乱の際に主な橋がすべて破壊され、道路が寸断されたままになっていたのだ。最近になってようやく橋の再建が始まったのだが、それもたびたび起こる洪水のせいで思うように進んでいなかった。

 橋が壊れたままの場所では、バイクで川を渡ることになった。水深がさほど深くなければ簡単に渡れるのだが、前の日に大量の雨が降って水かさが増していたりすると、かなりの危険を伴うドライブになる。


[川をバイクで渡る男。この川はまだ浅い。]

 ラウテン県とビケケ県の県境のあたりを走っていたときには、幅が30メートルほどもある川に行く手を遮られてしまった。わだちは川に向かって直角に進み、そこで唐突に途切れていたから、ここを通る人はみんな川の中を突っ切っているに違いなかった。

 さて、どうしたものか。
 僕はとりあえずバイクを日陰に止めて、買っておいたビスケットを囓り、ボトルに入れた水を飲みながら、他のバイクが現れるのを待った。もし他の誰かがここを渡るようなら、その後に続こうと思ったのだ。「地元の人がやることを真似ろ」というのがこういうイレギュラーな事態に対処するときの基本である。

 しかし10分が経ち、20分が経っても、一台のバイクも現れなかった。どうやらここは極端に交通量の少ない道のようだ。
 仕方ない。自力でやってみるか。
 そう腹をくくった僕は、まず川の一番深いところまで歩いてみることにした。流れは速いが、水深は思っていたよりも浅かった。膝の少し上まで水に浸かるぐらいだった。これならバイクでも渡れそうだ。そう思ったが確信はなかった。

 そこへちょうど現れたのが、釣り竿を持った若者だった。
「ビサ? (できるか?)」
 僕はインドネシア語で訊ねてみた。そしてバイクと川を交互に指さして「このバイクで川を渡ることができるか?」と伝えた。
「ビサ! (できるさ!)」
 若者は自信ありげに頷いた。よかった。気休めにしかならない言葉だが、「できない」と言われるよりははるかにマシだった。

「よし、行こうか、相棒」
 僕はバイクに一声かけてスロットルを握り、ギアをセカンドに入れて川の中へと進んだ。こういうときには、行くと決めたら一気に走りきることが大切だ。少しでも躊躇してスピードを緩めると、川の流れに負けて身動きがとれなくなる可能性があるからだ。最悪の場合、バイクごと下流に流されてしまうかもしれない。

 出だしは順調だった。川底のツルツルした石にタイヤが取られて、何度かバランスを失いそうになったが、なんとかスロットルを緩めずに進むことができた。
 ところが、流れの真ん中を過ぎたあたりで急にエンジンが止まってしまったのである。エンジンが急に冷えたことでエンストを起こしたのだろうか。
 まずい。
 僕は一瞬パニックになりながらも、すぐにギアをニュートラルに入れてバイクを降り、下流に流されないように必死に足を踏ん張りながら全力でバイクを押した。水の中で息を止めたバイクはやたら重かったが、それでも何とか対岸までたどり着くことができた。

 やれやれ。僕は全身汗びっしょりになりながら、安堵のため息をついた。
「ビサ! (できたじゃないか!)」
 振り返ると、釣り竿の若者が右手の親指を立てて笑っていた。
「ビサ! (できたさ!)」
 僕も同じポーズで答えた。できたことはできた。でもギリギリだった。これ以上水かさが増していれば、渡れなかっただろう。運が良かった。

 そこからさらに1時間ほど進んだところにある川には、コンクリート製の立派な橋が架けられていた。壊された古い橋の代わりに新しい橋を一から造ったようだ。今度は楽に川を渡れそうだ。そう思ったのもつかの間、また別の問題が僕を待っていた。
 実はこの橋は未完成だったのである。橋そのものの工事は終わっているのだが、道路と橋桁とを繋ぐスロープの部分がまだ完成していなかったのだ。道路と橋桁のあいだには高さ3メートルほどの大きなギャップがあって、これがバイクの行く手を遮っていた。


[未完成の橋が目の前に立ち塞がった。]

 完全にお手上げだった。橋には歩行者が渡れるように小さなはしごがかけられていたのだが、重いバイクを担いでこのはしごを登るのは不可能だった。いったいどうしたらいいんだろう?
 橋の前で茫然としていると、どこからともなく若者たちが集まってきた。やたらテンションが高く、口々に「マライ! マライ!(外国人だ!)」と叫んでいる。

 若者たちは僕のバイクを取り囲んで「リマ・ドラー!(5ドル)」と言った。そしてバイクを持ち上げる仕草をした。どうやら彼らは「5ドル払えば、俺たちがバイクを橋の上に引っ張り上げてやる」と言いたいらしい。なるほど。そういうことですか。

 それにしてもセコい商売を思いついたものである。この橋をバイクで渡ろうとする人間はそれほど多くないはずなのだが、若者たちはその滅多に来ない「顧客」が現れるのを、ぺちゃくちゃお喋りをしながらずっと待ち続けていたのだ。よっぽど暇な人間じゃないとできないことだ。もちろんそんな暇人たちがいなければ、僕はここで立ち往生する羽目になっていたわけだが。

 5ドルという言い値は、3ドルにまで値切ることができた。交渉が成立すると、5人が橋の上に、5人が下の道路に分かれ、声を合わせてバイクを引っ張り上げた。そして橋の反対側でも同じ要領でバイクを下ろしてくれた。作業は実に手慣れていて、チームワークも抜群だった。

 こうしてバイクが無事に橋を渡りきると、僕は約束通り1ドル紙幣3枚をリーダーに渡した。リーダーはそれを戦利品のように頭上に掲げると、「ヒャホー!」と叫びながら橋の上を走り回った。

 いやはや、この道には予想もつかない罠がいくつも仕掛けられている。
 僕はため息をついて、バイクにまたがった。


 実はこの「バイクの引っ張り上げ」によく似たセコい商売を、別の場所で目撃したことがあった。
 現場は首都ディリから50キロほど西に行ったところにある橋の上。前日に大量の雨が降ったせいで川が氾濫し、流れてきた泥が橋桁の上に分厚くたまっていた。この橋の上を通過する自動車やバスが、地元の若者たちにとっての「顧客」だった。彼らは橋を通過する車のタイヤが泥にはまり、身動きがとれなくなるのをじっと待っていたのだ。まるでアリ地獄に潜むウスバカゲロウの幼虫のように。


[ぬかるんだ道を走る車。]

 運悪く泥にはまって立ち往生する車があると、たちまちそのまわりに若者たちが群がり、口々に「10ドル! 10ドル!」とはやし立てた。「10ドルくれたら後ろから押してやるぞ!」というわけだ。運転手は困った顔で値切り交渉を行おうとするのだが、優位に立ってっているのは若者の側なので、結局10ドルを払わされる羽目になるのだった。ご愁傷様です。


[10ドルくれたら後ろから押してやる!]


[橋の上で「顧客」が現れるのをじっと待つ若者たち。]

 この若者たちにしかるべき賃金を出して、「いますぐ橋の上の泥を取り除いてくれ」と指示すれば、ものの10分でやり遂げるに違いない。その方がずっと効率的だし、公共の利益にも適っている。でも、この国ではそういうアイデアを出す人は誰もいないのだ。そして大型のショベルカーが到着して泥を取り除くまで、この「アリ地獄的ビジネス」を延々と続けるのである。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、「雨が降れば暇人が儲かる」というのがこの国の現実なのである。

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by butterfly-life | 2011-11-30 11:44 | 東南アジア旅行記
平均8人の子供を産む! 東ティモールのベビーブームの実態
■ 東南アジア旅行記(75) ベビーブーム、来たる バックナンバーはこちら ■

 教会に泊まった翌日は、洗礼式が行われた。
 洗礼式は結婚式のような盛大なものではないし、厳粛さにも欠けていた。親に抱かれた赤ん坊の頭を神父が水で濡らし、それを布で拭いたらお終いという簡単なものだった。


[洗礼式の様子]

 「洗礼」という言葉から連想されるのは、裸の赤ん坊がちゃぷんと水に浸かっている場面なのだが、一人一人にそんなことをしていたら何時間あっても足りないということで、儀式も簡略化されているようだ。何しろこの日だけで160人もの子供が洗礼を受けるために集まっているのである。


[洗礼式に集まった人々。]

 ミゲル神父によると、このような洗礼式は年に6,7回行われているということなので、単純計算でも毎年1000人近くの子供がこのマウベシ周辺で生まれていることになる。ものすごい数である。

 統計的に見ても、東ティモールの子供の数は劇的に増えつつある。合計特殊出生率(一人の女性が一生に生む子供の数)はなんと7.8人。これは国連が認める世界ナンバーワンの数字だという。ちなみに少子化問題に頭を悩ませている日本の合計特殊出生率は1.27。東ティモール人女性は日本人女性の実に6倍もの子供を産むわけである。もしこの高い出生率が今後も続けば、わずか18年で今の人口が倍になるという。すさまじい勢いだ。

 東ティモールには「子供がたくさんいた方が幸せだ」という価値観が根強くあるようだ。それに加えて今のベビーブームの背景には、インドネシア占領時代と独立後の混乱によって多くの人が殺され、とても子供を産めるような環境になかったことの反動もあるようだ。


[東ティモールにはとにかく子供が多い。どこに行っても子供が元気に遊び回る姿がある。]



 平和を取り戻した国で多くの子供を産み育てたいという願い自体は、とても自然なものだ。しかしこのままの勢いで子供の数が増え続けていくとしたら、今後大きな社会問題となるのは間違いないだろう。小さな島国東ティモールにそれだけの人口を養う余地があるのかは疑問だし、失業者の問題もより深刻化することになるだろう。今でさえこの国の若者の半分は定職に就けずにぶらぶらしているというのに、これからさらに若年人口が増えればどういう結果になるのかは考えるまでもない。

 東ティモール政府も人口抑制策を打っているのだが、今のところあまり効果は上がっていない。その原因の一部はカトリック教会にあるという話を聞いた。教会がバチカンの意向に従って信者に対して避妊を勧めていないことが、次から次に女性が妊娠することに繋がっているというのだ。



「確かに子供の数は多いですね」とミゲル神父は言った。「お腹の大きな母親が、腕に1歳にもならない赤ん坊を抱え、足下には3歳の子供がいて、さらに離れたところで二人の子供を遊ばせている。そんな家族が教会を訪れるのです。母親は大変ですよ」
「そういう母親に対して教会は何かアドバイスをしているのですか?」
「我々カトリック教会が説いているのは、『結婚とは子供を作るための扉を開く鍵である』ということです。毎年のように妊娠して子供を産むのは母親の体にも負担がかかるし、生まれてくる子供にも良くない。だから3、4年あいだを置いてから次の子供を作りなさいと言っています。そのために女性の生理周期を知り、妊娠しそうなときにはセックスを控えるように教えています」
「避妊具、例えばコンドームは使わないのですか?」
「政府はコンドームの使用を勧めています。エイズ感染の防止のためにも必要だと。でも教会は『コンドームを使うべきではない』と教えています」
「それはなぜですか?」
「人々がコンドームの正しい使い方を知らないまま使うのは、危険だからです」

 それはずいぶん無理のある説明だった。コンドーム自体に危険性があるという話は聞いたことがないし、「エイズと望まない妊娠に対してもっとも安価で有効な対策はコンドームの使用だ」というのは世界中で広く知られた常識である。東ティモールでもエイズが深刻な問題になりつつあるということだから、なおさらコンドームの使用を勧めるべきではないのだろうか。

「教会で結婚するカップルは、必ずエイズ検査を受けることになっています。その結果が出ないと結婚の許可が下りないのです。二人とも陰性であれば、コンドームを使わずにセックスをすればいい。どちらかが陽性だった場合には、二人の判断に任せます。それでも愛し合っていて夫婦になるというのであれば、そのときには教会も特別にコンドームの使用を認めています」

 その説明もやはり苦しい言い訳にしか聞こえなかった。仮に結婚前のエイズ検査で陰性だったとしても、結婚後に夫婦のどちらかが買春やドラッグなどによってHIVに感染し、それをパートナーにうつす可能性もある。その場合には婚前診断の結果は全く意味をなさなくなる。エイズを広めたくないのであれば「コンドームを使え」と言うしかないのではないか。

 ミゲル神父もコンドームの有効性は知っているのだと思う。高い教育を受けた彼が爆発的な人口増加がもたらす未来を予測できないはずはないし、エイズの蔓延も止めなければいけないとわかっているはずだ。しかし彼は神父であり、カソリックの総本山バチカンの「人工的な避妊と妊娠中絶を禁ずる」という方針には逆らえない。板挟みの状態なのだ。だからこのような詭弁に近いロジックを持ち出さざるを得ないのだろう。

 東ティモールのカトリック教会はインドネシアによる占領時代に信者の数を大幅に増やした。それ以前は土着のアニミズム信仰が優勢だったのだが、カトリック教会が占領時代に虐げられていた東ティモール人の権利を守るという立場を貫いたことで、人々から厚い信頼を得たのだ。教会は東ティモールが独立を勝ち取るための「精神的支柱」となったのである。

 この国で教会が持つ影響力は大きい。だからこそ教会にはバチカンが決めた方針に従うだけではなく、東ティモールの実情に合った助言をする責任があると思う。たとえば「バチカンの方針はともかく、我々は避妊の問題に関して何も言わない」という態度を取るのもひとつの方法だろう。コンドームの推奨はしないが、禁止もしない。選択は信者に任せるということにすれば、事態は改善されるのではないだろうか。
 そんなことをミゲル神父に提案すると、「うーん」とうなったまま黙り込んでしまった。彼にとっても頭の痛い問題なのだろう。

 もっとも、神に仕える立場の神父が性生活についてアドバイスをするなんて土台無理な話なのかもしれない。カトリックの神父は結婚してはいけないし、もちろんセックスもしない。性欲さえもコントロール可能だという。この教会の見習い神父いにレオニルドという17歳の若者がいるのだが、彼も(おそらく性欲がもっとも盛んな時期であるのに)「女性に惑わされることはない」と言い切った。
「もちろん女性に対して興味が湧くことはあります。自然な欲求として。でもそれは自分の中の欲望のありかを見つめることによってコントロールできるものなのです」

 残念ながら僕はそのようなストイックな青春時代を送ってこなかったので、「性欲は意志の力で制御可能である」と言われると、「ほんまかいな」と首をかしげたくなってしまう。それが可能な人もいるのだろうが、一般的な欲望のあり方とはかけ離れたものであるのは確かだ。そんな人が世間一般の男女の性生活についてリアルな助言を与えることなどできるのだろうか。
 カニを一度も食べたことがない人に、カニのうまさについて語ることはできない。どれほど生物としてのカニの生態に精通していても、カニ肉の味は実際に口に入れない限り絶対にわからない。セックスもそれと同じではないだろうか。



 洗礼式が行われた日は一日中雨が降っていたので、教会とその周りをうろうろして時間を潰すことにした。
 夕方の教会は人気がなく、がらんとしていた。白く塗られた高い天井と、きちんと並べられた長椅子。磨き上げられた床。正面には聖母マリア像と磔になったキリスト像。そんな教会らしいしんとした空気の中で、僕は雨だれの音を聞いていた。

 しばらくすると賛美歌の練習が始まった。教会の最後部には聖歌隊専用の二階席があり、そこに少年少女が集まってきたのだ。僕は目を閉じてその歌声に身を委ねた。とても美しい旋律だった。天井や壁に反射して複雑なエコーのかかったハーモニーは、体の芯をじんわりと温めてくれるような力があった。

 6時になると聖歌隊の練習は終わり、それと入れ違いに棺を担いだ人々が教会に入ってきた。これからお葬式が始まるらしい。参列者は200人ほど。全員で賛美歌を合唱し、神父が説教を行う。再び賛美歌。それを何度か繰り返した。


[棺が運び込まれて葬式が始まった。]

 妙な外国人がお葬式に紛れ込んでいても誰も咎めなかったし、僕の存在を気にする人もいなかった。僕は全員が起立すれば一緒に立って、一緒に手で十字を切った。

 これまでにも何度か道ばたで葬列とすれ違うことはあった。東ティモールではたくさんの人が生まれると同時に、たくさんの人が死んでいるのだ。


[道で出会った葬列。]

 東部トゥトゥアラでは流産した胎児のお葬式を目にした。亡くなった胎児の母親は親戚の葬式に「泣き女」として参列した際、あまりにも感情を高ぶらせて泣きすぎた結果、道ばたで転んでしまい、それが元で妊娠5ヶ月の子供を流産してしまったという。その手のことはしょっちゅうは起こらないにせよ、特別珍しいわけでもないらしい。その村では3日間で4度もお葬式が行われたそうだ。そのうちの3人が幼児か赤ん坊。衛生状態が悪くマラリアなどの風土病も多いので、乳幼児死亡率が極めて高いのだ。だからこそ、「できるだけ多くの子供を産んでおかなければ」と考えてしまうのだろう。

 死者が埋められる墓地は、貧しい村には不釣り合いなほど立派なものだった。人々は見晴らしの良い丘の上や椰子の木陰に、コンクリート製の大きなお墓を作るのである。生前よりも死後の方がよっぽどのんびりと暮らせそうだった。


[海を見下ろす丘の上に作られた墓地。]


[コンクリートでお墓を作る男たち。]

 教会の一日。それは生と死を司る一日だった。
 朝には新しい生に祝福を与え、夕方には死者を弔う。

 東ティモールでは、人の生も死も日々の暮らしのすぐそばにあった。毎日多くの人が生まれ、毎日多くの人が死ぬ。
 だからこそ、この国の人々は教会というものを切実に必要としているのだ。

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by butterfly-life | 2011-11-28 11:28 | 東南アジア旅行記
お金がなくても幸せになれる方法
■ 東南アジア旅行記(69) 幸せになれる方法 バックナンバーはこちら ■

 東ティモールという国と水牛の歩みとを重ね合わせて語ってくれたのは、ジュヴィナルという名の若者だった。
 彼と出会ったのはティモール島の東の果てにあるトゥトゥアラという町だった。海を望む高台にあるベンチに座って一休みしている僕に、英語で話し掛けてきたのだ。

 ジュヴィナルはディリの大学で農業を勉強していたのだが、ディリではいい仕事が見つからないので、実家に戻って農作業を手伝っているという。要するに半失業者なのだ。
「東ティモールの経済ははっきり言って良くないね」と彼は言った。「この国には農業以外の産業がほとんどないから働く場所がないし、生活必需品もみんな輸入に頼っているから物価が高いんだ。失業率? そうだなぁ、よくは知らないけど50%を超えているのは間違いないよ」
 インドネシアから独立した後、東ティモールでは経済の混乱が続いていると聞いていたが、ここまでひどい状態だとは知らなかった。半分以上の人が仕事を見つけられないというのは、どう考えても異常である。



「日本ではどうなんだい?」
「日本じゃつい最近、失業率が5%を超えたことで大騒ぎになっていたよ」
 僕がそう答えると、彼は肩をすくめてみせた。確かにあまりにも違いすぎる状況だった。
「この国の経済は、ちょうどあの水牛の歩みみたいなものさ」
 ジュヴィナルは原っぱの隅で黙々と草を食べている水牛たちを見ながら言った。
「アメリカや日本の車みたいに時速100キロで突っ走ったりはしない。水牛みたいにゆっくりしか前に進めないんだ」

 東ティモール人の生活リズムはとてものんびりしている。時間に追われているような人はまずいない。そもそも誰も腕時計をしていないのだ。高性能のクォーツ時計が安く手に入るようになったこの時代、「時間にルーズだ」と言われる東南アジアの人々でさえ腕時計のひとつぐらいは身につけているのだが、この国にはそういう習慣がないらしい。

 ジュヴィナルも時計を持っていなかった。だいたいの時刻は太陽の位置でわかるから、特に問題はないという。みんながそんな風だと困ったことも出てくるとは思うのだが(集合時間を決めても誰も守らないとか)、その点は誰も気にしていないのだろう。

「スローライフだね」と僕は言った。
「その通りさ」と彼は笑った。「ここでは、ものごとは全てゆっくりとしか進まない。でも僕はそんな生活がけっこう気に入っているんだ。田んぼではお米がとれるし、海に行けば魚がとれるからね。食べるものには困っていないんだ」
 ジュヴィナルは「ちょっと待っていろ」と言い残して家に帰り、干した小魚とペットボトルに入った地酒・トゥアを抱えて戻ってきた。これから即席の酒盛りを開こうというのだ。

「新しい友人ができたらトゥアで歓迎するのが、東ティモールの習わしなんだ」と彼は言った。
 僕らはプラスチック製のコップになみなみとトゥアを注ぎ、小魚をつまみながらそれを飲んだ。程良い塩味が効いた干し魚は、さっぱりした酸味が特徴のトゥアと実によく合った。1リットルのペットボトルがすぐに空になったので、2本目を開けた。



「君はキューバには行ったことがある?」
 頬を赤く染めたジュヴィナルが言った。
「キューバ? 行ったことはないな」
「そうか。僕は外国って一度も行ったことがないんだけど、もし行けるのならキューバに行ってみたいんだ」
 意外な答えだった。東ティモール人なら普通、隣国のインドネシアやオーストラリア、あるいは豊かなアメリカや日本などに憧れるのではないかと思ったからだ。



「どうしてキューバなんだい?」
「キューバは東ティモールに似ているからね。国は豊かじゃないけど人々が陽気に暮らしているところや、アメリカという大国の隣にいながらも独立を保っているところなんかが」
 そういえば、キューバ革命の英雄チェ・ゲバラのTシャツを着た若者が東ティモールには多かった。ソ連が崩壊し、中国が資本主義経済の元で高度成長を続ける今、真の意味でコミュニストの象徴たり得るのはキューバをおいて他にはないのかもしれない。

「でも、僕は東ティモールが社会主義の国になればいいと思っているわけじゃない。大切なのは助け合いの精神なんだ。お金さえあれば豊かに暮らせるけれど、お金がなければとことん貧しい。そういうアメリカのような国になって欲しくはないんだ。ここでは、たとえお金がなくても、みんながひとつの家族のように食べ物を分け合って生きていける。そういう精神を失いたくないんだよ」

 僕らは海を眺めながら酒を飲み、干し魚を食べた。南国の午後の日差しは強烈だったが、海に面した高台にいるせいで、吹き抜ける風は心地良かった。僕らが座っている場所からは、エメラルドグリーンに輝く海が一望できた。それは、どれだけ目を凝らしても汚れというものが見当たらないほど美しい海だった。沖合に目をやると、小さな手こぎボート二、三隻が穏やかな波に揺られているのが見えた。





 ジュヴィナルは家から古いギターを持ってくると、それを弾きながら歌をうたった。水牛を追っていた男たちが出していたのと同じ、伸びやかな歌声だった。
「水牛って好きだよ」と僕は言った。「とてもクールだって思っていたんだ。それにこの国にとても似合っている」
「僕もそう思うんだ。水牛ってとてもいい奴なんだよ」

 彼はギターの手を休めてトゥアで喉を潤すと、自分の夢を語り始めた。牛をたくさん飼って、ここで酪農を始めたい。そのために大学で農業を学んでいた。でも牛を買うのに必要な資金の目処が立たないので、計画はなかなか前進しない。
「何ごとにもお金は必要さ。それはよくわかっている。でもそれだけじゃない。僕らはお金が無くても幸せになれる方法を知っているんだ。簡単だよ。家族や仲間と一緒にご飯を食べ、お酒を飲み、歌をうたう。それだけで十分に幸せな気持ちになれるんだ。ここでは、食べ物も飲み物も、楽しいことも辛いことも、何でも分け合うんだ。たとえば僕が今死んだら、たくさんの友達が葬式にやって来るだろう。僕の死を悼んで涙を流し、歌をうたってくれるだろう。たぶん、そういうのが幸せってことなんじゃないかな」



 お金が無くても幸せになれる方法を知っている――東ティモールの人々の豊かな表情を目の当たりにしてきた僕には、その言葉が強がりや誇張ではなく、ありのままの真実なのだと信じることができた。

 水牛の歩みのようにゆっくり、しかし確実に前に進む。
 この国の人々は、そのような生き方を誇りにしているに違いなかった。




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by butterfly-life | 2011-11-24 16:21 | 東南アジア旅行記
東ティモールの牛歩戦術
■ 東南アジア旅行記(68) 東ティモールの牛歩戦術  バックナンバーはこちら ■

 何を隠そう、水牛好きである。
 黒々とした存在感のある巨体。何を考えているのかさっぱりわからない飄々とした表情。クロワッサン型の立派な角。どこをとっても魅力的な動物だ。ひとことで言えば「絵になる」のである。



 田植えを間近に控えた2月はじめの東ティモールは、水牛ファンにとって心躍る光景のオンパレードだった。機械化があまり進んでいない東ティモールの農村で、水牛は田植えのために必要不可欠な労働力となっていたのだ。

 乾季と雨季が比較的はっきりと分かれている東ティモールでは、田植えは雨季も半ばを過ぎた頃に行う。乾燥した棚田に水を引き入れ、そこに何頭もの水牛を歩かせて土と水を混ぜ合わせ、田植えに適した柔らかい下地を作るのだ。普段はのんびり草を食べながら、ぬぼーっと過ごしている水牛たちが最も必要とされ、最もこき使われるのがこの時期なのである。



 かつて「牛歩戦術」という言葉が流行ったことがあった。あれは確か野党の国会議員が採決を遅らせるために、まるで牛の歩みのようにゆっくり進むという戦術だったと記憶しているけれど、東ティモールの田んぼで行われていた「牛歩戦術」は、それとは対照的にとにかくダイナミックだった。

 水牛たちは泥を思いっきり跳ね飛ばしながら猛然と突進していた。スローな動物というイメージを覆すように、その巨体を揺らしながら田んぼの中を走り回っていた。この「牛歩戦術」を取り仕切っている若い農夫たちは、長い棒で水牛たちの尻を叩き、独特の節回しの歌をうたいながら水牛を追っていた。伸びやかで力強いその歌声は、初めて耳にするはずなのにどこか懐かしさがあった。


[すさまじい数の水牛が走り回る。]





 ひと仕事を終えて田んぼの中にたたずむ水牛たちは、またいつものクールな表情に戻っていた。あれだけ激しく走り回った直後だというのに、その顔に疲れた様子は浮かんでいなかった。呼吸も乱れていない。艶やかに黒光りしているはずの肌が、泥を被って茶色く粉を吹いているところだけが、いつもと違っていた。



 「牛歩戦術」による代掻きが終わると、女性や子供たちが田んぼに入って苗を植える。大人も子供もみんな腰をくの字に曲げて、一束ずつ手で苗を差し込んでいく。田植えは一家総出で行う仕事なのだ。

「あんたも手伝ってみるか?」
 と言われたので、僕もサンダルを脱いで田んぼの中に入り、おっかなびっくりで田植えを手伝うことになった。もちろん全くの素人だから「手伝う」なんてレベルではない。ベテランのおばちゃんたちが目にも止まらぬスピードとは比較にもならなかった。



 それでもサンダルを脱いで田んぼに入るのはとても気持ち良かった。ズボンは泥で汚れてしまうし、ヒルに吸い付かれて足から血が出たりもしたけれど、そんなことは全然気にならなかった。田んぼという暮らしの基盤に足を踏み入れることで、人々の素顔に半歩近づけたような気がした。





 東ティモールを旅するあいだ、僕はいくつもの田んぼを歩いた。そこで気付いたのは「田んぼにも個性がある」ということだった。沿岸部にある田んぼは生温かく、山間部の田んぼはひんやりとしていた。泥の粘りけや、漂っている匂いも田んぼごとに違っていた。代掻きするのに水牛ではなく、馬を歩かせているところもあった。



 東ティモールに残る手つかずの自然は、時間を忘れて見とれてしまうほど美しいものだったが、田んぼと水牛と農民が作り出す「暮らしの場」としての自然は、それ以上に強く僕の心を捉えた。朝の透明な光の中に鮮やかに浮かび上がる苗の緑。青空と白い雲とのコントラスト。引き入れられた清浄な湧き水。田んぼには人々が少しずつ自然に手を加えて作り上げた、調和の取れた美があった。




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by butterfly-life | 2011-11-22 13:53 | 東南アジア旅行記
東ティモール・21世紀最初の独立国の素顔
■ 東南アジア旅行記(67) マングローブのつぶやきが聞こえる国  バックナンバーはこちら ■

 僕は退屈なディリに見切りをつけて、旧式のバイクを借りて東ティモールをぐるりと一周する旅に出た。東ティモールは公共交通機関というものが極めて貧弱なので、自由に旅をするためには車かバイクを借りるしかなかったのである。

 ディリで借りたバイクは大変なオンボロだった。バイクを貸してくれた安宿のオーナーによれば、このホンダ製バイクは30年近く前にオーストラリアで郵便配達人が使っていたものだという。本当は新しくて性能の良いバイクが欲しかったのだが、東ティモールでバイクを借りられる場所はここしかないということなので、これで我慢するしかなかった。オンボロのくせにレンタル料は1日10ドルもした。他のアジア諸国に比べると2倍から3倍だが、これも値切る余地はなかった。独占商売の強みというやつである。


[旅のパートナー。オーストラリアで郵便配達人が使っていたバイク。]

 安宿のオーナーはこのバイクの信頼性の高さを力説した。きっとそれ以外に自慢できる部分なんてないのだろう。
「俺は2年間この商売をやっているけど、壊れて走れなくなった人なんて誰もいない。このバイクはとにかくタフなんだ。わかるかい。信頼性が重要なんだよ。何しろ東ティモールにはバイク修理屋なんてほとんどないんだからね」

 しかしその言葉とは裏腹に、このバイクはディリの外に出た直後から次々とトラブルに見舞われることになった。最初に直面した問題はキックスタートのかかりが悪く、10回も20回もキックし続けないとエンジンがかからないことだった。次に発生したトラブルは、方向指示ランプの点滅が止まらなくなったこと。山道を走っているときには、サイドミラーが何の前触れもなくぽろっと脱落した。どれも深刻なトラブルではなかったが、このまま走り続けると昔のディズニー映画みたいにあらゆる部品が片っ端から外れてしまうのではないかと心配になってしまった。

 一番困ったのは、バイクを止めるときに使うスタンドが壊れてしまったことだった。海岸線の道を走っているときにスタンドとバイク本体とを繋ぐバネが外れてしまったらしく、走行中もスタンドが出たままの状態になってしまったのである。

 走行にはあまり影響がなかった。せいぜい左カーブを曲がる時にスタンドが地面と擦れて「ガガガッ」という不快な音を響かせる程度だった。問題なのは東ティモール人がこぞってそのことを僕に知らせてくることだった。道を歩いている人や、バイクですれ違う人、トラックの荷台に乗っている若者や、ただ道端で走る車を眺めている子供たちが、僕のバイクを見ると一斉に大声で「スタンド!」「スタンド!」と連呼するのである。



 もちろんこれは純粋な親切心の表れである。スタンドを戻し忘れたままうっかり発進するミスは誰にでもあるから、人々はそれを注意しようとしてくれているわけだ。日本にもフロントライトの消し忘れを知らせてくれる親切なドライバーがいるが、それと同様の気くばりなのである。そのことは僕にも十分わかっているのだが、それが一度や二度ではなく、何十回も続くとさすがにうんざりしてくるのだった。

 バイクで追い越していった若者なんて、わざわざ僕の方を振り返って「スタンド!」「スタンド!」「スタンド!」と三度叫び、その間に前方のカーブから現れたトラックと危うく衝突しそうになっていた。どうして命を危険に晒してまでスタンドの指摘に執着するのか、僕にはまったく理解できなかった。

 なにはともあれ、このスタンドの一件によってはっきりしたのは、東ティモール人の視力と反射神経の良さである。なにしろ時速50kmで走っているバイクの横にちょろっと出ている部品を一瞬にして見つけて、即座にそれを指摘できるわけだから。

 というわけで、これから東ティモールをバイクで旅される方には、「スタンドが壊れた場合には、できるだけ早く修理せよ」とご忠告申し上げたい。



 スタンドの一件にも表れているように、東ティモール人は親切で陽気な(そしてちょっとお節介な)人々だった。それは国自体の静けさとはまったく対照的だった。

 バイク旅行初日はスタンドの故障があって、道行く人から次々と声を掛けられる羽目になったのだが、故障を直した翌日以降も、僕とバイクが人々の注目を浴びる状況は変わらなかった。バイクで走っている僕を見ると、多くの人がさっと右手を挙げた。「やあ、久しぶりだね」というような気楽な感じで。

 最初はその意味がよくわからず、「ヒッチハイクをしているのか?」とか、「僕のバイクがまた故障したっていうのか?」などと考えていたのだが、しばらく走るうちに、この国ではすれ違う人に対してごく当たり前に手を挙げるらしい、ということがわかってきた。相手が外国人であろうがなかろうが、遠方からやって来た人にはにこやかに手を挙げて挨拶をする。それがこの国の習慣なのである。

 東ティモールの田舎道には車やバイクといった騒々しい乗り物は滅多に通らず、もっぱら水牛や馬などの家畜がゆったりと行き来していた。何かを焦る理由はなく、誰かを急かす人もいない。そのような穏やかな時間が流れる土地では、人々はすれ違う人ひとりひとりの顔を見て、挨拶を交わしながら暮らすことができるのだ。

 さりげなく右手を挙げる大人とは違って、子供たちの反応はもっとストレートでエネルギッシュだった。彼らは外国人がやってきたのを目ざとく見つけると、「マライ! マライ!」と叫びながら大きく手を振った。「マライ」というのは現地の言葉で「外国人」を意味していて、そう言われてもどう返したらいいのか困ってしまうのだが、こちらも「ハーイ!」とにこやかに手を振り返すと、また嬉しそうな笑顔を返してくれるのである。



 それだけならいいのだが、学校帰りの子供たちが何十人も集まっているところを通りかかったときには、興奮した子供たちに頭や腕をバシバシ叩かれるというひどい目にも遭った。子供たちに悪意はないのだとは思う。プロ野球でサヨナラホームランを打った選手がホームベース上で受ける「勝利の洗礼」に近いノリなのである。しかし子供というのはどの国でも大人数になると調子に乗りすぎて収拾がつかなくなる傾向があるので、この時ばかりはバイクのスロットルを目一杯回して、バイクにしがみつこうとする子供たちを振り払いながら前に進まなければいけなかった。


[こういうときの子供たちは危険だ。]

 僕は東ティモールという国に対する具体的なイメージをまったく描けないまま、首都ディリにある空港に降り立った。
 21世紀最初の独立国であり、内戦を経てインドネシアから別れた小さな国――東ティモールについて僕が持ち合わせている知識はそれぐらいだった。その国についての情報をほとんど持たないまま旅を始めるのはいつものことだったが、治安や交通事情や宿の有無といった旅に必要な基本的な事柄でさえ知らないまま空港に降り立つというのは、やはり少し不安だった。

 しかし、そんな不安は人々の笑顔によってすぐに消えてしまった。道行く人が手を挙げて微笑みかけてくると、僕も手を挙げて笑顔を返した。そんなシンプルなコミュニケーションが、未知の土地にいることの緊張感を和らげてくれた。




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by butterfly-life | 2011-11-18 12:25 | 東南アジア旅行記
東ティモール旅行記(1)
■ 東南アジア旅行記(66) マングローブのつぶやきが聞こえる国  バックナンバーはこちら ■

 人影のない海岸にバイクを止めた。右を見て、左を見て、そして正面の水平線を眺めてみるが、どこにも人の気配はない。車も全然見かけない。数分おきに一度通るか通らないかだ。誰かが住んでいる痕跡もない。古びた木製のボートが遠くにあるマングローブの根元に引っかかっているだけだ。



 波は穏やかで、水は限りなく澄んでいる。遠くの丘の上から見下ろしても、海底の小石のひとつひとつがはっきりとわかるぐらいだ。本当の意味で手付かずの自然、何ものにも汚されていない無垢のままの自然が残されている。

 波打ち際まで歩いていくと、寄せては返す波の音に混じって、微かに「プチッ、プチッ」という音が聞こえてきた。小さな泡が弾けるような音だった。何だろうと思った。今までに聞いたことのない不思議な音だった。



 しばらく耳を澄ませていると、その音がマングローブの根元から聞こえてくるのだとわかった。マングローブは海水の中でも生きられる熱帯特有の樹木で、根の先が普通の木とは逆に空中へと突き出ている。これは「気根」といって、海水が満ちている場所でも呼吸するための仕組みなのだ――そんなことを何かの本で読んだことがあった。

 この「プチッ、プチッ」という小さな音は、マングローブが呼吸するときに出す音なのかもしれない。僕は時の経つのも忘れて、その音に聞き入った。剣山のような格好で海面から突き出ている気根は、ひとつひとつが個性を持っているかのように、微妙に違う音を発していた。そしてその音が重なり合うとき、そこに言葉が生まれるのだった。自然から生まれた不思議なつぶやきが。


[マングローブの根元から無数の気根が突き出していた。]

 それにしても、なんて静かなんだろう。
 マングローブのつぶやきが聞こえる国。命の小さな響き合いがこだまする国。それが東ティモールという国の第一印象だった。



 「静かな国」という印象は、この国で唯一「街」と呼ぶことのできる首都のディリにおいても変わらなかった。首都といっても人口はわずかに15万人しかおらず、街の賑わいはごく一部だけに限られていたのだ。

 ディリの街は実に歩きやすかった。東ティモールを訪れる前に旅していたインドネシアの地方都市に比べると、車や人の量が桁違いに少ないし、建物の密集度も低いので、すいすい歩くことができた。排気ガスにうんざりすることもなければ、行き交う車の間を縫うようにして道路を横断する必要もなかった。

 とはいえ、ディリの街歩きは決して面白いものではなかった。歩きやすいのは確かだが、どこまで行っても同じようにのっぺりとした町並みが続くばかりで、全然楽しくないのだ。

 ディリには街の中心になるようなやかましく猥雑な繁華街というものはなく、商店街と呼べるような場所もなかった。この町にあるのはポルトガル植民地時代に建てられた古びたコロニアル風の建物と、物流の中心である港と、道端に座り込んで話をしている失業中の男たちだけだった。モノの流れも、お金の流れも、時間の流れすらも緩慢な街。それがディリだった。



 首都の活気はその国の人口規模に依存する。国の人口が少なければ中心に集まろうとする人の流れは緩やかになり、首都が持つエネルギーも低くなる。その意味では人口100万人足らずの小国である東ティモールの首都が閑散としているのは、ごく自然なことなのだ。


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by butterfly-life | 2011-11-16 12:24 | 東南アジア旅行記
フィリピンでもっとも人気の高い職業は?
■ 東南アジア旅行記(65) 田んぼの力 バックナンバーはこちら ■

 「男」という漢字は「田んぼの力」と書く。田畑を耕すのは男の力仕事、という意味なのだろう。
 しかし長くアジアを旅していると、本当に「田んぼの力」になっているのは「女」の方ではないかという気がしてくる。特に東南アジアでは、田植えも稲刈りもほとんどの場合女性が行っているのである。

 もちろん農作業は男もする。しかし男が担当するのは水牛を引いて田んぼを耕したり、スコップで棚田の畦(あぜ)作りをしたりといった作業で、腰を曲げて田んぼに苗を植えるような根気のいる仕事は女に任されているのである。

 その理由のひとつは「男は飽きっぽく、女は辛抱強い」という性格的な違いにあると言われている。男に向いているのは機械や動物を操ったり、一度に大きな力を出したりするような場面であり、繰り返しを必要とする手作業は女の方が向いているというわけだ。

 それから「女の方が泥の中で動きやすい」ということもある。実際に田んぼの中を歩いてみるとわかるのだが、身長の高い男性よりも、小柄で重心が低い女性の方が泥に足を取られることが少なく、身軽に動き回ることができるのである。



 しかしフィリピンでは事情が違っていた。田植えや稲刈りの中心となっていたのは男だったのだ。そもそも田んぼで女性の姿を見ること自体少なかった。
 女たちは一体どこで何をしているのか?
 この疑問に答えてくれたのは、カリンガ州のタブックで田植えをしていたライアンさんだった。

「この国では女が外に出て働くんだ。外国に渡って、メイドとかエンターテイナーになる。うちの娘もそうだった。ダンサーとして日本で働いていたんだ。そして日本人と結婚した。今でも日本で暮らしているよ」

 ライアンさんの娘は「エンターテイナー」として興行ビザを取得して日本に入国した。日本に出稼ぎにやってくるフィリピン女性の大半はこの「エンターテイナー」だ。歌やダンスのレッスンを受け、芸能人として日本に渡るのだが、実際に歌手やダンサーとしてショーに出演する人は少なくて、フィリピンパブのホステスになったり風俗店に流れたりする人の方が多い。

「俺には6人の子供がいる。息子には農家を継がせている。だから田植えは男がする。娘たちには外国でしっかり稼いで欲しい。長女は日本で結婚したし、次女はアメリカで看護婦をしている。昔はメイドやベビーシッターになる人が多かったけど、今はナースが多いね。メイドの需要が減っているんだ。どの家にも洗濯機や掃除機があるし、家事は機械に任せればいいからね」





 フィリピン人と話をすると、こうした出稼ぎの話が必ず出てくる。食堂の主人の息子が京都にあるマクセルの工場で働いていたり、バイク修理屋の娘が千葉でホステスをしていたりする。もちろん出稼ぎ先は日本だけでなく、台湾、香港、ドバイ、サウジアラビア、アメリカなど世界中に広がっている。外国とまったく縁がない家族の方が珍しいぐらいだ。それは農村でも変わらない。むしろ子供の数が多い農村の方が、出稼ぎをより現実的な選択肢として考えているようだ。たくさんの子供を持ち、その子供たちに教育を授け、そのうちの何人かが海外へ出て稼ぎ、送金で親の暮らしを助けてくれる。それがフィリピン人の描く理想的なライフプランのひとつなのである。



 女性の出稼ぎで家計を支える。フィリピン政府ではそれを国策として推し進めてきた。フィリピン人の出稼ぎ労働者は他のアジアの国々で見られるような不法就労中心ではなく、フィリピン政府が相手国の政府と交渉し、就労ビザ取得を前提とした専門職に就かせているのだ。

 このような国家の後押しもあって、いまでは海外に居住しているフィリピン人は人口のおよそ10%にあたる700万人を超えるという。海外に在留している日本人が110万人あまりであることと比較すると、これがいかにべらぼうな数であるかがよくわかる。そしてフィリピンの出稼ぎ労働者のうちの実に7割が女性なのだ。なるほど、田んぼに女がいないはずである。

 ライアンさんが言ったように、今フィリピンでもっとも人気の高い職業は看護師および介護士である。日本をはじめとする先進国は少子化と高齢化が同時に進み、医療福祉関係で働く人の需要は今後も増え続けると予想されている。つまり看護婦はどんな国でも食いっぱぐれない職業なのだ。明るくて芯が強いフィリピン女性は性格的にも看護婦に向いているのだろう。

 実際、フィリピンの町には看護師を養成する専門学校が多く、ナース服姿の若い女性を見かけることも多かった。一度、漁村の小学校で「将来は何になりたい?」と訊ねたことがあったのだが、そのときも女の子の多くは「ナース」と答えたのだった。



 最近になってようやく日本政府もフィリピン人の看護師や介護士を国内の病院に受け入れる決定を下したのだが、言葉の壁や資格の壁が高くて、まだ本格的に門戸を開いたとは言えない状況が続いている。それでも、看護や介護を必要とする人は今後もどんどん増え続けるし、それを担う人材を国内でまかないきれないのは明らかだから、遅かれ早かれフィリピン人をはじめとする外国人看護師を幅広く受け入れることになるだろう。

 もしそうなった場合、多くの日本人が戸惑いや違和感を感じることになるのは間違いない。これまで外国人と日常的に接する機会が乏しかった人々が、否応なしに外国人と向き合わされることになるからだ。コミュニケーションの齟齬も起こるだろうし、一人一人の心にある外国人への差別意識が露わにもなるかもしれない。

 でも心配はいらない。しばらく時間が経てば「隣で働く外国人」にも慣れてくるはずだ。僕はそう楽観的に考えている。フィリピン人だってインドネシア人だって同じ人間。同じことで笑い、同じことで泣き、喜びや悲しみを分かち合える人たちなのだ。そんな当たり前のことに気付くのは、さほど難しいことではない。



 フィリピンは女が支えている国。それがいくつかの島を旅する中で僕が得た実感だった。
 フィリピンで出会った女性たちは実にたくましく、芯が強く、積極的だった。そのうえ語学力があり、話題も豊富だった。男が頼りないから女が強くなったのか、それとも女が強いから男が頼りなくなったのかは、「卵が先か、鶏が先か」みたいな話ではっきりとはしないが、とにかくフィリピンの女は強い。

 これからもフィリピンの女たちは海外へ進出していくことだろう。
 準備はできているし、モチベーションも高い。
 働き者で適応力の高い彼女たちなら、どんな国に行っても生きていけるに違いない。




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by butterfly-life | 2011-11-14 11:08 | 東南アジア旅行記
フィリピンの子豚
■ 東南アジア旅行記(64) ルブアガンの眠る子豚 バックナンバーはこちら ■

 バナウェからさらに北へ向かう道は、本当にひどい悪路だった。岩だらけ、穴ぼこだらけの未舗装の道なのだが、それに加えて数キロおきに土砂崩れが発生しているというオマケまで付いていたのだ。

 フィリピンは貧富の差が激しい国だが、道路の貧富の差も相当に激しいようだ。首都マニラ周辺の平地を走るハイウェーは日本と変わらない素晴らしい道なのだが、ひとたび山岳地帯に入ると「国道」とは名ばかりのすさまじい悪路が待ち構えているのである。

 僕はこの悪路を時速20キロぐらいでノロノロと進んでいた。しかし運悪く雨が降り出してきたので、さらにスピードを落とす羽目になった。ぬかるんだ道はとてもスリッピーで、ひとたびハンドル操作を誤ると深い谷底に真っ逆さまというおっかない状況だったのだ。



 ずぶ濡れになりながらルブアガンの町にたどり着いたのは、日没間際のこと。さっそく親切な雑貨屋のおばちゃんが教えてくれた宿に向かった。

 そこは宿屋と食堂と雑貨屋を兼ねている典型的な「町の何でも屋」だった。一泊150ペソと安く、部屋も新しくて清潔だったし、嬉しいことにトイレの便器にもちゃんと便座がついていた。フィリピンの安宿のトイレは、なぜかほとんどの場合便器から便座が外されている。すぐに壊れてしまうのか、最初からつけていないのかはわからないのだが。

 一応電気も通っているのだが、町にある小さなディーゼル発電所で発電しているために、早朝と夜の短い間しか電気を使うことができなかった。


[コーヒー豆を杵でついて粉にする。]

 宿の管理人と商店主を兼ねていたのは、さっぱりした髪型のおばさんだった。おばさんが煎れてくれたコーヒーは、地元で採れた豆を使っているだけあってなかなか美味しかった。コーヒーの栽培はスペイン植民地の時代から始まったというから、すでに100年以上の歴史がある。コーヒー豆を収穫してローストするところまでを農家がやっているそうだ。

「私には6人の子供がいるのよ」と管理人のおばさんは流暢な英語で言った。「そのうち3人はバギオにある大学に通っているの。月に2000ペソの仕送りをしているけど、それが精一杯ね。子供たちのためにも稼がなくちゃいけないから、ずっと忙しく働いているわ。雑貨屋の店番をして、食堂で料理を作って、売り物のコーヒー豆の選別もする。休む暇なんてないわよ」

 おばさんは言いたいことをずばずば言う勝ち気な性格らしく、商品を仕入れに行っていたご主人が戻ってくると、びっくりするほど激しい口調で彼を怒鳴り始めた。
「これは40ペソだって言ってるでしょう。あんたいくらで買ったの? 45ペソ? ダメじゃない! もう、あんたはどうしていつもいつも大事なことを忘れるのよ!」

 (半分は僕の想像だが)奥さんはそんなことを言っているようだった。ご主人が商品をいつもより高い値段で仕入れてしまったことに腹を立てているのだが、ただ黙って口撃に耐えているご主人の様子を見ていると、同情の念を覚えずにはいられなかった。家庭も仕事も取り仕切るしっかりものの妻と、気弱で頼りない夫。それはフィリピン人夫婦のひとつの典型だった。

「うちの商売はあまり上手く行ってなんだよ」
 夫婦喧嘩が収まってしばらく経ってから、ご主人は愚痴をこぼすように言った。僕が食堂で夕食を済ませた後、彼が「一緒にビールを飲まないか?」と誘ってくれたのだ。たぶん奥さんの前ではおおっぴらにビールを飲むことができないのだろう。

「ここは田舎だから、お客も限られているからね。近所の人が必要なものを買いに来るだけさ。宿にはたまに外国人が泊まりに来ることはあるけど、フィリピン人の旅行者はほとんどいない。こんな町に来たって何もすることがないからね」
 何もすることがない山奥の田舎町。確かにそんなところを好んで訪れる旅行者はあまり多くはなさそうだった。



 翌日は一日中雨が降っていたので、ルブアガンにもう一泊することにした。フィリピンは基本的に雨季と乾季がはっきりと分かれているのだが、山岳地帯では乾季であってもしとしとと雨が降り続くことがあるという。

 僕が傘を差して町を歩くと、子供たちの物珍しそうな視線を浴びることになった。外国人が来ることは滅多にないのだろう。カメラを向けるとワーっと叫びながら逃げていくのだが、写真を撮られるのがイヤというわけではなく、単に恥ずかしがっているだけのようだった。山に住む子供たちのシャイな表情は、平地のフィリピン人の陽気さとは対照的だった。





 ルブアガンには高床式の古い木造家屋が多かった。ここは良質のマホガニーやナラが採れる林業の町でもあるので、昔から木材をふんだんに使った家が建てられているのだ。中には築100年を超える家もあるという。良く手入れされた古い家屋は、日本の古民家のようなしっとりと落ち着いた雰囲気があった。


[ルブアガンには高床式の古い木造家屋が多かった。]

 定年になるまで英語教師をしていたというフランシスカさんの家も、50年以上前に建てられた木造家屋だった。
「日本の家も木でできているんでしょう?」と彼女は言った。「昔なにかの本で読んだことがあるの。日本人はみんな床の上に座って、小さな丸いテーブルを囲んでご飯を食べるんだって」
「ええ、昔はどこもそうだったけれど、最近は違いますね。椅子に座る人の方が多くなりました」

 フランシスカさんは幼い頃に日本の兵隊に会ったことがあるという。太平洋戦争当時の日本軍はこんな山奥にまで進駐していたのだ。
「彼らが『コニチワ』って言っていたのをよく覚えているわ。そう。ハローって意味なのね。全然怖くなかったわ。みんな優しかったし、背が低くて肌が白かった。フィリピン人の子供たちがみんな色黒なんで、石けんで体を洗おうとしていた。汚れて黒くなっているんだと勘違いしたんでしょうね」

 彼女はこの町に生まれてこの町で育ち、70年以上ものあいだずっとこの町で生きてきた。マニラに住んでいる息子を訪ねたのが、彼女にとって唯一の町の外に出た経験だ。
「マニラは人も車も多すぎて全然好きになれなかった。何もかもが忙しくて、目が回りそうだった。どうしてみんなマニラを目指すのかしら。私にはわからないわ」

 ルブアガンの町では、いたるところで豚が昼寝をしていた。このあたりで飼われている豚は、平地で飼われている白い豚と違って全身が黒い毛に覆われていた。黒豚たちはなぜか体を寄せ合って眠る習性があるらしく、決して寒いわけではないのに母豚と子豚数匹が体を密着させて眠っていた。



「この豚はイノシシに近い種類なんだ」と地元のおじさんが教えてくれた。「ほら見てごらん。キバもまだ残っている。野生に近いから平地の豚よりも肉の味が濃厚だし、高値で売れるんだ」
 しかし実際に調理された黒豚は肉質がかたく、獣のにおいが強くて、それほど美味しいとは感じられなかった。



「豚っていうのは意外に賢いんだよ」とおじさんは言う。「呼べばちゃんと戻ってくるし、人の命令にも従う。ニワトリみたいに大きな声では鳴くこともないしね。いい奴だよ。あんたも一匹飼ってみたらどうだい?」
「僕の家は都会にあるから、豚を飼うのは難しいですね」と僕は笑って答えた。「眠っている子豚はすごくかわいいんですけど」

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by butterfly-life | 2011-11-10 12:17 | 東南アジア旅行記
世界遺産の棚田・バナウェへ(フィリピン)
■ 東南アジア旅行記(63) バナウェの棚田 バックナンバーはこちら ■

 イフガオ州バナウェ周辺には、世界遺産にも登録された美しい棚田が広がっている。
 まるで地図の等高線のように緻密で優美な曲線。削げる部分を全て削ぎ落としたシンプルなかたち。バナウェの棚田は繊細さと力強さを併せ持っていた。「天国への階段」という別称も決して誇張ではなかった。


[バナウェ周辺には美しい棚田が広がっている。]

 棚田は人と自然とのせめぎ合いの中で生み出されたものだ。傾斜のきつい斜面をクワ一本で切り開き、雨季に降る強い雨に土壌が流出しないよう、あぜの部分にひとつひとつ石を積み上げていく。親から子へ、子から孫へ、何世代にもわたって受け継がれてきた膨大な時間の集積が、棚田というかたちに結実しているのだ。棚田には人が持つ本質的なたくましさが表れていた。





 もともとバナウェは少数民族イフガオ族が暮らす辺境の寒村に過ぎなかった。フィリピンでももっとも交通の便が悪い場所のひとつなので、20年前までは旅行者もほとんど訪れることのなく、電気も通っていなかったという。道路はしょっちゅう崖崩れを起こして不通になるので、村人がよその町に出るだけでも一苦労だったのだ。

 バナウェが変わるきっかけとなったのが世界遺産への登録だった。棚田の観光地的価値が改めて認められると、外国人旅行者が訪れるようになり、フィリピン人旅行者も大幅に増えた。町には旅行者向けのホテルが次々と建てられ、土産物屋とレストランとツーリスト・インフォメーションができた。道路も以前に比べればマシになった(とはいえ今でも十分にひどい状態だが)。



「将来はバナウェにロープウェーを作る計画があるのよ」
 と教えてくれたのは食堂のおばさんである。彼女の夫は土木設計の仕事をしており、このロープウェー建設のプロジェクトにも関わっているという。
「今は棚田に行くのに何時間も歩かなくちゃいけないでしょう。でもロープウェーを作れば、すぐにビューポイントへ移動できるというわけ。山頂に遊園地を作る計画もあるのよ。観覧車とかゴンドラとかがあるやつね。十年以内には完成すると夫は言っているわ」

 棚田に展望用のロープウェーや遊園地を作るというのは、ずいぶん突飛な計画である。他ではあまり聞いたことがない。そもそも棚田を訪れる旅行者が期待しているのは、そのような近代的な設備ではなく、昔ながらの暮らしや景観ではないのだろうか。
「ここに来る外国人が歩いて棚田を見たがっているのはよく知っているわ」とおばさんは言った。「でもフィリピン人は怠け者だから歩きたくないのよ。楽をして棚田を見たいの。そのためにロープウェーが要るのよ」





 棚田は周囲から隔絶された環境に住む民族が、長い時間をかけて受け継いできたものだ。彼らのたゆまぬ努力は、ひとえに「我々はここに住むしかない」という強い思いによって支えられてきた。言い方を変えれば、棚田とは「貧しさの産物」なのだ。



 ここに棚田を観光地化することの根本的な矛盾がある。棚田は都市からのアクセスが難しく、不便で閉鎖的な場所だからこそ生まれたものである。だから観光客を呼ぶためにインフラが整備され、観光業が栄え、地域に農業以外の雇用が創出されたら、村人は別の仕事を求めるようになる。棚田の観光地化は、村人が棚田を維持するモチベーションを失わせる結果にも繋がりかねないのだ。

 もちろんイフガオ族の人々は棚田に誇りを持っているだろう。代々受け継ぐべきものだと思っているだろう。しかし棚田での米作りは「労多くして功少なし」のきつい仕事だし、他に現金収入を得る楽な方法があればそちらに流れていくのはごく自然なことで、誰かに止められるものではない。

「イフガオ族は子だくさんだから大丈夫よ」と食堂のおばさんは笑って言った。「5人ぐらいは子供を生むの。そのうちの三人は町へ出て働けばいい。土産物屋とか、トライシクルのドライバーとか、ガイドとか。残りの二人が農作業をするの」
 長男は棚田を受け継ぎ、その他の子供は町へ出て現金収入を得る。確かにそれは理に適ったやり方かもしれないが、果たしてそんな風にうまく行くのかは疑問だった。割を食うことになる長男が黙って農業を継ぐとも思えない。



 いずれにしても、近い将来バナウェは大きく変わることだろう。今よりもずっと多くの観光客が訪れ、悪路に悩まされることなく、容易に棚田を見学できるようになるに違いない。

 しかし、それによってイフガオ族にとって大切なもの――歴史的な存在意義のようなもの――が永遠に失われることになるのだとしたら、やはりそれは哀しいことだと思う。



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by butterfly-life | 2011-11-07 10:27 | 東南アジア旅行記
フィリピンはB級グルメの美味い国
■ 東南アジア旅行記(53) B級グルメの国 バックナンバーはこちら ■

 フィリピンはB級グルメの美味い国だった。町中にある安食堂や焼鳥屋はどこも美味い上に安くて、ハズレがほとんどなかった。「B級グルメ先進国」としてまず思い浮かぶのがタイと中国だが、フィリピンもその両国に引けをとらなかった。

 パラワン島では海の幸をよく食べた。魚の切り身がごっそりと入った「漁師のまかない汁」的なスープや、ぶつ切りにしたイカをイカスミで煮立てた料理などは、地元でしか味わえない絶品だった。釣ったばかりの新鮮な魚を炭火で焼いて出してくれる屋台も多かった。


[町角で売られている焼き魚は、安くてうまい。]

 味付けも日本人向きだった。東南アジアや南アジア諸国の料理はスパイスを効かせすぎる傾向にあるのだが、フィリピン料理の味付けは基本的に控え目で、日本人の舌にも馴染む味だった。

 豚肉の美味しさも際立っていた。東南アジアでは豚肉を食べる国は意外に少ないのだが(イスラムではタブーだし、暑すぎると豚が育たない)、フィリピンでは農村でも漁村でも必ず豚を飼っていて、調理も手慣れていた。食堂で出される豚料理の定番は、豚肉を脂身ごと甘辛く煮たもの。とろけるような脂身のコクと、ぎゅっと濃縮された肉の旨みが同時に楽しめる逸品である。


[豚肉もとてもおいしい。]

 安食堂にはアルミ製の大きな鍋がいくつも並んでいる。お客は鍋の蓋を開けて、作り置きしてある料理の中から好みのものを選ぶ。例えば白身魚のスープと豚の甘辛煮を取り、ご飯をつけてもらう。これでわずか50ペソ(120円)である。アジアにはフィリピンよりも食費が安い国もあるし、高級グルメが充実した国もあるけれど、安さと美味さのバランス――食のコストパフォーマンス――はフィリピンが頭ひとつ抜けていると思う。


[白身魚のスープと豚の甘辛煮とご飯。これで50ペソ(120円)。]

 食堂で夕食を食べたあとにはマンゴーを買う。フィリピンのマンゴーがこれまた安くて美味いのである。値段はだいたい1kg40ペソ(80円)から60ペソ(120円)といったところ。もちろん「国民的食べ物」であるバナナに比べれば割高だけど、それでもまぁ安かった。


[これは完熟に近いマンゴー。美味しそうだ。]

 朝にひとつ、夜にふたつのマンゴーを食べるのがフィリピンでの日課だった。甘く熟したマンゴーを腹一杯食べ、幸せに浸りながら眠りにつく。朝起きたら、その幸せが夢ではないことを確かめるために、またひとつマンゴーを頬張る。なんて贅沢な暮らしだろう。

 マンゴーはあまり日持ちがしないので、まだ若く「完熟の一歩手前」のものは安く、一日あるいは半日も経てば食べ頃が過ぎてしまうような「完熟のピーク」を迎えたものは高かった。そしてそのピークを過ぎ、オレンジ色の皮が宿命的な黒いシミに覆われ始めると、値段が急落するのである。

 ある果物屋では、8割がた黒い染みに覆われた無惨なマンゴーが、1kg20ペソという捨て値に近い値段で売られていた。マンゴー価格の激しい上下動は、バブル崩壊後の不良債権を彷彿とさせた。「あのときに売っておけば良かったのに・・・」みたいな。

 食堂や果物の充実と共に、フィリピンは酒も安い国だった。スーパーや雑貨屋などで売られているラム酒の小瓶は18ペソ(40円)というとんでもない安さで、僕はこれをセブンアップやオレンジジュースなんかで割って飲んでいた。たいしてうまい酒ではないのだが、気持ちよく酔っ払って眠れればそれで良かったのだ。


 パラワン島をバイクで旅するのは想像していた以上に大変だった。道路の状態があまりにも悪かったのだ。州都プエルト・プリンセサの周辺はしっかりと舗装されていたのだが、そこから数十キロ離れてしまうと、舗装が剥がれ、埃がもうもうと舞い上がる悪路が待ち構えていたのである。


[トラクターで移動する男たち。]

 まだ走れるだけマシだったのかもしれない。これが雨季であれば、ぐちゃぐちゃのぬかるみを進む羽目になったはずだからだ。しかし乾季にも苦労があった。トラックやバスが巻き上げる土埃がすさまじく、口や目や鼻の穴の中が埃だらけになってしまうのである。

 地元の人たちはこの土埃を防ぐために懐かしい「月光仮面」スタイルで走っていた。頭に布を被り、大きなサングラスをかけ、口元をタオルで覆っていたのだ。おそらく本家の「月光仮面」も日本の道路がまだ未舗装で埃っぽかった時代に適した格好だったのだろう。

 パラワン島西部のケソンまでバイクを走らせたが、それより先へは進めなかった。パラワン島の最深部へ行くためには、オフロード仕様のタフなバイクがどうしても必要だったのである。


[川に飛び込む少年。]



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by butterfly-life | 2011-11-04 12:06 | 東南アジア旅行記