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エコ大国バングラデシュのリサイクル事情
■ バングラデシュ旅行記(4) リサイクルの国 バックナンバーはこちら ■

 ダッカを歩いていて驚くのは、修理屋の多さである。
 自動車やバイクや電化製品の修理屋はもちろんのこと、扇風機を専門に修理している職人や、古タイヤに新しい溝を彫るタイヤの修理屋まであった。穴の空いた雨傘には継ぎを当て、底の抜けたブリキのバケツには新しい底をくっつける。ありとあらゆるものに対して専門の修理屋がいるのだ。

 まだ使えるものは何度も何度も直して使うのがバングラ流である。簡単にモノを捨てたりはしない。もし捨てたとしても、必ず誰かが拾って使う。日本だと「これ、修理するより新しいのを買っちゃった方が安いですよ」と言われてしまうことも多いが、この国では誰もそんなことは言わないのである。


[底の抜けたバケツを修理する職人]


[自転車は繰り返し修理して、ボロボロになるまで使う。]


[鍵や錠前を専門に修理する職人]


[穴の空いた傘も継ぎを当てればまだ使える。]


[これも修理屋の一種だろうか? 半分腐ったリンゴの腐った部分だけを取り除いて売るリンゴ修理屋は、おそらくバングラデシュでしか見られないようなレアな商売である。]


 僕がダッカの街に着いてまずやったのも、壊れたサンダルを修理することだった。お気に入りのサンダルだったが、靴底がはがれてきて、とても歩きにくくなっていたのだ。

 靴の修理屋はいたるところにあった。ゴムの靴底や針と糸などの修理道具一式を並べて地べたに座り込んでいるおじさんが、それこそ各ブロックごとに必ず一人はいるのである。靴屋1軒に対して、靴修理屋は10人ぐらいいるだろうか。


[僕のサンダルを直してくれた職人]

 僕のサンダルを直してくれたのは、この道一筋何十年といった感じの実直そうな職人だった。彼はゴム底の裂け目にゴム糊を塗り込み、それを乾かしてから、太い針と丈夫な糸で縫い合わせていった。仕事も丁寧だったし、料金もたった20タカ(30円)だった。


[ダッカを流れるブリゴンガ川の川岸で、使用済みのビニール袋を洗って乾かしている女たち。どんなものでもリサイクルして使うのがバングラ人のやり方である。]


[まだ使えそうなプラスチックをゴミ捨て場から探している。]

 環境問題が注目されるにつれて、日本でもリサイクルという言葉をよく聞くようになったが、バングラデシュではそんな言葉が流行る前から、ごく当たり前にリサイクルが行われていた。モノが壊れても何度でも修理して使うというエコライフの基本が、バングラ人の生活の原点になっているのだ。

 といってもバングラデシュは特別にエコ意識の高い国ではない。地球温暖化とか資源の枯渇を気にしている人は少ない。彼らは単に「その方が安いから」という経済的な理由で、ひとつのものを繰り返し使い続けているのだ。モノの値段に比べて人件費が圧倒的に安く、(僕がサンダルを直した時のように)ほんのわずかなお金で修理してもらえることが「捨てない社会」を支えているわけだ。

 古くなったものはさっさと捨てて、常にニューモデルに買い換える浪費型社会の方が、GDP的には「豊か」になる。経済指標とはそういうものだ。お金やモノが回るスピードが速ければ速いほど、その社会は「繁栄している」と評価されるのである。

 しかしそれは本当に豊かな社会なのだろうか?


[ゆうに30年以上は使われているだろう白黒テレビが捨てられることなく修理されている。]


 懐かしい活版印刷機も、この国ではしぶとく生き残っていた。ひとつひとつ活字を手で拾って文章を作り、それをハンコのように紙に押しつけて印字する、グーテンベルグ以来の超アナログな印刷機である。日本ではとうの昔に消えてしまったものが、リサイクル大国バングラデシュではまだ現役で働いていたのだ。


[動画]活版印刷機を使って印刷をする職人

 暗くて狭い印刷所では、二人の職人が働いていた。黙々と活字を拾って並べる男と、印刷機を操作する男。印刷機の動きはさほど速くなく、インクと活字とのあいだをローラーが往復するあいだに、手作業で紙を一枚ずつ交換する。おそろしくシンプルでわかりやすい構造である。壊れたってすぐに修理できそうだ。
「この機械はどれぐらい前からあるんですか?」
 職人に訊ねてみた。
「100年以上だね」
 彼は答えた。100年。それだけ使われたら、機械だって本望だろう。


[活字を拾う職人]


[セットされた活字]

 100年前、この国はまだ英国植民地だった。その後インドとともにイギリスから独立し、東パキスタンとしてインドから分離し、そしてバングラデシュが建国される。時代は流れ、町の様子もすっかり変わった。人口も増え、通りには新しい店が建ち並ぶようになった。それでもこの印刷所は何も変わらなかった。同じスピードで、同じやり方で、ずっと文字を印し続けてきたのだ。

 刷り上がったチラシはところどころ文字がかすれていたり、斜めに印字されたりしていた。そのばらつきが何とも懐かしかった。いとおしかった。品質やスピードではまったく勝負にならないけれど、活版印刷にはデジタル印刷には決して出せない味わいがあった。


 これを修理屋の中に含めていいのかどうかわからないのだが、僕が一番驚いたのは「お札の修理屋」だった。
 その男たちは街角に小さなテーブルを出して、古くなったお札と新品のお札を交換していた。バングラデシュでは紙幣もボロボロになるまで使い続けるのだが、破れたり穴が空いたりすると、「こいつは使えないよ」と受け取りを拒否されてしまう。そういうトランプのババみたいな扱いを受けている古いお札をピン札に交換するのが、彼らの仕事なのである。


[ボロボロになったお札を修理する。]

 彼らの収入源はコミッションである。例えば半分に破れた5タカ札は3タカとして引き取り、ボロボロの500タカ札は450タカ分のピン札と交換するという。

 で、破れたお札をどうするかというと、彼らはそれを「修理」するのだ。ボロボロにちぎれたお札をきちんと並べ直して、糊を塗った白い紙にぺたぺたと貼り付けていく。そうやって原形を回復させられれば、銀行に持っていって新品のお札に交換してもらうのだ。


[ちぎれたお札を糊付けしていく。]

 日本の銀行でも、破れたお札を窓口に持っていけば新品に交換してもらえるが、バングラデシュではそれを代行する業者がいるのである。マネーロンダリング(資金洗浄)ならぬマネーリペアリング(貨幣修理)とでも言ったらいいのだろうか。

 それにしてもセコい。あまりにもセコすぎる商売だ。
 わずかな手数料のために小さなテーブルに向かってせっせとお札を貼り合わせている姿は、涙ぐましくもあり、どこか滑稽でもあった。
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by butterfly-life | 2012-07-31 15:53 | 南アジア旅行記
カメラを向けられる写真家
■ バングラデシュ旅行記(3) カメラを向けられる写真家 バックナンバーはこちら ■

「ハロー・フレンド!」
 ダッカの街を歩いていると、しょっちゅうこんな風に声を掛けられる。
 いきなり友達。
 まだひとことも言葉を交わしていないのに、なぜか満面の笑みで握手を求められたりするのだ。バングラ人というのはとにかく過剰なほどフレンドリーなのである。花屋のお兄ちゃんが「ウェルカム・バングラデシュ!」と言ってバラの花を一輪プレゼントしてくれることもあったし、市場では売り物のトマトをくれる人もいた。「俺の写真を撮ってくれよ!」とポーズを取る人も珍しくなかった。



 彼らは親日家でもある。イスラム国に敵対しているアメリカや、昔から繋がりの深い(それゆえ愛憎も深い)インド、アジアの覇権を握ろうとする中国には辛辣な意見を持つ人も多いが、日本に対して悪い印象を持つ人はほとんどいなかった。長年に渡って道路や橋などのインフラ整備に協力してくれた援助国であり、様々なハイテク製品を輸出する技術立国というポジティブなイメージが浸透しているようだ。

 ダッカの旧市街を歩いていると、ひとりの老人が、
「あなたは日本人なのか?」と声を掛けてきた。
「そうですよ」と答えると、
「このプアーなカントリーに来てくれてありがとう!」と笑顔で言うのだった。「ジャパンとバングラデシュはフレンドだからね。君が来てくれて本当に嬉しいよ」
 そして友好の証にチャイをご馳走してくれた。
 バングラデシュを旅していると、このような無償の親切を何度となく受けることになる。老人の言うとおりバングラデシュはプアーな国だ。けれどホスピタリティーと親切さだけは他のどの国よりもリッチだった。



 もちろん、その過剰なまでの親切さは「しつこさ」や「うざったさ」と表裏一体でもある。バングラ人はとても好奇心が強く、フレンドリーで、しかも遠慮がない。いくら「放っておいてくれ」オーラを出していても無駄である。だから、ただ街を歩いているだけで男たちに囲まれて「どこから来た?」とか「名前は何だ?」などと矢継ぎ早に質問されたり、何十人もの暇そうな子供たちが「ハメルンの笛吹き」のように僕の後ろにくっついて歩いてきたりもする。こういうことが毎日続くと、さすがにうんざりしてくるし、ときには「ええ加減にせぇよ!」と叫びたい衝動にも駆られた。


[動画]ダッカの街を歩いていると、こんな風に男たちに囲まれることがよくある

 バングラデシュを旅する人は、「動物園のパンダになったみたいだ」と感じることになるだろう。外国人は常に誰かから好奇の目で見られることを覚悟しなければいけない。視線から逃れたくても、隠れる場所はほとんど無い。

 だからもう、とことん楽しむしかない。パンダ扱いを受けるのは仕方がないと諦めて、パンダライフをエンジョイする。それができれば、バングラデシュの旅は俄然面白くなってくるのだ。



 ダッカではいろんな男に声を掛けられた。すれ違いざまに、
「あんたフォトグラファーなのかい?」と聞かれたこともある。なんの前置きもなく、挨拶も抜きに、いきなりである。
「・・・そうだけど」
 相手の前のめりな感じに気圧されながら答えると、彼は訛りの強い英語でさらにたたみかけてきた。

「やっぱりそうか。ずいぶんいいカメラを持っているからな。確かキヤノンとニコンは日本のメーカーだよな。どちらも素晴らしいカメラを作っている。実は俺もフォトグラファーなんだ。パートタイムだけど新聞記者をしている。それでだね、今から俺の言うことをぜひ日本人に伝えて欲しいんだ。『バングラデシュはたくさんの貧しい人々と一握りの金持ちでできている』。わかったかい?」

「・・・わ、わかったよ」
 これだけの長ゼリフをほとんど一息で話しきってしまう肺活量に圧倒されている僕を尻目に、彼はあっという間に雑踏の中に消えていった。僕の反応なんて聞きたくもない、という感じで。自分の言いたいことだけを言い、それが終わるとさっさと去っていく。相手の話をよく聞かないバングラ人は多いが、ここまで一方的に自分の話だけする人はさすがに珍しかった。



 この自称ジャーナリスト氏以上に不思議だったが、ダッカ駅近くの住宅街で出会った「ゴキブリ男」である。
 その若者は水が入ったガラスのコップを大事そうに持って歩いていたのだが、僕を見つけると嬉しそうに「ほら、中を覗いてみろよ」と言った。で、言われたとおり覗いてみると、そこには黒々とした大きなゴキブリが2匹入っていたのである。どちらもまだ生きていて、水面を必死で泳いでいる。

 嫌がらせなのか?
 一瞬そう思ったのだが、彼は終始にこやかで、その表情からは悪意のカケラも感じられない。ふざけている様子もなかった。大事に育てているペットを見せたがっている人みたいなのだ。

 彼は真顔で続けた。
「これ気に入った? 飲む?」
 ゴキブリを、飲む? なんで?
「いや俺はいいよ。あんたが先に飲めよ」とかわすと、
「いやいや、そう言わず、あんたが先に飲みなって」
 とコップをぐいと突きつけてくるのだった。
「どないせいっちゅうんや!」
 さすがにそう突っ込まざるを得なかった。まったくわけがわからなかった。
 やっぱり嫌がらせだったんだろうか。それとも中2レベルの悪ふざけなのか。いずれにしても、冗談はもうちょっとそれらしい顔で行ってほしい。いやほんとに。


[拡声器を持った行商人が歌を歌い出した。]


 街を歩いている僕を写真に撮ろうとする人も増えた。これまでは「ハロー」と声を掛けてきたり、握手を求めてきたりするだけだったのが、「あ、ガイジンだ。ちょっと撮らせてよ」って感じでカメラ付きの携帯を取り出す人が増えたのである。僕は写真家なので人にカメラを向けるのには慣れているのだが、カメラを向けられるのはあまり得意ではない。どんな顔をしてレンズを見たらいいのかわからなくなってしまうのだ。にっこりと笑えばいいのだろうか。それとも肩を組んで「チェキ!」ってやればいいのだろうか。



 バングラデシュでも携帯電話の普及は急ピッチで進んでいる。すでに人口の半分近くが携帯を手にしているという統計もある。中国製のシンプルな携帯電話なら1000円以下で買えるし、通話料も1分あたり1円以下という安さだ。これなら国民の大部分を占める農民にも十分に払える。リキシャ引きが携帯で喋りながらペダルを漕いでいたり、農村で収穫をするおばさんがポケットから携帯を取り出したり。10年前には到底考えられなかった光景が現実になりつつあった。

 もちろんカメラ付き携帯はまだ高級品で、そこそこの収入がないと買えないが、町工場でシャツを真っ黒にして働くあんちゃんが持っているぐらいだから、かなり大衆化しているとも言えそうだった。



 中には僕が食堂でカレーを食べている様子を、隣の席から動画で撮影する人もいて、これには苦笑せざるを得なかった。「オレにプライバシーはないのか!」と声を荒げるつもりはないけれど、「ガイジンが飯食っている動画」なんて撮って一体どうするんだろうと首をかしげてしまった。

 家族や友達に見せるんだろうか?
 それともYouTubeに投稿するんだろうか?


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by butterfly-life | 2012-07-27 12:17 | 南アジア旅行記
女装芸人ヒジュラという生き方
■ バングラデシュ旅行記(2) 喜劇の国 バックナンバーはこちら ■

 女装した芸人「ヒジュラ」に出会ったときの話をしよう。
 ヒジュラとはバングラデシュを含むインド文化圏に広く存在している女装芸人で、カースト制度からも離れた特異な存在である。もともとは婚礼の席などに呼ばれて歌や踊りを披露した芸能者だったらしく、インドには「聖なる力を持つ存在」としてヒジュラを崇めている地域もあるようだが、バングラデシュでは男でも女でもない卑しい存在として徹底的に差別され、軽蔑されていた。


[女装芸人ヒジュラ]

 僕が出会ったヒジュラは5人組で、みんな揃って派手な化粧をし、赤いサリーを着ていた。遠目からだと「妙に派手な女たち」にしか見えなかったのだが、近づいてみるとすぐに女装した男だとわかった。真っ赤な口紅を塗り、髪を長く伸ばしてはいたが、骨格や顔の作りは男そのものだった。新宿二丁目やバンコクにいるような「洗練されたニューハーフ」とは次元が違う。中には「おっさんやん!」と思わず突っ込んでしまいそうないかつい顔のヒジュラもいた。



 ヒジュラたちはとても陽気だった。大きなカメラをさげた外国人に興味津々で、こっちが何も言い出さないうちから歌と踊りを賑やかに披露してくれた。そして嬉しそうに「あたしたちを撮りなよ!」とポーズを取ってくれた。

 しかし踊りが終わると、和やかな雰囲気は一変した。近くのビルの窓から冷やかしの声と共に石が飛んできたのだ。
「おい、そこのオカマ! 気持ち悪いんだよ! さっさと消えちまいな!」
 そんな口汚い声があちこちから聞こえた。ここはイスラムの国。ヒンドゥー社会では一定の役割を与えられているヒジュラたちも、バングラデシュでは居場所がないのだろう。あとで聞いた話では、バングラデシュのヒジュラたちはこれといった仕事もなく、踊りをおどって道行く人からお金を恵んでもらいながら何とか生活しているという。物乞いとさほど変わらない暮らしなのだろう。


[動画]ヒジュラたちの踊り

 しかし男たちから罵られ、石を投げられても、ヒジュラたちは少しもひるまなかった。飛んできた小石を拾い上げると、ビルの窓に向かって全力で投げ返し、「うるせぇ、バカ野郎!」と怒声を浴びせ返した。こう見えてとんでもなく気が強いのだ。

 それでも罵声は止まなかった。それどころか真っ向勝負を挑んできたヒジュラをあざ笑うかのように、冷やかしの声はいっそう激しくなった。このままでは収拾がつかなくなる。そう思ったときに、ヒジュラの一人が意外な行動に出た。「これを見ろよ!」と言って、履いていたスカートをめくり上げたのだ。スカートの下はまったくの裸だった。下着を身につけていなかったのだ。そして本来あるべきモノもきれいさっぱりなかった。去勢していたのだ。

 その瞬間、その場は凍りついたような静けさに包まれた。僕を含めてまわりの男たち全員が呆気にとられ、言葉を失ってしまった。ビルの窓から顔を出していた男は手に石ころを握りしめたまま、ぽかんと口を開けていた。ヒジュラたちの「最後の切り札」は何もない股間だったのである。

「わかったでしょ! アタシたちにはチンチンがついてないのよ! なんか文句あんのかい? 何が悪いっていうのさ!」
 ヒジュラはとどめを刺した。かっこよかった。もう誰も言い返す人はいなかった。胸のすくような最後の一撃だった。

 何も悪くない。
 チンチンがついていても、いなくても、あんたたちにはこの街で生きていく権利がある。



 ヒジュラたちは差別され、虐げられてもなお、それをはねつけて生きるたくましさを持っていた。ことあるごとにまわりと衝突し、自分たちの権利を主張しなければいけない人生というのは、おそろしくタフであるに違いない。しかしヒジュラたちの開けっぴろげな陽気さからは、タフな人生そのものを楽しんでいるような余裕さえ感じられたのである。


 ヒジュラたちに限らず、ダッカの街を歩いていると喧嘩の現場に遭遇することが多かった。街のいたるところで口論やつかみ合い、ときには殴り合いが行われているのだ。バングラ人は基本的にフレンドリーで陽気だが、同時にやたら喧嘩っ早い性格でもあるのだ。

 特に喧嘩が多く発生していたのは路上だった。交通量がとんでもなく多いうえに、誰も交通ルールを守らない。そんな状況では、衝突事故が頻発するのは避けられないのだ。そしてひとたび事故が発生すると「お前がぶつけたんだろう!」「いや悪いのはお前だ!」とお互いに主張を譲らずに、大喧嘩を始めてしまうのだ。




[リキシャ同士がぶつかって喧嘩になっていた。大の男がパンツ丸出しで喧嘩しなくても、と思ってしまうのだが。]

 巨大な卸売市場カウランバザールでも、些細なことから殴り合いの喧嘩が発生していた。カゴに野菜をいっぱい載せて運んでいる男二人がぶつかって、そのひょうしに野菜がこぼれ落ちたというのが原因らしい。実にしょーもない理由である。どちらが悪いわけでもない。ただのアクシデントだ。日本ではたぶん10歳の子供でも喧嘩に発展することはないだろうが、この国ではそんな些細なことで40を超えた大人同士が殴り合ってしまうのである。


[これだけ大勢の人がひしめき合う市場で衝突が起きるのは仕方ないと思う。]


[「お前が悪い」「いやお前の方が悪い」]

 殴り合いが始まると、周りの男たちがすぐに止めに入った。二人を引き離して、お互いの言い分を聞く。当事者は周りの男たちに事情を説明して、自分の方が正しいのだと主張する。しかしその言い分にブチ切れた男が再び相手に殴りかかり、それを引き離した男がなぜか喧嘩に巻き込まれ、次から次へと喧嘩の輪が広がっていくのだった。市場で働く他の男たちはそれをちょっと楽しそうな表情で見守っている。「おお、またやっているなぁ」という感じで。

 中には「喧嘩は楽しみのひとつなんだ」と言い切る人もいた。「喧嘩と花火は江戸の華」なんて言葉があるが、「喧嘩とリキシャはダッカの華」と言えるのかもしれない。


[マッチョな男が集うボディービルジムも繁盛していた。]


 言うまでもなく、バングラデシュは貧しい国だ。莫大な人口を抱え、自然災害にもたびたび襲われ、社会には腐敗がはびこっている。庶民の生活は今も昔も苦しいままだ。それでも、この国に暮らす人々は明るかった。しぶとく、たくましく、前向きに日々を生きていた。



 この世界をもし「悲劇の国」と「喜劇の国」に分けるとしたら、バングラデシュは間違いなく後者に入るだろう。この国で目にする出来事の多くが、当人の意志とは関係なく、どこかコミカルで不思議なズレ方をしているからだ。



 竹馬おじさんも香具師も手相占い師もヒジュラたちも、みんな今を全力で生きていた。彼らは自分の生きざまを賭けた激しいぶつかり合いの中に身を投じ、人生という劇場で与えられた役割を全力で演じていた。

 にもかかわらず(いやだからこそ)その姿はどこかユーモラスだった。おかしみと哀しみ、滑稽さと切なさが同居していた。本人たちが真剣であればあるほど、そこに生まれる喜劇性はより大きなものになっていく。少なくとも僕には、そんな風に感じられたのだ。
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by butterfly-life | 2012-07-24 13:49 | 南アジア旅行記
ダッカというラビリンスに迷う
■ バングラデシュ旅行記(1) ダッカというラビリンスに迷う  バックナンバーはこちら ■

 人口過密なバングラデシュの中でも、首都ダッカは特に「濃い」街である。驚くほど人が多く、しかもとんでもなくエネルギッシュ。唖然とさせられること、腹立たしい出来事には事欠かないし、その一方で見ず知らずの人からいきなり握手を求められたり、お茶をご馳走してもらうこともある。



 ダッカはラビリンスだ。旧市街の細く曲がりくねった路地の先に何が待ち構えているのかは、まったく予想できない。首をかしげたくなるような不条理な出来事かもしれないし、笑い出さずにはいられないコメディーの一場面かもしれない。

 ダッカという迷宮に迷い込んだら最後、旅人は気持ちを休める暇もなく、次々と目の前で繰り広げられる出来事に対処していかなければいけない。そんなアクシデントを心から楽しむことができたなら、きっとあなたはダッカの虜になっているはずだ。

 この迷宮にはすぐにそれとわかる宝物があるわけではない。はっきり言ってガラクタばかりだ。でも見る角度を少し変えてやれば、そのガラクタが宝物になることもある。ダッカに巣くう変人たちとの出会いは、僕にとって宝さがしみたいなものだったのである。


[大量のカボチャに囲まれた男。こんな光景に出会えるのも迷宮都市ダッカならでは。]


 24時間眠らない生鮮卸売市場・カウランバザールで、ヘンな格好のおじさんを見かけた。飾りひものたくさんついた真っ赤な衣装を着て、同じくド派手な装飾を施した長い竹馬に乗り、ピピーと笛を吹きながらのっしのっしと通りを練り歩いていた。サーカスのピエロそっくりだったが、顔つきはやたらシリアスである。そのギャップの大きさがあまりにも異様で、僕はすぐに彼の後を追った。


[動画]謎の竹馬おじさん

 竹馬おじさんはピエロでも大道芸人でもなかった。1メートルを超えるような大きな竹馬に乗れること自体が芸と言えば芸だが、彼の目的は道行く人々に対して何かを訴えることにあるようだった。

 彼は駐車してあったトラックの荷台に腰掛けて、真剣な面持ちで演説を始めた。もちろん僕にはその内容はよくわからなかったが、「深刻な危機が今まさに迫っている」とでも言いたげな切実さは十分に伝わってきた。演説を聴いていた男が「イスラムに関係したことを話しているんだ」と教えてくれた。この竹馬おじさんはイスラム教の聖者だというのだ。しかし宗教的なメッセージを発するには、いささか格好が派手すぎるようにも思えた。そもそもイスラム教は偶像崇拝を禁じているし、彼のように「悪目立ち」することを嫌っているはずだ。


[聴衆の前で演説する竹馬おじさん]

 しかしおじさんのメッセージに真剣に耳を傾ける人は多かった。少なくとも「気が触れた人のたわごと」だと鼻で笑うような人は誰もいなかった。言っていることはまともなのだろう。演説が終わると、男たちが先を争うようにして10タカ札を差し出し、それと引き替えにおじさんからカラフルな飾りひもをもらっていた。御利益があるのだろう。

 おじさんは20本ほどの飾りひもを売り終わると、場所を変えるために再び竹馬に乗って歩き始めた。交通整理の警官のように威勢よく笛を鳴らし、通りを歩く人々を蹴散らしながら大またで歩いていく。そしてまた別のトラックの荷台に腰掛けて、熱い演説を始めるのだった。



 謎だらけだった。彼が本物の聖者だとは思えなかったが、ピエロを装ったしたたかな商売人にも見えなかった。
 人々の注目を集めるために道化を演じ、寄付金を募っている。それは何とかわかるのだが、それではなぜ竹馬に乗るのか、聴衆に何を訴えていたのか、飾りひもにはどんな御利益があるのかは、結局わからないままだった。


 竹馬おじさんもその一種だと思うのだが、ダッカの街にはいたるところに香具師がいて、独特の口調で口上を述べたり芸を披露したりしながら、あやしげな薬や健康器具などを販売していた。

 とりわけ多くの男たちの注目を集めていたのは、ヒルから作った秘薬を売る香具師だった。ベンガル語でジョークと呼ばれるヒルは、体長が10センチほどもあった。水を張ったプラスチックの桶に、その大型ヒルが100匹以上も放たれて、ヌラヌラと動き回っているのである。これはぞっとするほど気持ち悪かった。見ているだけで手の平がじっとりと汗ばんできた。


[動画]ヒルから作った秘薬を売る香具師

 僕は以前このジョークに血を吸われたことがある。田植えをしている人々の写真を撮っていたときのことだ。ふと気がつくと、ふくらはぎにこの巨大ヒルがくっついていたのである。ヒルというのは噂通りいったん吸い付いたら簡単には引き剥がせない。そのときもエイッと力を込めて引っ張ると、皮膚の一部も一緒にべりっと剥がれてしまって、ずいぶん痛い思いをした。それ以来、ヒルには良いイメージを持っていない。

 このジョークから作った薬は、(冗談抜きで)とてもよく効くのだそうだ。
「ジョークから搾り取った油がこの薬にはたっぷり入っている。どこに塗るのかって? そりゃあんたたち、決まっているだろう。アソコだよ」
 香具師は真剣な顔で股間を指さした。なるほど。これは精力剤もしくはバイアグラ的な薬なのである。


[様々な植物から作られた怪しげな薬を売る男。彼も香具師の一人だ。]

「あんたたちの中で夜の生活に困っている人はいないかな? いや恥ずかしがることはない。男は30を超えると誰でも衰えるものなんだ。でももう心配はいらない。これさえ塗れば今夜からギンギンだ。間違いない。奥さんがヒーヒー言うぐらい素晴らしい効果がある。これで家庭円満。さぁ買った買った。今ならサービス特価だよ」

 なんてことを言っているらしい(半分以上は僕の想像だが)。効果のほどは未知数だが、スッポンやヘビは精力剤として珍重されているから、ヒル薬が効いても不思議ではない。実際、男たちはとても真剣な表情で口上に聞き入っていたし、そのうちの何人かは薬を買い求めていた(サクラかもしれないが)。

 僕も盛んに勧められたが、さすがに断った。「タダで持っていけ」と言われても「イヤだ」と答えたと思う。たとえ効果が絶大でも、あの気持ち悪いヒルから作られた薬なんて絶対に塗りたくはなかったのだ。


 ダッカの路上で、占い師に手相を見てもらったことがある。占い師といってもただのオッサンで、威厳やオーラがあるわけではなかったが、片言の英語を話せるということだったので、ものは試しと占ってもらうことにしたのだ。


[動画]ダッカの手相占い

 結果は素晴らしいものだった。
「あなたは人生で成功するだろう」
「金運もいい、ビジネス線もいいな」
「健康面も問題ない」
 などなど、すべてにおいて「ベリーグッド」だと断言するのである。

 しかしあまり嬉しくはなかった。このおじさん、聞かれたことすべてに「いいよ」と言っているだけなのである。ただのイエスマン。そんなんだったら僕にもできるよ。

 言うまでもないことだが、結婚運も良かった。「妻は一人、子供は三人できるよ」と彼は言った。三人は多すぎるよとも思ったが、もちろんおじさんは日本の家族事情のことなど知らない。

「それじゃ、今度の選挙はどうなりますかね?」
 と僕は訊ねてみた。実は議会選挙が二日後に迫っていて、街はその話題で持ちきりだったのだ。事前予想では「アワミ連盟」と「BNP」という二大政党が僅差で競り合っており、どちらが勝ってもおかしくない状況だった。占い師の実力を知る上でうってつけの質問だと思ったのだ。

「それはわからん」とおじさんはきっぱりと言った。「私にわかるのは手相を持った人の未来だけだ。選挙の結果なんて、手相占いではわからんよ」
 わからないものはわからない。実に潔い答えだった。
 それを聞いて、おじさんのことをちょっと見直した。ただのイエスマンなどではなく、深遠なる洞察力を持った本物の占い師なのかもしれない。
 もっとも「もし予想が外れたら信用がガタ落ちになるから、口をつぐんでおこう」というしたたかな計算が働いただけなのかもしれないが。
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by butterfly-life | 2012-07-20 15:23 | 南アジア旅行記
「バス道」は変化の象徴
■ ネパール旅行記(14) 「バス道」は変化の象徴  バックナンバーはこちら ■

 ネパールの農村はいま大きく変わりつつある。
 その変化の担い手は「出稼ぎ労働者」であり、原動力は「オイルマネー」である。ネパールの農村には昔から出稼ぎの伝統があったのだが、最近の原油価格の高止まりを背景にした産油国の経済成長によって多くの労働力需要が生まれた結果、数百万人規模のネパール人が仕事を求めて湾岸諸国に渡ったのである。イラクで働いたサンク君はその典型例のひとつだと言っていいだろう。

「村の生活は変わったよ」
 と出稼ぎ先のカタールから帰ってきたばかりの男が言った。
「10年前、いや5年前までは誰もテレビなんて見たことがなかった。それが1年前に村に電気が通ったら、毎日衛星放送でインドの番組を見られるようになったんだ」


[今でも電気がない村では、夜になれば家族が灯油ランプのまわりに集まる。]

 5年前までは、夜になれば灯油ランプをともす生活だった。それが今ではテレビを持ち、携帯電話を持てるようになった。日本だと100年を要した変化が、わずか5年の間に起きてしまったのだ。


[衛星放送受信用の大きなパラボラアンテナも目にするようになった。]

 家畜の糞などをメタンガスに変える「バイオガス」も注目されたことがあったのだが、設備が大がかりなわりに火力が安定しないので、次第に使われなくなったという。環境にいいのは確かなのだが、プロパンガスの便利さにはかなわなかったようだ。

 ネパールの山村で進行する変化の象徴が「バス道」だ。
 バスが通れるだけの広い道ができれば、徒歩でしか行けなかった場所にも簡単に行けるようになる。重い荷物を背負いながら険しい山道を何時間も歩くのが当たり前だった農家の暮らしが、これで一気に楽になるわけだ。


[バスの屋根の上にまで乗客が乗るのは、ネパールでは当たり前だ。]

 道をつくれば村が変わる。
 ここでも変化の原動力となっているのは、キャッシュが持つ力だ。田舎のバス道の整備に政府が使える予算は限られている。それを待っていたら何年経っても道なんてできない。だったら自分たちの手でさっさと道をつくってしまおう。そう考える人が増えたのも、現金収入が増えたためだ。村人からお金を集めて重機を呼べば、バス道をつくるのはさほど難しいことではないのである。

 ビルチェット村では村人総出でバス道をつくっている現場に遭遇した。かり出された村人は100人あまり。それぞれ手にシャベルやハンマーやバールなどを持ち、それで木の根っこや岩を取り除いて、以前からあった細い峠道を車が通れる幅にまで広げていた。


[村人総出でバス道をつくる。]


[女たちも進んで力仕事を引き受ける。]



 大変な重労働だし、危険な仕事でもある。突然地面が崩れて大きな岩が足下に落ちてきたら、間違いなく大怪我をする。それでも人々は陽気だった。笑いながら、ときには歌をうたいながら、額に汗して働いていた。彼らは昔からこのようにして道をつくり、棚田を広げてきたわけで、こういった作業には慣れているのだろう。



 ある程度広い道が出来上がると、今度はパワーショベルを呼んで本格的な道づくりに入る。パワーショベルは一台で何百人分もの仕事を効率的にこなしてくれるが、使用料も高い。1日に3万ルピーもかかるという。だからこの村では、全家庭に2000ルピーずつの負担金を払ってもらうことにした。


[パワーショベルの仕事ぶりをじっと見守る村人]

 人力とパワーショベルで作られた道は、決して「いい道」ではない。もちろん舗装もされていないし、そこらじゅう穴ぼこだらけだから、バスの乗り心地は笑うしかないほど悪い。洗濯機の脱水槽の中にいるみたいに揺れる。雨季になると通行止めになるし、ときどきバスの転落事故も起きる。


[田舎のバス道は穴ぼこだらけで、まともに走れないことも多い。]

 それでも田舎にバス道が通ることの意味はとてつもなく大きい。町でしか手に入らなかった商品がトラックに載せられて村に運ばれてくるようになるし、反対に村でつくった作物を町に売りに行くことも容易になる。病気になったときも、すぐに町の病院に行くことができる。生活がより便利に豊かになるわけだ。



 アジアの貧困国ネパールには、「援助」の名のもとに外国の政府や民間からたくさんのお金が流れ込んでいた。しかし、それらはあまりうまく機能していなかった。投入したお金に比べて、効果は限定的なものにとどまっていたのだ。腐敗した役人の懐を潤すばかりで、本当に援助を必要としていた人の元にはなかなか届かなかったという現実があったのである。

 今、ネパールの山村を変えつつあるのは、国際援助のような「上から与えられるお金」ではなくて、出稼ぎ労働者が自らの手で得たお金である。そのお金は自分たちのニーズに合わせて自由に使うことができる。そこが大きな違いだ。



 オイルマネーは貪欲で搾取的で差別的で鼻持ちならないアラブのお金持ちが吸い上げたお金である。しかしお金それ自体には善いも悪いもない。よく言われるように「お金に色はない」のだ。

 グローバル市場経済が生む血も涙もないマネーは、極めて合理的で効率的なものでもある。その事実は(渋々ながらも)認めなければいけない。
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by butterfly-life | 2012-07-17 13:53 | 南アジア旅行記
ネパールの海外出稼ぎ労働の現実
■ ネパール旅行記(13) 海外出稼ぎ労働の現実  バックナンバーはこちら ■

 サンク君は18歳の新妻を呼んで、お茶を運んでくるように言った。彼女は少し恥ずかしそうに僕の方を見てから、かまどのある奥の部屋に向かった。しばらくすると薪のはぜるパチパチという音がして、香ばしいにおいを伴った煙が部屋の中にゆっくりと流れ込んできた。

 サンク君はイラクで3年働いて貯めたお金で、トリシュリという町に新しい家を買った。町はなにかと便利だ。学校も病院もたくさんあるし、電気も使える。モノも豊富だ。それにひきかえ、故郷のオクレイニ村は電気も通っていないし、トイレもないし、水汲みにも多大な労力を使わなければいけない。だからたとえ生まれ育った村であっても、そこを離れることにさほど未練はなかったという。


[重い水瓶を担いで山道を歩くのは、村の生活の基本だ。]

 でも彼の母親は違った。住み慣れた村の方がいいと言い張って、町に移住することになかなか同意してくれなかった。
「自分たちが食べるものは自分たちで作る。母親にとってはそれが当たり前のことでした。どこか別のところでお金を稼いできて、食べ物や水や電気を買って暮らすということに馴染めないんだと思います。わざわざ危険な国に行ってお金を稼がなくても、この村で暮らしている限り食べ物には困りませんから」





 もちろん海外へ出稼ぎに行った人がみんな成功するわけではない。失敗例もある。悪徳エージェントに騙されて、ろくに給料が支払われないまま帰国を余儀なくされた人もいるし、仕事をすぐに覚えられない労働者が雇い主から虐待を受けたり、出稼ぎ先で病気になったりする人も多い。稼いだお金を酒やギャンブルに使ってしまって、帰国するときには無一文というトホホな人もいる。

 僕が話を聞いた男は、アフガニスタンで働くつもりでエージェントに60万ルピー支払ってドバイに向かったのだが、ドバイの空港で極度の緊張とアルコールが手に入らないという不安(彼はアルコール依存症だった)から錯乱状態になり、現地の警察に逮捕されて精神病院で一ヶ月入れられたあと、ネパールに強制送還させられたそうだ。自らが招いたこととはいえ、支払った60万ルピーをまるまるドブに捨てる結果になってしまったのだった。

 それでも出稼ぎ労働者は年を追うごとに増え続けている。2010年の統計では、年間35万5000人ものネパール人が新規出稼ぎ労働者として国外に渡航しているという。現在、外国に滞在しているネパール人労働者の数は、(正確にはわからないが)270万人を超えているとも言われている。これは3000万というネパールの人口を考えると驚くべき数字だ。人口の半分が男性で、その半分が就労人口だとしても、750万人の男性就労者のうちの実に三人に一人が外国で働いていることになるのだから。

 実際、僕が泊めてもらったほとんどすべての農家で、家族のうちの誰かが外国に出て働いていた。長男はサウジアラビアで、次男はドバイで、三男はマレーシアで働いているという「離散家族」も珍しくなかった。

 サンク君のように危険を承知でイラクやアフガニスタンなどで働く男もいるが、大多数のネパール人はもっと安全で治安のよい国を出稼ぎ先に選んでいる。サウジアラビア、カタール、クェートなどの産油国。古くから多くのネパール人が働く隣国のインド。それに外国人の受け入れに積極的なマレーシアあたりがポピュラーな「派遣先」だ。職種にもよるが、道路工事や工場作業のような単純労働の場合、月給は2万から3万ルピー程度。決して高くはないが、それでもネパール国内で仕事を見つける困難を考えると、はるかに恵まれた労働環境なのだ。

 42歳のチットラさんはカタールで6年、マレーシアで3年働いた経験があった。工事現場で働く彼の給料は月1万ルピーほどとかなり安かった。彼は小学校に3年しか通っていないので英語はほとんど話せないし、英語の読み書きはまったくできないので、単純な肉体労働しかできなかったからだ。


[チットラさんと息子]

 しかしそんな彼でも飛行機に乗ってイミグレーションや税関を通過し、外国で何年も働けたのは、人材派遣会社が用意したコネクションと出稼ぎ労働者たちのコミュニティーがあったからだ。ネパール人にとって(一部の)外国はもう特別な場所ではない。ごく当たり前の就職口に過ぎないのだ。

 男が外国へ渡って金を稼ぎ、女性と子供と年寄りがその金を使って村で暮らす。このような家族が今のネパールでは主流になっているわけだが、それによって生まれた問題も多い。かつてはほとんどなかった離婚も、家族がバラバラに暮らすようになったことで急激に増えているという。

 夫が外国で働いているあいだに妻が恋人を作って逃げてしまった、というパターンで離婚した夫婦の話は、旅先で何度も聞かされた。たとえばガイドのフルさんの弟は、カタールに行っているあいだに最初の妻に逃げられてしまい、そのあと二度目の結婚をしたものの、ドバイで働いているあいだにその再婚相手にも逃げられてしまったそうだ。気の毒である。

 でも相手の素性もよくわからないで結婚して、夫婦で共に過ごす時間もろくに持てないまま出稼ぎに行ってしまった夫を、何年もじっと待ち続けることの方が難しいと思うのは僕だけではないだろう。妻の不貞だけを責めることなんてできない。

 ここ数年でネパールの農村にも携帯電話が普及したおかげで、外国にいる夫と連絡を取ることが簡単にはなった。しかしだからこそ、今後も離婚は増え続けるという気がする。電話で話すことと、ひとつ屋根の下に暮らすことのあいだには大きなギャップがある。いつでも電話で話せるからこそ、「会いたい」という気持ちも、「でも会えない」という苛立ちもより強く感じるのではないか。



「それは人によるんじゃないですか」とサンク君は笑って言った。「夫の帰りを信じて待つ人もいるし、そうじゃない人もいる。彼女は待ってくれると信じていますけどね」
 彼は屈託のない笑顔を妻に向けた。僕らが何を話しているのかわかっていない奥さんは、それでも何かを察したように恥ずかしそうに微笑んだ。二人はうまく行くだろうか。それは僕にも、たぶん二人にもわからない。

「僕の夢は家族みんなが幸せに暮らすこと。そのためにはお金を稼ぐ必要があるんです。町での暮らしはお金がかかりますから」
「じゃあまたイラクに戻るつもり?」
「ええ、できればそうしたいですね。将来はアフガニスタンに行くことも考えています。イラクよりも危険だけど、その分サラリーも高いと聞いていますからね」
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by butterfly-life | 2012-07-12 12:24 | 南アジア旅行記
だから僕はイラクに行った
■ ネパール旅行記(12) だから僕はイラクに行った バックナンバーはこちら ■

 イラクに出稼ぎに行った理由を訊ねられたサンク君は、少し憮然とした顔で、
「もちろんお金のためですよ。他に何がありますか?」と言った。
 もっともな答えだった。米軍の侵攻以来すっかり治安が悪化し、今もまだ散発的に自爆テロが起きているイラクへわざわざ出稼ぎに行く理由が、「お金」以外にあるはずがない。

「僕だってイラクが危険なことは知っていました。新聞やラジオで伝えられていましたから。でも条件がよかった。僕はイラクでガードマンの仕事をしていましたが、月給は1000ドルを超えていました。カタールやドバイだったら、同じ仕事をしても月400ドルももらえなかったはずです」
 サンク君の英語は発音がクリアで聞き取りやすかった。外国人と話すことに慣れている様子だった。


[18歳の時にイラクに渡ったサンク君]

 イラクに渡ったのは3年前。18歳になったばかりの彼にイラクでの仕事を斡旋したのは、カトマンズにオフィスを構える人材派遣会社だった。普通のネパール人がイラクの就労ビザを取得するのは容易ではないのだが、ドバイのエージェントを通すという「抜け道」を使えばすぐに取れるという。彼はビザの取得費用と航空券代としてエージェントに30万ルピー(30万円)を支払った。言うまでもなく、それは貧しい農家出身の若者にとって莫大な額だった。だから親戚や友達に多額の借金をすることになった。それだけのリスクを冒しても、イラクでもらえる月10万円の給料は魅力的だった。

「一番困ったのは言葉の問題です。英語は一応学校で習ってはいたけど、実際に外国人と話した事なんてなかったですから。最初の三ヶ月は周りの人が何を言っているのか全然わからなかった。友達もいないし、とにかく孤独でした。でもイギリス人の上司と毎日話していたら、自然と言葉がわかるようになったんです」

 イラクには、危険と引き替えにもたらされる高給を目当てに、世界各地から労働者が集まっていた。ウガンダ人、南アフリカ人、ルーマニア人、イタリア人、メキシコ人、インド人。その中でもサンク君はもっとも小柄(身長は160センチを少し超えるぐらいだ)で年も若く、しかも童顔だったから、同僚たちからは子供扱いされた。からかわれたり、喧嘩をふっかけられることもよくあったという。

「仕事が休みの日にビリヤードで遊んでいると、ウガンダ人の同僚が理由もなく僕を突き飛ばしてきたんです。真っ黒い肌の大男でした。そいつは僕からキューを取り上げると、『このビリヤード台は俺のものだ。お前はうせろ!』と言ったんです。頭に来た僕はそいつの鼻っ柱を殴りつけました。彼はいつも僕を見下した態度を取っていたから、我慢できなかったんです」

 反撃されるとは思っていなかったウガンダ人は虚を突かれてその場にうずくまり、サンク君のとどめの一撃を脇腹に叩き込まれることになった。「今度こんな真似をしたら、お前を必ず殺してやる」とサンク君は言った。それは単なる脅しでなかった。彼はもしものときの護身用に「ククリ」と呼ばれる短刀を持ち歩いていた。よく手入れされたククリは水牛の首でさえも一刀両断にできる。


[よく手入れされたククリは山羊や水牛を解体するときにも使われる。]

 その一件以来、彼のことをからかう者はいなくなった。100年以上も前からイギリス軍の傭兵としてそのたぐいまれなる戦闘力を証明してきた「グルカ兵」の伝説は、今でも世界中に知れ渡っている。ネパール人は小柄だが、いざ戦いになったら勇猛で、決して容赦しない。幼い頃から山道を歩き、力仕事で鍛えられている体には、ただうすらデカイだけの男にはない本物の強さがある。サンク君はそのグルカ兵の血を引く者としてのプライドを守り、文字通り「男を上げた」わけだ。

「イラクは噂通りの危険な国でした。僕は基本的に建物の中で働いていたから、直接戦闘に巻き込まれるようなことはなかったけど、近くで爆弾テロが起きることはよくありました。防弾チョッキを着たまま眠ったこともあります。ネパールに帰ってきてからも、ときどき悪夢を見て飛び起きることがあるんです」

 危険を伴ったイラクでの3年間を何とか無事に終えると、彼は故郷の村に戻った。そして叔父さんの紹介で別の村に住む18歳の女性と結婚した。いわゆるアレンジ婚だった。奥さんとは結婚式当日まで一度も顔を合わせなかった。写真すら見なかったという。信頼する叔父さんが「いい娘だ」と言ったんだから、四の五の言わずに受け入れる。不満など全くなかった。


[サンク君と18歳の奥さん]

 結婚とはしかるべき時期が来ればするものであって、そこに自分の好みや判断が入り込む余地は少ない。そんなネパールの農村における結婚観は、昔からあまり変わっていないようだ。あまりにも選択肢が多くて決断することができないままずるずると年を重ねていく今の日本人とは正反対の「潔さ」である。

 しかしネパール人の家族観は昔とはずいぶん違ってきている。一世代前までは「子供はできるだけたくさん産んだ方が幸せ」という価値観が強く、6人か7人もの子供を持つことが当たり前だった農村でも、今は「子供は一人か二人で十分」と考える人が増えている。サンク君も「子供は一人でいい」と言った。たとえ女の子であっても構わない、と。もはや農家の長男であっても「何としても男子を授かりたい」とは思わなくなっているのだ。



「僕の父親は10年以上前に家族を捨てて、他の女とどこかへ行ってしまったんです。それ以来一度も会っていません。会いたいとも思わない。悔しかったですよ。もし父親がいたら高校にだって通うことができたし、もっといい仕事に就くためのスキルを身に付けることができたはずだから。でも父親がいない以上、長男である僕が家族の面倒を見なければいけない。だから僕はイラクに行ったんです」


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by butterfly-life | 2012-07-09 11:47 | 南アジア旅行記
交尾する水牛はどんな表情をしているのか
■ ネパール旅行記(8) 水牛ファンクラブ通信・交尾編 バックナンバーはこちら ■

 みなさんこんにちは。自称「世界水牛ファンクラブ・日本支部長」の三井です。
 「たびそら」ではこれまでにも愛すべき水牛の生態についてのレポートをお伝えしてきましたが、今回はネパールにおける水牛の交尾事情についてお伝えします。当たり前のことですが、水牛のセックスライフは人間のそれとは大きく異なっています。



 水牛というのはご存じのように(ご存じではないかもしれませんが)、無表情でクールな動物です。飼い主に棒で叩かれているときも、もぐもぐと草を食べているときも、乳を搾られているときも、だいたい同じような表情をしています。黒い瞳はぼんやりと虚空を見つめ、口元は常にくちゃくちゃと動き続けています。きっと彼らにも感情はあるのでしょうが、それを我々が読み取るのは至難の業なのです。そこがまた水牛ファンにとってはたまらないところなのですが。



 そんなクールな水牛が、交尾の時にどのような表情を見せてくれるのかは、ファンならずとも興味を引かれるのではないでしょうか。あくまでも無表情を貫き通すのか。それとも恍惚の表情に変わるのか。普段はシャイなように見えても、ベッドの上では別人格なのか(誰のことだ?)。ね、気になりますよね?

 交尾の際の表情をお見せする前に、ここでネパールにおける水牛の役割についてざっとおさらいしておきましょう。
 ネパールの農村では、ひとつの農家がだいたい2,3頭の水牛を飼っています。ミルクを採るのが主な目的なので(糞を燃料や堆肥に使うという目的もあります)、基本的にメスしかいません。オスが生まれたときには、ある程度成長した段階で殺して食べるのだそうです。ネパールのヒンドゥー教徒は牛は食べませんが、水牛なら(これもカーストによるらしいのですが)食べてもOKなんだそうです。


[水牛の乳を搾る女性]

 メスは通常3歳になると交尾が可能になります。水牛は人間とは違って楽しみのためにセックスをするわけではありませんから、妊娠可能になるとすみやかに発情期を迎え、めでたく交尾が完了すると、その11ヶ月後には子供を産みます。

 発情期を迎えたメスは興奮し、そわそわと落ち着きが無くなります。それを見た飼い主は村に一頭だけ飼っているオスの水牛をメスの元に連れてきます。このオスは交尾のためだけに飼われている「種水牛」です。彼はこの村に住むメスのすべてと交わるわけです。ハーレムですね。



 交尾のために飼われている特別なオスだから、当然のことながら性欲(交尾欲と言った方がいいのかな?)は旺盛です。メスの尻にぴったりと鼻先を寄せ、少し鼻息が荒くなったと思うと、やおら前足を大きく上げてメスの尻に覆いかぶさります。交尾の直前には太いペニスの先から細い鍵状のものがにゅっと伸びてきます。この部分から精液が分泌されるようです。



 交尾自体は驚くほどあっけなく終わります。10秒もしないうちに「こと」は済んでしまいます。しかしこの短い行為によってほぼ100%の確率で妊娠するということですから、たいしたものです。それに比べれば、人間のセックスはとても効率が悪い。いくら「早い人」でも10秒も持たなかったら、さすがにシャレにならないですからねぇ。



 そうそう、肝心の水牛の表情ですが、写真を見ていただければわかるように、普段との違いはそれほどありませんでした。息が荒くなったり、時々歯をむき出しにしたりはするけれど、基本的にはクールなままでした。オスが目をつぶっている写真があって、それだけを見れば快感を感じているように見えなくもないけれど、たまたま瞬きをしただけなのかもしれません。メスの表情はずっと同じでした。

 水牛の交尾は5,6回続きます。それでも全部にかかる時間は20分程度でした。ひと仕事終えて「お疲れさん」となった種付け役のオスは、再び自分の寝床に戻って葉っぱをむしゃむしゃと食べながら、他のメスが発情して出動が要請されるのをひたすら待つわけです。

 こういう人生もなかなか悪くないと思います。少なくとも、一度も交尾することなく食用肉にされてしまう他のオス牛よりははるかにマシではないでしょうか。


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by butterfly-life | 2012-07-06 12:17 | 南アジア旅行記
ネパールの聾学校を訪ねる
■ ネパール旅行記(7) 「沈黙の時間」を生きてきた子供たち バックナンバーはこちら ■

 村の小学校に足を踏み入れたときの反応は、だいたいいつも決まっている。見慣れない外国人がやってきたことに驚いた子供たちが校庭を走り回り、それを先生にたしなめられて(ときには木の棒で威嚇されて)、ようやく教室へ戻るのだが、その後も「あのガイジン、なにしに来たのかなぁ?」という好奇の眼差しで、じっとこちらを見つめているのだ。まるで初めて動物園にやってきた珍しい動物を観察するような目で。



 ところがダーディン郡チョカデバザールにある学校では、そのようなお決まりの反応が一切返ってこなかった。子供たちは無言のまま、少し怯えたような目で僕をじっと見ていた。
「ナマステー」
 そう声を掛けても返事がない。あれ、おかしいな。
 そこでようやく気付いたのだった。この子たちは耳が聞こえないのだということに。


[聾学校の子供たち]

 そこは耳の不自由な子供を対象にした聾学校だった。生徒数は20人。全員が学校の隣にある寄宿舎に寝起きして、共同生活を送りながら、手話を習い、勉強に励んでいるという。どの子もここから遠く離れた村の出身なので、自宅から通うことができないのだ。



 先生に話を聞くことができた。ここで教えている手話はユニバーサル手話(国際手話)を元に、ネパール独自の言葉や表現を加えたものだという。いずれにしてもこの手話はごく一部の人間にしか知られていないし、それを教える学校も限られている。教える側にとっても、まだ試行錯誤の段階なのだ。

「一番の問題は、子供たちが心を閉ざしていることです」
 と先生は言った。聾学校にはじめてやってくる5,6歳の時点で、ほとんどの子供は言葉を使って人とコミュニケーションを取った経験がない。村に手話を操れる人はいないし、文字を書くことも読むこともできないから、意思を通じさせる手段がないのだ。自分の気持ちをわかってくれる人もいないし、自分の欲求を伝える術もない。親兄弟もどう扱っていいのか途方に暮れている。そうやって半ば放置されたまま育ったという子供たちがここへやってくるのである。

「子供たちはずっと『沈黙の時間』の中で生きてきたんです」と先生は言う。「そんな彼らを言葉のある世界に戻すのは簡単なことではありません。時間が必要なんです」
 実際、1年生のクラスには3週間前に入学してきたばかりの生徒がいたのだが、彼はほとんどの時間を机に顔を伏せたまま過ごしていた。たまに顔を上げることがあっても、先生や黒板を見ようとはせず、ただ虚空を睨むばかり。自分がなぜここにいるのか、何をするべきなのかさっぱりわからないという様子だった。一人の世界に閉じこもることに慣れ、自分が外の世界と繋がっているという実感を持てないでいるのだ。


[ずっと机に顔を伏せたままだった新入生]

「それでも3ヶ月もすれば,子供たちも徐々に心を開いてくるんです。だんだんと『自分が一人ではない』ということがわかってくる。同じような境遇の子供たちが周りにいる。そのことが力になるんです」

 上のクラスでは、手話を使った会話の練習風景を見ることができた。子供たちの手の動きはとても速く、表情も変化に富んでいた。彼らは長かった『沈黙の時間』を取り戻すように、熱心に語り合っていた。会話それ自体が楽しくて仕方がないといった様子だった。


[手話を使って話し合う子供たち]

 この聾学校は9年前に設立されたそうだ。首都のカトマンズには身体障害者を対象にした学校がいくつもあるのだが、町から遠く離れた田舎にこのような学校が作られた例は極めて珍しいという。

 しかし学校の経営は苦しい。障害を持つ子供には一人あたり月1000ルピーの手当が政府から支給されているが、それだけで食べ物や衣類や勉強道具などをすべてまかなうのは難しい状況だという。

 実際、子供たちが置かれている環境は恵まれたものではなかった。寄宿舎はとても狭く、部屋には二段ベッドがぎりぎり入るだけのスペースしかない。ベッドの上に敷かれた布団は何年も洗われていないらしく、ドス黒く変色している。部屋の中に充満する臭いもひどかった。もし自分がこの子たちの立場だったらとても耐えられないな、というのが僕の偽らざる印象だった。


[寄宿舎はとても狭くて汚かった。]

 自分になにかできることはないだろうか。僕はその場で考え込んだ。まったくの偶然とはいえ、聾学校の現状を垣間見ることになったからには、このまま何もしないで立ち去ることはできなかった。しかし現金を寄付するというやり方はできれば避けたかった。そのお金がどのように使われたのか、あとから確かめる術がないからだ。善意で寄付されたお金が適切に使われることなく役人や関係者のポケットに消えていくという例は、数え上げればきりがないほどこの国ではごくありふれたことなのだ。

 しばらく考えた末に、布団を買うことにした。寄宿舎のベッドに置かれていた布団はあまりにも汚かったし、それさえも生徒全員には行き渡っていなかったのだ。僕は近くのバザールに行って一枚600ルピーの布団を10枚買い(本当は20枚買いたかったのだが、在庫が10枚しかなかった)、寄宿舎に運び込んでもらった。それから文具屋に行ってノート20冊とペン20本を買った。

 校庭で遊んでいた子供たちにも「なにか欲しいものはある?」と訊ねてみた。すると男の子たちが穴のあいたサッカーボールを持ってきた。
 言葉で説明する必要はない。これじゃ遊べないよな。
 すぐに雑貨屋で新しいサッカーボールを買ってあげた。

 すると、それを見た女の子たちが破れたバレーボールを持ってきた。
 ごめん。男の子だけじゃ不公平だったよな。
 新しいバレーボールも買うことにした。
 どれもたいして高価なものではなかったけれど、子供たちは目を輝かせて喜んでくれた。



 ネパールの障害者が置かれた現実は、日本よりもはるかに厳しい。社会保障制度はお粗末だし、障害者同士の繋がりも薄い。特に田舎には「障害を持って生まれてきたのは、前世で悪い行いをした報いだ」という古い考え方も根強く残っているという。

 先生が語ったように、この聾学校は「踏み出したばかりの小さな一歩」に過ぎない。解決すべき課題はまだたくさんある。

 それでも厄介者として扱われ、家族とのコミュニケーションすら取れなかった子供たちが、同じ境遇にいる仲間と一緒に学ぶことには大きな意味があると思う。彼らは学ぶことによって、傷ついた自尊心を回復する足がかりを得ているに違いないのだから。
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by butterfly-life | 2012-07-03 12:30 | 南アジア旅行記