僕はリキシャを甘く見ていた。
自転車に乗れれば誰でも簡単に乗ることができるものだと思い込んでいたのだ。だから「リキシャに乗って旅するんだったら、少し練習しておいた方がいいぞ」というバングラ人の忠告にも「ははん、俺は大丈夫さ」と鼻で笑っていたのである。 しかし実際にリキシャに乗ってみると、まっすぐに進むことすらできなくて焦った。ペダルはやたら重いし、バランス感覚が自転車とまったく違っていたのだ。 ダッカ旧市街の狭い路地裏で、僕の乗るリキシャが右へ左へふらふらと迷走するたびに、子供たちから遠慮のない冷やかしの声が沸いた。 「ガイジンがリキシャを運転するって? どれひとつ見てやろうじゃないか」 と集まったギャラリーたちの前で、実にみっともない姿をさらしていた。焦れば焦るほどリキシャは迷走を続けるばかり。子供たちの笑い声が背中に痛い。 ![]() バングラ人の中で明らかに浮いている「ジャパニ・リキシャ」 リキシャは三輪自転車である。ペダルを漕ぎ、両手に持ったハンドルで曲がり、両手でブレーキをかける。三輪であること以外、構造的にはママチャリと変わらない。原理的に走り続けていないと倒れてしまう二輪車よりも安定した乗り物だと言えるのかもしれない。 きれいに舗装された道はまったく問題ないのである。誰でも簡単に乗ることができる。しかしひとたび荒れたガタガタ道に入った途端、リキシャの運転は難易度を増すのだ。 自転車に乗る人は、体の重心を移動させることでスムーズにカーブを曲がる。右に曲がりたければ体を右に倒す。そうすることで自転車は自然に自分の進みたい方向に向かう。ところがリキシャはこの重心移動がまったく効かないのである。 例えば左に大きなコブがあるとする。後輪の左側がそれに乗り上げると、リキシャは自動的に右に旋回する。それを体重移動ではなくてハンドルを左に切ることで対処しなくてはいけない。右に傾いた体重を右手をうまく使ってハンドルに伝えてやればいいのだが、この感覚を掴むまでが大変だった。 これは後になってわかったことだけど、試し乗りの場所としてダッカ旧市街はもっとも不適切な場所だったようだ。細くて狭くてデコボコだらけの道を、多くのリキシャやバイクが走り抜けていく。このような道をリキシャ初心者が走ろうしたのが、そもそもの間違いだったのだ。ボーゲンもできないスキーヤーが、いきなり上級者ゲレンデに連れてこられたようなものだったのである。 僕はギャラリーの視線に耐えながら、旧市街の路地を何度も往復した。ぬかるみがあり、ゴミためがあり、穴ぼこがあった。嫌がらせのように難関の続く道だった。しかししばらく練習するうちにコツが掴めてきた。頭と体の使い方を「自転車モード」から「リキシャモード」にシフトする、そのやり方がわかってきたのだ。 結果的にはこれで良かったのかもしれない。千尋の谷に突き落とされた獅子の子のように、しょっぱなから一番タフな条件で鍛えられた経験が、この後の旅で生かされることになったからだ。 ![]() ダッカの街はいつもリキシャで渋滞を起こしている リキシャが完成した翌日、ダッカの街を出発した。 6時に起床して、6時半に宿をチェックアウト。外はまだ真っ暗だ。朝霧が立ちこめていて、あまり視界が効かない。しかしダッカには街灯があるので、リキシャで走るのには困らない。 早朝に出発したのは、ダッカの致命的な渋滞を避けたかったからだ。その目論見は当たって、1時間あまりでダッカの街を抜け出すことができたのだが、本当に大変なのはここからだった。 ダッカから西へと延びる国道5号線は、バスやトラックがひっきりなしに走る交通量の多い道で、巻き上る砂埃と排気ガスでたちまち顔が真っ黒になってしまう。しかもどの車もすさまじいスピードを出していて、片側1車線の道で抜きつ抜かれつのチキンレースを展開しているのだ。リキシャの存在なんて誰も気にとめない。譲り合いの精神など皆無で、誰もが我先にとわずかな隙間めがけて追い越しをかけている。クレイジーな道路だった。 それにしてもバングラ人の運転はなぜこうも荒っぽいのか。「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」という標語があったけれど、バングラはその日本よりも遥かに狭い国(面積は日本の三分の一)なのだ。高い山があるわけでもなく、フラットで直線的な道が続く。 そういうところでいくらスピードを上げても、到着時間がさほど変わるわけではないはずである。なのにドライバーはひたすら急ぐ。これはもう本能的なものである。彼らはスリルとスピードを楽しんでいるのだ。サービス向上のためとか、他社との競争に打ち勝つためなどではなく、ただ単にアクセルを目一杯踏み込みたいだけなのだ。目の前に車があれば追い抜かずにはいられない性分なのだろう。 そういうことは鈴鹿サーキットとか箱根の峠道とかで個人的にやってくれればいいわけだが、バングラデシュにはもちろんサーキットはないし、個人で自動車を所有している人はほとんどいないので走り屋もいない。だから必然的に走り屋気質あるいはスピード狂の素質を持つ者たちは、みんなバスやトラックのドライバーになりたがり、道路はにわかレース場と化してしまうのである。 リキシャはこの仁義なきチキンレースにおける圧倒的な弱者である。バングラデシュにおける交通強者とは「ぶつかっても壊れない方」なのだ。がたいの大きな者、ボディーが丈夫な者が勝つ。弱肉強食。きわめてシンプルな論理だ。 というわけで我々リキシャは常にバスやトラックから派手なクラクションで「あっち行け!」と追い払われる存在である。背後からはもちろん、追い抜きをかけようとする対向車が僕の進路をふさぐ格好で飛び出してくることもある。アスファルトの外に逃げなければひき殺されてしまう。ルールもなにもあったものじゃない。無茶苦茶である。 ![]() 国道沿いに立つ看板には「Stop killing on the road」と書いてあった。その通りだと思う 「おい、リキシャにだってバスと同じように道路を通行する権利があるんだぞ!」 そんな正論を主張したところで、誰も聞く耳を持たない。バスの無謀な運転によってリキシャが破損したりケガを負ったとしても、バスはさっさと逃げるだけだ。常習的ひき逃げ犯。そういう話はあちこちで耳にする。とにかくタチが悪い。 リキシャ引きに必要なのは「忍耐」である。リキシャを漕ぎながら、僕はそのことを強く実感したのだった。 リキシャ引きは誰でもできる仕事として収入も低く、誰からも尊敬されない仕事である。そのうえ「職場」たる道路に出れば、バスやトラックから威嚇され、交通整理の警察官から罵倒され、ときには自家用車からわざとぶつけられることもある。それに黙って耐えるしかない。リキシャ引きとはそういう哀しい存在なのだ。 ![]() 完成したマイ・リキシャ。新しいリキシャにはいろんな飾りが付いていてきらびやかだ 初日は過酷な国道5号線をひた走ったので、心身共に疲れ切っていた。好奇心一杯に近づいてくるバングラ人たちに笑顔を向ける余裕はなかった。リキシャを止めて休んでいるときも「疲れているからほっといてくれオーラ」を出していた。しかしそんなことはお構いなしに近づいてくる人も中にはいた。 目的地であるマニクゴンジまで10キロを切ったところで一休みしているときにも、若いリキシャ引きが近づいてきた。ベンガル語で盛んに話しかけてくるのだが、僕にはほとんど理解できない。 「バングラ・ブッジャイナ(バングラ語わかりません)」 と言っても引き下がらないので、リキシャの後ろに付けた荷物ボックスを指さして、 「それを読んでくれよ」と言ってみた。 荷物ボックスにはベンガル語で『日本人によるリキシャの旅』と大きく書いてあるからだ。それを読んだら君の知りたいことはだいたいわかるからさ。ちょっと一人で休ませてくれよ。 ところが、そのリキシャ引きの若者はボックスの文字を目で追うと、困ったように首を傾げたのだった。 字が読めないのだ。 しまった、と思った。 僕よりもはるかに若い男の中にも、学校へも行かずに字も読めない人がいるという現実をすっかり忘れていた。この国の教育事情は一応知ってはいたが、今まで字が読めない若者と実際に話をしたことはなかったのだ。たぶん彼は小学校にも通わずに、リキシャ引きをして生活費を稼ぐ日々を送っていたのだろう。 僕は慌ててつたない片言のベンガル語で自己紹介を始めた。私は日本人です。ダッカからリキシャに乗ってマニクゴンジに行きます。 彼もようやく理解してくれたらしく、ああそうなのかと笑顔で頷いた。最後は握手をして別れた。それでも後味の悪さは消えなかった。リキシャ引きとは彼のような字の読めない人でもできるような仕事で、だから社会的な立場も道路の上での立場もひたすら弱いのだと改めて思い知らされた。 いくら疲れていても、リキシャ引きにだけは笑顔を向けなきゃいけない。 同じリキシャに乗る者として、それだけは忘れてはいけないと思った。
by butterfly-life
| 2009-12-27 20:09
| リキシャでバングラ一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 ![]() 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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