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リキシャアーティスト・アフメッドさんについて
 僕が乗るリキシャに絵を描いてくれたアフメッドさんは、リキシャアート界の第一人者だ。
 アフメッドさんが絵描きの道に進んだのは15歳の時。父親が事故に遭って歩けなくなったので、アフメッドさんも学校をやめて働かなければいけなくなったのだ。小さな頃から絵を描くのが大好きだったアフメッドさんを励ましてくれたのはお兄さんだった。「おまえには絵の才能があるから、その道に進め」と言ってくれた。

 アフメッドさんはまずリキシャ工房の親方についてリキシャの装飾を始めた。当時からリキシャは派手な乗り物だったが、とにかく目立つ装飾が求められるだけで、そこに芸術性を込める人はほとんどいなかった。アーティストではなく職人の世界だった。それは今でも基本的に変わっていない。
 一大ブームとなり、その後のリキシャアートの方向性を決定づけたのはシネマペインティングだった。要するに映画の看板をリキシャの装飾として描いたものだ。ヒーローとヒロイン、それに悪役の顔のアップが描かれる場合がほとんどで、派手ではあるが独創性に欠けるものが多い。今、バングラデシュを走っているリキシャの8割までがこうしたシネマペインティングを施されている。

 リキシャ工房の弟子として地道に働いていたアフメッドさんにチャンスをもたらしたのは、師匠が留守のあいだにやってきた依頼主だった。注文した品の出来上がりが遅いことに怒った依頼主をなだめるために、彼は師匠の力を借りず一人で絵を描いてみせた。その一件で彼の信用は高まり、独立に繋がったのである。



 リキシャの芸術性に最初に注目したのは外国人だった。キッチュなアートとしての評価が高まったのだ。アフメッドさんは独自の世界を描くリキシャアーティストとして各国のメディアに紹介され、注目を集めるようになった。1994年に福岡市美術館で大規模なリキシャアート展が開かれたときには、来日も果たしている。
 外国での評価の高まりと共に、アフメッドさんの元にリキシャアートを描いてほしいという依頼が舞い込むようになった。もちろんリキシャそのものを購入するのは大変だから、ブリキのプレートに描いた作品をお土産として持ち帰ったのである。
 もともと国内では見向きもされなかった庶民の娯楽が、外国人の目を通して「アート」に転じるという経緯は、日本の浮世絵がたどった歴史にも似ている。

 バングラデシュ国内でもリキシャアートを芸術として認知する人はいるが、実際に街を走るリキシャにアフメッドさんが絵付けをすることはない。リキシャには何よりも安価で丈夫なことが優先されるので、一枚の絵が2000タカ以上するアーティストに仕事を依頼するリキシャ主などどこにもいないのである。結局、ダッカの街を走るリキシャは、昔も今も定型的なデザインにとどまっている。

 アフメッドさん自身はアーティストを気取ってはいない。もちろん彼独自の世界観(動物を寓話的に描いた絵はそれが特に色濃くでている)はあるのだが、必要以上にそれにこだわることはなく、依頼主のリクエストには全面的に応じるという姿勢である。仕事ぶりは実に丁寧で、少しでも気に入らないところがあると、何度も塗り直しをする。仕事が立て込んでいると、徹夜をして仕上げてくれる。

「今日は働きすぎた。疲れたよ」
 注文した荷物ボックスを受け取りにいった当日、彼はうーんと背伸びをしながら言った。53歳にして徹夜は厳しかっただろう。お疲れ様。
 僕らは銀行に勤めている甥っ子のハッサンを通訳にして、お茶を飲みながら話をした。奥さんが台所から紅茶とビスケットを持ってきてくれた。奥さんの横顔はアフメッドさんの絵に登場する農家の女性にそっくりだった。奥さんをモデルにしたんだろうか。そう訊ねると、アフメッドさんは照れくさそうに笑った。イエスともノーとも答えなかった。

 アフメッドさん夫婦には子供はいない。テレビの上の写真立てには夫婦と子供二人が写っているのだが、二人ともすでにこの世にはいない。
「子供は三人生まれたんだ。でも全員が6歳になるまでに死んでしまった。生まれつき脳に異常があったようだ。三人目が死んだときに、医者に言われたよ。『子供を持つのは諦めなさい。四人目も同じ運命だよ』。だから子供は諦めたんだ」
 アフメッドさんは淡々とした口調で語り終えると、少し寂しそうに微笑んだ。


【写真:荷物ボックスに描いてもらった絵は、僕のこの写真がベースになっている。ベンガル語で「コチュリ」と呼ばれるホテイアオイの花が満開になった川で、子供たちが水遊びをしている場面だ】
by butterfly-life | 2010-02-24 11:28 | リキシャでバングラ一周


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