徳之島の亀徳港からフェリーに乗って沖永良部島に向かう。ちなみにフェリーでのリキシャの扱いは「自転車」である。原動機は付いていないし、法的にも自転車で間違いないのだけど、バイクよりもでかい図体ではあるので、自転車料金で運んでもらうことには若干気が引ける。
今日も風が強く、沖永良部島でもメイン・ポートの和泊港ではなく、サブの伊延港に到着した。船を下りて走り出すと、すぐにパトカーが追いかけてきた。 「ちょっとちょっと、これは何かねぇ」 制服姿の警察官が窓から顔を出して言った。のんびりした柔和な顔である。帽子を脱げばその辺のおっちゃんにしか見えない。きまじめな表情を崩さない都会の警官とは全然違う。 「これで日本を縦断しているんですよ」 「ほんとかねぇ。それはすごいねぇ」 警官のおじさんは感心してうなずいた。どうやら単なる好奇心から話しかけてきただけのようだ。しばらく立ち話をする。この沖永良部島は鹿児島県に属してはいるけれど文化的には琉球圏に入っていること、三線の音色が違うこと、徳之島の人は気性が荒いところがあるが沖永良部の人は穏やかな気質だということなどを教えてもらった。 これまで1ヶ月旅を続けてきたけれど、警察官と話をしたのはこれが初めてである。この島の警官はきっと暇なのだろう。みんなが顔見知りのような小さな島では、警察の介入が必要な問題がそうそう起きるとも思えない。 「凶悪事件っていうのは起きんけど、まぁ人と人だからもめ事は起こるわなぁ」 と平和な島の平和なポリスは言う。酒がらみの事件はあるようだ。酒を飲んで暴れたり、泥酔して路上で寝ていたり、飲酒運転をしたり。 ちなみに夕方にはまた別の警察官が話しかけてきた。やっぱり沖永良部の警官はすごく暇なようだ。 【サトウキビの収穫を行うハーベスト・マシーン】 島の北側をリキシャで走っていると、原付バイクに乗ったおじさんに呼び止められた。写真を撮らせてもらっても構わないかというので、どうぞどうぞと答える。おじさんは「和泊町歴史民俗資料館」の館長をしているという。昔稲作で用いていた道具などの民俗的資料を展示しているそうだ。 館長さんによれば、沖永良部島はユリの栽培で有名なのだそうだ。もともとユリはこの島に自生していたのだが、島民には利用価値のない野生の花として長いあいだ見向きもされていなかった。そのユリに目を付けたのはアイザック・バンティングというイギリス人商人だった。バンティングは珍しい植物を求めて世界各地を旅する「プラントハンター」で、特にイースターやクリスマスなどの祝い事には欠かせない花であるユリを探していた。彼が沖永良部島に上陸したのは1889年のこと。船が難破して偶然漂着した。 島に流れ着いたバンティングは島民と協力して野生のユリの栽培し、球根の形で欧米へ輸出し始めた。自給自足的な生活を送っていた島民にとって初めての商品作物であるユリの栽培は大成功を収め、島はユリ景気に沸いたそうだ。「ビールで足を洗える」ほど儲けたという逸話も残っている。もちろん「ハンター」のバンティング氏も大儲けしたことだろう。命がけの航海に末にたどり着いた南の島で、黄金のユリを見つける。夢のある時代の夢のある話だ。 【ユリ畑でつぼみを手で摘み取る】 沖永良部島では今でもユリの栽培が盛んである。ただし園芸大国オランダ産の球根の台頭などによってかつてのような輝きは失われている。今では球根栽培からビニールハウスを使った切り花の栽培に切り替える農家も多くなった。 ユリ畑で農作業をしているおばさん曰く「球根はひとつ25円、切り花だとひと株100円」で売れるそうだ。球根の栽培には膨らんできたつぼみを手で摘み取る作業が欠かせない。花に栄養が行くと、そのぶん球根が痩せてしまうからだ。 【今年はじゃがいもがあまり大きくならんかったんよ、というおばあさん】 沖永良部は「はたらきものの島」である。ユリ畑をはじめとして、サトウキビ畑、じゃがいも畑など、小さな島のそこかしこで働く人の姿を見る。特にお年寄りの姿が多い。80を超えてもまだまだ現役で働いている人もいる。家にいるのは本当の病人だけだという。 そら豆の収穫をしているおじいさんは昨日満79歳になったばかりだと言った。さやが黒くなったそら豆はそのまま食べるわけにはいかないが、水に浸してから煮ると小豆の代わりにあんことしても使えるほど甘くなるという。そら豆畑は狭いけれど一人で収穫するには三日かかる。おじいさんは子供の頃に事故で右手を失い、数年前から右足が不自由になり、最近は左目が見えなくなってしまったからだ。畑に座り込んで左手一本で器用に収穫していく。 「わしはずっと左手だけで生きてきたけどな、不自由に思ったことは一度もない。むかし鉄工所で働いていたときも、わし以外のもんはみんな首切られたけども、わしは工場に残ることができたんよ。努力すればなんでもできるよ」 彼は左手一本で何でも作る。収穫したそら豆を入れるための「テル」という竹かごを作ったのも自分だし、竹ぼうきも作っている。トラクターの免許だって持っている。 とてもいい表情だった。その顔には「年輪」という言葉がふさわしい深いしわが刻み込まれていた。 この顔を残したいと思った。強く願った。 その願いが通じたのか、おじいさんはカメラの前で少し照れながら笑顔を向けてくれた。 【事故で右手を失ったおじさん】 沖永良部島北部で出会った東さんも85歳の「はたらきもの」だった。耳が遠くて補聴器なしでは目の前の人の言葉も聞き取れないが、今でも畑に出て働いたり、牛の世話をしたりしている。ずっと農業をしていた東さんが畜産に切り替えたのは10年ほど前。1頭だけだった牛を60頭にまで増やした。 「戦時中は航空部隊に配属されて千葉県におったんよ。戦争が終わって島に帰ってくるのも大変でなぁ。鹿児島には何とかたどり着いたけど、そこから船が出ていない。船はあるけど燃料がなくて島に渡れない。基地の防空壕のなかで2ヶ月寝泊まりしたよ。闇船っていうのでやっと帰ることができてなぁ」 東さんは牛にエサをやりながら、60年以上前の苦労話をした。食うや食わずだった戦中戦後を思えば、今は本当に幸せだと言う。 「ここは農業の島やから、みんな食べるためによー働くよ。働かんと生きていけんからな。口に使われとるようなもんよ」 農家に定年はない。 働くことの喜びにも年齢制限はない。 80を超えても働ける場所があるというのは、やはり幸せなことだと思う。 *********************************************** 本日の走行距離:38.1km (総計:1074.0km) 本日の「5円タクシー」の収益:510円 (総計:22035円) ***********************************************
by butterfly-life
| 2010-04-03 08:23
| リキシャで日本一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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