リキシャを「5円タクシー」と名付けたものの、これを実際のタクシーとして利用する人は稀だ。やたら目立つから恥ずかしいし、そもそも田舎ではほとんどの人が自家用車を持っているので、わざわざリキシャで移動する必要がないのである。
しかし水俣市内で出会った上村さんは違っていた。彼女は「5円タクシー」の登場に目を輝かせて、ぜひ乗せくれと言った。 「あんた、これでどこまで行けるの?」 「どこまででもいいですよ」 「それだったら病院に用事があるから行ってもらえんかね。入院しているうちの母に洗濯物を届けようと思ってたところなんよ」 上村さんは自宅から洗濯物を抱えて戻ってくると、「じゃ、お願いねぇ」と言ってリキシャに乗り込んだ。かなり強引かつマイペースなおばさんである。自分でも「誰にでも声を掛けるから、すぐに仲良くなるんよー」と言っていたが、その通りだと思う。 病院にはものの5分で到着した。上村さんが「あんたも見舞いにこんかね」と言うので、なぜか僕も病室にうかがうことになった。上村さんのお母さんは93歳で、下半身が動かないので車椅子生活を余儀なくされている。水俣病で足の神経が侵されているのと、高齢とが重なった結果だという。しかしそれ以外は元気そうだ。血色だって悪くないし、ボケてもいない。僕が外国の人力車に乗って旅をしているのだと説明すると、すぐに事情を理解してくれた。 ![]() 「水俣はええところよ」と上村さんは言う。「季候もええし、食べ物も美味しいし、温泉もある。単身赴任で来る人なんか、最初は『水俣』という名前に抵抗があるんやけど、帰る頃には必ず『また来たい』って言ってくれるんよ」 水俣といえば水俣病。その強い負のイメージは公害発生から40年以上、裁判終結から20年以上が経った今でも変わっていない。「ミナマタ」は企業が引き起こした公害の象徴的存在であり、現代史に欠かすことのできない名前になっているからだ。 「水俣の人もいろいろよ」と上村さんは言う。「もちろん今でもチッソを恨んでいる人はたくさんいる。後遺症に苦しんでいる人も多いのよ。でも私はいつまでも過去にこだわるよりも、前を向いてこれからの人生を楽しむことが大事やと思ってる」 水俣病を引き起こした化学メーカー「チッソ」は、今でも水俣市の中心部に大きな工場を構えている。水俣病訴訟以降のチッソは優良な化学メーカーとして毎年黒字を出し、水俣市の税収にも大きく貢献しているという。チッソの社員はみんな優秀で入りたくてもなかなか入れないのよ、と上村さんは言う。 水俣では加害者と被害者の共存関係が続いている。外から来た人間には違和感を覚える光景だ。しかし会社として利益を出して被害者に償いをするのがチッソの社会的責任なのだとしたら、違和感を感じる方がおかしいのかもしれない。 上村さんはいろんなものを差し入れに持たせてくれた。おせんべい、飴、レモン、ケーキ、去年のクリスマスの売れ残りだというサンタのチョコ。小さな駄菓子屋が開けるんじゃないかと思うほどたくさんの食べ物をいただいた。 よく喋ること、よく笑うこと、マイペースなこと。旅先で出会う親切なおばさんの共通点である。よく考えてみれば、これは日本に限らず世界中どこでも同じかもしれない。 車の往来が激しい3号線沿いをリキシャを引っ張りながら歩いているときに、89歳の六反田さんと出会った。腰も曲がっていないし、足取りも軽やかで、10歳以上若く見えた。この健康で穏和なおじいさんが実は波瀾万丈の一代記を秘めていたと知るのは、お家で昼ご飯をご馳走になった後だった。 「終戦当時、あたしは満州のハルピンにおったんよ。陸軍の士官としてロシア語を学んで、スパイのようなことをやらされとったわけよ。だから関東軍の参謀たちがどんなひどいことをやっていたかも全部知っとるよ。日本が戦争に負けて、ソ連軍が満州に攻め込んできて、シベリアに送られたんよ。日本に帰ってこられたんは終戦から5年後やった。これでも早く戻れたほうなんよ。なにしろ陸軍でも一番厄介な任務についとったわけやから。シベリアで抑留された1100人のうち、生きて日本に帰ったのは600人よ」 「生死を分けたのは何だったんですか?」 「やっぱりそれは体力的なもんよ。あたしは25歳でまだ若かったから耐えられた。そりゃ冬は寒いし、労働も厳しかったよ。炭鉱にも行ったし、自動車修理もやらされた。他の士官はみんな年上じゃったから、耐えられずに死んでいった」 何とか生きて日本に戻ってきた六反田さんを待っていたのはレッドパージだった。彼自身は共産主義とは何の関わりもなかったのだが、ロシア語を話し、ソ連に5年間抑留されていたという事実が問題視され、公職に就くことができなかったのだ。仕方なく実家の農業を手伝いながら暮らす日々が続いた。 その後、六反田さんは農地を売って得た資金で商売を始めた。鳥の餌を売る店を開き、やがて惣菜を売る店を始めた。これが当たった。チェーン店は12店舗まで増え、110人の従業員を抱えるまでに成長した。京都や大阪の料亭に通って味を覚え、オリジナルのメニューを次々と増やした。一時は「九州でもっとも成功した仕出し屋」と言われるまでになった。 それが暗転するのは2001年。九州最大手のスーパー「寿屋」が倒産したときだった。当時六反田さんの店はこの寿屋とのテナント契約に大きく依存していたので、スーパーの倒産をきっかけに急速に資金繰りが悪化し、共倒れの憂き目を見ることになったのだ。 「借金がずいぶんあったし、従業員の給料も払わんといかんかったから、自宅も土地も全部売り払ったんよ。それでも財産の整理には4年かかったかなぁ。年金まで担保にして銀行から金を借りて、何とか未払いの給料は全部渡したよ。ご先祖からいただいた土地を売って商売をはじめたけど、結局何も残らんかった」 今、六反田さん夫婦が住んでいるのは、ご自身が「あばら屋」と呼ぶ質素な木造住宅だ。表の3号線を大型トラックが通るたびに、振動で家が小刻みに揺れる。100人以上の従業員を抱えていた社長の生活を想像させるものは何もない。年金に頼った慎ましい暮らしぶりだ。 ![]() 【89歳とは思えないほど若々しい六反田さん】 「商売はしくじったけど、ひとつも悔いはないね」と六反田さんは断言する。「自分の好きなことをやってきたんだから悔いはない。会社は倒産したけど、借金の整理も終わって、誰にも迷惑をかけることはなかったからね」 この言葉は決して強がりから出たものではない。何かを包み込むような六反田さんの笑顔を見ていると、この人が心の底から人生に満足していることがわかる。 「やっぱり若いときに苦労したからじゃろうね。シベリアでの5年間もそうだし、商売を始めたときも苦労した。それがあるから、どんなことが起きても暗い顔はせんじゃった。社長が暗い顔している会社はダメじゃろうからね」 奥さんが4年前に脳溢血で倒れてからは、六反田さんが一人で介護をしている。90歳で誰かを介護をするのは大変だけれど、奥さんには苦労ばかりかけてきたから今はできるだけ大事にしてやりたいという。家事も自分でやる。今日も炊き込みご飯をたくさん作って「やもめ」の友達に配ってきたばかりだ。 「これまでの人生を振り返って、幸せでしたか?」 「いやー、ほんとに幸せやったんは新婚時代の3年ぐらいかね。あとは苦労ばっかりじゃったからね」 「でも今も幸せそうに見えますよ」 「そうかのぉ。そうかもしれんなぁ」 と六反田さんは笑った。 ![]() ![]() 【港で出会った女の子たち。キックボードでリキシャを追い抜いていった。やるね】 水俣市から八代市を結ぶ国道3号線は坂道の連続だった。片側一車線しかない細い道なのに交通量が多く、大型トレーラーやタンクローリーにどんどん追い抜かれていく。リキシャには向かない道だった。 一番の難所は「赤松太郎峠」と呼ばれる峠道で、ここの勾配はかなり急だったが、これまでとうってかわって交通量が激減したので精神的には楽だった。最近すぐ横に自動車道の無料区間が新しく開通し、ほとんどの車はそちらに流れているのだ。 新しい自動車道の開通は3号線沿いの地域に決定的な影響を及ぼしている。人と物の流れが途絶えたので、沿道のレストランや土産物屋は軒並み閉店に追い込まれているのだ。完全に廃墟と化したビジネスホテルもあった。かつての甲子園のように壁一面にツタが絡まり、背後の森と一体化したその様子は、中世の古城のような趣さえ感じられた。 しばらく前に「廃墟ブーム」が起こったときには、見捨てられ朽ちていく建物につかの間のスポットライトが当たったが、こういう建物を目にすると、廃墟を追いかけたくなるマニアの気持ちもわかるのである。 ![]() 日奈久という町を通過する。ここは600年の伝統を誇る古い温泉街。しかし、かつての賑わいはすっかりなりを潜めているという。商店街にもシャッターを下ろすところが増え、訪れる温泉客も大きく減った。 「ただの温泉というのではお客さんは呼べない時代なんやろうね」とお米屋の奥さんはこぼす。「健康ランドみたいな複合施設やないとなかなか来ない。昔のように何ヶ月も湯治に来るいう人はおらんのよ」 このお米屋も4,5年のうちには閉めるという。リーマンショック後の不況の影響は、今年あたりからじわじわと田舎にも浸透してきて、米や肥料の売れ行きが悪くなっている。これから過疎化がもっと進むのではなかと奥さんは心配している。 ![]() 【日奈久にある魚屋のおかみさん。お刺身をご馳走になった】 「これおいしいから持って行きなさい」 と奥さんから渡されたのは八代地方特産の「晩白柚(ばんぺいゆ)」という果物だった。ザボンの一種で、とにかくデカいのが特徴。小玉スイカぐらいの大きさと重さがある。こんな巨大なミカンは初めて見た。 鹿児島でも熊本でもよくミカンをもらった。デコポンにはじまり、不知火という小ぶりのデコポンや、ボンタンなど。並べてみると太陽系の惑星のようで面白い。ボンタンが土星なら、晩白柚は木星だろうか。 さっそく晩白柚を食べてみたのだが、(奥さんには申し訳ないのだが)味の方はいまいちだった。グレープフルーツを薄くしたような味。甘さも酸っぱさも香りも、全てが薄まっていて個性がない。果物でも野菜でもあまり大きすぎるものはダメなのだろうか。それともシーズンを過ぎていたからなのだろうか。食べ応えだけは十分にあって、半分も食べるとお腹が一杯になってくるのだった。 ![]() 【左から、不知火、デコポン、ボンタン、晩白柚。見事な「惑星直列」の完成である】 *********************************************** 本日の走行距離:56.4km (総計:1596.4km) 本日の「5円タクシー」の収益:815円 (総計:24915円) ***********************************************
by butterfly-life
| 2010-04-30 23:38
| リキシャで日本一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 ![]() 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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