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63日目:回天の島(山口県大津島)
 防府市を出発して国道2号線を走り、徳山へ向かう。
 徳山の港から大津島に行くフェリーが出ている。この島に行ってみようと思い立ったのは、例によって今朝のことだった。
 鹿児島、沖縄では数多くの離島を訪れた。それぞれに個性があって「離島は面白い」という確信を得たのだけど、島巡りばかりやり過ぎて「離島疲れ」に陥っていたところもあった。だから九州を北上していたときは脇目もふらずひたすらリキシャを走らせてきたわけだが、そろそろまた島に行ってみたいなと思うようになったのである。そんなときにちょうど大津島があったわけだ。

 フェリーに乗っている時間は45分ほど。フェリーはまず刈尾という集落に寄り、そのあと馬島という集落に向かう。空は気持ちよく晴れ上がっていて、海も素晴らしく青い。
 船を下りてすぐに「回天記念館」に向かう。「回天」とは太平洋戦争末期に新兵器として開発された人間魚雷のこと。兵士一人が乗り込み、相手の軍艦に突撃する特攻兵器だ。大津島はこの「回天」の訓練基地があった島なのである。

 満開のツツジを眺めながら細い坂道を登っていくと、丘の上に建つ記念館が見えてくる。入り口の横には回天の実物大模型が置かれている。直径1メートル、全長15メートル。「魚雷」というからにはもっと小さなものを想像していたのだが、実物の印象はミニ潜水艦である。


【記念会の前に置かれた回天の実物大模型】

 回天記念館に展示されているのは、隊員の遺品や遺書や遺影など。休日を除けば訪れる人もまばらなようで、僕が入館したときは他に誰も見学者はいなかった。しんと静まりかえった館内で、65年前の遺品と向かい合う。
 回天特別攻撃隊に志願した兵士は1375人にも及んだ。大多数は20歳前後の予備学生、予科練習生だった。回天はその存在自体が軍事機密だったから、募集に応じた若者たちもどういう性質の兵器なのかはまったく知らなかったという。「敵軍から家族を守りたい」という純粋な気持ち、「自分が戦局を変えてやるのだ」というプライドが、彼らを正体のわからない軍事作戦に志願させる動機になった。

 集まった志願兵たちはこの島の基地で操縦訓練を受けた。しかし「魚雷を操縦する」というのは過去に誰もやったことがなかったので、もちろん操縦法は確立されておらず、自分たちで試行錯誤しながら技術を磨かなければいけなかった。
「出撃命令を受けた夜は食べ物が美味しく感じられました」と生き残った隊員は語っている。「これで自分も楽に死ねるのだと思うと、死の恐怖がなくなり、とても平穏な気持ちになったのです」
 1944年11月8日に初陣を飾った回天による特攻作戦は、開始当初は一定の戦果を上げることができたものの、次第に敵軍の警戒が厳しくなり、作戦の変更を余儀なくされた。終戦まで回天による戦没者は搭乗員と整備員などを合わせて145名にのぼった。


【大津島にある回天の訓練基地跡】

 展示品の中には、26歳で戦死した回天隊員が出撃直前に書いた妻宛ての手紙があった。
<昭和十九年十月、既ニ死ヲ決ス。思イノコスコトモナシ。遺品ヲ整理シ、最愛ノ妻ニ送ル。まりゑヨ、強ク生キヨ。今後ノ一生ハ、汝ノ意志ノママナリ。他ニトツグモヨシ、独身デクラスモヨシ。
 タダ汝ハ、私ノ永久ノ妻ナリ。二世ヲチギリシ妻ナリ。コノ世ニオイテタトエ他人ノ妻タルノ名ヲ仮セラレヨウトモ、余ノ妻タルニカワリハナイ。極楽ニテ待ッテイル。
 子ノナキハ、クレグレモ残念ナリ。楠氏ニ小楠公アリ。我ニ小佐藤ナキハ、クレグレモ残念ナリ。一子ヲモライ受ケ、余ノ遺志ヲツガシムルモヨシ。マタ他ニトツギ、一子ヲアゲテ余ノ志ヲツガシムルモ良シ。タダ他ノ男ノモテアソビトナル勿レ。
 モシ遺品ガジャマニナルコトアレバ、山形ニ送レ。ソレマデハ、遺品ヲマモリ生キラレヨ。>

 痛切な手紙だった。様々な感情がこみ上げてきて、しばらくその場を離れることができなかった。
 国家を前にした個人の無力さや、死を覚悟した者の痛々しくも澄み切った心持ちや、自分の命を捨てて自爆攻撃を試みる敵を前にした米兵の恐怖が、この手紙の行間からありありと立ち上がってきた。
 極楽ニテ待ッテイル。


【魚雷運搬用のトンネル】

 現在、市の教育委員会が管理している回天記念館は、展示をこのように結んでいる。
<太平洋戦争後、世界は平和への道を歩み始めた。しかし、世界には今もなお、たくさんの問題が残されている。祖国や愛する者たちを思い、懸命に生きた若者たち。その若者たちが自らの命をかけて私達に贈ろうとした「平和」。今を生きる私たちは、地球上に起きる様々な問題について一人ひとりが考えて行動するとともに、平和への努力を続けてゆかなければならない>
 パネルの前で首をひねってしまった。この文章を書いた人がいったい何を言いたいのかわからなかったのだ。ひとつひとつの文は至極まっとうなのだが、その繋がりが不自然なのだ。

 回天特攻隊員は命がけで家族や故郷や国を守ろうとした。その気持ちの純粋さには僕も強く心を揺さぶられた。遺書を読んだ後には、胸に熱いものがこみ上げてきた。しかし彼らの行動は、今の日本の平和の礎とはなっていない。隊員たちの強い志は、米軍の圧倒的な物量の前にくじかれ、日本は惨めな敗北を喫し、その後に米国主導の平和と復興が訪れた。僕らは歴史的事実としてそのことを知っている。
 兵士一人一人の生き様の潔さと切なさ、それがもたらした結果の惨めさ。そこには大きな断層が横たわっている。特攻隊員たちの死は、今の日本の平和と繁栄に結びついてはいない。そのことに僕はある種の違和感と居心地の悪さを感じる。けれどもその違和感は、違和感のままに受け止めていくほか無いものだ。安易な落としどころはない。僕にできることは、20歳そこそこで死んでいった若者たちの姿を違和感ごと記憶することだ。記憶し続けることだ。



 回天記念館を後にして、リキシャで大津島を回った。大津島は南北10キロ足らずの小さな島なので、リキシャで回るのにさほど時間はかからない。
 猫と老人の多い島。それが第一印象だった。堤防、船の上、庭先、屋根の上などなど、いたるところに猫が寝そべっていた。人をまったく怖がらないのは、島民が猫を邪険にしていないからなのだろう。見たところちゃんとした飼い猫ではなくて半野良化した猫のようだが、島民から残飯をもらえるのか、あるいは自分で餌を見つけてくるのか、ともかく猫たちは飢えることもなく、のんびりと猫ライフを満喫しているように見えた。



 島の高齢化はもう止めようがないレベルまで進んでいる。港で出会った市の職員によれば、この島では65歳以上の人口がなんと7割にも達しているという。老人の島と言ってもいい。これといった産業もなく、雇用もないから、若い人はみんな勤め口を求めて島の外に出て行ってしまう。馬島の港でランドセルを背負った小学生に出会ったのだが、島の小学校に一年生と二年生はおらず、三年生は彼女一人という状態だった。子育てをする世代がごっそり島から抜けてしまっているのだ。
「この集落も次々と人がおらんようになってしまったなぁ」
 竹ぼうきを持って道の掃除をしていたおじいさんが言う。彼自身も81歳と高齢だが、まだ元気な方だという。
「この島はばあさんばっかりなってしもうた。夫婦はだいたいが男の方が先に死ぬじゃろう。残されたばあさんたちも次々に死んでいく。うちの隣も誰も住んでないし、その隣も同じじゃ」
 大津島では雨戸を下ろしたままの無人の家をよく見かける。屋根瓦が抜け落ち、壁がはがれ、廃墟と化している家屋もあった。最後の家人が亡くなった後、そのまま放置されているのだろう。
「年寄りの歯が抜けるみたいにな、次から次に人がおらんようになっていく」



 その昔、島の人口が1000人を超えていた時代もあったというが、今では400人ほどに減っている。主な産業は漁業と石材の切り出しだったが、どちらも今ではすっかり衰退している。現役の漁師はもう数えるほどしかいないし、石材会社も廃業して15年になる。島で採れる御影石はかつて大阪城の石垣にも使われていたほど有名だったようだが、採算が合わなくなってしまったのだ。道ばたには、切り出したものの出荷されることなく置き去りにされた巨大な白い石の柱が、まるでストーンヘンジのようにそのまま残されていた。


【島で唯一の小学三年生。下級生はいない】

 島のおばあさんは気さくで親切だった。
「自転車を漕ぐんは体力がいるじゃろうから、菓子でも分けてやろうかね」
 そう言って、まんじゅう、どら焼き、カステラ、オロナミンCなどをビニール袋に入れて渡してくれた。なかなか渋いチョイスだ。どうもありがとうございます。
「住むにはええところよ」とおばあさんは言った。「島には犯罪もないし、交通事故もない。『住めば都』って言葉があるじゃろう。まぁあれじゃのぉ、ここは都みたいなもんじゃないけどな」

 午後6時5分発の最終フェリーに乗って、大津島を後にした。
 青い海に浮かぶ緑の島。美しいが哀しい気持ちにもさせられる島だった。


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本日の走行距離:43.4km (総計:2040.8km)
本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:32315円)

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by butterfly-life | 2010-05-10 21:59 | リキシャで日本一周


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