呉市を出発して仁方港に向かう。ここから橋で結ばれた瀬戸内海の島々を通りながら東へと進むというのが今日のルートだ。
仁方に行く途中で、チャリダー(自転車旅行者)に追い抜かれた。神奈川県出身の石川さん。タフなツーリング用自転車の前後左右に荷物を積んだ「日本一周チャリダー」である。10ヶ月前に神奈川を出発し、北海道まで行ってから南下し、4ヶ月間沖縄で越冬し、ただいまゴールに向けて北上中だそうだ。お互いの健闘を祈りつつ握手して別れた。ひょっとしたらまたどこかで会うことになるかもしれない。 安芸灘大橋を渡って下蒲刈島に渡る。全長1175mもあるこの橋の上は有料道路だが、自転車は無料だった。 橋の上からは海上に突き出すような場所に建てられたビルが見えた。築20年以上は経っていそうな古いマンションである。ほぼ360度海が見渡せるという絶好のロケーションながら、それを売りにしたおしゃれなリゾートマンションという風情ではない。壁面もコンクリートむき出しで、手すりも一部さび付いている。囚人が逃げ出さないように離島に建てられた刑務所のようにも見える。それにしてもこんなに海に接近した住宅というのも珍しい。海好きにはたまらない贅沢な環境だ。天気が荒れたら大変そうだけど。 下蒲刈の港町は親しかった。最初に声を掛けてきたのは制服姿のおまわりさん。珍しい乗り物の登場に興味津々という様子で、開口一番「写真撮ってもええ?」と言ってきた。不審者の身元照合の意味合いがあるのかどうかはともかく、おまわりさんはリキシャの写真を何枚かデジカメに収めると、警察手帳の中から名刺を一枚取り出して僕に渡した。「広島県警 松山警部補」。警察官から名刺をもらうのは生まれて初めての経験だったのでちょっと嬉しかった。 「まぁこの島では凶悪犯罪というのは起こりませんよ。でも傷害事件なら起こることがあります。殴ったり蹴ったり、喧嘩ですな」 松山警部補はつい先日NHKの番組に出演したらしい。「鶴瓶の家族に乾杯」という番組のロケにやってきた鶴瓶さんと小池栄子さんを島の各地に案内したのだそうだ。そのおかげで地元でにわか有名人になっているのは言うまでもない。 警部補と別れてしばらく行くと、今度は漁協の組合長さんが声を掛けてきた。そこで立ち話をしていると、ミカン農家の親父さんがトラックでやってきて、「これもってけ」と大きな甘夏を三つもくれた。するとすぐそばのお好み焼きやのおかみさんが「兄ちゃん、これやるからお昼に食べぇ」とパック入りの焼きうどんを持たせてくれた。 島は人と人との距離が近い。みんなが顔見知りで、お互いに声を掛け合いながら暮らしているから、妙な旅人が来たらその噂が瞬く間に広がるのだ。 ちなみに焼きうどんは広島風(?)のソース味で卵入り。すごく美味しかった。コンビニやスーパーはなくても、お好み焼き屋ならどの集落にもあるというのが広島らしいところだ。 本日二本目の橋「蒲刈大橋」を渡って上蒲刈島へ。漁業とミカン農業が盛んな島だ。急斜面の上の方までミカンの木が植えられているのが見える。 港では年配の漁師さんが船の手入れをしていた。強化プラスチック製の一人乗りのボート。船名は「若吉丸」。これでタイやアジの一本釣りをしていたという。 「でも漁師は1ヶ月前で引退したんじゃ。もう30年も漁師をやっとったけど、わしも70やけぇ若い時みたいに体力がなくなってきよったからの」 おじさんは若吉丸の船底に赤いペンキを塗る作業をしていた。これを塗らないと船底に牡蠣やアオサが付着し、船のスピードが鈍ってくるという。硬い牡蠣の貝殻は船底に傷をつける厄介者なのだそうだ。 「だから半年にいっぺんはこうして掃除をしてやらないかん。そりゃこの船はずっと乗ってきたから愛着はある。でも船はただ持っとるだけでも維持費がかかるけぇ、早よう売ってしまいたいんじゃ。けど、なかなか買う人もおらんでな。60万出して買いよったこの船が、6,7万でしか売れんちゅう。エンジンだってまだちゃんと動くんよ。最低でも10万ぐらいは出してもらわんと、この船にも気の毒じゃろうが」 彼が漁師引退を決意したのは、ここ数年不漁が続いているからでもある。乱獲と環境の変化で、特に今年に入ってからはめっきり魚が減ってしまった。 「若吉丸って名前は、親父が乗っとった船からもらったんじゃ。親父も漁師だったけぇ」 彼はペンキを手にしたまま、しばらく船を見つめる。 「あんた、その自転車には名前はあるんか?」 「いや、特には決めてないですね」 リキシャに名前はない。リキシャはリキシャであり、そこに固有の名前を付けるという発想そのものが僕にはなかった。 「名前は大事じゃよ。考えたらええ」 「そうですね」 船には名前がある。必ずある。そしてその名前は必ず船腹に目立つように書かれている。そういう乗り物は他にはない。 この漁師のおじさんは本心では「若吉丸」を売りたくないんじゃないか。なんとなくそんな気がした。だから引退した後もこうやって船の手入れをしているのではないか。 とびしま海道の各島では、三輪車に乗ったおばあさんとよくすれ違った。後ろに買い物かごを積んだ「ミニリキシャ」である。もちろん他の町でもお年寄り向け三輪車を見ることはあるのだが、瀬戸内の島々にはとりわけ多かった。島の中は交通量が少ないので、おばあさんでも安全に走れるからなのだろう。 長年ミカン農家をしているおばあさんも三輪車に乗っている。でも外に出てくる年寄りは以前より減ったと嘆く。 「足が動かんようになったらダメじゃけ。家にずっとおるか、老人ホームに行くしかないじゃろう。私は88になったけど、まだ畑をやりよる。病気もしとらんし、足もちゃんと動く。ここはええ島じゃよ。いろんなところに旅行に行ったけどな、ここよりもええところはなかった。空気がおいしいし、海もきれいじゃし。鹿児島に行ったときも、海に浮かぶ島がきれいじゃって言っとったけど、ほなもんここで毎日見とるがな」 確かに美しい海だ。南国の珊瑚礁の海のように明るくビビッドなブルーではないが、深みと透明感を兼ね備えた海だ。穏やかな水面と点在する小島の緑とが相まって、他にはない瀬戸内独特の景観を作りだしている。 「あと何ヶ月かしたら、ここらはミカンの花の匂いに包まれるよ。そりゃあええ匂いでなぁ、家ん中にいてもぷーんと匂ってくるんじゃ」 上蒲刈島と豊島を結ぶ「豊島大橋」は2008年に完成した新しい吊り橋だ。この橋は海面からの高さが50mもあるので、橋の上からの眺めが特に素晴らしかった。空と雲と海、ぽつぽつと浮かぶ無人島が一望にできる。リキシャを立ち漕ぎすると目線が高い位置にくるので、視界を遮るものがなく、まるで空中をふわふわと進んでいるような浮遊感が味わえた。瀬戸内を空中散歩する贅沢。 豊島の漁港では「はえ縄漁」の準備をしている漁師に出会った。 はえ縄漁というのは1本の幹縄に多数の枝縄(はえ縄)をつけ、枝縄の先につけた釣り針で獲物を釣り上げる漁法である。この海ではアナゴ漁が盛んなのだそうだ。出漁は週に一度、潮の流れが速いときには魚がかからないので、それ以上頻繁に出ることはない。夕方の5時にはえ縄の仕掛けを設置して、午後10時頃から縄を引き始める。一晩の水揚げは100キロから150キロほど。アナゴはキロあたり1000円ほどで取引されるという。 「アナゴは親指ぐらいの太さのが一番うまいんじゃ。太すぎると味が落ちる。新鮮なんは刺身にもしよるよ」 今日のように漁に出ない日は、はえ縄の手入れをする。岩などに引っかかって傷付いた縄を一本一本丁寧に直していく。ずいぶん根気と手間のいる仕事である。漁師というのは豪快な男の仕事というイメージもあるが、実際には準備にかかる時間の方が長かったりする。縄を直したり、網を繕ったり、船底を掃除したり。漁師には漁以外にやることがいろいろとあるようだ。 【はえ縄の修繕には足の裏を使う。手だけを使うよりもはるかに効率が良いのだそうだ】 夕方の漁港には井戸端会議にいそしむおばさんや、民家の一角で将棋を指すおじさん、買い物カートを押して歩くおばあさんや、犬を連れて散歩するおじいさんなど、多くの人が集まっていた。天気が良くて穏やかな一日の終わりをこうしてみんなで分かち合っているのだ。 僕が東京からリキシャを持ってきたと知ると、 「あんた江戸から来たんか?」と言うおじいさんもいた。 「そうです。江戸です」と僕は答えた。っていつの時代だよ。 「はぁ長生きはしてみるもんじゃなぁ。こんなもんが豊島にやってくるとは」 ええ、もう二度とリキシャがこの島にやってくることはないと思います。たぶん。 豊島からまたまた橋を渡り、大崎下島へ。大長の港まで行き、ここからフェリーで大崎上島に渡る。この二島のあいだにも橋を架ける計画はあるのだが、まだ着工の目処すら立っていないところを見ると、実現はずいぶん先のことになりそうだ。 15分の船旅の後に明石港に到着。本日はこの大崎上島の民宿に泊まることにする。ファミリーペンション魚実。目の前に瀬戸内の海と島々が広がる眺めの良い宿だ。しかしオフシーズンの平日で誰も泊まり客がいないらしく、インターフォンを押しても何の反応もなかった。一応ガイドマップに載っていた携帯番号に電話してみると、宿のご主人が出て、「15分で戻りますけ、待っといてくれますか」と言った。 玄関横のバーベキュースペースでもらった甘夏を食べながら待っていると、ご主人が車で到着。開口一番「何ですかこりゃ?」とリキシャを見て驚きの声を上げた。リキシャという乗り物なんですよ、これは。 今日は誰も予約客がいないので食事の準備はできないが、素泊まりならいいよ、とご主人は言う。1泊4200円。もちろんそれで構わないのだが、食料の調達はどこですればいいのだろうか。 「買い出しに行くんやったら、この車を使うたらええよ」 ご主人はそう言って運転してきたワンボックスカーの鍵を渡してくれた。おー、何とアバウトな。 「スーパーはここから山ひとつ越えたところまで行かんとないですから。私は今から部屋の準備や風呂の支度をせにゃいかんから。免許は持っとるんでしょう?」 「はぁ、一応は」 と言ってみたものの、最近はまったく運転をしていない半ペーパードライバーの私なのであった。しかもワンボックスカーの運転は初めて。おいおい、そんなんで大丈夫なのか、と自問するも、とにかく腹が減っているので行かないわけにはいかない。 結果的には何とかスーパーまで辿り着き、夕食と翌日の朝食を調達することはできた。でも、二台の車がすれ違えないような細い道や、くねくねと曲がった山道の連続におっかなびっくりのドライブだった。リキシャの運転とはまた違った部分の神経をすり減らしてしまった。こういう道では絶対に軽自動車の方がいいと思う。 ぐったりと疲れて宿に戻ってくると、ご主人が「シカの肉食べる?」と言って木炭のように真っ黒な棒を持ってきた。山で捕れたシカ肉の燻製だという。見た目はあんまりだったが、包丁でスライスして食べてみると、意外にうまかった。燻製してあるので野獣の臭みが消え、ビーフジャーキーみたいな味になっていた。 ご主人によれば、大崎上島の木江はその昔「潮待ち」の港として栄えていたという。「潮待ち」とは潮の流れを利用して航行する船が、潮流の向きが変わるタイミングを待つこと。船員たちはこの「潮待ち」の間に港町に繰り出して遊んだのだそうだ。木江港には船員のための売春宿が何軒も建ち並び、二階や三階の窓から女たちが顔を覗かせて客引きをしていたという。戦後の赤線廃止令によってこうした売春宿は消え、現代のディーゼル船には「潮待ち」の必要もなくなったので港町は急速に寂れていったが、今でも古い家屋には当時の面影を残すものがある。 【往事の面影を残す木江港の古い建物】 「この島には橋がないから不便でしょう。でも私はこのままでええと思ってるんです。旅行者は非日常を求めて島にやってくるんです。不便だけど、静かで、海がきれいな場所。橋がないからこそ、この島の魅力が消えずに残っているんですよ」 本土と橋で繋がった島は、急速に「本土化」していくのだそうだ。大型スーパーや、24時間営業のコンビニや、けばけばしいパチンコ屋が出店してくるわけだ。確かに買い物にも遊びにも便利になるが、それは結局のところ「島にしかないもの」を失うことに繋がる。 これからのツーリズムを考えるとき、「不便」というのが重要なキーワードになるだろう。これだけ便利さが蔓延した社会において、「あえて不便を体験する」というのが価値を持つのではないか。ファームステイや体験農業、エコツーリズムなどもその流れの中に位置づけられる。 便利すぎる生活は快楽ではない。そのことに多くの人が気づき始めている。 *********************************************** 本日の走行距離:49.2km (総計:2224.1km) 本日の「5円タクシー」の収益:5円 (総計:34610円) ***********************************************
by butterfly-life
| 2010-05-15 22:39
| リキシャで日本一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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