湖西市から浜名湖を横断して浜松に向かう。浜名湖が太平洋と接している部分は、「口」が非常に狭まっているので、いくつかの橋を渡れば簡単に対岸に渡れるのである。新幹線も在来線も国道1号線もみんなここを通過している。まさに日本の大動脈だ。
対岸の舞阪には大きな漁港があった。今はシラス漁の真っ最中だそうだ。シラスとはちりめんじゃこの元になる幼魚のこと。漁は潮の流れに大きく左右されるが、大量の日には1隻で900キロもの水揚げがあるという。今日はその半分程度の水揚げしかなかったが、今はいい値が付いているから漁師さんたちは不満顔ではない。 九州や瀬戸内の小規模な漁港とは違って、舞阪の漁港で働く人の中には若者の姿が目立った。専業漁師には見えないから、忙しい時期にだけ雇われる季節労働者なのかもしれない。20歳前後の若者がエプロン姿で船を洗ったり保冷用の氷を船底に積める作業を手伝ったりしている。 【太いパイプを使って保冷用の氷を船底に積める作業】 舞阪から高塚までの旧東海道沿いの街は雰囲気がよかった。古い街並みがロードサイド化の波に飲み込まれることなく残っていた。 しかしそれも浜松周辺になると消えてしまい、近代的なビル街と例の国道沿いのぱっとしない風景に取って代わられた。都市の相貌はどこも似たり寄ったりだ。地域性よりも都市としての機能性の方が重視されているからだろう。 浜松には「自動車街通り」というユニークな名前の道があった。その名の通り自動車、特に中古車のディーラーがずらーっと軒を連ねている通りである。行けども行けども車が並んでいる。メルセデスやフィアットといった輸入中古車を専門に扱う店も多く、メルセデスベンツのセダンが90万円という値段で売られていたりする。へぇ、そんなに安いんだねぇなどと感心しながらリキシャを漕ぐ。 浜松では中古車の輸出業を営むバングラデシュ人に出会った。もちろん僕のリキシャにびっくらこいで(←表現が古いね)、乗っていた車を止めたのである。 バングラデシュでも日本の中古車の人気は高い。10年乗っても壊れない日本車の信頼性は、バングラのような交通カオスの国、メンテナンス技術が未発達の国でこそ、そのポテンシャルを発揮するからだ。 「日本人、リキシャが好きなの? ねぇ、私リキシャを輸入したら、みんな買うかな?」 とウディンさんは言う。ひょっとしたら商売のタネになると踏んだのかもしれない。 「うーん、それは難しいと思いますよ」と僕は苦笑いする。 確かにリキシャは日本にないものだから、行く先々で好奇のまなざしを向けられる。目立ちたがり屋には絶好のアイテムかもしれない。でも、よほどのマニア以外わざわざお金を出して買おうとはしないだろう。日本の道路では実用性ゼロだから。無駄に重いし、運転もしにくいし、駐車スペースだって取るしね。 【浜松で中古車販売業を営むバングラデシュ人のウディンさん】 浜松から天竜川を渡って磐田市に。 本日は磐田市に住む田之上さんのお宅に泊めていただくことになった。田之上さんは去年までヤマハ発動機で働きながら磐田市の市議を務めておられた。「兼業市議」というのもアリなんですね。 今から40年ほど前、20歳だった田之上さんはヨーロッパやアジアを放浪していた。1970年頃といえばまだまだ海外旅行が珍しかった時代。もちろんガイドブックなどなく、為替相場が1ドル365円で固定されている超円安の時代だったから、今の旅行者の何倍も苦労して旅をしていたに違いない。バックパッカーがヒッピーと呼ばれていた頃の話だ。 「小田実の『なんでも見てやろう』という本を読んで貧乏旅行ってものを知ったんですよ。それ以外に海外旅行に関する情報はほとんどなかったですからね。まずソ連のウラジオストクからシベリア鉄道でヨーロッパまで行って、そこからはヒッチハイクであちこち回りました。ヒッチハイクをするために朝から何時間も立ちっぱなしで、ようやく乗せてもらった車が何キロか先までしか行かなかったりしてね。今でも当時のことは鮮明に覚えていますよ。昨日のことのように」 「どうして20歳の頃に旅に出ようと思ったんですか?」 「たいした理由はないですよ。ただなんとなく世界をこの目で見てみたいと思ったんでしょう。今から考えたらもう少し目的意識を持って旅をした方がよかったんじゃないとも思うけど、あのときはあれでよかったんです。ヨーロッパの街ではよく人間観察をしていたんです。道ばたの階段に座り込んで、行き交う町の人をただ観察する。それだけでも十分楽しかったな。あれは若い頃しかできない旅ですね」 田之上さんは5ヶ月に及んだ放浪旅のあいだ多くの人から親切を受けた。だから自然と旅人を見ると助けたくなるという。このあいだも1号線沿いでヒッチハイクをしていたドイツ人の若者を拾って家に泊めてあげた。 磐田はジュビロとヤマハ発動機の街だ。他にもスズキの工場などもあって街の規模のわりに工業生産は高い。田んぼの中に大工場がでんと建っているところから「田園工業地帯」という言い方もされるそうだ。 しかし輸出中心の製造業はリーマンショック以降の不況の波をもろに被ることになった。受注は激減し、工場の操業はストップし、従業員のリストラが進んだ。その結果、まず最初に首を切られたのが外国人労働者だった。磐田には特に日系ブラジル人が多く、一時期は18万人の磐田市民に対して1万人近くのブラジル人が住んでいたというから驚きだ。しかし去年から今年にかけて、大半の人が故郷への帰国を余儀なくされた。 田之上さん自身もブラジルには少なからぬ縁がある。田之上さんのおじいさんが移民としてブラジルに渡っているのだ。そのとき長男(田之上さんのお父さん)だけを日本に残していったという。親類が「大事な息子を残していけば、いずれは日本に戻ってくるだろう」と考えたためだ。しかし田之上さんの祖父はついにブラジルから帰国することはなかった。残された田之上・父は「俺は家族に捨てられた」と思い込んだまま一生を終えた。数年続いた手紙のやりとりも途絶えてしまい、消息がつかめなくなってしまったのだ。 最近になって田之上さんは生まれて初めてブラジルを訪れた。そのとき現地の日系人協会を通じて田之上・祖父の消息を探したという。そこで7人の叔父叔母と、32人のいとこがブラジルにいることを確認する。そして田之上・祖父母は、息子を一人故郷に残してきたことをずっと後悔していたことを知る。いつも西の空に向かって手を合わせていたのだと。 時代の変化というのは不思議なもので、100年の時を経て、今度はブラジルで育った日系人が日本に仕事を求めてやってきている。もちろん劣悪な労働環境や、通信網の不備は解消され、その気になれば地球の裏側に住む家族とリアルタイムで話すこともできる。実の息子と音信不通になったまま死んでいくということもなくなった。地球は確実に狭くなっている。 *********************************************** 本日の走行距離:42.0km (総計:2999.1km) 本日の「5円タクシー」の収益:5円 (総計:53345円) ***********************************************
by butterfly-life
| 2010-06-07 08:07
| リキシャで日本一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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