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94日目:下町の職人(東京都墨田区)
 東京都台東区に店を構える「くるま屋」は、人力車を専門に作っている工房である。人力車を作る職人というのは全国にたった4人しかいないそうで、社長の松岡さんはそのうちの一人だ。
 松岡さんはもともと骨董品が大好きだったという。人力車にのめり込んでいったきっかけも、古いものへの愛情だった。
「人力車というのは明治時代から全くかたちが変わっていないんです。基本的に140年前と同じ。どういうわけか、違うデザインのものを作ろうとすると格好悪くなってしまう。それだけ洗練されたかたちだということです。当時の職人の細部へのこだわりはすごいですよ。車軸だってまっすぐにすればいいものを、見栄えを良くするためにわざと複雑に曲げたりしている。そういうのを見ているだけでも楽しいんです」
 100年以上前に使われていた人力車を紹介するときの松岡さんの目は、クラシックカー好きの人が愛車を紹介するときのそれと同じだ。愛娘を紹介する父親の目線とでも言ったらいいだろうか。



 明治に入って武士階級が消え、仕事を失った刀鍛冶たちが持てる技術をつぎ込んで作り上げたのが「人力車」という新しい乗り物だった。彼らは細部まで技巧を凝らし、人力車をひとつの工芸品に仕立て上げた。塗装には漆を使い、車輪には彫金を施し、外装を華やかな蒔絵で飾った。
 明治中期に日本の人力車製造は黄金期を迎える。製品は日本だけにとどまらず、アジア各地に輸出された。インドに輸出された「ジンリキシャ」は、時代を経るにつれて省略され、短く「リキシャ」と呼ばれるようになる。今でもインド人やバングラ人が「リキシャ」と呼んでいるのは、当時の名残なのだ。リキシャがど派手な装飾をまとうようになったのも、明治時代の蒔絵入り人力車から着想を得たのではないかと言われている。人力車とリキシャの関わりは深い。



 「くるま屋」の人力車は手作りである。木を切り、竹を曲げ、色を塗り、穴を開け、ねじで留める。一つの人力車を完成させるまでに1ヶ月半もかかるという。もちろんお値段もそれなりで、僕のリキシャに比べると桁が二つほど違う。
 人力車工房の様子はバングラデシュのリキシャ工場ととてもよく似ていた。2,3人の職人が狭いガレージの中でせっせと仕事をしている。もちろん出来上がったもののクオリティーはまったく違う。目指している方向性もかなり違う。しかし人の手で作られたリキシャと人力車には、共に大量生産の工業製品にはない独特の温かみが宿っているように感じられる。



 松岡さんの了解を得て、生まれてはじめて人力車を引いた。車重100キロと聞いていたし、車輪がゴムではなくて鉄なので走り出すためにはかなりの力が必要だろうと思っていた。しかし動き出しは意外にも軽やかだった。止まっている状態から走り出すときの「はじめの一歩」の負荷は、リキシャよりも人力車の方が明らかに軽い。金属製の車輪はゴム製よりも接地面積が少ないので、抵抗が少ないのだそうだ。

 反対に僕のリキシャを漕いでみた松岡さんの表情は渋かった。
「人力車よりも重いんじゃないですか? 本当にこれに二人のお客を乗せて走れるんですか?」
「バングラデシュでは二人どころか四人乗ることもあるんですよ」
「信じられないな」
 でも本当にそうなのである。僕もリキシャを漕ぎ始めたころは、何だってこんなに効率の悪い乗り物が100万台も走っているのかと不思議に思っていたのだが、4ヶ月も漕いでいると体の方が慣れてきて、お客を二人乗せてもまぁ何とか走れるようになったのである。人間が機械の方に合わせる。それがリキシャスタイルだ。

 墨田区にある「アトリエ創藝館」では、手書き文字職人・大石さんの仕事ぶりを見せてもらった。主に提灯や看板などに毛筆で文字を描いている。力強く極太で、江戸情緒溢れる書体だ。
 大石さんの経歴は少し変わっていて、若い頃は画家を志していたそうだ。芸大を受験したが何度か不合格が続いた。浪人時代に花屋でアルバイトをしているときに、花に添える札を書いてもらいに行った先で手書き文字の世界を知った。そのまま弟子入りして以来、ずっとこの仕事一筋で生きている。
「学生時代に絵を習っていた先生に、この世界に入ったことを言ったんです。そうしたら『いいところを見つけましたね』って言われた。滅多に人を褒めない先生が、そのとき初めて自分のことを褒めてくれたんです」



 大石さんは僕のリキシャのために提灯に「日本縦断」という文字を入れてくださった。本当は一週間かけてやる仕事なのだが、今回は特別にその場で一気に仕上げてもらった。
「字を書くときに一番大切なのは思いやりなんです。偏(へん)が大きすぎると、旁(つくり)が小さくなってしまう。電車の座席と同じですよ。最初に座る人が大きな場所をとると、後の人が座りにくくなるでしょう。文字も全体のバランスを考えて、思いやりを持って書いてやれば、自然と美しくなるんです」
 大石さんが書く江戸文字は、大きくて隙間がないのが特徴だ。もともと歌舞伎の看板などに使われていたそうで、「客席が隙間なく埋まるように」との願いが込められているという。



 大石さんは子供の頃に放浪癖があり、親戚を頼ってあちこち旅したことがあるという。でもここに店を構えてからはずっと半径1キロ以内の世界で暮らしている。お祭り前のかき入れ時には目の回るような忙しさで、とても旅行なんかしている暇がない。そういうときには提灯が羨ましくなるという。大石さんが文字を入れた提灯は日本だけでなく、外国にも送られることがある。
「提灯の代わりに自分が段ボールに入ってアメリカに運ばれたいなぁなんて思うことがありますよ」
 そんな大石さんの思いがこもった「日本縦断」提灯を携えて、リキシャは北へと向かう。はてさて、無事に北海道まで走りきることができるだろうか。乞うご期待。


【大石さんの愛犬・虎太郎。それにしてもリラックスしすぎでしょう、これは】

 398メートルまで成長した東京スカイツリーを横目に見ながら、墨田区の下町を走った。
 墨田区には小さな商店街がいくつも残っていた。もちろんスーパーもあるのだが、生活圏に密着した昔ながらの商店街が生き延びる余地もあるようだ。すでにあらかたがシャッター街化した地方の商店街から見ると、とても羨ましい状況だ。



 京島の商店街も活気に溢れていた。八百屋のおじさんがだみ声を張り上げ、中華屋のお姉さんが中国訛りの日本語で呼び込みをする。リキシャを目にした人のリアクションはさまざま。「こんなもんで日本を縦断しているなんて信じられないねぇ」と言う人もいるし、「偉いねぇ」「偉いねぇ」と何度も頷く人もいる。
 中華屋のお姉さんには、中国にもリキシャに似た輪タクが走っていて、「皇泡車」(フアン・バオ・テ)というのだと教えてもらった。



 コッペパンを並べたパン屋さんは、昭和レトロな雰囲気が濃厚に漂っていた。昔は菓子パンも作っていたのだが、今はコッペパンしか焼かないという。明けても暮れてもコッペパン。昭和20年代に買った古いガス式の釜で焼いたパンをなじみの客に売り続けている。
「昔はよく停電したから、電気釜じゃ都合が悪かったみたいだね」とおかみさんが言う。「でもここのパンの味はこの釜でしか出せないのよ」



 おかみさんは焼きたてのパンを二つに切り、ジャムを塗って「食べてみて」と手渡してくれた。さすがにこれ一本で勝負しているだけのことはあって、普通のコッペパンとはひと味もふた味も違う。生地がしっとりしていて味に奥行きがある。
「うちは添加物なんて一切使っていないから。小麦と水とバターと塩だけ。昔からそうよ」
 とおかみさんは胸を張る。店構えも味もおかみさんの笑顔も、昭和の時代からずっと変わっていないのだろう。




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本日の走行距離:14.6km (総計:3347.5km)
本日の「5円タクシー」の収益:20円 (総計:57150円)

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by butterfly-life | 2010-07-22 21:38 | リキシャで日本一周


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