羽幌町は天塩町と同じように寂れた町である。以前は漁業と炭鉱の町として栄えていた。明治20年代からニシン漁が始まり、昭和14年には炭鉱が操業を開始した。しかしニシンが枯渇し、炭鉱も閉山になると、町は衰退の一途を辿る。鉄道が廃線になり、駅前通の賑わいも消えた。昭和44年には3万2千人いた人口も、今では8千人にまで減ってしまった。過疎化が進む道北の典型例と言っていいかもしれない。
その羽幌町をリキシャでとろとろと走っていると、腰の曲がったおばあさんに話しかけられた。買い物カートなしでは歩けない様子だったが、口調はとてもしっかりしていて声も大きい。 「私はね、昔タイピストをしておったのよ。中国の河南省彰徳っちゅうところの石炭会社でタイピストをしていたの」 金子おばあちゃんは宮崎県に生まれた。勉強がよくできたので女学校へ行きたいと懇願したのだが、両親はそれを聞き入れなかった。だからタイピストの学校へ通った。手に職をつけて早く自立したかったのだ。3ヶ月でタイピストの学校を出ると、すぐに石炭会社に採用されて中国に渡った。昭和16年のことである。 「中国での生活は楽しかったわよ。小学校の校長先生の月給が40円くらいのとき、私は100円ももらっていたからね。ほんとに待遇がよかったのよ。でも日本が戦争に負けたでしょう。それで故郷に引き揚げてきたの。それから石狩出身の旦那と結婚したんで、北海道に来たわけ」 羽幌町にほど近い初山別に落ち着いた夫婦は時計屋を始めた。当時はニシン漁が盛んだったので町には活気があり、仕事もたくさんあった。 「でも旦那が酒を飲んだのよ。飲んだくれなの。天気がいい日でも、昼間から焼酎が入った一升瓶を下げて町をぶらぶら歩きよったの。そんな人が時計の修理なんてできるわけがないでしょう。せっかく始めた時計屋も閉めてしまったの」 「じゃあ誰が家族を養っていたんですか?」 「私が働きに出たのよ。男たちに混じってスコップ握りしめて、道路を作っていたの。現場監督には『下手な男を使うより、お母さん使った方がいい』なんて言われたわ。朝からずっとスコップが手を離れないんだぁ。大変な仕事よ。でも子供が4人もいたから、食べさせなきゃいけなかったの」 旦那さんは酒の飲み過ぎがたたって60前に肝臓ガンで亡くなり、おばあちゃんはいま下宿屋をしている娘の手伝いをして暮らしている。 「人間の一生ってね、ほんとにわからないもんだわぁ」と金子おばあちゃんは顔を皺だらけにして笑った。「宮崎みたいな暑いところに生まれて、こんなに寒いところで人生終えるんだものねぇ。もう私は90近いから、こっちよりもあっちの方が近い身分だがね」 「あっちっていうのは、あの世のことですか?」 「あはは、まぁそういうことだねぇ。いろいろあったけど、まぁ幸せだったんじゃないかねぇ。旦那のお酒はね、あれだけは失敗だったけどさぁ」 ![]() 北海道には金子おばあちゃんのように他の土地から移住してきた人が多い。北海道で生まれ育った人も、父母、祖父母の代まで遡れば、他県から移ってきた開拓民に行き当たる。だから先祖代々の土地を守り継ぐという意識が薄い。仕事があればそこに住み着き、仕事が無くなれば引き払って他に行く。そうしなければ生き残れないような厳しい環境なのだ。 道北の町がどこもことごとく衰退し、驚くほどの勢いで人口を減らしているのも、ある意味では当然の成り行きなのだろう。もともと誰のものでもなかった土地が、再び誰のものでもない土地に還ろうとしているのだ。 ![]() 「ここにはもともと私たちの家があったんだけど、今はきれいさっぱり何もないでしょう」 お盆のお墓参りのついでに実家の跡地に立ち寄ったというおばさんが言った。確かにそこは雑草の生い茂る草原だった。かつて家があった痕跡などどこにもなかった。 「昔はウニだとか昆布だとかがよく採れたけど、今はねぇ。このあたりも住む人がどんどん減っていて、みんな旭川とか札幌とかに移ってるんよ。本当に寂しくなったわね」 ![]() ![]() 今日も海沿いの道オロロンラインを南下する。この道を走るのにもいいかげん飽きてきたのだが、他に選択肢がないのだ。 朝から強い向かい風が吹き付けてくるタフな一日だった。海岸を飛んでいるカモメが翼を広げたままの体勢でじっと空中に静止できるぐらい強い風である。風速はときに10mを超える。 このあたりがもともと風の強い地域なのは、海岸線に並んだ風力発電用の風車の数を見るだけでもわかる。この自然エネルギーを生かさない手はない。今日はぶんぶんと調子よく回っている。 海沿いに建つ民家はどれも高さ3メートル以上もある高い板塀で囲ってある。「冬がこい」というのだそうだ。浜から吹き付ける雪混じりの強風をまともに受けると家が壊れてしまうので、この塀で風を防いでいるのだ。 ![]() 【「冬がこい」に囲まれた家】 強い向かい風にくじけそうになりながらも、なんとか粘りの走りを続け、5時過ぎには留萌(るもい)の町に到着した。大きな港と造船所のある町である。留萌もかつてはニシン漁で栄えていて、今でもカズノコの生産が日本一なのだそうだ。全国で消費されるカズノコの約6割が作られているというからすごい。しかし原料となるニシンの卵は、ほとんどがカナダやアメリカから輸入されたものだという。 町の規模のわりにスナックや飲み屋の数がやたら多いのも留萌の特徴である。近くに自衛隊の駐屯地があるので隊員がよく飲みに来ているという話もある。すごかったのは「阿修羅」という名前のスナック。インパクトはあるが、いったい誰が付けたんだろうね。 ![]() 【漁港のおばちゃんにとれたばかりのホタテ貝をご馳走になった】 *********************************************** 本日の走行距離:54.6km (総計:4773.3km) 本日の「5円タクシー」の収益:1000円 (総計:64090円) ***********************************************
by butterfly-life
| 2010-08-17 21:12
| リキシャで日本一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 ![]() 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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