北海道らしくカラッと晴れ上がった朝には、これが悲劇の一日の幕開けになるなんて想像もできなかった。旅のトラブルというのはたいてい前触れなく訪れるものである。油断も隙もあったものではない。
誤算の始まりは豊浦の峠道だった。海沿いを走る37号線がこれほどまでに急な坂道だとは思ってもみなかったのだ。北海道の道は平坦で走りやすい。これまでの経験からそのような思い込みがあったのだが、それが見事に打ち砕かれた。 上り坂は延々と続いた。トンネルをいくつも通り抜け、いったん下ったあと、再び急な上りが始まる。山のあいだから見える内浦湾は絶景である。なにもこんなに見晴らしの良い場所に道路を作らなくたっていいじゃないかと思う。絶景すら恨めしかった。 二つ目の誤算は水不足だった。いつもなら2リットルのペットボトルに水道水を入れて宿を出るのだが、この日は何を思ったのかそれを忘れてしまったのだ。日差しは強く、きつい山道を登ると一気に汗が噴き出てくる。最初のうちは「しばらく進めばコンビニぐらい見つかるだろう」と考えていた。ところが一度山道に入ってしまうと、コンビニはおろか自動販売機すらひとつもないのである。本当にただのひとつもないのだ。 これには参った。喉はじりじりと渇くし、汗は止めどなく流れてシャツをぐっしょりと濡らしていく。上り坂はいっこうに終わる気配がなく、気温もどんどん上昇していく。疲労の色が濃くなり、足が止まる。日陰で休む時間が多くなる。しかし休んでも喉は潤わないから、結局は前に進むしかない。 長いトンネルを走っているときのことだった。それは37号線の山道にいくつも設けられているトンネルの中で最も長く、緩やかな上りになっているトンネルだった。ぎりぎりリキシャが通れる幅の歩道があったので、ゆっくりとペダルを漕ぎながらそこを走っていた。時速7キロから8キロというところだ。 突然、踏み込んだ右足がガクンと下に落ちた。ヤバい! 瞬間、バランスを崩して車道に落ちてしまいそうになったが、何とかこらえてブレーキをかけた。 もう何が起きたのかはわかっていた。間違いない。折れたのだ。クランクシャフトが。 リキシャを降りて確かめてみる。やっぱりだ。昨日溶接してもらった所があっけなく折れている。これではペダルが漕げない。もちろん直すこともできない。完全にノックアウトだ。 僕はその場にへたり込んだ。疲労も喉の渇きもピークなのに、そこに致命的な故障が発生してしまったのだ。気持ちがぷつんと切れ、トンネルの壁にもたれたまま暗い天井を見上げた。なんてことだ・・・。 ![]() 【トンネルの真ん中で突如リキシャが壊れてしまった。折れたペダル部分に注目】 どれぐらいそうしていただろうか。案外短かったように思う。3分ぐらいのものだろう。 僕は立ち上がって壊れたギアを拾い上げ、チェーンの応急処置をして、リキシャを押して歩き始めた。このまま座り込んでいても何かが解決されることはない。待っていても誰に助けには来ない。新品のクランクを携えた天使がひらひらと舞い降りてくる、なんてことはないのだ。 僕を前に進ませたのは喉の渇きだった。激しく切実な乾きだった。呆然としている暇はない。とにかくまず水を飲まなくてはいけない。あとのことはそれから考えよう。そのために今は這ってでも前に進むしかない。 トンネルを抜けてもまだ続く長い坂を息を切らせながら上りきり、ようやく下りに入ったところに一軒の人家が現れた。掘っ立て小屋のような簡素な家で、雑草だらけの庭には古い電気製品や家具やがらくたが所狭しと並んでいる。「土曜日・日曜日・商」と書かれた看板が立てかけられているのを見ると、廃品回収業者か古道具屋のようだったが、その横には「にぎり寿司・一皿二貫・とろ・あわび・はまち四〇〇円」と書かれた別の看板があった。寿司屋なのか? まさかね。いくら何でもこんな山奥にわざわざ寿司を食べに来る人なんていない。「隠れ家的名店」にしてもあまりにもボロすぎる。ひょっとしてこの寿司屋の看板自体が古道具屋の売り物なのだろうか? 謎の多い家だったが、誰か人が住んでいるのなら水ぐらい飲ませてくれるだろうと思って敷地に入った。 「すいませーん。水を一杯いただきたいんですが」 大声で呼びかけてみたが返事はなかった。出かけているのだろうか。 さてどうしたものか。もちろん家の中に入るわけにはいかないが、どこかに水道の蛇口ぐらいあるかもしれない。そう思って電化製品が積み上がられた庭をぐるりと回ってみると、山からの湧き水を引いているらしい用水路が見つかった。 おぉ水だ! 僕は反射的に持っていたペットボトルを流れの中に突っ込んで水を溜め、それを一気に飲み干した。 うまい! もう一杯飲む。うまい。もう一杯。汲み上げては飲み干した。 それにしてもなんてうまい水なんだろう。冷やっこくて澄んでいて甘い。きっとこの家の主も毎日このうまい水を飲んで暮らしているのだろう。これがあれば水道なんていらない。南北海道の天然水、だ。 サハラ砂漠級の喉の乾きがようやく癒えると、やっとまともに頭が働くようになった。 クランクが折れた以上、リキシャを漕いで移動することはできない。昨日の自転車屋さんとのやりとりから、この形状のクランクを日本で手に入れるのは不可能であることもわかっている。もちろん適当な金属棒を切削加工すれば作れるだろうが、それには手間もお金もかかる。そもそも誰に頼めばいいのかもわからない。 一番確実なのは、バングラデシュで新品のクランクを手に入れてもらうことだ。もちろん日本に送るには時間がかかるが、幸いなことに東京で写真展を開くために近々リキシャの旅を中断する予定がある。そのタイミングでクランクを送ってもらえば、時間のロスは最小限で済むはずだ。 よし。 僕は立ち上がって大きく伸びをした。新鮮な水が体の隅々まで行き渡っているのを感じる。細胞が潤っている。萎びた筋肉に力が戻り、気力も回復してきた。 よし、とにかく前に進もう。ペダルは踏めないが、リキシャを押して歩くことはできる。もちろんスピードはこれまでの半分以下になってしまうが、だったら倍の時間をかければいい。 ![]() ![]() そこからしばらくは急な下り坂が続いた。下りボーナスである。その後は長万部までずっと平坦な道のりが続いた。 風もなく、絶好のリキシャ日和だった。クランクが壊れてさえいなければ、滑らかに進んでいたことだろう。 「溶接は丈夫なんだ」と昨日の職人さんは言った。「このまま日本一周できるよ」と請け合ってもくれた。それがポッキー並みにあっさりと折れるまで丸一日もかからなかった。でも不思議なことに、少しも腹が立たなかった。 そうか。だったら仕方ないよな。じゃあ歩こうか。そう思っただけだった。 目の前の事実をありのままに受け入れること、ある種の諦観を身に付けること。それが長旅をする人間には不可欠なのである。腹を立てたところで現実が変わるわけではない。そんなエネルギーがあるんだったら、一歩でも前に進んだ方がいい。それが旅を通じて僕が得た処世術だった。 長万部の町に到着したのは4時半だった。まだ先に進む余力はあったが、この先しばらくはまともな町がないようなので、今日はここで休むことにした。 長万部には温泉が湧いており、それを売り物にした旅館やホテルが何軒か建っているのだが、僕はあえてそこを避けて駅前の旅館に向かった。 案の定、そこは素泊まり3000円という格安の宿で、昨日と同様に泊まり客は僕だけだった。宿のおかみさんはとても世話好きな人で、旅館というよりは下宿屋のような雰囲気だったが、唯一の難点は二階の部屋がやたら暑いことだった。北海道の家屋は冬に暖かくすることを何よりも優先しているので、夏の暑さ対策はまったくなされていないのである。この宿にもエアコンはなく、風通しも悪いので、西日をまともに受けた部屋は熱気がこもって大変な暑さになる。それなのに部屋には小さな卓上扇風機しか置かれていない。しかもこれが勢いよくブンブン回るわりにはちっとも風こないという欠陥扇風機だった。 「ごめんなさいね。今年の夏は異常に暑いから、北海道の人も困っているのよ」とおかみさんは布団の用意をしながら言う。「ここにもいろんな人が泊まりに来たけどねぇ、あんな自転車は初めてよ。あんなの漕いでいると疲れるんでしょう? ゆっくり休んでね」 「僕も疲れているけど、あのリキシャの方がもっと疲れているみたいです。人間は眠ったら回復するけど、機械はそういうわけにはいきませんから」 *********************************************** 本日の走行距離:44.9km (総計:5121.6km) 本日の「5円タクシー」の収益:0円 (総計:64815円) ***********************************************
by butterfly-life
| 2010-09-08 07:47
| リキシャで日本一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 ![]() 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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