ようやくマイ・リキシャが完成した。
リキシャを注文したのは、首都ダッカの旧市街にあるリキシャ工場である。 工場といっても、自動車やバイクの生産ラインのような大がかりなものを想像してはいけない。六畳間ほどの狭い土間のようなスペースに置かれているのは、古い足踏みミシンとペンキ類のみ。電動工具もないローテクな現場だ。そこで2,3人の職人が黙々と作業を行っている。家内制手工業的に質素な工場だ。 リキシャにペンキを塗る職人 リキシャの装飾を作っている職人。切り絵細工のようだ リキシャ工場は狭くて暗い リキシャはいくつかの主要パーツに分かれている。車輪部分、フレーム部分、ペダルやギヤなどの駆動部分、木製の客席部分と、竹製の幌。それぞれのパーツは専門の工場で作られていて、リキシャ工場の仕事はそのパーツを組み合わせて色を塗り、装飾を施すことである。構造もいたってシンプルだし、安全性や耐久性をテストするわけでもないから、リキシャ自体は注文から4日後には完成する。 ちなみに新品のリキシャは1万5000タカ(1万9500円)である。これを高いと見るか安いと見るかは微妙なところだが、少なくともリキシャ引きにとっては高額だ。だから多くのリキシャ引きが自前のリキシャをもたない「雇われリキシャ引き」である。 リキシャに求められるのは、何をおいてもまず「丈夫なこと」。3,4人の乗客を乗せて走ることもざらだし、穴ぼこだらけの荒れた道を進むことも多い。首都ダッカは交通量が半端なく多いから、他のリキシャやバスなどと衝突することも日常茶飯事である。そんな過酷な条件でも簡単に壊れることのないタフさが、リキシャには求められている。 ベテランのリキシャ引きによれば、フレームは少なくとも10年はもつそうだ。車輪やチェーンやペダルなどは適宜交換することになるが、とにかく一度買ったら10年は使えるという。 そのため鋼鉄製のフレームも木製の座席もずっしりと重い。軽量化について何らかの工夫を施した形跡はない。総重量は80キロ。ヘビーだ。 今回、このリキシャに特別装備を付けてもらうことにした(と言ってもパワステやエアコンではない。当たり前ですね)。リキシャに乗って何ヶ月も旅するために、荷物の収納ボックスを作ってもらうことにしたのである。 荷物ボックスの製作はリキシャ工房のすぐ向かいにある板金工場に依頼した。構造は単純である。蝶番で開閉するかまぼこ形の蓋みたいなものを、リキシャの後部に取り付けてほしいというリクエストだ。簡単な図面を書き、板金工のオヤジさんに説明する。 オヤジさんはあっさりと「わかったよ」と頷いた。言葉がろくに通じない状態で、そう簡単にわかるものかなぁと疑う気持ちもあったが、彼が「大丈夫、任せろ」と胸を張るのだから任せるしかあるまい。明日は金曜日で休みだから、出来上がるのは三日後だという。 しかし三日後に僕が目にしたのは、イメージとは全然違う箱であった。 オー、ノー! そもそも形状が違う。大きさもまったく違う。幅が大きすぎて、リキシャの後部に収まらないのだ。 「おい、いったいどこをどう計ったらこんな馬鹿でかい代物が出来上がるんだよ!」 僕は声を荒げる。これをどうやって使えっていうんだ。なにも理解していないのに「大丈夫、任せろ」なんて言うなよ・・・。 もちろん作り直してもらう。こんなもの使えない。一からやり直し。 でもオヤジさんは「それじゃまた追加料金を払ってもらうからな」と言うのである。冗談じゃない。こんな失敗作にびた一文だって払うものか。 「いいかい? 俺は靴がほしいといったのに、あんたは間違って手袋を作った。それなのに靴代としてカネを請求するのはおかしいだろう?」 言葉が通じない相手とのお金の交渉はとても疲れる。こっちの言い分が半分も伝わらないからだ。向こうだってさすがにこれは失敗作かなぁと気づいているのだが、少しでも多くのカネを引き出そうとネチネチと粘ってくるのだ。参った。 こういう膠着状態に陥ったときに有効なのは、怒鳴ることである。言葉の意味は伝わらなくても、とにかく「怒っている」という状態は相手に伝わるからだ。そうすると話が前に進む。妥協点が見つかり、そこに向けて着陸することができる。だから僕は怒鳴ったわけだ。ちょっと汚い言葉で・・・まぁ半分は本気で怒っていたんだけどね。 タンヴィールという英語のできる若者が僕らの間に入ってくれたことで、なんとか交渉がまとまる。結局、荷物ボックスの製作費は当初の3500タカに500タカ上乗せすることで合意した。やれやれ。 今回は僕が最初から最後まで指示を出すことにした。もう任せてはいられない。 まずメジャーを使ってきちんとリキシャ後部の寸法を測り、紙とはさみと鉛筆を使って実物大の型紙を作った。それを元にブリキの板を切断し、板と板を溶接し、L字型の鋼材で補強した。 荷物ボックスを作る板金屋のオヤジさん。目は真剣だけど、いい加減な作り方をする男であった。 最初から最後まで作業を見ていたわかったのは、板金工たちの仕事ぶりのいい加減さである。これじゃ失敗作を作るのも無理ないなと思う。行き当たりばったりで実にテキトーなのである。 どことどこが干渉し、それを避けるためにどういう形状にしたらいいのか。組み立ての際に生じた誤差をどこで吸収するのか。そういった「先の見通し」が全くないまま、やみくもに作ってみようとするのだ。もし最終段階まで来て誤差や歪みが生じたら(当然生じるわけだが)、出来上がったモノを力任せにぐいぐい曲げて解決しようとするのだ。おいおい、壊れるって、止めろよ。 こういう「見通しがない」故に発生したトラブルを、僕らはインドやバングラデシュでしょっちゅう目にすることになる。たとえば便器と壁のあいだが異様に狭くて、どのように座ればいいのかわからないバスルーム。階段の最後の段だけが他の半分の高さしかない「間に合わせ」の階段などなど。深く検討することなしに、とりあえず作っちゃったという代物。 バングラデシュの職人の仕事ぶりを見るのは好きである。おそろしく旧式の道具と手作業だけで様々なものを作り上げる。いつも感心しながらシャッターを切っている。 でもそこに本当の意味でのクラフトマンシップと呼べるものがあるのかは疑問である。彼らはすでに「ある」ものを作ることはできる。いつも作っているものと同じものを同じ手順で作ることには慣れている。しかし彼らの頭の中には、「今までに取り組んだことはないけど、自分なら作れるはずだ」というモノのアイデアはおそらくない。自らの創意工夫によって新しいものを生み出そうという構えが見られない。 日本の製造業を支えている町工場の技術レベルの高さは世界に知られているけれど、それは職人ひとりひとりが創意工夫マインドを持って仕事に取り組んでいるからだ。与えられた仕事をただこなしているのは職人ではない。 10年前、僕は機械メーカーで働いていた。製版機(CTP)を作る部署に配属されて最初に任された仕事が「箱作り」だった。製版機というのは印刷をするときにインクを塗る刷版(ハンコみたいなもの)を作る機械だが、その本体に付属するブロアー(吸着器)を設計することになったのだ。 専門的な機械なので業界関係者以外には何のことやらよくわからないと思うのだが、要するに僕は会社員として「箱」を作っていたのである。 ダッカの板金屋で「箱」を作っているときに、そのことを不意に思い出した。クラフトマンシップや製品の誤差水準についてあれこれ考えを巡らせているうちに、自分が10年前に箱を設計していたこと、そこから町工場の底力や職人の気質を感じ取っていたことなんかを一気に思い出したのだ。 僕は会社を辞めて写真家になった。 そして今、箱を作っている。 この箱が完成したら、リキシャの旅を始める。 リキシャの旅? リキシャを漕いでバングラデシュを一回りする旅? 馬鹿げている。会社員だった頃、自分がそんなことをしでかすようになるとは夢にも思わなかった。 人生ってほんとにわからないものだ。 リキシャの後ろに装着された「荷物ボックス」の完成形。美しい絵はリキシャアーティスト・アフメッドさんの手によるものだ #
by butterfly-life
| 2009-12-21 20:08
| リキシャでバングラ一周
前回のコラムで、「日本帰り」のバングラ人について書いた。若い頃に日本に働きに行き、何年かしてから故郷に戻ってきた男たちが、バングラデシュには大勢いる。
僕が最初に出会った「日本帰り」のバングラ人はハルさんだった。2001年に初めてダッカを訪れたときに市場の中で知り合った。ハルさんは埼玉や群馬の工場で10年間働いていたという。日本で稼いだお金でビルを建て、今はその家賃収入で暮らしている。 「日本では1ヶ月に30万円稼いだこともある」とハルさんは言った。「グンマのプラスチック工場で、一生懸命働いたんだ。仕事はきつかった。一日に15時間働いたこともある。それでも残業手当はあまり貰えなかった。大変だったよ」 32歳のハルさんは日本から帰国してすぐに結婚した。奥さんはまだ18歳。この程度の年の差はバングラデシュではまったく珍しくないという。女の子の結婚は早い方がいいが、男の方はある程度の収入がないと結婚が許されないからだ。 「日本では嫌なこともあったけど、いいことの方がずっと多かったな」とハルさんは振り返った。「日本人にはとても親切にしてもらったし、バングラにないものがたくさんあったから。一番驚いたのはね、どこにもゴミひとつ落ちていないって事だよ。電車にもびっくりした。時間通りに来るし、ものすごく速い。東京のジョシコーセーもすごかったねー。みんなすっごい短いスカートをはいてるでしょ? 私、駅の階段を上るとき、どこを見ていいかわからなかったよ。どうしてジョシコーセーは、あんなに短いスカートはいているの?」 「パンツを見せるためですよ、きっと」 「ニッポンはいい国だねー。バングラじゃ考えられないよ」とハルさんは笑った。「でも、ニッポンは不思議な国だねー」 日本で困ったのは食べ物だった。ムスリムである彼は豚肉が食べられない。もちろん日本食を食べた経験もない。食堂に行っても、お米しか食べられなかったこともあった。言葉もわからないし、ホームシックにもかかった。でもすぐに日本が好きになった。本当はもう少し日本で働くつもりだったけど、弟が事故で死んで両親が悲しんでいるのを知って、バングラに帰ってきた。 ハルさんは日本で働いていた頃の写真を見せてくれた。ハル青年は日本人の従業員と一緒に肩を組んではしゃいでいた。 「今とは全然違うでしょ?」と彼は言った。 確かに写真の中のハルさんは、今とは別人のように痩せていて、引き締まった顔をしていた。 「日本語でなんて言うんだっけ。セイ・・・セイ・・・」 「青春?」 「そう、セイシュン。これが私のセイシュン」 ハルさんはそう言うと、懐かしそうに目を細めた。 ハルさんのような成功例はすぐに噂として伝わり、また別の若者が日本を目指す動機となる。そうやってバブル景気に沸いていた1980年代後半から、バングラ人の男たちが次々と日本に入ってきた。 しかしドンさんによると、2年前からその流れが変わったという。日本の学生ビザの発給が急に厳しくなったのだ。それまではきちんと書類を整えて、資金を用意し、日本語学校へも通っていれば、だいたいOKだった。ところが2年前からビザの発給を拒否される人が急に増えたのだ。今では8割以上が発給拒否されている。扉が急に閉ざされてしまったことに、多くのバングラ人は困惑している。日本の景気が悪くなったことと何らかの関係があるのかもしれないが、実態は不明だ。 しかもビザの審査にはやたら時間がかかる。大使館にパスポートと書類を預けても、3ヶ月以上何の連絡もない。もちろん申請者はその間ほかの留学先を探すこともできず、自分の未来が宙ぶらりんになったまま過ごさなければいけない。そしてしびれを切らせた頃になって「ビザ拒否」の知らせが届く。 問題は「ビザが取れない=日本に行けない」ということだけにとどまらない。実はビザ発給を申請するバングラ人たちは、申請に際して50万円近くもの大金を用意しなくてはいけないのだが、拒否された場合にはそれがまるまる消えてしまうのだ。詐欺みたいな話である。 バングラ人が日本の学生ビザ(2年間有効)を取得するハードルは高い。日本人がバングラデシュの観光ビザ(無料で翌日にもらえる)を取得するのとは訳が違う。自分と家族の身上書、出生証明書、在学証明書、結婚証明書などなど、各種の書類をもれなく用意しなければいけない。そのうえで「わたしはこれこれこのような理由で日本に留学したいのです」という申請書を書く。 その申請書の作成には、日本語への翻訳料その他諸々を含めて15万円かかる。申請料が5万程度。それに日本語学校の受講料が半年で5万円かかる。しかしこの辺の経費は(明らかに高額なものがあるが)まぁ納得できないこともない。 問題なのは「銀行手数料」である。バングラ人が学生ビザをもらうためには、「日本の語学学校に通うための資金100万円を日本の銀行口座に預けている」という証明書が必要なのだという。バングラデシュの銀行ではダメで、日本国内の口座に100万円が入っていることが示されなければいけない。 その際、バングラから日本へ送金すると、なんと10%もの手数料をさっ引かれるというのだ。そしてもし発給が拒否された場合には、その100万円をバングラに引き上げる際に、また10%の手数料を取られてしまう。往復で約20万円が蒸発する。あまりにも馬鹿げた話だ。 「バングラ人にとって50万円はものすごくおっきいよ。借金してる人も多い。苦労してお金を準備したのに、ビザはもらえないでお金だけ消えちゃう。みんなものすごく怒っているよ!」 いつも温厚なドンさんが声を荒げる。 50万円は日本人にとっても大金だし、平均的なバングラ人の給料の軽く数年分に相当する額である。それをみすみすドブに捨てるような真似を彼らに強いていいはずがない。「受験料」にしてはあまりにも高すぎる。 日本政府の方針が変わってビザ発給に制限が加えられたのなら、発給を拒否された人のダメージを緩和するような方法をとるべきだろう。送金手数料なんてぼったくりもいいところである。 ひょっとすると日本大使館の職員は、バングラ人がそれほどのお金と労力と熱意を持ってビザ申請を行っていることを知らないのかもしれない。 職員が現状に無知である可能性は十分にある。彼らは基本的にビザ申請者と直接コミュニケーションを取らないからだ。ビザ発給拒否の理由も一切説明しないという。書類に不備があったのか、なかったのかも知らせない。ダメなものはダメだ。はい、帰った帰った。そういう氷のような態度なのだという。 おそらく大使館員は当事者の話に耳を傾けて、面倒な仕事を背負い込むことを避けているのだろう。典型的な官僚主義的態度。バングラ人の事情なんて知りませんよ。わたしは外務省から与えられた職務を忠実に全うしているだけですから。彼らが自由意志に基づいてビザを申請しただけなんですからね。それが拒否されようが受理されようが、文句を言う権利なんてないんですよ・・・。 あるいは大使館職員は「わざと」このような嫌がらせを行って、ビザ申請を行うバングラ人の数を絞り込もうとしているのかもしれない。50万円をまるまる無駄にした人間が「みせしめ」みたいに何十人かいれば、彼らだって諦めるんじゃないですか、と。 もしそうなのだとしたら(すごく卑劣なやり方だが)、その作戦は見事に成功していると言えるだろう。実際、ドンさんが教師をしている日本語学校はこの2年で生徒が10分の1ほどに激減した。日本に行けるとも限らないのに、日本語なんて勉強しても仕方がない。だったらビザが取りやすいイギリスや韓国に向かおう、と頭を切り替える人が増えているのだ。 しかしたとえ「わざと」であれ「無知ゆえ」であれ、こういう理不尽な振る舞いを続けることが日本の国益にかなうとは到底思えない。もし本気でそう考えている大使館職員がいるのだとしたら、その根拠を示してもらいたい。国の税金を使って外国人に「陰湿な嫌がらせ」をして、得るものは何なのかを。 僕がこれまでに出会った「日本帰り」のバングラ人は、みんなおそろしく親切で善良な人々だった。「なんか裏があるんじゃないの?」と疑いたくなるようなフレンドリーさとにこやかさを持っていた(裏なんかないことはすぐにわかった)。会ったばかりの僕を家に招いてお茶をご馳走し、家族に紹介してくれた。 彼らがそのような親切を向けてくれたのは、僕が日本人であったからだと思う。かつて日本人から受けた親切を、同じ日本人である僕に返そうとしてくれていたのだ。 ある人は新幹線の運行スケジュールの正確さについて他のバングラ人に熱弁をふるっていた。ある人は日本の演歌や歌謡曲にはまっていたし、ある人は東京のゴミの少なさに驚き、ダッカの街のゴミ収集システムの致命的な欠陥を嘆いていた。 もちろん彼らは日本の給料の高さに惹かれて海を渡ったわけだが、結果的にそこで得たものは「カネ」だけではなかった。生身の日本人に触れて、その考え方を吸収し、親近感を持つようになったのだ。そのまま日本に定住して、家族を持った人もいる。様々な事情からバングラに帰ってきた人の中にも「また機会があれば日本で働きたい」と少し遠い目をして言う人が多い。 日本という国に初めて触れて「日本の味方」になってくれた人がバングラデシュにはたくさんいる。インドにもパキスタンにもスリランカにもネパールにもいる。そういう人の声は日本で生活している僕らにはほとんど届かない。でもちゃんといる。彼らはいつも特別な目で、日本という国と日本人を見ている。 在バングラデシュ日本大使館の理不尽な振る舞いについて、僕は個人的に強い憤りを感じている。すぐに是正されるべきだと思う。しかしこの問題を大使館職員の個人的な資質や怠慢のせいだけにすることはできない。 おそらくこれは僕らの無関心に起因した問題なのだ。多くの日本人にとって外国人労働者のビザ発給の可否なんて、どうでもいいことである。自分の生活には何ら関わり合いのない「蚊帳の外」の話である。最近、俺の町にも外国人が増えたように思うけど、話もしたことないから関係ねーや。普通はそう思っている。だから在外大使館職員がどう振る舞っていようが(高額の給与とか出張費とか、そういうカネの問題以外は)、全く興味を示さない。 でも、「移民」や「外国人労働者」はもはや僕らに無関係な問題などではない。「隣のバングラ人」や「隣のブラジル人」は、日本人がきちんと腰を据えて考えるべき課題になりつつある。 今のペースで少子化が進むと、日本の人口はゆっくりと確実に減り続け、経済規模は縮小していく。その「緩やかな衰退」とも呼べる状況を粛々と受け入れるというのもひとつの手ではある。省力化・ロボット化を押し進めて、何とか今のGDP水準を維持するという手段もある。 しかしこれだけ人と物と情報とがボーダレスに移動している時代において、労働力だけを国境の内と外に分けるという方針にはかなりの無理があると思う。一方で豊かな国で働きたいという強い要望があり、一方で遠からず人手が足りなくなるという現実があるからだ。 実際、介護や医療の分野では門戸が開きつつあるし、後継者不足に悩む農業の現場では外国人労働者の存在が欠かせないものになっている。 そうなったからには、今までのように「必要なときには裏口からこっそりと入れて、必要なくなると戸口から蹴り出す」というような政策をとり続けるわけにはいかない。そんなことを続けていれば、日本という国に対する憧れや尊敬の念が失われて、有能な働き手がみんな他の国に向かうことになるからだ(現にそうなりつつある)。 ソリューションはひとつではない。プロセスも単純ではない。でも僕らはそろそろ「移民」に正面から向き合うべきではないだろうか。移民を受け入れるにせよ、受け入れないにせよ、この問題について「知らんぷり」を決め込むことはもうできない。 とまぁ珍しく力んで書いてしまったのも、愛すべきバングラ人の悲しそうな顔を見てしまったからである。 本当に悲しそうな顔だったのだ。 #
by butterfly-life
| 2009-12-15 20:01
| リキシャでバングラ一周
「リキシャで日本縦断する」と宣言してから1ヶ月。
多くの方から応援メッセージをいただいています。本当にありがとう。 北海道で酪農をしている方や、静岡で無農薬のお茶を作っている方、徳島県のパン屋さんなどなど、日本各地の「はたらきもの」たちからも応援メールが届きました。 新しい写真集「この星のはたらきもの」はアジア各地で汗を流して働く人々を捉えた本ですが、今回の「リキシャの旅」では日本各地にいるであろう多くの「日本のはたらきもの」の姿を写真に収めたいと考えています。 ですから、「ユニークな仕事人」「地元に密着したはたらきもの」にぜひお会いしたいのです。我こそは、という方はぜひ三井までご連絡ください。えっちらおっちらリキシャを漕いで、参上します。 今回の旅では、「目的を絞った旅」と「偶然の出会い」とを上手く組み合わせていこうと考えています。 リキシャで日本を縦断するというのが、おおもとの目的。 日本のはたらきものを撮る、というのも目的のひとつです。 それから、日本各地を走っている「ベロタクシー」にも会いたい。ベロタクシーとは要するに「オシャレなリキシャ」のこと。広告を収入のベースにしているスローな自転車タクシーで、日本各地の都市部を走っているそうです。僕も以前京都で見かけたことがあります。日本縦断の道すがら、このベロタクシーと競走(共演?)したいなぁなんて思っています。 最初から目的を決めて旅したことは、これまで一度もありませんでした。 だいたいがいい加減な性分なので、行き先はその国に着いてから地図を広げて決めるという有様。事前になにを撮るのかもまったく決めていなかったのです。 撮りたいものは、旅を続けていれば自然にわかってくる。美しいもの、心ひかれるものがどこにあるのかが、次第に見えてくる。それに対してただ素直に反応する。そういう旅のやり方を続けてきたのです。 アジアの田舎を旅するようになったのは、そのような「素直な反応」の結果でした。 僕は大都会というものがどうにも苦手で、バンコクでもデリーでもマニラでも上海でもどこでもいいのですが、アジアの大都市に行くと途端に写真を撮る気持ちがしぼんでしまう。さっさと用事を済ませて、ホテルに引きこもってしまうのです。 それが田舎に行くとまったく違ってくる。一気にテンションが上がるのです。 熱帯雨林の中をバイクで突っ走ったり、田んぼのぬかるみを歩いたり、漁村のおっちゃんたちと酒を酌み交わしたり。そうするうちに自分が大地の中に解放されて、この世界をかたちづくるさまざまな色彩を感じることができるようになる。自分とその土地との距離がすごく近くなるのです。 子供の笑顔、美少女のたたずまい、働く人の姿。 これまでの写真集のテーマは、すべてそうやって気ままに旅する中で見つけてきたものです。 だから僕は一応「写真家」を名乗ってはいるのだけど、写真家として「写真術」を磨いてきたというよりは、「よりよい旅の方法」を模索してきた旅人である、という方が近いのだと思います。 さっきも書いたように、今回の「リキシャで日本縦断」では「目的を絞った旅」と「偶然の出会い」とを上手く組み合わせようと考えています。 今までのような偶然性だけに頼った旅は、バイクという軽快な乗り物でアジアを旅するときにはとても効果的だったけれど、リキシャというかなりヘビーな乗り物で日本を旅しようとした場合にはうまく行かないかもしれない。そう予想しているからです。 霧深いバングラの朝をリキシャが走り抜けていく。 ターバンを巻いたリキシャ引き リキシャ引きの父親が子供を堤防の上に立たせている。 #
by butterfly-life
| 2009-12-04 20:42
| リキシャでバングラ一周
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■ 新しいブログへ ■ 三井昌志プロフィール 写真家。1974年京都市生まれ。東京都在住。 機械メーカーで働いた後、2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅に出る。 帰国後ホームページ「たびそら」を立ち上げ、大きな反響を得る。以降、アジアを中心に旅を続けながら、人々のありのままの表情を写真に撮り続けている。 出版した著作は8冊。旅した国は39ヶ国。 ■ 三井昌志の著作 「渋イケメンの国」 本物の男がここにいる。アジアに生きる渋くてカッコいい男たちを集めた異色の写真集です。 (2015/12 雷鳥社) カテゴリ
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